△次 ▽前 ▲戻る

2000年2月1日

 [泉鏡花を読む]に「鏡花のための外字フォント」が登録された。有り難いことに『歌行燈』と『五大力』の欠字もカバーされているので、さっそく外字フォントを使用したテキストを[書庫]にアップした。
 実はこれまで、外字というものに漠然とした不安感を持っていた。外字は文字化けの元凶だし(最近も機種依存文字を使ったせいで、盛大に文字化けを拵えたメールマガジンを受け取った)、以前取り上げた[ほらがい]の「二千年紀の文字コード問題」などによると、新JISの第三・第四水準が増設されると、既存の外字領域と重なり、深刻な混乱が引き起こされることになるという。新JISは凍結されてひとまず危機は回避されたようだが、そもそも1997年のJIS改正以来、規格の上では外字領域は廃止ということになっているらしい。JIS遵守を主張するつもりなどないが、何となく「危うきに近寄らず」の気持ちを抱かずにはいられなかった。
 にもかかわらず、今回「鏡花外字」に飛びついたのは、「蟻」さんが管理する[泉鏡花を読む]が、事実上ウェブにおける泉鏡花情報のセンターになっていると考えたからだ。[泉鏡花を読む]が一元管理する「鏡花外字フォント」は、やがてはウェブ上の多くの鏡花ファンに共有されるものになるかもしれない。そうなれば、鏡花のテキストが欠字のない状態で、しかもプレーンテキストという一番望ましい形式で、流れるようになる。それは、曲がりなりにも鏡花入力者の一人である僕にとって、外字という禁忌をおかしても余りある、嬉しい状況に思えた、というわけだ。
 さて、実際に導入してみて、魔法のようクリーンになった鏡花テキストを前に、幾ばくかの感動とともに感じたのは、なぜ今まで欠字という異様な状態を我慢してきたのだろうということだった。そもそも文字コードというのは、常用漢字表でも教育漢字表でもなく、コンピュータで使える文字そのものの規定だろう。書き文字なら常用漢字表にない字も書くことができ、印刷することができるが、文字コードにない字は通常の状態では書くことも印刷することもできない。これからますますコンピュータが表現の場となり、コンピュータネットが表現を発表し流通する場となっていくと、文字コードにない文字は忘れ去られ、抹殺されることになる。そして、過去の表現は虫食いだらけの古文書として、遠ざけられる。ましてや文学は芸術作品だ。たった一つの欠字が、感動を削いでしまうことだって考えられる。たとえば、「〓」の入った鏡花全集を考えることができるだろうか。欠字がなくならない限り、コンピュータとそのネットは、安んじて文学を扱える場にはなれないだろう。
 「鏡花外字フォント」はこうした現状への当然の対抗手段だと思う。確かに外字はイレギュラーな存在だが、共有されることである程度の社会性を持つ。そして、これが肝心だと思うが、そうなることで次の文字コードへのアピールとなる。鏡花の美しい文章にいつまでも不粋な下駄の跡を残してはいけない。