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 田村隆一が死んだ。それは僕にとって、読むに値する数少ない現存の詩人が一人いなくなったことを意味する。いわゆる現代詩の大部分は、僕にはよくわからない。たぶん詩に求めているものが、今の多くの詩人と僕とでは違いすぎるのだろう。もちろん言葉というのは、意味、声韻、イメージから、それにまつわりつく歴史や風合いまで、雑多な要素を含み込んだ素材だから、やろうと思えばどんな遊び方だってできるだろう。音楽にも古典音楽からポップスまで、無限とも言える振り幅があるように、同じ詩の形はとっていても、その志と言葉へのアプローチの仕方で(才能という決定的な要素はしばらく置いて)、さまざまなレベルの作品があって当然かもしれない。ただ、僕は、面はゆい言い方だし不正確な定義だと思うが、「精神の形」としての詩以外読む気がしない。ちまちました言葉遊びや現代風俗にもたれた詩など御免である。僕にとって詩は、意味のある思考や感情を表現していなければならないし、表現の手段としての言葉が素材そのものとして輝いていなければならない。意味と言葉のさまざまな要素が一体となって、美しく全体を構成していなければならない。そんな詩が現代日本語で十分に実現できるかどうかはわからないが、そんな詩を書こうとしている詩人だけを読みたいと思うのである。
 田村隆一がそんな素人くさい詩の理想を抱いていたとは思わないが、初期の「荒地」の時代からその詩には文明を見つめる目があり、独特の硬質な言語感覚があって、それがその後の僚友たちの凋落から彼を隔ててきたように思える。新聞や雑誌にその名があると、僕は期待をもってその詩を読んできたし、時には詩集を買ったりした。そして、「帰途」「秋津」「人類の夏休み」「木」「唄」といったそれなりに気に入った詩に出会ってきた。しかし、期待はいつも十全にかなえられたとは言えなかった。実を言うと、僕は田村隆一の詩にある物足りなさを感じつづけてきた。
 初期の詩は別にして、1973年の『新年の手紙』以降、次々に出版された彼の詩集を特色づけているのは、「言葉の芸」ではないだろうか。田村は江戸落語を好み、酔余に一席やってみせることもあったという。大塚の花柳街で割烹を営む家に生れた彼は、都会人としての洗練と洒脱を身につけていた。「高橋和巳みたいな深刻屋はお歯に合わねえ」彼はある時そう言ったそうだが、その深刻屋に一時凝ったことのある野暮な関西人の僕としては、もっと重い詩を読みたかった。「一九四〇年代・夏」や「立棺」をはじめとする初期の田村の詩には、戦争を通過してきた詩人の暗い文明観が表現され、戦後の詩史にエポックを刻むものとなっている。それらの詩では、言葉はあまりに硬直した姿を取っていて、今ひとつ詩としての魅力に乏しいように思えたけれど、この詩人がさらに成熟し、豊かに言葉を操るようになれば、どんなに重く甘く苦い果実が実るだろうという期待を抱かせるものは十分にあった。しかし、その後の詩人は、僕の勝手な期待とは違う方向へ歩みを進めてきたようだ。おそらく、その極めつきの都会人としての血統を生かす方向へ。
 田村隆一の70年代以降の詩は「言葉の芸」であり、その中心にあるのはリズムだと思う。直線的な言葉の畳みかけが強い印象を与えた初期の詩に対して、日常的な経験や書物の引用から題材を採ることが多くなったその後の詩では、言葉はより柔軟なリズムによって魅力的な姿を示している。そこにはやはり苦い文明観やシニカルな思考が散りばめられているけれど、70年代以降の詩では、それはさして重要でないように思える。現代の詩人が、現代の語彙を操って詩を書く。その意味での文明観であり思考であって、それは素材にすぎない。詩そのものに何かを訴えようという切迫感はない。僕等はただ、小気味よい前進や不意の転回、鮮やかな終結を、詩人の洗練された話術を楽しめばいいのである。その話術がどれだけよく出来たものかは、ここで取り上げた「木」のような苦い語彙を含まない詩を読めばただちに納得できるはずだ。こんなに端正な言葉の構築物はなかなかあるものではない。
 しかし、もう一度言わせてほしい。僕は田村隆一に違った期待を抱いてきた。現代日本語による詩を、文明に対する深い視点を含み込みながら、もっと重く密度濃く熟成させて行ってほしかった。それをするには、彼の資質はあまりに洗練され過ぎていたのかもしれない。