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 戦後に書かれたいわゆる現代詩で、一番好きな詩は何かと聞かれたら、自分はその多くを知らないし、特に最近の詩はまったく読まないけれどと断ったうえで、1966年に出版された『北村太郎詩集』の幾篇かをあげるだろう。たとえば「庭」「センチメンタル・ジャーニー」(3番目の)「朝の鏡」「冬へ」、これらの詩は僕には、あの時代――人々にぬぐい難い荒廃と同時に、存在への深い思考をもたらした時代をくぐり抜けてきた詩人たちが、我々に残した最良の作品に思える。『北村太郎詩集』が出版されたのは戦後の高度成長が始まった頃だが、ここにはまだ確かに遠ざかる惨禍の時代の余韻が轟いている。と同時に、妻と子の死をうたった「終りのない始まり」という詩を読むとき、僕らは北村太郎(1922〜1992)が個人的にも苛酷な体験を通過してきた詩人であることを知る。そして、この詩集のまぎれもなく主題となっている死は、北村太郎にとって時代や思潮(実存主義のような)だけからもたらされたのでなく、詩人その人に降りかかり、深く巣くったものであることを知る。
 この詩においても、「わたし」が立っているのは酷薄な場所だ。「黒い空」に冷たく燃えている星でさえ「最も遠い」場所とは、死者の視点そのものかもしれない。庭に転がっている空壜(そういえば「センチメンタル・ジャーニー」にも列車の座席の下を転がる空壜のイメージが現れる)とは人生の寓意かもしれないし、「黒い空」に広がっている「ためいきと、喜びのちいさな叫び声の林」のなかには、詩人が亡くした妻や子のものも聞かれるかもしれない。限りなく死に寄り添った視点からの、自然と生への静観。そんな詩が僕に魅力的なのは、しかし必ずしもそうした意味内容だけが理由ではないだろう。
 この詩には、戦後の詩に稀な自然との交感があり、そこから生じる言葉の甘味があって、それが僕を引きつける。確かに「だれにも見えない」「星からも見えない」「わたし」は、社会はもとより自然との交わりも拒んだ存在のようだが、詩の言葉自体は自然に寄り添い、そこから印象的なイメージを得ている。漆黒の空、凍った光を散りばめる星々の下の庭を提示する第1連。一転、朝の庭の、弱い光を湛えて滅びに向かう情景が描かれる第2連。そして第3連では再び夜の庭に戻り、死を宿した「黒い空」のイメージがさまざまなレトリックによって語られる。この第3連の修辞群こそがこの詩のクライマックスだと思うが、僕にはそれらは少し冗長に思える。しかし、このように自然に向けて繰り返し死のイメージを投影せずにいられなかったところに、北村太郎という詩人の抱え込んだものを読み取るべきなのだろう。
 また、この詩が採用している独特な言葉の配置のスタイルも、僕には面白い。それは『北村太郎詩集』の多くの詩と共通するスタイルではあるのだが、この詩ではそれが特に効果を上げていると感じるのだ。すなわち、各連の冒頭の一句は行の下端に置かれ、それに従って全篇が行末から次の行頭へという文の流れを基本に構成されている。改行の位置と文の区切り目が同じでないから、各文の独立性は失われ、押し出しが弱くなり、それを発した主体の存在感も薄らぐ。詩人が詩の背後に自分を隠したがっている詩形、といえば考え過ぎだろうか。ともかく、起結明確にリズミカルにうたうという要素を排除しようとするこの詩形は、死の影が遍在する夜の庭に佇んで、声低く語るこの詩には殊にふさわしい。試みに一般的な行分けに直してこの詩を読み直してみると、かなり印象が変わることに驚くはずだ。
 北村太郎はこの詩集以後、1972年の『冬の当直』をはじめ9編の詩集を出版する。僕はそのうち、『冬の当直』と晩年のわずかな詩作しか知らないが、いずれも『北村太郎詩集』と並べて論ずるに足るものとは思えなかった。『北村太郎詩集』には「荒地」の盟友鮎川信夫による解説が付されていて、そのなかで鮎川は、最後の詩「冬へ」に触れて、「人間のたましいを、人よりはいくらかはっきりと見てしまった人の、あきらめというか、(中略)旅の終りを感じないわけにはいかなかった」「諦念があってパースペクティヴが完成してしまったようなのが残念な気がしないでもない」と書いている。けだし詩人の本来の創造は『北村太郎詩集』一編で完結し、以降は余業、ということか。少なくとも僕にとって北村太郎はこの一冊で十分であり、それのみで重要な存在になっている。