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1999年11月22日

 芥川龍之介は風景に対して徹底した不感症だったらしい。[青空文庫]収録、「槍が岳に登った記」。もとよりタイトルからして気の入らない、論ずるに足らない文章だが、ここに見られる、徹頭徹尾醒めた風景描写は注目に値する。生粋の江戸っ子であり、都市文明のなかで感覚を磨いて大文章家となった芥川にとって、日本アルプスは、文章の技において、全面的に無縁な世界だったらしい。感情の混じらない即物的な描写というのでもない。槍沢の風景を徹底して即物的に描くことができれば、それはそれで名文たり得るだろう。ここで目立つのは、目の前の見慣れないものたちを、自分の親しい世界に無理矢理引き寄せて、感覚の安寧を保とうとした、中途半端で怠惰な比喩だ。芥川の細緻な感覚が、ここでは卑小・月並に落ちている。
 このような感覚の持ち主が、すぐれた小説家だったことは、おもしろいことだと思う。小説という芸術形式が徹底して文明内存在であること。逆に、山に入れあげた人間、自然との境界で書こうとする人間は、一流の小説家たり得ないという定理も、ここから導き出せそうな気がする。そういえば、辻まことという人が(辻は正しくは点二つ)、山へ登る人間は芸術家のように自分で夢を作りだすことができない、だから夢の代わりに山を求める、というようなことを言っていた。山に関するすばらしく思索的なエッセーを書き、気のきいた絵を描いた人だが、謙遜ということでもなさそうだ。(もうすぐみすずからこの人の全集が出る。楽しみだ)