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1999年11月8日

 迂闊な話だが、今日初めて、このページのタイトルであり、(解題にも書いた通り)そもそもは羽倉簡堂の選詩集の題名である「従吾所好」に、典拠があることを知った。このタイトルを検索にかけていて(ホームページ制作者がよくやるナルシスティックな所業)、「従吾所好」を好きな言葉として上げているページが引っかかってきたのだが、そこに「論語の言葉」と書かれていたのだ。一驚、さっそく「論語」をディレクトリ検索。全文を電子化しているサイトが幾つかあり、ブラウザの検索機能を使いながら、「従吾所好」の本家本元の章句にたどりつくまで、20分とかからなかった。あらためてウェブ上の知識集積の豊かさ、スピーディーな検索を可能にする電子データの有為さを実感した次第。もし、これが書物だけで探すとなったら、どれだけ時間がかかったことか。いやそもそも探す気になったかどうか。
 さて、「従吾所好」は論語巻第四、述而第七の十一にあった。この章の全文は
子曰、富而可求也、雖執鞭之士、吾亦爲之、如不可求、從吾所好、
で、読み下し文は
子曰く、富にして求むべくんば、執鞭の士といえども、吾もまたこれをなさん、もし求むべからずんば、吾が好む所に従はん。
となるらしい。ついでに現代語訳もお願いしてしまおう。
先生が言われた、「富みというものが追求してもよいものなら、鞭(むち)をとる露払い[のような賎しい役目]でも私は勤めようが、もし追求すべきでないなら、私の好きな生活に向かおう。」
とあるのが、[電脳文筆家 邑瀬伶の部屋]の[論語の部屋]、一方
「財産が、求めて得られるものならば、馬方であろうと私はやはり務めるが、求めて得られぬものならば、私の好きなことに従事しよう。」と、先生はおっしゃった。
と訳すのが[純丘大先生の偉大なるHOMEPAGE ]の[論語現代語訳]。「富而可求也」が解釈の分かれるところだが、後者の訳の方が僕には自然なように思える。いずれにしろ「従吾所好」は、富を離れた、あるいは諦めた人間が向かうべき行為とされているわけで、このページの制作者にはふさわしい言葉だと安堵したことだった。
 ところで、検索エンジンは他にも興味深いものを掬い上げてきた。それは、二、三の古書のデータで、版元が「従吾所好社」とある。大正頃の出版社らしいが、富を求めず、好きな本を出して、社名の欲する通り、速やかに倒れたのだろう。