〔篠崎小竹墓碑銘〕

 嘉永四年歳次辛亥五月八日、小竹先生筱崎君、疾を以て大阪尼崎坊の宅に終わる。海内人士、識ると識らずと傷を盡くさざるなし。越ゆる七年、甲寅五月、嗣子公槩 、君の行状を綴緝し、余に郵寄して碑文を以て屬す。余、君と同門後進なるも、その文、君と輕重をなすに足らず。かつ君が交友、天下に滿つ。誌銘の任、おのずからその人有るべし。これを辭すること一再、公槩 聽かず。
 余、すなわち狀 に據りこれに詮次す。曰く。君、諱は弼、字は承弼、小竹および畏堂はその別號なり。長左衛門と通稱す。義父、諱は應道、字は安道、三島と號す。蘐園學を以て大阪に下帷す。本生父、諱某、吉翁と號す。加藤氏。豊後の人。医を業とし大阪に寓す。君、その仲子なり。天明元年辛丑四月十四日を以て、両国坊の僑居に生まる。幼くして穎異、好んで書を読む。九歳、三島翁より業を受く。翁、その岐嶷を喜び、養いて以て子となす。遂に筱崎氏を冒す。数歳専ら家學を修む。東西に薄游し、山水人物を徧ねく訪ぬ。才思、年とともに長ず。翁、君に謂って曰く。「汝、才學すでにそなわる。乏しき所は識のみ」君曰く。「學ぶ所この如し。識、何によってか長ぜん。願わくば洛閩の書を読み、以て進境を求め、得る所あらんかな」翁、これを可とす。
 時に江都學政一新し、精里古賀先生、鐸を執る。君、再び東游し、これに從わんと欲す。翁の許さざるを恐る。しかして敢えて面請せず。ひそかに家を辭し、去りて精里先生に從う。翁、ただ慍容無きのみならず、かつ書を先生に寄せて君を以て託すとなす。先生、既に君の才を喜ぶ。また翁の故を以て、これを寓すること甚だ厚し。既にして先生、君に謂って曰く。「親老、何ぞ遠游を苦しまん」君、愓然として感悟す。未だ半歳ならずして歸養す。
 その父に代わりて教授するに及んで、諄々經義を講じて倦まず。曰く。「經學、習いてこれに熟する在り。苟も習いてこれに熟すれば、すなわち胸中おのずから得る所有らん」また謂う。「宋以後、學を講ずる者、おのおの發明する所有り。これを要するに朱子の完善にしくはなきなり。支離拘泥、すなわち學者の過のみ」文詩を作るに甚だ刻意せず。曰く。「文は意を達するのみ。詩は志を言うのみ。何ぞ巧を弄するの爲ならん」しかれども天才秀抜。語はおのずから妙霊。一篇出づる毎に、人爭って傳誦す。
 書法は元明諸家を學んで唐に遡る。晩年、自ら機軸を出す。流麗雅健、兼ねてこれ有り。君、齒コ既にたかし。書名、また海内に噪し。ここにおいて、一時書を著す者、必ず君が序跋をもとめて後、板を開く。詩もしくは文を作る者、必ず君が批評をもとめて後、世に衒う。人家門楣の上、柱壁屏障の間、必ず君が揮染を得て後、以て光輝有りとなす。貴賤を論ずるなきなり。君、煩に耐え劇に處するの才有りて、これに加うるに勤敏を以てす。八面酬應、綽々然として余裕有り。門に客を停むることなく、必ず皆面晤す。几に牘を滞らせることなく、必ず皆手答す。
 おそくに腹痛を患い、これを久しうして愈えず。庚戌秋、余、西上して君を訪ぬ。君、大いに喜び、留めて十日の飮をなす。痛みを忍んで相したしむ。詩有りて贈らるるを見るに曰く。「君、遙かに駕を命ずるを喜ぶ。我が未だ泉に歸らざるに及ぶ」余、これを讀みて愴然。遂にその翌年を以て起たず。享年七十有一。天滿郷天コ寺、先塋の次に葬らる。会葬者は殆ど千人。
 田中氏を配して三男を生む。皆夭す。三女、長は處士後藤機に適す。季は浜田藩士奥村克勤に嫁す。公槩 はもと江戸加藤氏の季子。はじめ侗庵古賀先生に從學し、後に笈を負うて來たって君に從う。君、收めてこれを養う。以てその仲女を配す。
 君、人となり濶達灑落、躯幹長大にして、音吐洪鐘の如し。低語を喜ばず、しかして心甚だ精細。事務に通達し、毫も書生迂疎の習い無く、趙魏の老、滕薛の大夫、皆優りてこれをなすべし。しかれども平生官に仕えるを欲せず。その言に曰く。「吾が邦君臣の道、甚だ嚴し。ひとたび質を委ぬ、すなわち身は束縛を受く。旅進旅退、言、その意を盡くす能わず。我に損有り。しかして彼に益無し。賓師となりて、進退己に任し、直言讜議、顧慮する所無きにしかざるなり」諸侯、大阪に鎮戍する者、多く君を聘して師となす。最も知を安中節山公に受く。公、すでに藩に歸る。郵筒往來断えず。阿波巨室稲田氏、甚だ相信敬す。延いて賓師となす。廩人粟を継ぐ。その大阪に來ればその邸に舎し、しかして君が家に信宿す。
 君、虚懷容衆、門戸の見を持たず。およそ當世の名ある人、往來交通せざるなし。少年輩、その著作を示すに、苟も観るべきもの有らば、すなわち手寫してこれを藏す。その才を愛し善に服する、天性なり。これ以て人また皆君を愛慕す。座客常に滿つ。君、善く飮む。善く笛及び篳篥を吹く。人に接すること和易。しかれどもその中に介然として守る所有り。非義を以て犯すべからざるなり。
 嘗て自らその肖像に題して曰く。「貞にして俗を絶たざるは郭林宗、和して流れざるは柳下恵。郷愿をなさず、甚ならず。平常を以て百歳でおわるを欲す」歿するに及んで、門人その語を採摘し、私諡して曰く、貞和先生と。以て君の性行を盡すべし。しかれども猶、銘無かるべからず。但だ後生輩敢えて一辭を贊せず。すなわちまた君が平生の持論を隱括して以て銘となす。曰く。
「試みに看よ、天下の書を讀む人、幾許有りや。その一郷一國に名だかき者、また幾許有りや。その海内に著稱する者に至りては、落落晨星。これいずれぞ我の黨にあらざるや。文人の相輕んず。何ぞコを執るの偏なるや。人皆、睊睊胥讒。我獨り、由由胥安。ああ休んぬる哉。君の言や、心を設くることかくの如し。賢と謂わざる可けんや」

伊勢齋藤謙撰 丹後野田エ題表
門人呉策書
安政二年歳次乙卯五月  孝子槩 建

*『大阪訪碑録』(浪速叢書第十巻・1929年刊)および『碑文第13号』(名墓顕彰会・1995年発行)より訓読。