〔篠崎小竹小伝〕

 篠崎小竹は天明元年(1781)4月14日に、大坂京町堀で豊後出身の医師加藤周貞の子として生まれました。9歳の寛政元年(1789)から、篠崎三島(1737〜1813)に学び、13歳の時その養子となります。三島は当時大坂にあった漢詩結社「混沌社」の一員として詩名高く、私塾梅花社を開いていました。その跡継ぎとして期待された小竹は、養父の命で江戸に出て、昌平黌の古賀精里に入門して朱子学を学び、学成って帰阪後は養父に代わって門人の教育にあたりました。中村真一郎は『頼山陽とその時代』に、篠崎三島・小竹親子の“商売上手”をやや皮肉っぽく書いていますが、彼の私塾は養父にも勝って多くの門人を集め、大坂を代表する儒者・詩人としての盛名をほしいままにしていたようです。当時、大坂で出版された詩集などのほとんどすべてに、彼が乞われて書いた序文を見出せることを見ても、その人気のほどがうかがえるでしょう。もっとも彼自身は温厚な人物で、うわべを飾ることを好まず、後進の教育に努めたと伝えられています。小竹と頼山陽との交遊は『頼山陽とその時代』にくわしく書かれていますが、天才肌の山陽と常識人だった小竹の長く続いた友情には興味を引かれるものがあります。幕末騒乱の兆しが漂いはじめた嘉永4年(1851)71歳で没。墓は大阪天満東寺町の天徳寺にあります。詩文集には『小竹斎詩鈔』『小竹斎文稿』があり、当時の選詩集にも関西を代表する詩人のひとりとして多くの詩が採録されています。ちなみに私がこの「浪華十二勝」と出会ったのもそうした選詩集のひとつ、嘉永2年に出版された『摂西六家詩鈔』の影印本によって。詩自体はごくあっさりしたものだと感じましたが、大阪の今と照らし合わせて読むと面白く、このページを作るきっかけになりました。ただ残念なのは、原典が抄出本なのでこれがいつどのように書かれたのか知るよしがないこと。拙い口語訳や解釈の誤りとともに、篤学の方のご教示を待ちたいところです。



▲▼小竹の墓とその墓碑の一部
 

篠崎小竹墓碑銘全文