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眼にて云ふ


 宮沢賢治(1896〜1933)のこの詩によって、僕は初めて詩を読む喜びを教えられた。もちろん小学校以来、僕らは国語の教科書で詩に接してきたが、そこで何かを感じたことはほとんどなかった。今思うと、そもそも、詩を読むという、個人の感覚の静まりのなかで初めて成立する行為を、絶え間なく石が投げ込まれている水面のような集団生活の場に持ち込もうということ自体が、土台無理な話だった。子どもと詩との出会いは、たぶんたったひとりで山や海や夕陽を見る時間をもつことから始まる。そうしたなかで磨かれた個人の感覚は、やがて他の個人が言葉を駆使して経験を語り、さらに言葉そのものに個性と深く結びついた秩序を与えるのを、喜びとともに感受するようになるだろう。しかし思うに、昨今のさまざまなネットワークに取り巻かれた、常に他者との関係を迫られているような環境のなかで、子どもたちはひとりで静かに何かを感受する時間をもつことができるのだろうか。
 ともかく、それがどんなきっかけによったのかは忘れたが、僕は「眼にて云ふ」を読み、詩に出会った。それはかなり遅く、高校の終わり頃のことだったが、この一見親しげな話体の詩から、僕はこのうえなく鮮烈な印象を与えられた。僕はこれを文字通り“死の床”で書かれたものと受け取った。そして、それが「そこらは青くしんしんとして/どうも間もなく死にさうです」と静かに表現されていることに衝撃を受けた。また“末期の眼”が見る若芽や青空の透明な表現に魅せられた。特に最後の4行を読んだ時に感じた、心が澄明になり青空に解き放たれるような感覚は忘れることができない。そして、それらの経験の全体から、僕は詩を読むことの、疑似体験によって全身を突き動かされる小説の楽しみとはまた異質の、自分の最も深いところまで一本の銀糸が細かく震えながら下りていくような体験の喜びを知った。
 その頃僕は、同じく小説好きの友人と、文学ノートのようなものを頻繁に交換していたのだが、そこにこの詩を書き込み、友人からも鮮やかな反応が返ってくるのを楽しんだ記憶がある。詩に初心な我々にも、この詩はよく浸透した。それは、死という題材の強さばかりでなく、この詩がもつ晦渋さとは無縁のわかりやすさ、ポピュラリティーによるところが大きかっただろう。生命のぎりぎりの闘いの中で、なおも人に届く言葉を選ぶことを放棄しなかった宮沢賢治は、驚嘆すべき詩人だった。この詩の発見は、僕の手柄ではなく、ひとえに詩の力によるものだった。
 少し資料的なことにも触れておこう。この詩は「疾中」と題された30篇の作品群の一つであり、そこには他にも一読忘れ難い類の名品があることが知られている。異説もあるようだが、「疾中」30篇は賢治没年の昭和8年の作品ではなく、「昭和3年8月の肺疾患の発病とその療養中の作品と見なされ」(ちくま文庫版全集解説)ているらしい。「眼にて云ふ」は正確には“死の床”で書かれたものではなかった。しかし、それが深淵をかいま見て書かれた作品であることは疑うべくもない。迫りくる影の苛烈さにおびえる「〔その恐ろしい黒雲が〕」や「〔丁丁丁丁丁〕」といった「疾中」の他の詩を併せて読む時、「眼にて云ふ」の澄明さは、一層僕らを打つ。