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曉と/ゆふべ/の詩


 立原道造(1914〜1939)の詩の魅力を何と表現すればいいだろう。それは一般にイメージされているような、星菫派的な詩ではけっしてない。星菫派とは、自己の感情を表現することが、そのまま詩になると素朴に信じている人たちのことだ。確かに立原道造は、自分の心に宿った愛や憧れをモチーフとして、詩を読み始めたばかりの少年少女にも好まれるような、甘い味わいをもった叙情詩を書いた。しかし、その詩業の重要な部分は、野の小鳥のように心のままにうたわれたのではなく、慎重な言葉の操作と構成的な努力、つまりきわめて知的な作業を経て生み出されたもののように思える。
 たとえば、詩人の生前に風信子(ヒヤシンス)叢書として出版された2つの詩集『萱草に寄す』と『曉と夕の詩』、そして詩人の計画に沿って死後堀辰雄が編集した『優しき歌』が、いずれも10篇の詩で構成されている(『優しき歌』はさらに「序の歌」が加わる)ことを見ても、それは明らかだろう。日本の近代詩人の多くがそうであるように、心のままにうたおうとする詩人は、制約を避け、形式を意識しない。10篇という定まった数の詩を収めた3つの詩集を編んだことは、立原道造が自らの詩作に制約を課し、形式を整えることを望んだ、近代の詩人のなかでも例外的な存在だったことを端的に示していると思う。
 もちろん、彼が意識したのは詩の数だけではない。3つの詩集のすべての詩が、西洋のソネット形式に習った14行詩の形式を取っていることは、今さら指摘するまでもないだろう。もっとも、本来ソネットをソネットたらしめている押韻はそこにはないから、立原におけるソネット形式の採用は中途半端なものと批判することもできるかもしれない。しかし少なくとも、すべての詩を一定の形態(多くの場合4・4・3・3行)で書くということは、詩人が詩を、感情のままに書き流すものではなく、確固とした器に収めるべきものだと考えていたことを示しているだろう。
 さらに、『萱草に寄す』を除く2つの詩集では、詩は統一的な構想に沿って書かれ、配置されていることも見逃せない。そこでは個々の詩は、日本の多くの詩集のように、単独に作られて寄せ集められたのではなく、明らかに一つの構想に従って書かれている。『曉と夕の詩』では、詩はタイトル通り夕方から朝までの時間を追って配置され、具体的なストーリーを見出すことは難しいものの、「愛の追憶と別離の哀しみ」(中村真一郎による角川文庫版詩集解題)が通奏低音として流れている。また、『優しき歌』からは「新しい愛の蘇り」(同解題)のストーリーを読み取ることもできるだろう。さらに、立原が第4の風信子叢書として構想し、完成半ばで残した『風に寄せて』という詩篇では、統一したテーマを巡る連作という趣きは一層強くなっている。
 このように立原道造は、10篇の14行詩を、統一的な構想のもとに作り、一つの詩集にまとめるという、二重三重の知的・形式的な設計を凝らして詩を書いた。短い生涯の中で、そうした作業を詩人としての中心的な仕事とした。これほど星菫派から遠い詩人も少ないだろう。形式と叙情との美しい調和こそが、詩人立原道造の核心に違いない。
 形式が彫琢を求めるからだろうか、立原道造の14行詩はほとんどが珠玉の出来映えだ。単独の詩としてなら、いくつも好きなものを挙げることができるだろう。しかし、詩人が並々ならない情熱を傾けた3つの連作詩集を、連作自体としてまずは俎上に上せるならば、僕は『曉と夕の詩』を第一に押す。ここでは、14行の独立した詩と、10篇からなる連作という、独立と従属の相反する力が、3つの詩集のなかでも最もよくつり合っていると感じるのだ。第1詩集『萱草に寄す』は各詩の独立の趣きが濃い。第3詩集『優しき歌』は詩が全体に従属する傾向が強い。そうした大きな構成力もまた詩人の成熟を示すものだとは思うのだが、立原道造の最大の美点はやはり個々の14行の魅力にこそあるだろう。その点で、第3詩集は僕にはやや物足りない。第2詩集は詩一つひとつの味わいが濃く、しかも夕暮れから暁へ、時間を追って配置された10篇の詩が、それぞれ調子を異にしながらも、全体としてある一つの気分を描いている。個々の詩の魅力に加えて、そうした詩人の工夫、構築的な手腕を窺うのも楽しい。
 さて、連作をそれ自体として評価するスタンスを離れて、『曉と夕の詩』から好きな1篇を選ぶとしたら、僕は躊躇なく最初の詩「或る風に寄せて」を取る。ここには立原道造の詩の魅力が最も美しい形で表れていると思うのだ。もしかしたら、立原の全14行詩のなかでも最良の一篇かもしれない。
 この詩で何よりも印象的なのは、風のように揺れ動き、流動する言葉だ。ここには一つとして孤立した句・行はない。句から句へ、行から行へ、言葉は響き合い、つながり合って、美しい流れを作っている。その流れは、言葉の順に従った、単純に直線的なものではなく、進んでは巻き返し、途切れては現れる、複雑微妙な流動だ。倒置法や――、……を多用して、言葉の余韻を大切にした立原の独特な詩法が、この詩に美しく結実している。
 一方、意味の面では、この詩が表現するものは必ずしも明確ではない。「おまへのことでいっぱいだった」という最初のセンテンスからして曖昧だ。この詩には明確な主語が一つとしてなく、全体をほのめかしとでも言うしかない言葉の用法が覆っている。詩人はこの詩で、あえて意味の重みを軽減することで、言葉に自由を与えようとしたようにも見える。物の形のさだかでない薄明の舞台を背景に、言葉があざやかに輪舞している。