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山村にて


 尾崎喜八(1892〜1974)は山の詩人である。あるいは“山旅”の詩人と言った方が正確かもしれない。というのは、彼が詩にうたう山行は、純粋に山頂を志向するものというよりも、その周辺に広がる自然や人々の生活を含み込んだ、よりおおらかなものだからだ。尾崎喜八が山の詩人としての面目を表した最初の詩集『旅と滞在』の冒頭には、こんな詩句が見出せる。

 わたしは君と旅をした。
 六月、橡の花さく岨道をゆき、
 山の峠で展望し、
 新緑の谷間の温泉に身をひたした。 (友 第一連)

 僕はこの山行のスタイルに共感する。と同時に、山が学芸に近かった時代、山から詩を汲み取ることができた時代に憧れを感じる。同じ著者の随筆集『山の絵本』は、そうした、今では滅びてしまった、“文学的山行時代”を記録する貴重な一冊だ。僕は、その叙述のロマンチックさにたじろぎながらも、たとえば、「君の神、私の精気、彼の山。言葉はそれぞれ違っても、われわれは結局『言いつくし難きもの』のことを言っているのだ。われわれは常にこれに憧れてこそ高きへ来るのだ。」(「大蔵高丸・大谷ガ丸」)などと書くことができた時代をうらやましく思う。もちろん今も山で詩を書こうとする人はいるだろう。しかし、山上にも文化があるなら、今のそれは大衆文化である。普段電車のなかでやるのと同じ会話を、3,000mの高みでやってしまうタフな生活者が大挙押し寄せる今の山の空気のなかで、ろくな詩が書けようとは思えない。
 もちろん、尾崎喜八の詩の舞台は山のみではないが、僕が好きな詩は、すべて山旅から生れたものばかりだ。実を言うと、尾崎の詩の過半は、僕にとって面白くない。ただ、山をうたった幾篇かだけが突出して美しく感じられる。
 この「山村にて」もそのひとつ。おそらく山からの帰途、一夜の宿を借りた山家の印象から生れた詩だろう。戦前には、あるいは戦後しばらくもそうだったかもしれないが、登山者はあらゆる山村で気軽に宿を乞うことができた。また、山慣れた村の男をガイドや歩荷〈ぼっか〉として雇うことも普通だった。都市生活者と僻村のそれとの経済格差が大きかった当時、登山者が残す宿賃や労賃は山里にとって貴重な現金収入となっていたようだ。しかし、そうした経済的理由以外にも、現在とは格段に隔絶された環境にあった当時の山里には、外来者が新鮮な時代の空気や新奇な物品を伴って訪れるのを喜ぶ気風があったのかもしれない。尾崎が詩や散文に描く山の人々は、そのほとんどが質朴淳良であり、登山者に対して好意的である。そこには詩人の美化にとどまらない、よき時代の山里の姿があるように思える。
 この詩に描かれた新緑の山村の夕景も美しい。夕餉の支度に水を汲む井戸の水音が、深い谷に透明に響きわたる様は、人を甘いノスタルジーに誘うようだ。このささやかな山の宿りが、いかに詩人の心を喜ばせたかがいきいきと伝わってくる一篇だ。しかし、それにしても、第4連はいかにも尾崎的である。僕はここに一種のディレッタント的なにおいを感じてしまうし、自分ならこの連は書かないだろうと思う。また、ここで言う山村の生活の「つきぬ豊かさ」とは、自然とのバランスを大きく失した現代人が、ようやく気づき、無くしたことを惜しみ始めたところの“自然との共生の知恵”といったものではなく、単に観照的・詩的な観点からのものだろうと思う。詩人の一夏は、山里の自然と生活を一枚の絵として眺めながら、散策し、本を読み、詩を考えることに費やされるだろう。しかし、こうしたいわば人文的アプローチの中にこそ、尾崎喜八の詩の魅力はあるのだ。彼は「ゲーテ・ヘッセ」の視点から自然を愛し、山村をうたった。そこには他の詩人に見られない憧れに満ちた精神性が色濃い。人と自然との関係が緊迫の度を加える今、その穏やかな詩境が、僕にはいよいよ懐かしく感じられる。