1999年10月19日
[
入谷芳彰のページ]の田中秀幸さんが、その不定期日記[天浪堂日乗]10月18日の項で心情を吐露している。曰く、文学/\と喜んだり怒ったりするのがイヤになった、結局インターネット上ではいい実作者の文学仲間を見つけられなかった、インターネットでやるべきことはすべてやったが大敗だ、などなど。これからはことホームページ上の文学に関してはテンションを下げて、出版メディアでの活躍をめざすという。
この人は、あえてサラリーマン生活を避けて、小説を書き続けてきた人で、その孤立感、無名作家につきまとう読者という基盤に支えられない不安を埋めるために、ウェブを利用し、そこからエネルギーを得ようとしてきた人だ。[入谷芳彰のページ]は累積読者数1万人を超える個人の文学サイトとしてはよく認知されたページだ。しかし、ウェブを一つのエネルギー源とする目論見は必ずしもうまく行ってなかったようで、これまでも[天浪堂日乗]には読者の無反応を嘆く記述が何度か見られた。想像するに、その度に一過的に読者からの反応は高まったのだろうが、田中さんはついにこうしたことの繰り返しを潔しとしない心情に立ち至ったもののようだ。
たしかに文学ページの運営者には読者の無反応に悩む人が少なくないらしい。代表的な文学サイト[
ほらがい]でさえ、アンケートに未だ数人の回答しかない、などというさびしい記述が現れたことがあった。なかには、開設後2年たっても書き込みゼロという掲示板を抱えた文学ページもあるという。なるほど社会の関心は文学から遠く、専門の文芸出版社も文学人気の退潮に苦慮している時代だ。文学ページが一顧だにされないという状況はわからなくもないが、そうではなく文学ページは割合よく見られているらしい。にも関わらずそこからはどんな声も届かない、まるでブラックホールに向かって発信しているような、著しく徒労感を催すような状況が、今文学ページの周辺にはあるのだろう。手早く安価な情報収集では既存のメディアに比して圧倒的に優勢なインターネットだが、こと文学表現、特に腰をすえて味読すべき創造的な表現との相性という面では、どうやら大きな問題がありそうに思える。インターネットに、文学創作ひいては文化創造を促す培地としての役割が期待できるのか、できないのか。この大きな実験は今否定的な側に傾きつつあるのかもしれない。