高津神社の舞台 mar.1997.

高台 晴景よし
宸藻 炊煙を咏ず
仁徳 千年遠く
瓦甍 今天に接す


 大阪の街の東側に南北に細長く伸びる上町台地は、高いところでは標高30メートルを超える丘陵地で、東京のような地形的変化に乏しい大阪に、貴重な風景的アクセントを与えてくれている存在です。海に突き出した半島だった縄文時代から、難波宮の時代、さらに秀吉の大坂城築城まで、上町台地には古くからの歴史の痕跡が蓄積されています。江戸時代にはこの有用な台地は、西側の低地にできた市街地に生活の場としての役割を譲り、北半分が大坂城を中心とした役所や武家屋敷が集まったいわば官庁街、そして南半分が神社仏閣が甍を連ねた文化ゾーンとして利用されていました。勢いそこには寺社詣での人々が数多く訪れ、それを目当てに茶店や土産物屋、料亭、さらに色街までができ、浪速の人々の身近な行楽地として栄えたのです。
 寺社はそれぞれ境内のしつらえに工夫をこらして参拝者を呼ぼうと競い合い、台地の西端の海食崖の上に位置する寺社、たとえば安井天神、新清水寺、生玉神社などでは張り出しの舞台を設けて、眺望のよさを売り物にしました。この詩が採り上げている高津神社も、眺望で有名だった名所の一つ。舞台のほかに、石段を登り切った鳥居のかたわらには遠眼鏡屋もいて、参詣者に幾らかの値で望遠鏡を貸していたことは、その大げさな口上とともに「東海道中膝栗毛」にも紹介されています。「摂津名所図会」はここからの眺めを「遙かに眺むれば大坂市涯の万戸・河口の帰帆・住吉の里・すみよしの浦・敷津・三津の浦まで一瞬の中にありて、難波津の美観なり」と解説しています。
 高津神社はまた、古事記が伝える仁徳天皇の高津宮の故地と考えられ、「高きやにのぼりてみれば煙たつ民のかまどはにぎはひにけり」という御製の歌と結びつけて当時の人々に尊ばれていました。小竹の詩もそれに沿ったもので、往古の歌と屋根がびっしり連なる当時の眺めとを対比して、大坂の繁栄を誇らしげに歌っています。
 ところで、現代の高津社にも立派な舞台があり、小竹の手法に習ってそこからの眺めを描いてみたいところですが、残念ながら見えるのは周辺にそびえる薄汚れたビルやマンションの壁ばかり。河口の帰帆どころか、市街の眺めさえままならない形ばかりの舞台には、忘れられたかつての浪速名所の寂しさが漂い、甍の波が遠くまで連なっていたよき時代の浪速の晴景を瞼に思い描くのが精一杯でありました。