桜宮橋から望む大阪城天守閣 Mar.1997.

  豊公 余烈あり
  海に臨む旧城の台
  遠く三韓の外より
  斜陽はさかしまに照らし来る


 金城あるいは錦城と呼ばれた大坂城。今も昔も浪速の人々の最大のヒーローである「太閤さん」豊臣秀吉の偉大さをしのばせる、恰好のモニュメントであることに変わりはないようです。しかし、豊臣氏滅亡の後、大坂城は大改修され“太閤さんの城”はまったく地中に姿を消してしまい、徳川の威信を象徴する城に生まれ変わっていたことも事実。関西の諸大名の動静を監視する大坂城代が置かれていたのですから、機能的にも大坂城はまぎれもなく徳川の城だったといっていいでしょう。それでもなお「豊公余烈」を感じとる所などは、大坂人の江戸への対抗意識のしつこさというべきでしょうか。小竹が「旧城の台」と表現しているように、徳川大坂城の天守閣は寛文五年(1665年)の落雷で消失し、その後は天守台だけの状態でしたから、その欠落感がよけいに“太閤さんの故地”の感を強めたのかもしれません。もし、徳川の天守が厳めしく浪速の街を睥睨していたとしたら、小竹はこんな調子の詩を書くことができたか疑問です。ところで後世の大阪人は、この徳川の天守台に自らの手でコンクリート作りの天守を復元することで、大坂城を太閤さんの城に、つまりは自分たちの手に取り戻してしまいます。今はこの天守閣の映像が、秀吉時代の象徴としてテレビなどに登場しても何の違和感もないのですから、見事なものです。なお、この詩の三・四節の三韓の外から照らしてくる夕陽という表現は、明らかに秀吉の「朝鮮征伐」を踏まえています。鎖国下にあった当時の人々にとって、秀吉の海外侵略の野望はスケール大きな痛快事(朝鮮の人々にはまったくその逆であっても)として意識されていたようです。