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山村にて
甘やかな、ほんのり赤い五月の夕日が
この山ふところの村落を、新緑に重い風景を、
瞬間の希有な光で浸している。
夜に入る前に最後の娘が汲みに来る
高い、澄んだ井戸の水音。
昼間わたしが見た
石段を降りてゆく其の井戸のあたりには、
すでに夜の影がさまよっていることだろう。
多くの岩やきりぎしに谺するその音が
この山村の迫った深さを思わせる。
人が其処から汲みあげる平和、
人が水桶へあける限りない涼しさ。
あの井戸の近く、大きい柿の木の下で
或る年の夏を暮らすべき自分を私は夢想する。
其の時、一冊のゲーテ、一冊のヘッセと共に、
わたしは人生の最上のものを知るだろう。
山と、青葉と、空と、星、
自然と人間とに最も強く結びついた単純な生活の
つきぬ豊かさから学ぶだろう。
黒びかりする柱を照らす吊ランプ、
たそがれの厨で物を煮る香。
あすは立ってゆく此の山間の古い家を
わたしは遠い昔から知っている気がする。