桜宮公園から網島へ続く河岸 Mar.1997.

霞は遮る 黄鳥塚
春は遍し 櫻花の祠
十里 江堤曲がり
遊人 酒旗を認む


 網洲、すなわち網島は江戸期には大坂でも屈指の雅遊の地として栄えました。「淀川両岸一覧」には、「この地は淀川の側なるゆゑ前には淀川の流れ潔く、浪花の通船・釣船・網船・遊参の楼船、終日往来し、…富家の別宅、雅人の閑居、風流の貨食家等ありて、すこぶる遊楽の雅地なり。」とあり、広大な庭と高楼を備えた大きな料亭が河畔に連なる図が描かれています。当時の地図で見ると、網島は淀川と鯰江川に挟まれた、まさに島や洲という呼び方がふさわしい水上の地で、その砂州の先端は天満橋を越えて下流のほうに伸びていました。現在は鯰江川の後身である寝屋川は上流で河道が南に付け替えられて本来の流路は埋め立てられ、また長く伸びていた砂州は寝屋川の流れを京橋の少し西で淀川に短絡させることで淀川左岸に取り込まれて、水に浮かんだ別天地のような昔日の面影は失われています。(細かな地理的考証にこだわって恐縮ですが、従って現在OMMビルや松阪屋百貨店のある大川左岸は、かつては寝屋川、古大和川、猫間川、平野川の4つの川が合流して流れていた河床で、淀川との間には網島の砂州が伸びていました。従って、それらを跨いでいた天満橋も現在の橋より長く、ちょうど今の天満橋の上に懸かる道路橋に近いスケールをもっていたようです。)
 さて、網島の地理的復元はこれぐらいにして、この詩には他に二つの名所が取り上げられています。「黄鳥塚」=鶯塚は、「摂津名所図会」によると北長柄村の村外れの田んぼのなかにあった塚。塚には古梅が一株生い、元旦に鶯が来て初鳴きをするといった伝説の伝わる城北のささやかな名所でした。そして「櫻花の祠」は桜宮のこと。網島から少し北の淀川左岸の堤防の上にあるお宮で、桜の名所として知られていました。この詩の主役である「遊人」は、川なりにゆったりと曲がりながら続く淀川左岸の道を大坂に向かっています。淀川が中津川と分かれる毛馬を過ぎると、対岸の田んぼのなかに春霞を隔ててかすかに鶯塚が見えます。そして桜宮にさしかかるとお宮の境内はもとより、こちらの岸も対岸もずっと桜の並木です。春爛漫の景色を楽しみながら歩むとやがて網島。春風にへんぽんと翻る飲み屋の旗が目に飛び込んできます。この遊人は、旅人なのでしょうか、それとも花に浮かれ出た散策子なのでしょうか。当時の京街道は、京橋から片町、野田、野江と、淀川を離れたルートをとっていましたから、わざわざ遠回りになる川沿いの道を行くのは、後者ということになるのかもしれません。旅か散策か、ともあれ歩き疲れた彼の目に網洲の酒旗は実に喜ばしく写ったことでしょう。
 ところで、通り抜けで有名な造幣局の桜並木をはじめとして、現在も網島近辺の淀川堤は江戸以来の花の名所の栄誉を保持し続けています。歌碑や句碑も多く残るかつての風流の祠・桜宮が肉弾相打つホテル街に囲繞され、網島の清らかな水音通う酔い寝の夢が跡を絶ったとはいえ、川岸の公園を歩いて蕾の膨らみはじめた桜の枝と茜を映す川面を眺めれば、遠く去った浪華の春が一瞬立ち返るのを感じることもできるかもしれません。