Bruno Taut ―ブルーノ・タウト―

…しかし、幸いなことに日本には、作品として力強い現代の絵画が存在している。
 一八四九年に北斎が没すると、その年にはもう既に、大鐵齋(一九二九年没)として高名な富岡百練が十八才の若者になっていたのであった。…彼は漢学漢文を自分の職業と見做し、この点では少しも他の模擬を許さなかった。しかし、絵を描く場合はそんな訳ではなかった。また彼は絵を描く前に、自分の手を軟らかくするために、剣術をやったということがいわれているが、よしんばそうであったにして、彼のあの非常に奔放な、ほとんどスケッチ風になってしまうことさえ度々ある様式はそれだけの事で解釈され得る訳のものではない。彼は絵を描くのに非常に長い時間を要した。しかもそれ等の絵の描き下しの結果は極端にすらすらと描かれたものになっているのである。彼は思索力の強い人であった、そして、要するに、実際に剣術によって手を軽くすることが出来るかどうかという事も疑問である。彼の初期の作品というのはその五十歳代の頃の作である。ある非常に大きな掛物を見ると、これには「九十歳にて描く」と書き込まれてある。(これは恐らく冗談に書いたものか、或いは、彼は八十八歳で没しているのであるから、日本流の年齢勘定によったものと思う。)彼は自分の葬式のために二枚の絵を描いた。これは複製にして、葬式に関係したすべての人に贈られたのであったが、その一枚は日本の酒の美事な効目を称えた書があるだけであったが、もう一枚の方は山水画であって、その絵の中には真黒い汚斑/しみ/が、しかもその絵とは外見的には全く何の関係もなしに、撒き散らされているものであった。恐らく古南画派の継続といえるのであろうが、ここではアカデミックなものが全く近代的なものに移し換えられているのであって、絵を一層ゆたかなものとするための一の抽象的な手段として、充分なものがあると思う。落ち着きのある思索と、その結果としての、外見上は自発的な、たちどころに描かれたとしか思われないような溌剌さ、これだけを考えて来て、彼と期を同じくする、誰かヨーロッパの大家を連想する人はないであろうか。事実に於いて、鐵齋は全く日本的なものから出発し、彼の花瓶であるとか、樹木、山水、特に彼の扇面などになると、その描法も色彩も折々一種独自な様式をとっているのであって、そのために、期せずして唇に上がる一の名前がある。それは「セザンヌ」である。私達は断固として、「鐵齋は日本のセザンヌである」といい得ると思う。…
 鐵齋は京都龍文堂の前主人、故溝口氏と深交があった。私は幸運にもこの溝口の若主人と近付きになることが出来、その人のお宅でお茶を頂きながら、膝をつき合わせて、一作また一作と、先代の主人に贈られたものであるという鐵齋の作品を楽しんだり、研究したりすることが出来たのであった。こういう作品に接すると、どんな言葉で褒めたらよいのか、実際言葉に窮してしまうものである。誰でもが好んで描く滝のモティーブなど、私はこれまで随分たくさんの絵で見てきたのであったが、――鐵齋のものをみると、その滝がまるでたった今生まれ出たもののように思われる。これが本当の滝なのである。その表現の力強さはまた彼の洒々落々とした人物画――これは大雅の精神であるが、それでいて、大雅とは全く別趣なものである――にも、彼の花瓶、花、樹木、竹等にも見られる。大雅はある意味に於いて奇異/バロック/なものをもった存在である。しかしこれが鐵齋になると、伝統の叡知から生まれてきた近代の感覚が一の姿をなして顕れているのである。
 日本の絵画が一の希望をもっているとすれば、この希望の旗手は鐵齋である。
 一時、日本には、鐵齋好みが持て囃されていたらしく、従って鐵齋の模倣が至るところに氾濫したように見える。そうでなければ、私には、今日の日本人の鐵齋に対するある種の冷やかさ、感激の欠如を他にどうにも説明のしようがないのである。また、恐らくは美術の売買にその素因を求めることが出来るのではないであろうか。鐵齋はある色紙の中で自ら次のように酷評している。「貧しい人達の子供がここで遊んでいる、ところが、書画屋はこれを種にして、千金の利徳を生む。」
 鉄斎は――その生涯の後半生に於いて描かれた彼の畢生の仕事は、その終を告げてしまった。彼の絵を標準として現在の絵画を批判することは困難である。しかし、どの点からいっても、彼は、日本の美術が決して死んではいない、充分な希望をこれに懸けることが出来るのであるということに対する、現在での最も有力な証である。畢竟、彼の意義は何を措いても、彼自身がその天才的な範例として、日本の立派な文化は近代の中へも充分その足跡を進めて行くことが出来るのだということを立証したことにあるのである。一群の現代作家が、よしんば彼とは全く別な様式に拠っているとはいえ、この近代への道を彼に従って歩んでいることは、誰にとっても、これ以上の欣快はないと思う。…

―『日本文化私観』(明治書房1936年・森郎訳)から新仮名遣いに改変抜粋  


 

武者小路実篤

   山はその一番高い處でその高さははかられる。藝術家も彼の一番の傑作でその價値はきめられる。そして我が鐵齋は遂に八十五歳以上、八十八歳、八十九歳で彼の藝術を生かし切つた。その點で彼は稀有の人だつた。古今東西にその點で彼は類のない藝術家に思はれる。彼の六十位の作を見ると、つい僕達は彼の若がきと言つてしまふ。
 彼の若がきにも、中々いい畫はある。生々して居て、力が内に充實し、彼がそれをかく氣持が露骨に生きて居て、彼ならではかけないと思ふ味は既に出て居るが、しかし彼が七十位で死んだら、恐らく彼の名を知る必要がなかつたやうに思ふ。
 彼は七十以上になつて段々自分の表現の技術をものにし、七十五、八十二、八十四、八十八と段々目立つて進歩して來た、そして遂に自分のかきたいものをそのまゝ表現出來るやうになり、不思議な渾然とした、個性を生かし切つた畫をかいた。
 彼は同時代の畫壇からは全く孤立した存在だつた。だが彼は過去に東洋が生んだすぐれた藝術家から教はるものは實によく教はつた。東洋的な傳統を彼は一身に引き受けた感じがする程彼は唐宋元明清の絵畫、及び日本の南畫、土佐繪の研究を實によくして居、それをすつかり自分のものにした。不消化なものは皆すてて自分に同化できるものは遠慮なくとつて、それをすつかり自分のものとして生かした。
 彼は當時の他の日本畫家とまるでちがふ、自分の道を歩いた。彼は自分の道からはみ出る必要がなかつた。彼はかきたいものは何んでもかいた。しかし自分になり切れないものはかゝなかつた。若がきと言ひたいものには、まだこなし切れない稚拙さがあつたが、いつのまにか彼はそれをこなし切つて、自由自在で、全部的にそれを生かす事が出來るやうになつた。すべて偉大な藝術家の作品を見て居ると、その見て居る瞬間は之以上の藝術はあり得ないと言ふ感じを受けて滿足するものだが、彼の傑作を見ると、その瞬間、鐵齋のやうな境地に達し得た藝術家は他にはないのではないかと思ふ。
 たゞ傑作を見る機會がなく、贋物を見せられたり、未熟と言ひたい作品を見たりすると、自分は鐵齋を買ひかぶつて居たのではないかと思ふ事もあるが、そのあと傑作にふれると、自分は又簡単に鐵齋讃美者になる。
 山水畫にしろ、人物畫にしろ、彼はそれをすつかり自分のものにし、自分の全精神を畫面にそゝぎこんで居る。實に力強く、味が深い。他の人の畫では見られない表現法がつかつてあつて、感じをあます處なく出して居る。彼はたしかに色彩家であつて、新鮮な色をよく生かして居るが、墨繪は墨繪で、實によく墨色を生かして居る。濃淡の配置も心憎い程心得てゐる。そして表現が徹底して居る。
 見ないで考へては想像が出來ない程、彼の仕事には心がこめてあり、全力を出し切つて居る。それが晩年になる程神秘な感じがする。常識では判斷出來ない程不思議な感じを出して居る。…
 彼は好んで龍をかいた。彼以外にも、龍をかいた日本人は少くないが、しかし彼のやうに自分が龍になつて龍を自畫像のやうにかいた人は他にないやうに思ふ。
 彼は人界の龍か。僕は一寸さう言つて見たいのである。

―「人界の龍」


 

梅原龍三郎

 時は最善の判審者である。明治大正年代唯一の大畫家である鐵齋が今日の程度に認識される爲には數十年を待たなければならなかつた。そしてまだ不十分な知られ方であらう。尤も夙に高名の人ではあつた、それは學者で、奇矯畫家としてであつた。時の力といへば去年四十年ぶりの巴里で最も驚いた事は千九百十年當時、時めいたアカデミツクの大畫家の全部が影も止めなく消え失せて當時異端視されてゐた印象派の畫家のみがドラクロア・コローから直結されて今日輝いてゐる一事であつた。近き將來の日本美術史は徳川期の宗達、光琳、乾山とそれから大雅と浮世繪の幾人かを經て明治大正の間には唯一人鐵齋の名を止めるものとなるであらう。長世で勤勉で絶えず作畫の感興に滿ちてゐた鐵齋は頗る多作である、その最も優れた作品で真價を定められなければならぬ。然し一小品にもその人格と畫格のうかゞはれる事は無論である。
 自分は鐵齋の晩年の作の總てに傾倒してゐるが、殊に時折色彩の濃厚なものを見て頗る驚嘆するものがある、黒と青緑或は金と朱などの對比の妙を極めて古今の東洋畫に類を見ない色感の美しさである。

―「鐵齋の色感」


 

矢代幸雄

 富岡鐵齋は近代日本が生んだ藝術上の一大巨材で、私は特に、彼の藝術に含まれたる近代性が、我國の文人畫家の間にまれに見る現代價値を發揮させている事實に、驚歎している。私は白状するが、もうかなり前まで、鐵齋のことは、唯だえらく長生きした非常に學問ある文人畫家とばかり聞かされていて、彼の藝術に特別に注意を拂うことを怠つていた。ところが、戰前のある日、梅原龍三郎君を龍土町の家に訪ねると、畫室の隣りの廣い客間の壁に鐵齋の牡丹を描いた大きな横額がかけてあつた。それは實に盛大なる牡丹花であつた。そのとき梅原君は畫室で、金色を背景にした大輪の白牡丹と紫牡丹とを、彼一流の豪放なる筆力と濃艶なる色彩とを以て描いていた。その白と紫との大きな花びらが金地から火焔を吐きそうに燃えて見えた。この梅原君の牡丹の畫に負けないくらいの旺盛なる迫力を以て、私はたつた今、隣りの客間で見て來た鐵齋の牡丹花を思い出した。…
 私はそのときまで、ただの文人畫家とばかり思つて、ろくに作品を見たこともなかつた鐵齋が、梅原藝術に抵抗するくらい強烈に近代性を含む作家であることに、いつぺんに目を覺ました。…それから私は急に鐵齋に興味を持つて、彼の作品を見るために歩き廻った。
 ところが、鐵齋に於ける近代性は、彼の性格、つまり彼に本来なる心と感覺に内在するのであつて、彼の修業や畫作の態度を見るだけでは、到底解釋がつかない。それだけ見ていると、鐵齋は全然舊來の東洋畫人と異るところなく、ただ東洋畫人の常に説くところの修業に嚴しく從つたところが、非凡であつただけである。謂ゆる萬卷の書を讀み、萬里の道を行くにあらざれば、本當の畫は出來ない、という理想を實踐した驚く可き勤勉家で、それを八十九年の長壽を通してひた押しに押し通したのであるから、他の畫家とは桁はずれに學識を蓄え心魂を鍛錬した精神家になつた。それ故、彼は東洋流に、畫には何か典據があつて、人に訓戒を與えるものでなければならない、という教訓主義勸戒主義を嚴守し、畫面には讃だの詩だの或は歴史や由來等の有益なる文字を書きつらね、そして自分の畫を見てくれる人は、先ず讃から讀んでくれ、という註文であつた。即ち鐵齋は東洋畫人としての舊式なタイプを離れない人であつたから、鐵齋藝術の研究者は、皆この鐵齋の態度、即ち彼の測るべからざる學識や高邁なる東洋的見識の探究に追われて、つまりもつと直接に言えば、彼の難かしい畫題の解釋や、畫中に引用する澤山の詩文を解讀するに終始して、その方面の偉さ、つまり東洋文人としての型通りの偉さ、を強調するに終り、それがため、彼の藝術は純粹藝術的に批評される機會をあまり持たず、從つて、彼に存在する珍しい近代性などに考察の焦點を向けられることは、案外少なかつたのである。即ち我々にとつて鐵齋が一番偉くもあり新鮮でもある要點が、從來の鐵齋批評にあまり問題にされない傾向があつた。…

 …彼の育ち方を見ると、彼ははげしい精神家として育つような境遇に、自然に置かれたようである。…蓮月尼は鐵齋の好學的傾向に望をかけて、それぞれの知合の有名な先生につけて漢學、國學、佛學などを勉強させる機會を作つてくれた。丁度その頃、幕府が轉覆し王政復古するという日本の大變動期に當り、…彼は蓮月尼の所に出入する維新志士のいろいろな著名人にも會い、激しい精神的感動をも受けたようである。そこで彼は尊王の志を養われ、その同じ志の故をもつて幕府に捕われた梅田雲濱、頼三樹三郎、或は若き鐵齋に大和繪を教えてくれた大和繪の大家浮田一蕙などが、むごたらしく縛られ、胴丸籠に入れられて江戸に護送されるところも、眼のあたり見た。
 鐵齋の精神的修養としては、以上の尊王の志のほかに、敬神の思想を強く注ぎ込まれる境遇に置かれた。鐵齋は一生涯殆んど勤めらしい勤めをしなかつた人であるが、ただ神官としてだけは勤めた。…鐵齋は神社を信仰するに眞劍であつて、若くして湊川神社に勤めたときには、その上司である宮司が俗物であつたため、これと衝突して辭職するほど潔癖であつた。こういう尊王主義や敬神思想は、狹い國學者型の人物を育て上げるのが普通である。即ちこれは何事にも束縛されることを嫌い藝術的感興に身を任せきる文人畫家というものとは肌が合わないのが普通である。事實、鐵齋の場合においても、彼の神官としての勤めや敬神尊王の思想は、文人畫家としての彼にどれだけ利益したか疑問である。その最も直接なる影響としては、彼に大和繪を學ばしめ、日本歴史の挿繪のような畫題を描かしめたが、それ等は、多少例外はあるにしても、彼としては概して最もつまらない制作に屬する。しかしそこが人間の面白いところで、心の鍛錬なるものは、直接には何にもならないような方向のものであつても、廻り廻つて、何處かで役に立つていないとは限らず、鐵齋を全體として考えれば、彼の神官としての勤めの如きも、結局彼の精神家としての素質を更に強化し、彼が逆方法の文人畫に向うようになつた場合にも、彼の精神を溌剌と生動させて、彼を普通以上にはげしく精神主義的藝術に押しやつた、という貢獻が無かつたとは言われない。ちよつと考えれば、彼の無拘束なる天才流露に邪魔になつたと思われ易いこの尊王家や敬神家としての働きも、結局、彼には邪魔にならなかつた樣子で、これは畢竟鐵齋自身の天賦の大きさや偉さが、それ等の偏狹に陥り易い束縛だけを脱して精神的の熱を保たしめるに役立つたという他はない。
 …また彼の讀書家としての熱心さは有名であつて、彼は老年に至るまで書物を探すために不斷の苦心をした。…即ち鐵齋の精神涵養には、支那文学、ことに儒教思想が一番根本になつていて、自ら儒者をもつて任じ、既説の如く、畫を描くにも、何か世道人心を益する教訓を含んだものでなければ、描かない方針であつた。…
 斯くの如く、書物に養われた學問や知識は、ともすれば藝術を頑固にするか、狹隘にするか、萎縮せしむるか、が普通である。近代藝術は、繪畫は書物や文學の下僕ではない、という主張を根本となし、繪畫を學問や思想への奉仕から解放することから出發しているのである。ところが、鐵齋はこの近代の傾向の逆を實行しているのであるから、一寸見ると、鐵齋は時勢おくれの一老畫人たるに過ぎないように考えられるが、不思議にも、鐵齋はこういう學問や知識を有り過ぎるくらい持つていながら、それは彼においては重荷とならずして、却つて彼の精神を擴大し深化するに役に立つのみ、少しもこれを冷却したり、凝固したり、衰微せしむることなく、後來説く如く、堂々と近代藝術中に優位を確立しているのは、單に藝術上の偉觀たるのみならず、藝術心理における一奇蹟とも見られよう。
 …最も面白いことは、斯くの如く鐵齋の藝術が生れるためには彼の學問が十分十二分に土臺をつくつているけれども、出來上つた鐵齋の藝術のよさは、少しも學問なくして感じられ、素心をもつて充分味わうことのできる直截味を持つている、ということである。…讃を讀まないでも、彼の藝術は充分に面白い。支那、日本を通じて、學問に深い文人畫家は決して珍しくはないが、鐵齋畫の如く、學問や知識なくしても充分本能的に面白く味い得る藝術は、稀有と言わざるを得ない。

 …是より鐵齋の眞の藝術である文人畫家としての彼の發達を考えて見たいのであるが、一體文人畫というものは、畫工的の匠氣、即ち自然描寫を丁寧にやつて畫をわかり易くすること、畫を美しくして俗に媚びること、を潔しとしないで、心に鬱勃と湧き上がるもの、即ち胸中の塊磊、を一氣に畫面に叩きつけて、人をして同じく感ぜしめようとする主觀主義の藝術である。議論としてはまさにそうであるけれども、それでは畫をどう描くかという具體的の方法になると、その議論通りには行かず、むしろその主張とは逆のきまりきつた形式や方向に歸着してしまうとは、いかにも不思議である。自然描寫の匠氣を蔑視するといつても、畫は元來自然の形を借りて心持を傳えるもの、それ故、あまりに形似に捕われて自然描寫に執心すれば、肝腎の心持なるものを傳えられなくなると同時に、また餘りに自然の形を蔑視すれば、畫は壞れてしまつて、つまり畫ではなくなつてしまう。それで文人畫には、かえつて、山はどう描くか、水はどう流れさすか、雲煙はどうして表わすか、樹木はどこへどう置いていかなる恰好を取らせ、道は洞窟を穿ち、橋上には老仙が童子を連れて歩いている、という工合に、簡單に描いて要領を得るという畫法が組織され、そのきまり切つた畫法に從つて、ただ組合せくらいを變えて描けば、どうにか畫が出來る、ということになる。かかる畫法は、筆の運びの末にまで及んで、岩石や土坡を描くために謂ゆる峻法が出來、樹木を描くにも、松は松、竹は竹、と一定の間違いのない形式が出來てしまうのである。即ち文人畫は個性と主觀とによつて自由奔放であるはずなのに、實はこれとは正反對に、案外客觀に捕われたる窮屈な狹隘な畫法筆法の束縛を受けて、その繰返しの單調に陥ること、怖る可きものがある。
 即ち文人畫はその議論だけ聞くと、西洋近代の表現主義に類するように聞えるが、實はかくの如く自然の直接なる靈感から離れた畫法筆法上のマンネリズムに陥り、心に感ずる所を自由に現す筈の表現主義と却つて反對極になるとは、皮肉な運命というほかはない。…さて斯くの如き南畫の單調さを突き破るには、よほど強烈な個性と直截に自己を發揮し得る表現力とを持つた人が、自然にじかにぶつからなければ容易に出來ないことであつて、日本でよくこの域に到達し得たのは、鐵齋自身が日本文人畫家中に特に共鳴し尊敬した先人、大雅、竹田、玉堂、木米などであろうか。鐵齋はこれらの個性強く素養深き大家の系列に並び、或は彼獨特の旺盛なる近代性をも加えて、もう一層思い切つて平凡を破り得た天才、と私は考えるのである。
 鐵齋がこの文人畫に案外支配し易い平凡性を破碎しそれから逸脱して表現主義の極致に到達し得たことは、一つの興味ある藝術問題であると考えられる。私は、鐵齋の藝術が獨自の境地に圓熟渾成して來たのは五十過ぎから始まり、六十歳(明治二十八年)以後本式になり晩年に近づいて益々よい、と思っている。この五十から六十にかけて、彼は神官生活から遠のき、天下を大いに旅行して、南は九州から北は北海道に及び、大自然に接したり、異なる風俗や歴史を研究したりして心を肥やし、また常に驚く可く廣範圍なる讀書力によつて知識をひろめ、すべて是等が綜合されて出來上つて來る文人畫精神がその頃に至つて彼のうちに漸く醗酵し釀成して渾然たる滋味を附與し始めたものと思われる。…

 …さて鐵齋を綜合すれば、結局、墨の藝術ということに歸着するであろうが、それでいて、同時に彼の色感の盛んなること驚くべきである。これは先ず以て鐵齋の墨色には、色感が豐富に含まれていることを示すと思われる。古來墨は五彩を兼ぬなどと支那で言われたように、墨の使い方が上手ならば、そのうちに無限の色彩的效果を出すことが出來、鐵齋はそれが巧みにやれたのであつた。扇子などに金地に墨で描いたものなどは、實に墨色が生動して見える。しかしながら同時に、鐵齋は墨の上に色彩を少し加えながら、非常に效果を上げることを知つていた。それには種々の工夫があつたようである。
 鐵齋は、西洋畫は繪具で描くが、日本畫は墨と藍と代赭があれば何でも描ける、と言つている通り、彼は色彩を決して多種類に使つていたわけではない。しかしそれで有力に色彩的效果を上げ得たところは、彼が眞に色彩的天才であつた證據である。ただ彼が若い頃大和繪を研究したことは、彼にこの色彩の使用に關するよい経驗を與えたように私は解釋している。墨本位の文人畫には、普通には色彩を施したにしても、藍や代赭等の淡彩を加うるに過ぎないが、鐵齋は大和繪を勉強したために、濃厚なる岩繪具その他の強い色彩を使うことが出來た。これがため、彼は墨黒々と塗られた畫面の上に更に濃艶なる臙脂だの藍だの緑青だの群青だのの色彩を散らして、思いがけない裝飾的乃至神秘的效果を擧げている。これは普通の文人畫家の色彩計畫には滅多に見ないところで、鐵齋獨特の美しさと言うことが出來る。…
 かくして鐵齋の藝術を顧ると、それは何と言つても大體舊式な東洋畫家思想の上に築かれた藝術に相違ない。しかもそうして築かれた鐵齋藝術が、非常に近代的感覺に富み近代人に訴えて已まないのはなぜであろうか。彼の畫作は、既に言つた通り精神修養の手段である。結局、教訓畫、或は中國で昔から言う勸戒畫である。それから畫を見るならば、先ず讃から讀んでくれ、といつたように、彼の藝術は要するに文學的内容本意の挿繪主義から出發している。そしてその畫は要するに墨畫であつて、言い換えれば、書道主義の藝術である。これ等は何れも東洋文人畫の常套手段で、今日の普通の藝術論から言えば、謂わば時勢おくれの藝術の筈である。それがどういうわけか、鐵齋の天才のうちに渾成されて、近代藝術の新傾向と一致して今日に生きているところは、彼の天才による藝術の奇蹟と言うほかない。即ち藝術は主義ではない、人だ、ということである。主義をどう藝術的に生かすかは、結局人だということである。かくてこの人間鐵齋による渾成によつて、古來の精神主義の藝術は、現代の表現主義と深く相通ずるところを生じ思いがけなく鐵齋藝術は二つの間に共響關係を設定して現代に生かされたのである。形似超越とか、技巧を捨てよ、とかいう主張は、近代藝術の反自然描寫的傾向、原始主義、下手さの讃美、などと深く通じたのである。墨氣盛んに深き陰翳を畫中に屯させているところは、近代藝術の一特色である神秘主義を畫中に籠らせたことと、非常に接近した。書道的筆力を揮つたところには、近代藝術に於ける線のシンボリズムが感じられないとは言えない。即ち古い文人畫の主義主張をこれほどまで現代に生かし出しているのは、鐵齋その人に宿つた驚く可き近代に他ならない。
 斯くの如く、結局、人という問題に歸着して、從來外國人にとつては最も難解だと言われていた文人畫中、鐵齋が昔から洋畫家や西洋美術の研究者の間に讃美者を見出していたことが解る。…今は亡くなつたがドイツの國立美術圖書館長であり、近代美術の蒐集家であつたクルト・グラーザー夫妻が、昔日本に來て、鐵齋に非常に私淑したのも、今は愉快なる思出である。…私もこのグラーザー夫妻をよく知つていて、彼のマティスだのセザンヌだのルノワールなどたくさんかけてあつた客間で鐵齋の繪を見たことがあるが、その時鐵齋はそれらの近代藝術の間に在つて堂々と頡頏し、また共通點も持つていることが感じられた。即ち私もグラーザーが近代畫家としての鐵齋に敬服したことに心より同感したのであつた。…  

―『近代畫家群』(新潮社1955年)から抜粋


 

中川一政

 鐵齋の作品は頗る多い。繪の勉強を心摹 手追と古人は云つたが鐵齋の場合は手追の方が勝つてゐる。思ふに手から筆が放れた時は眠る時であつたらう。
 いづれも鐵齋らしい仕事だが世間では八十を過ぎてからの作品を珍重する。八十歳に及んで嗣子を失つてからの作品である。これは尋常の事ではない。
 八十五六歳に及ぶと、私の經驗では見ないでも名品である。
 心摹 の人は作品も少く、惜墨、金の如く靜かである。
 鐵齋の作品は墨瀋を發して頗る動的である。
 鐵齋若年の作品は大津繪風のもの土佐風のもの大和繪風のもの南畫風のものとある。
 鐵齋には常師がない。自分でも云ふ如く盗み繪であり、好奇心が強く、攝取すべきものがあればどの畫風からも攝取する。指頭畫まで描いてゐる。三十二歳頃である。
 しかしどの畫風にも定住することが出來ない。その頃の作品を見れば大津繪風のものは大津繪の重味がなく、土佐や大和繪風のものは優美さもなく品格がなく、南畫風のものは落着きがない。その畫風の上を上すべりしてゐるのである。一枚の畫として獨立ち出來る繪は描いてゐない。

 鐵齋の眼が中國に向いたのは何時頃からか知らない。鐵齋と同時代の畫家はすべて日本國の傳統の範囲で仕事をしてゐる。鐵齋は違ふのである。鐵齋は南畫家と云はれるけれども大雅や竹田の傳統をはみ出してゐる。さういふ繪を見なれた日本人には鐵齋の繪は床の間にうつらないと云はれた。
 鐵齋は若年、篆刻で生活をしようと考へてゐて、それでは食へないから繪をかけと忠告されたと云ふから中國への着眼は案外早いのではないだらうか。
 明治二十五六年頃の諸國名所畫冊は石濤の風に描かれてゐる。
 もつとも南畫家の方の中國崇拜はずつと前からある。煎茶趣味、文人趣味によつて窺はれる。
 鐵齋は南畫家の定石どほり萬卷の書を讀み千里の道をゆくといふ修行をした。思ひたてばどこへも旅行をした。北海道へ行つた如きは今日から見れば大旅行である。
 老年になつてからは専ら書を讀むことで讀書によつてインスピレーシヨンを得た。
 赤壁も東坡も廬山もことごとく讀書のインスピレーシヨンである。現實の中國を鐵齋は見てゐない。
 鐵齋の世界は外界ではない。内界である。現今ではなく古である。
 風景も知己も讀書の中に豐富にもつて居た。
 鐵齋作品に於て最も顕著なものは中國金石と結びついた事である。「金石癖」といふ印がある。前後赤壁圖や古佛龕、蓬莱仙境、にみるフオルムの嚴しさは金石の嚴しさに及ぶ。在來の南畫にないものである。
 鐵齋の長い生涯に於て初期の飽くことのない攝取は、老年になつて捨て去り捨て去つて一分の不用の介在する餘地がなくなる。
 彫塑はないところへきづいてゆく。
 木彫はあるものを削つてゆく。
 この二つの作用が鐵齋の仕事にはたらいてゐる。
 例へば鐵齋はしば/\龍を描いてゐる。
 八十歳の龍、八十五歳の龍、九十歳の龍と並べてみると龍はたえず脱皮してゐる。九十の龍は肉體を感じさせず精神となつて天に昇つてゆく。またしば/\描いた蓬莱仙境圖に於ても。
 鐵齋は畫家と云はれる事を好まず、儒者と云はれる事を本懷とした。
 また自分は世道人心を益しないものは描かないと云つた。
 當時の畫家と類を同じうする事を屑しとせず、彼らの職人藝を蔑視し、自分の見識としたものであらう。
 形似を事とすることを兒戲とした東坡以來の文人の考がさうである。
 しかし鐵齋の考では美術は道徳より輕い。
 だから鐵齋が自分の考へたやうな畫ばかり描いたら案外平凡な畫家に終つたらう。
 しかし鐵齋の裡には、地底の火山脈の如きものがあり、噴出しようしようとしてゐる。鐵齋の常識を裏切つてしまふ。
 そして時をえて噴出したのである。
 現實の鐵齋はこれに對してどうしようもない。身をまかせて火を吐き出した。
 晩年鐵齋は「手探りでも描ける」と云つたさうである。
 鐵齋の畫の基調は松煙油煙の墨であるがその間に用ひられる色彩の美しさはあふれるやうである。鍾馗嫁妹とか古佛龕など日本畫の靜的に用ひられた材料を動的に使用してゐる。
 鐵齋は日本に於て雪舟や乾山や北齋と肩を並べる長壽の畫家である。
 繪空事でなく蓬莱仙境に悠々と遊び、仙人を相手に語つた。
 畫中の人に俗臭を見ない。

―「鐵齋の仕事」



 私の家の床の間に鉄斎翁の山水をかけておいたらデパートの美術部長が来て、さてなつかしや、私が小僧の時代この絵を手がけました。箱は京都の春芳堂でせうといつて手にとって箱書を見、この絵は大和の何々家に納めました。
 当時価は二千五百円。しかし二千五百円あれば小さな家が建つといつて、なかなか売れないで弱りましたと語つた。
 当時の日本美術界においては鉄斎の画は破天荒であり、みな戸惑ひしたらう。
 かへつて初期の南画風土佐風のものの方がわかりよかつたらう。日本の画風を祖述したものだから。米山人や野呂介石あたりの画風がある。
 しかしそれらは鉄斎が手習ひ時代のものであつて、さう価値のあるものではない。
 鉄斎は誰に確かに画を習つたといふことはない。自分でもいつてゐるやうにいろいろの画派からの盗み画なのである。
 しかし鉄斎の求道心は全くするどく強くて、日本では飽き足らず中国に目を向けて行つた。鉄斎の他の画家とちがふのはここだ。他の画家は日本国の中だけで仕事してゐた。これは鉄斎の学問と見識が導いたものだらう。
 鉄斎は勤皇家で梅田雲浜、頼三樹三郎が先輩であるから、本当はこれらに従つて勤皇運動に参加して獄死したかもしれない。しかし斜視で聾といふ肉体的条件が現実運動に従はせなかつたものだらう。
 鉄斎には前田正名とか西園寺公とかいふ現実の友人はあつたとしても、本当の友人は故人である。読書によつていろいろの知己友人と語るのを楽しみとしてゐた。
 就中蘇東坡を題材にした作品はすこぶる多く、そして大抵、私の見たものは優作であつた。
 斜視で聾であつた事は、私の常識的想像では若い鉄斎の悩みであつたらう。その当時流行してゐたかどうかノイローゼであつたらう。
 これが鉄斎をして現実世間から背を向けるやうにしむけた一つの原因となるだらう。自分の世界に閉じこもって気が散らなかつたらう。気が散らないから自分の世界を広く深くして行つたらう。
 鉄斎は篆刻で若いころ生活をたてる心算であつたといふ。篆刻をやるには文字の学問がいる。その傾向が中国の金石研究となる。私が生まれたころに鉄斎は石濤とか金冬心を知つてゐる。石濤風の山水をかき、金冬心風の字をかいてゐる。
 鉄斎の書も画もその金石を知るやうになつて重厚になりコクが出て来た。
 日本離れしたと同時に、日本人にわからなくなつた。
 デパートの小僧が売れなくて困つてもちあるいた絵はそのころの作品である。画題は茂松清泉。八十八歳の作である。
 とにかく日本の画家で長寿の画家は北斎と並んで鉄斎である。楠正成のやうに七度生きる。といつたつて若死すれば、いつも準備をするだけで一生が終つてしまふ。
 鉄斎は長生きして普通の画家の踏込めないところまで達した。
 北斎の名は外国にやうやく宣伝されてゐる。鉄斎が今度アメリカへゆき、海外へ紹介される端緒をえたことは嬉しい。

―「鉄斎の絵」(『正午牡丹』)


 

石川淳

…奇妙なことに、後世南畫の看板を掲げる家が唐土傳來のキツネを飼ふといふ習慣をうしなってから、萬巻の書、千里の道またともにすたれて、南畫といふものはがつたり品物が落ちて來たやうである。草枯れてウサギも飛び出さない。ただ鐵齋はひとり最後のキツネと昵懇にしてゐた。蘇東坡である。これはひどく凝ったものであつた。東坡同日生の印文はみづから東坡と出生の日をおなじくしたよろこびをかくさない。また聚蘇書寮の印文は書庫が蘇子の集をもつてみたされたことを告げてゐる。その居るところの室には蘇学士が同居してゐて、清談款語、いつも仲よく附合つてゐたふぜいと見える。鐵齋の孤獨、おもふべし。すなはち、好んで東坡をゑがく。たとへば、蘇子會友圖一幅。ふだん懇意の人物のことだから、かならずや客十餘人の中には鐵齋みづから列席してゐたことだらう。…

―「南畫大體」(『石川淳選集14』岩波書店1980年所収)から抜粋


 

青山二郎

 …古典には色々「約束」というものがあります。…南画の山水は、山に三遠ありと言いまして、山の下から山頂を仰ぐのを「高遠」と謂います。高遠の場を形容するのにその/こころ/を突兀と言います。山前より山後を窺うのを「深遠」と謂いまして、深遠の場を称して重畳と言います。近山より遠山を望むのを「平遠」と謂い、平遠の意を縹緲と言います。南画には形を表わす言葉と、形の内容を表わす言葉と、詰り恁ういう合言葉が沢山ありますが、それが集って掟の様なものが生れ、掟から「約束」が出来たのでしょう。支那の古い画には掟は無いとか、茶道の約束は利休以後の事だとか、それを今詮索する要はありません。南画なら、必ずそうなければならなかったのです。その鉄則の中にだけ彼等は生涯の想を練ったのです。…
 鉄斎は汽車の無い頃から日本中を歩き廻って、富士山にも何度も登っていますが、七十を過ぎて歩けなくなって旅行を控えるようになってから、いゝ絵を描くようになりました。それ迄は突兀といい、重畳といい、縹緲という、画家の想念の中を歩いていたのです。突兀は「高遠」の場で感傷を歌い、重畳は「深遠」の場で思惑に走り、縹緲は「平遠」の場で陶酔に終ったのが、鉄斎ばかりでなく大概の南画の運命でありました。殊にこれは我邦の殆んど総ての南画家が自在に出来なかった場です。文人画家等の夢と言えば、わずかにそれらしい「精神の表現」にだけ運筆が残されていました。例えば或る影像/イメージ/が概念として存在します。南画はその存在を意識の或る状態に置換えようとするのですが――そこに描かれたものは、或る精神を表現する或る精神の表現でありました。新派悲劇とは浪さんが見物に先立って、泣く役者の事でした。それから後に鉄斎は、鉄斎と謂われる様な絵を描くようになったのです。古典の「約束」はこの位い高く値くのでした。

 …話は明治十五年に戻ります。当時、維新前後の変動期に際して、東西の画壇が諸派共に不振の中にあって、何ういう訳か文人画だけは一時全国的に流行していた。それが鉄斎が再び京都に帰って来て定住するようになったその年から、南画は只一人のフェノロサの排撃を受けて、急速に没落するに到った。フェノロサは西洋の美術に比較して、日本画は油絵に数等優ると力説し、序いでに文人画の無価値なる理由を説明しました。フェノロサ、岡倉天心等は政府の美術政策に参加建言する勢力があったのです。鉄斎が恁うした南画の急激な衰退を眼前に見て、何う思ったか。
 「元来彼は学者であり、絵画は余技に過ぎなかった」と鉄斎伝の或る著者は此処で言います。「彼は自ら学者として其れに臨んだし、一般画家の方でも学者として尊敬を払うのが常であった」――それならこの頭の悪い学者は、自分の未熟な余技を否定されたと思ったので、南画というものが排撃された事に気が付かなかったのでしょうか。一体、南画を余技と言うのは南画家の癖ですが、南画というものは余技にしか値しないと思っているからでしょうか。そうではありません。それを描く事を彼は余技と言った迄です。
 自分の描く画は下手糞に違いないが、南画というものに対しては鉄斎にも見識があり、何か抱負があったに違いありません。それが見事に一撃を食った、その鉄斎について私は知りたいのです。四十七歳の学者が自分の画を余技だと、この場合役にも立たない事を言ったかも知れません。そして南画に対する信念も自信も、一時は失いかけたかも知れません。或はまた、フェノロサと戦うには誰かが一枚の南画を描いて見せて、世間に問わなければならないと肝に銘じたかも知れない。この辺の消息は確な事実が、日記か手紙か何か今後発見されるのを待つ外ありませんが、正宗得三郎氏の鉄斎年譜に「明治十五年、四十七歳。この前後より約十年間、特に大和絵を研究せられし跡あり」という一項を我々は発見します。今は此の一事の外に何も手掛りがありません。この前後より約十年間とは、即ち文人画の没落が鉄斎に及ぼした影響を語るものです。何故なら――その次ぎに来た十年間というものは南画の不人気は兎に角として、今度は鉄斎の馬鹿気た流行を見たのですから、恁うなるとお互いに何が何だか分らない。鉄斎はそこで一方、それならばと当時大和絵の研究を始めたのではないでしょうか。
 そして前にも書き並べた様な修理復興に専ら手を付けていた。名所旧跡を探したのも人情風俗を探ぐったのも、画囊を肥す旅ではなかったと前にも書きました。成る程、旅行は前からの続きと見れば別に何か訳があった様にも思えないが、あったかも知れない――、この十年に渡る一時期の旅行の中に、若し想像が許されるなら南画の没落という事件の影を尋ねて見たいと思うのでした。証拠らしい証拠は今後も見付からないかも知れないが、それならそれで、旅を行く耳の遠い南画家の後ろ姿を何ういう眼で世間が見送ったかでもいい。何にもなければそれだけでも考えて見たかったのです。そしてこの十年間に鉄斎は人間としても、固まるものが固ったと思うのです。この外に生涯彼は何の一撃も食った事がないからです。「儂は儒者だ。本を読めば世の中の事は皆解る」そんな事を言う様になって仕舞っただけです。

 …「大雅の及ぶべからざる所は、その画を描くつもりがなかったと云うところにある」と鉄斎は言う。鉄斎の談話の中でこれは表面に表れた唯一つの思想です。恐らく何かの本にあった言葉かもしれません。併しこの言葉が鉄斎自身の創意を語っている点で、我々はこの難しい思想が鉄斎のものになっている事を認めます。彼は南画を乗越えるつもりはなかったのです。画は彼の余技でした。描くというより、字を書く様に「絵を書く」南画家の観念と、鉄斎のそこに到った聾について私は考えます。彼の晩年の作品を一纏めにして言えば、それは幻想家の画です。丁度、話の表面からは何の意味も汲み取ることが出来ない彼の談話の様に、底の方により大きな真相が隠れた一種の幻想画のように思えます。長い生涯を擦り減らして、其処に見たものは何だったでしょう。其処此処で古画から教えられたもの、納得したもの、その後で結局何を掴み出したか。鉄斎の画を見てもそれが解るように、南画を越えた或る独自の観念が晩年の彼の腕前を捕えました。友達は「鉄斎の一生に緊張した一面があるのを、誰も気が付いていない」と言います。画が恁ういう解釈を人に強いるのを、鉄斎の所謂近代性と世間で称ぶのではないでしょうか。

 鉄斎の耳は、南画家が世間を茶にして静寂を手に入れた、その鋭い耳には及ばないかも知れません。例えば静寂というものを知らない、騒がしい耳かも知れません。併しそれはただ一人の友で、彼の独り言の聞き手でした。主人の顔色を隈なく読取る忠実な猟犬でした。恁んな耳が万巻の書を読み、万里の道を往ったのを、我々が想像出来るでしょうか。木の葉が散る、藪が風に動く、雨が降る……昔の無声映画はそうだった。と、独り言が始まる。この親友が旅の空でどの位鉄斎を慰めたでしょう。ひらひらした魂が無意識にじッと眼を据えた先きに、ひらひらした梢が其処に現れるというのは何うした訳でありましょう。川がせからしく流れて行くと、それが疲れた足に焼付いて、其処にありとあらゆる日本中の川が現われる。自然は人の心が顔に出るように、彼の前に姿を現わすのでした。人の眼に静寂な古画が、彼を興奮させるのでした。何故なら静に化粧された名画の奥には、ただならぬ自然が捕えられていたからです。鉄斎の耳は、それはそれは良く見える耳で、眼は要らなかったのです。彼は手探ぐりで描きました。
 我々は鉄斎の画から色々な音を聞きます。ざわざわ、さらさら、ぽちゃぽちゃ、如何にも自然の中の賑やかな楽し気な音です。それは一見微笑を禁じ得ない、楽天的なものです。苛立たしかった彼の長い一生は、何一つ不吉に感じることが出来ません。

―「富岡鉄斎」(『眼の哲学・利休伝ノート』講談社1994年所収)から抜粋


 

小林秀雄

…八十七歳の時に描かれた山水画を、部屋に掛けて毎日眺めているが、日本の南画家でここまで行った人は一人もないと思わざるを得ない。文人画気質はおろか、およそ努力しないでも人間が抱きうるような気質は、もう一つも現われてはいない。鍛練に鍛練を重ねて創り出した形容を絶したある純一な性格を象徴する自然だけがある。
 賛には大丈夫の襟懐というものはどうのこうのとあるが、そんなものは、どうでもいい様子である。画と詩文との馴れ合いというような境地は、全く捨てられて、正面切って自然というものを独特に体得した近代的意味での風景画家が立っている。…
 前に言った八十七歳の山水画にしても、大丈夫の襟懐などという古風な観念にはおよそ似合わしからぬ鋭敏複雑な近代水彩画の touch が現れている。撥墨法とか賦彩法とかいうより、確かに touch と言った方がいいのである。多くの touch は、明らかに、パレットナイフでやるように、筆を捨て墨の面や角でなされている。
 そういう硬い線が柔らかい撥墨に皺をつけて、両者は不思議な均衡を現じ、山は静かに揺れているように見える。墨の微妙な濃淡の裡から、さまざまな色が見えてくる。在るか無きかほど薄い緑を一と刷毛ひいた畠らしい空地から、青々とした麦が生え、茶色の点々を乱暴につけた桃林らしいところに、本当の桃色の花が咲いてくるように見える。この奇妙な線と色との協和には、何かしらほとんど予言めいたものがある。…

―「鉄斎T」(『無常という事』角川書店1974年所収)から抜粋



…鉄斎の筆は、絵でも字でも晩年になると非常な自在を得てくるのだが、この自在を得た筆法と、ただのでたらめの筆とが、迂闊な眼には、まぎれやすいというところが、にせ物制作者の狙いであろう。たとえば、線だけをとってみても、正確な、力強い、あるいは生き生きとした線というような尋常な言葉ではとうていまに合わないような線になってくるので、いつか中川一政氏とそのことを話していたら、もうこうなると化けているから、と氏は言っていた。まあ、そんな感じのものになってくるのである。岩とか樹木とか流木とかを現わそうと動いている線が、いつの間にか化けて、何物も現わさない。特定の物象とは何んの関係もない線となり、絵全体の遠近感とか量感とかを組織する上では不可欠な力学的な線となっているというふうだ。これはほとんど本能的な筆の動きで行われているように思われる。最晩年の紙本に描かれた山水などに、むろん線だけにかぎらないが、そういういわば抽象的なタッチによって、名状しがたい造型感が現われているものが多い。扇面などで、おそらく非常に速く筆がはこばれているだろうと思われるものがあるが、そういうもので、扇面の凹凸に筆がぶつかって、墨や色彩が妙な具合になったり、凹凸に添って、流れたりしているのを見ていると、偶然の効果まで考えて描かれているようにさえ見えてくる。扇面という一種特別な空間に応じて、山水なら山水が、一種特別の収まり方で収まっているように感じられる。私の持っている八十六歳作の山水図には、画面を横切って二本妙な直線が入っている。富岡益太郎氏に訊ねてわかったことだが、鉄斎先生は、晩年、書物がだんだん多くなり、画室に積み上げているので、紙を拡げる場所もなくなった。片づけるのもめんどうな時には、巻いた紙を拡げながら上の方から描いて行き、巻きながらだんだん下の方に移って行く。これを繰り返しているうちに絵が仕上がったそうであるが、まだ乾かないのを巻いたり拡げたりしているうちに、紙が折れて墨がにじみ、妙な横線が現われてくる。なにしろ盛んな筆勢であるから、よけいな線もいっこうに気にかからぬ。この絵にはもう一本よけいな線がある。これは確かに筆で描かれたものだが、硯から筆を画面に移す時、先生は、空を横切って山頂にかけて、鮮やかに一本線を引いてしまった。よけいな線などいろいろできて、鉄斎先生は、この図はたいへんよく描けたと得意だったそうである。ところが、犬が上って来て机の上に放ってあった絵の、鉄斎の鉄のところをなめてしまった。犬になめられては、人に渡すわけにもいかず、鉄叟蔵という印を捺して保存してあったのを、私はたって富岡家から譲り受けた。晩年はまあそう言った画境であるから、賛にはいろいろ難かしい説教もしてあるだろうが、読めなくても絵の鑑賞にはさしつかえあるまいと考えている。
 鉄斎の絵は、絹本より紙本がいい。八十歳の半ば頃に、非常に濃い墨が使われている一時期があって、ただもうやたらに、塗りたくっているように見える、一種執拗な味わいのする絵が少なくない。そこを狙っているにせ物もなかなか多いようで、重厚な量感は、妙な具合に模するのであるが、どうしても出て来ないのは、墨色の透明感なのである。鉄斎の絵は、どんなに濃い色彩のものでも、色感は透明である。この頃を過ぎると、撥墨はしだいに淡くなり、そこへ、大和絵の顔料で、群青や緑青や朱が大胆に使われて、夢のように美しい。ああいう夢が実現できるためには、自然を見てみて、それがいったん忘れられ、胸中に貯えられてしまわなければならないであろう。

―「鉄斎V」(『無常という事』角川書店1974年所収)から抜粋


 

桑原武夫

 富岡鉄斎の遺墨展覧会を見て近ごろ稀れな感銘をうけた。しかしそれは、俗塵を洗って風雅に遊んだというようなことではない。われわれのうちには、どこかに風雅などというものを反発する気持が潜んでいるのか、そういう世界へはなかなか素直に入りにくい。何か努力を必要とするのである。ところが、鉄斎の遺墨を見ているときの気持は、全くこだわりのない、むしろ純粋なものである。これが何よりも嬉しかった。
 普通、南画といわれるものを見せられると、私たちは一種の気づまりを感じるのが常である。不自然に積重ねられた巒峰も、いやにひねこびた松も、みな形を狙ったのではない、写意である、気韻をあらわさんとしているのだ、そんなことをまず念頭においてかからねばならぬのが辛いのである。そうは思っても、こちらの草庵とむこうの山とがきれぎれで、結局そこを統べる何の意もないような気のすることが多い。田能村直入…などという人のものに対してさえ、そういう感じがするのである。
 ところが鉄斎の絵は、殊に晩年のものは、全く安心して見られるのであった。山水なり花卉なりが、ぴたりとじかにこちらの気持に乗ってくる感じで、そこに何の用意もいらなかった。しかも自然の模写に接しているという心細さの代りに、じかに何か確かな「もの」に対しているような安心があった。そして私は、ともかくこれほど自然な絵はないと感じたのである。いまだに鉄斎は不自然だとか、粗放だとかいう人があるが、それは間違っていると思われた。複製などで考えると、あるいはそう取れるかもしれぬが、実物の前に立つと、形だけを部分的に切離して考えられないようになっている。第一、あの潤麗な墨色と芳醇な彩色がそれを許さぬのである。また少々荒びたような構図があっても、後期印象派以後の絵を見てきている人なら、その出発点の相違などは別として、画面の様子には驚かぬはずである。ジャック・リヴィエールは、ゴーガンの画は自然を勝手に歪めているのではなく、ただ事物によく納得させた上、その本来の姿から少し離れさせているに過ぎぬ、というような器用な言葉を吐いたが、鉄斎の場合は納得というよりいっそ翁みずからが老梅になって、枝を拡げているという感じである。ともかく、そこには信用のできる一個の人間がいて、わしなら梅はこうなる、君はどう思うか、といっている。私にはその態度が実に見事に思われる。絵の中には必ず自然に対する個体的な判断が示されている。それが模写主義の常識を離れているからといって、不自然だとか粗放などという言葉は許されぬはずである。
 しかもその判断は決して空想的なものではない。…事実、この南画家は人体解剖図を研究し、また一本の竹についても、古来名家の粉本のみならず、竹の自然科学的研究のごときものをさえ調べていたのである。もちろん、それが、そのまま利用されるはずのものではない。しかし例えば『山荘風雨図』などを見ると、その嵐にもまれる竹は、真に竹に愛着をもち、その性質を知りぬいた人にして初めてとらえうるような正しいしわり方をしている。いつもあくまで自己のスティルによって造化を作り出すという態度だが、それは文字通り胸に成竹あっての、自信のある判断にもとづいているのである。その作品には普通の意味で、リアルなものがなかなか多いのも異とするに当らない。『八角円堂』など、これを写実主義の絵として見ても少しの隙もないのである。『陸羽茶癖』『万里尋親』など、古風な題材がいかに迫真力に富むかは驚くべきものがあった。一般に東洋画には遠近法がない、画面に深さがない、などと教えられているが、自由奔放などと評せられる鉄斎の山水には、この遠近法が案外無視されていない。『三尾聚芳』『武陵桃源』その他むしろ極めて正確といってよいものがたくさんあった。小川琢治博士は、従来の日本南画家中、地理学的に見て遠近法の誤謬を犯していないのは、大雅と鉄斎二人のみだといっておられた。…もちろん、それは学理的に考えてなされたことではあるまい。維新前後の交通不便の際に、国内あまねく、北海道、千島まで跋渉せずにはおかなかった、その激しい自然風景に対する愛情によって、山水を体得していた結果であろう。後年、彼が写意めいた山水を描くときも、ただ外部にあるものとして、静観的にそれに対している気持にはなれなかった。筆を動かしつつその画中を自分も杖をひいて逍遙したいと思う。それにはこちらの流れの岸から向うの山中の草庵にまで歩みうる風景でなくてはならない、山水の法則を、例えば遠近法を無闇にまげることは、彼の愛着が許さなかったのであろう。ともかく鉄斎の山水は、単なる静観的な夢想の表現とは思われない。その中を歩みうる風景、むしろ歩み行くことによって生まれた行為的な面をもつ風景である。印象派あたりの風景画よりも遙かに画面の奥行が深いのは驚くべき事実である。近ごろの新傾向の南画の作品にも遠近法はなくはない、否、それが真先に感じられる位である。しかしそうした大多数の作品においては、正確さはいわば写真風のそれである。風景への理解と愛情よりも、むしろまことらしさへの懸念、自己のスティルによって山水を造りだす自信の欠如からの写実主義への歩みよりの結果と考えられる。遠近法は正しいくせに、景色は平板で、その中へ歩み入る気持は全く禁じられるのである。写生を宗とするのも悪くはない。しかしそれなら、南画的約束を放棄するがよい。老人風な題材を水墨や浅絳で乾ききった画面に仕立てることをよさねばならない。こうした新しい南画、また古来の粉本主義の南画に接した後で、私は鉄斎の複製をひらくだけで、その清新さに再び打たれるのである。
 事実、この展覧会を見て、私が最も驚きかつ喜んだのは、鉄斎の若さである。しかもその若さは年と反比例して、晩年に近づくに従って、いよいよみずみずしく画面に溢れてくる。むしろ何か老年的な、古めかしい感じがするのは、かえって壮年期の作品にかぎられている。南画にしようという意図があらわなために、その手法に邪魔されて、まだ何か見えて来ぬものがある。『層巒積翠図』(三十四歳)などでは、巒峰の手法の他は何も生まれてこず、画面が乾燥している。ところが晩年になると、手法はいよいよ独特のものとなりながら、ものがじかに現れている。ことに八十歳から八十二、三歳位の間に、一つの重大な転期があったらしく、そこで鉄斎の天才が初めて開花したと感じられる。以後のものは特に画面に生彩があり、描かれる人物は仙人高士、風景は桃源蓬莱でありながら、そこに不思議にあてやかなもの、けがれなきVolupté(逸楽)とさえいうべきものが漲っている。芳醇無比、日本近代画人中これほど生き生きした印象を与えるものを私は知らない。
 こうしたすばらしい印象は何に由来するのか。…ただ、われわれを先ずあれまで親しくひきつける魅力は、主として彼独特の渲染と着色の美にあることは事実であろう。ゆらい、筆力の鋭い墨線は理知的な強い意志を感じさせる。馬夏、雪舟などにおけるように、そこには東洋画特有の厳しい判断の美しさといったものがあるが、鉄斎の濁りのない、豊かな墨のにじみは、その上に人間的なゆとりをそえ、判断のうちにも愛情がこもって、凜としたうちに温雅な世界と感じられるのである。このことは、この前の浦上玉堂展についてもいえるかもしれない。しかし玉堂には、先ず軽快なロマンチックな陶酔のようなものがあった。鉄斎の墨はより大胆でありなから、落着いた厚みがあるように思われる。墨のにじみが艶っぽいことはいうまでもない。単に墨線がにじんでいるだけでも余情のあることは、佐野繁次郎氏を見ても明らかであろう。氏の唯一の魅力がそこにある。しかしそうしたものが技法的手段になってしまうと、単なる媚態を出でず、かえって判断の曖昧を思わしめる。鉄斎はあれほどの墨色をもちながら、温情の境地にとどまって、決して媚態には堕していない。
 その着色も、墨に規制されている以上、現実の色、描写の色ではありえない。やはり判断的創造における感情の余裕のようなもの、墨のにじみと本質的には同じ性質のものであろう。だから鉄斎は代赭のみ、または原三色を多くでぬ程度ですませている。同時にあの清純で華やかな色彩は、あえて現実に似た色調を出そうと苦労しないこの無償性から生まれたとも考えられる。そうした立場でありながら、その作品のあてやかな色調は、南画家はもちろん、一般日本画家中にもその比を見ないのである。あの『蓬莱仙境図』…の浅絳の山林の色、多くの桃源の絵の谷間の桃の色など、いまだに私の網膜の上に残っているような気がする。私はこの展覧会を見てすぐ旅に出て車窓から桃林を眺めたが、その桃の色はついに鉄斎のそれに及ばぬような気がしきりにした。…
 また私が興味深く思ったのは、その画中人物の顔が実に多様であって、しかもいずれも一癖ありげな、どこか肚の太いような風貌をしていることであった。これは作者が決して単なる風流人などという狭い心境の人でなかったことを物語るように感じられた。…絶筆の『栄啓期騎牛図』にしても、この老人は童子に琴をもたせ、牛に乗ったりしているが、その体躯は牛を押しつぶすかと思うばかり堂々としており、その鋭い恐ろしい顔つきは、私には晩年のトルストイそのままに見えた。こういう顔は、よほど気性の激しい人でなければ描きえないのであろう。日本人の描いた顔で、これほど深味のある恐ろしさの現れているものを私は知らないのである。内的生活の充実を物語るような顔のかける画人の少ない日本画壇において、これは珍重すべき特色であろう。…(一九三五年九月、「コギト」)

―「富岡鉄斎展を見て」(『事実と創作』講談社1978年所収)から抜粋


…芸術の世界においては、美しいものが美しいものを、新しいものが新しいものを生み出すわけではない。その逆のほうが多いであろう。鉄斎は古風な人として最も清新な絵画を創造した。明治のような歴史の転換期には、伝統を墨守した時代錯誤的な芸術家だけが創造的でありえたとする逆説は、だから鉄斎に関しては恐らく適切でない。…中江兆民の漢文、夏目漱石の漢詩、これらは伝統的な媒体のうちにとどまりながら新生命を開いたものであった。江戸時代にはこのような清新な作品はありえなかったのであり、中国人もこれを讃美する。鉄斎の友、内藤、狩野、両博士の中国文化、文学への読みの深さは、江戸儒学の流れを汲み湯島聖堂にこもった守旧派儒者たちの及ぶところではなかった。明治の変革が正当であったか、軽薄であったかはしばらくおき、ここに改まった空気が敏感な知識人に鋭い刺激を与え、その思想と感情の強度をたかめたことは間違いがない。そのことが激動する社会での主体性の堅持を困難にした面はたしかにあったが、これを乗り越えて成功した場合、かえって巨大な達成がそこにありえたのである。徳川期に鴎外、漱石、南方熊楠、柳田国男の存在が可能だったであろうか。鉄斎もまたこの巨人群の一人であって、…彼は古い世界に毅然として自立しえただけに、新時代にいささかもすねるそぶりはなく、誠実に生きえたのである。彼の絵画に見られる自由の心境、これと相即する独創的な技術、これが時代錯誤的などであろうはずがない。
 日本絵画は、大和絵が唐画の影響下に生まれた昔から、常に中国絵画に学んできたが、一般にこれを淡白可憐にし、あるいは脱俗の名において茶がかってひねこびさせた。日本南画もこのおおよその傾向を免れていないのではないか。愛するものを讃美するために他をおとしめる陋を知らぬではないが、率直に私見を言えば、大雅は恐らく中国にもない自由の面白さを出しているが、純粋すぎて豪気に乏しく、玉堂は陶器の肌を思わせて清楚だが、美少女の容貌のごとく、どこか浅い。ひとり鉄斎は複雑にして直截、重く美しい。
 内藤湖南は、千五百年に及ぶ長い中国絵画の歴史は、結局南画というものを大成するために進み来たりつつあったのだと言った。私はこの大胆な発言にならって、巨勢金岡以来日本絵画の伝統は、その最後の巨匠として、また中国の同時代人を凌駕しえた最初の日本人としての富岡鉄斎の芸術を大成せしめるためにあったのではないか、と言いたい気持ちを押さえることができない。

―「鉄斎の芸術」(『文人畫粋編20富岡鐵齋』中央公論社1974年所収)から抜粋


 

B.C.Binning ―B・C・ビニング―

 西洋人であるからといって、私は鉄斎の作品を西洋の作品と比較するつもりではない。鉄斎がルノワールのようだ、ルオーまたはゴッホのようだという話は、何度も読んだり聞いたりしたことがある。しかもそれは、奇妙なことに、ほとんどいつも日本の批評家たちのいうことであった。西洋人の画家と比較することで鉄斎という画家の偉大さが決まるかのように、しかしここで一言だけいわせてもらいたいと思うのは、鉄斎は、西洋または日本の芸術家の誰のようでもないということである。どうしてそんなことがあり得ようか。その偉大さも、独創性も唯一性も、全くその人独得のものではないか。もし鉄斎が誰かのようであるとすれば、鉄斎のようでしかないだろう。鉄斎は鉄斎である。矢代幸雄教授の「日本美術二千年」は、同じ事をもっと巧みに語っている。
「鉄斎の独創的な様式は、従来の墨絵の規則を無視している。芸術家の独立という近代的な態度が、その自由と独創性を生んだのである。鉄斎とは、異常な現象であった。絵画が文学的且教訓的であるべきだという伝統的な信念を抱きながら、しかもその制作においては個性的であり、近代の指導的な芸術家の一人となっている」と。矢代教授が二千年の日本美術を叙述してその本の最後に、鉄斎の名まえと作品を置くのが適当だと判断したということにも、意味があるだろうと私は考える。
 早くから鉄斎の真価を認めた坂本光浄師がすぐれた芸術愛好家の眼をもって、清荒神清澄寺にこの芸術家の傑作を集めだしてから、今では四十年以上になる。その炯眼と智慧が誰の眼にもはっきりしてきたのは、ここ数年以来のことにすぎない。坂本師はその蒐集を、日本の皆さんにも、西洋のわれわれにも、展示するために、全く寛大であり、疲れを知らぬ努力をつづけてきた。そのために今ではわれわれも、鉄斎の人としての、芸術家としての、また学者としての巨大な姿を知るようになった。偉大なヒューマニストとしての鉄斎は、その感受性と理解力とを以って、実に東洋と西洋を包摂していたのである。しかし話はそこで終らない。なぜなら鉄斎はもっと測り知れないほど高く、評価されていてしかるべきだったろうと思われるからである。そうでなかったのは、鉄斎自身のどんな弱点によるのでもなく、その後の芸術家たちの盲目さによるだろう。実に鉄斎は道路標識のように二千年の偉大な伝統の持続を維持するために日本の新しい芸術がとらなければならないだろう方向を指示していた。ところがその後の芸術家たちは、鉄斎と二〇世紀には背を向けて、日本画の新古典主義をつくりあげ、活動的な新興日本を少しも表現しようとはしなかった。もちろん何人かは、――そして今では多くの画家たちが二〇世紀を認めてはいる。しかしそれは、誤解された西洋の近代美術を模倣するために、生得の資質と伝統を捨て去ることであった。もしそういう画家たちが鉄斎を正しく理解してさえいたら、日本の近代美術は、今どれほどちがったものになり、また思うに、どれほど意味深いものになっていたことであろう。おそらくは、おそまきながら鉄斎を評価することによって、近代日本のほんとうの表現が、今後現れることになるのかもしれない。現に私は地平線に一条の光の強くなりつつあるのを認めるが、そのことについては後に触れたいと思う。

 このような私の想像は、もちろん純粋にアカデミックなものにすぎないかもしれない。日本の美術に今日おこりつつあることには、しかるべき理由もあるにちがいないし、おそらくそれを正当化する理由さえあるのかもしれない、しかしそれにも拘らず私には、鉄斎の位置を、西洋の近代美術に占めるセザンヌの位置に比べたいという考えがある。繰返していうが、二人の芸術家の作品を比較しようというのではない。私に興味があるのは、この二人に共通の多くのものがあるということ、またセザンヌの場合には、まさにその共通のものが西洋美術の歴史の転換点をつくりだすことになったのに比べて、鉄斎の役割は今まで看過されてきたということである。別の言葉でいえば、セザンヌも、鉄斎も、それぞれの伝統のなかで、積極的な新しい可能性に向う道を指示していた。二人がちがうのは、セザンヌには後継者があり、鉄斎にはなかった、ということである。

 セザンヌと鉄斎の次のような平行関係を指摘すれば、このような私の言分も考慮に値するということになるかもしれない。ポール・セザンヌは一八三九年に生れて、一九〇六年に死んだ。富岡鉄斎の生涯はこれより三年早くはじまり、セザンヌの死に後れること十八年で終った。二人共その考えにおいても、また様式においても、完全に独立独歩であり、独創的であった。二人は、また著しく似た目的を抱いていた。矢代教授が鉄斎についていったことは、そのままセザンヌにもあてはまる。すなわち芸術への伝統的な信念をもちしかも同時に個性的、近代的な態度をとったということ。かくして二人の天才は、それぞれ独立に、ほとんど孤立して同じ位置に、しかし地球の反対側に、生きていたということができるだろう。彼らはその一方の足で抜き難く過去を踏まえ、他方の足で確かに未来を踏まえていた。それぞれの生涯は、巨大な歴史的変化に橋をかけるものであった。周囲の若い芸術家たちに、行くべき道を示した二人の天才が、そのことを強く意識していたであろうことに、疑の余地はない。マチスもピカソもブラックも、セザンヌに負うところをみずから認めている。全くもしセザンヌの画業に潜在していた教訓がなかったら、ピカソとブラックが立体主義を発見することができたかどうか、極めて疑わしい。立体主義とは、形の新しいアルファベットであり、西洋の近代美術を理解するための基礎である。さればセザンヌを「近代美術の父」と呼ぶことには何の不思議もないのである。
 しかし鉄斎についてはどうか。鉄斎は息子たちをもたなかった父だろうか。普通の西洋人からみれば、そうとしかみえないかもしれない。われわれは、一方ではニューヨークから東京へ直輸入された最新の流行に圧倒され、他方では、今なお忠実な少数の人々が、過去の断片を焼きなおして新古典主義のテンプラにしたてようとしているのをみる。しかしもっと注意深く観察すれば、先にも触れた曙光を地平線に認めることができるかもしれない、――近代日本のほんとうの表現という曙光、私が考えているのは、実に活気があり、実に日本的でもある画家たちの、小さいが育ちつつあるグループのことである。彼らは、西洋では「抽象書家」または「近代墨絵画家」と呼ばれ、日本では「墨人会」と呼ばれている。彼らを日本美術の偉大な伝統のほんとうの後継者とみなす人々の数は、日本の内外にふえようとしている。他の芸術家たちは鉄斎を見なかったが、彼らは鉄斎を見て理解したのだ。グループとしては、彼らが鉄斎の正しい跡つぎであろう。鉄斎もまた偉大な画家であるばかりでなく日本の新しい美術の父であるという二重の名誉を担うことになるのかもしれない。

―「今日の日本絵画に対する提案としての鉄斎」(『画聖鉄斎遺墨名作集』石橋美術館1966年所収・加藤周一訳)全


 

小高根太郎

…八〇歳代に至って、鉄斎は化けて龍になった。心手一体、自在無碍、端倪すべからずである。七〇歳代以前にも数多くの傑作があるが、鉄斎は鉄斎自身に成り切り、その芸術が爛熟の境地に達したのは、やはり八〇歳代の晩期である。この時期の前半には絢爛豪華な絹本着色画が多いが、後半には紙本淡彩画と水墨画が多い。また、紙本に岩絵の具を大胆に塗抹して、まるで油絵のように濃厚な趣のもの、あるいは筆の代わりに墨の棒を使って面白い線の効果を上げたものがある。彼の筆は篆書や隷書のように重厚で勁気を秘めている。岩や山の立体性は執拗なまでに追求されている。好んでジグザグ構図を用いるが、それは空間の奥深さを表すとともに、画面の緊迫感を強めるのに、著しい効果がある。鉄斎は生まれつき、優れた色彩感覚を賦与されており、若い時から色を使うのが上手だったが、晩年にはそれがますます冴え切った。渋い色調のものも、華やかな色調のものも、うっとりと人を酔わせるほどに美しい。墨一色のものも、その墨色は透明に澄みわたっている。墨に五彩ありといわれているが、鉄斎の水墨山水においては、真っ黒な中に色が感じられるから不思議である。…
 全体として晩期の作品には力と生命が燃えたぎり、デモーニッシュな天才の精神と気魄が沸騰していて、圧倒的な感銘を与えられる。そこにはセザンヌやゴッホのような近代西欧の巨匠と何か相通じるものさえ感じられる。クルト・グラーゼルやブルーノ・タウト等、多くの西洋人が、鉄斎に魅惑されるのはその点である。鉄斎は、彼と同じ時代にセザンヌやゴッホが生きていたことを知らなかったし、彼等の作品をみたこともないのだが、ひたむきにある目標を追求する天才たちの精神は、伝統、国土、人種の相違をこえて、どこか相通ずる一点を共有していたのである。…

―「富岡鉄斎・その人と芸術」(『日本の名画3富岡鉄斎』中央公論社1979年所収)から抜粋


 

吉田秀和

「鉄斎展」をみてきた。…日本橋三越の七階の一隅に設けられた会場をぎっしり埋めた作品にとりかこまれた時の、私の気持ちは、ちょっと書き表しようがない。
 ここではじめて、今まで求めて求めて来た明治以降今日までの日本の芸術の中で、掛け値なし、「大芸術」と呼ぶにふさわしいものにぶつかったという手ごたえ。
 鉄斎を語る人たちは、専門家も好事家も、口を揃えて、彼の画業では八十歳以後が格段の充実をみせ、最も高いところに達したというらしい。多分、その通りなのだろう。しかし、私のように、今度はじめて、全生涯にわたる作品の百点とじっくり顔をあわせる機会をもったものにとっては、八十歳になる前から、すぐれた作品――しかも、ほかの画家ではめったにお目にかかれないほど傑出した作品が幾つもあるので、とてもそんなことは、いえない。会場には、一八六六年、三十一歳の時の筆になるものだという、《藤娘図》という、明らかに大津絵の流れに連なる美人絵があったけれど、それでさえ、淡墨で襟元から袖、裾と流れるように形づくられたキモノをとってみても、すでにして、ほかの大津絵はもちろん、かつて誰の絵にも感じなかったリズムの快さ、清らかさをもつ旋律がある。類似の意想は数えきれないほどあるといってよい。「類型的な」意匠によりながらも、そこに、余人にない流れがあるのである。それは、音楽家――たとえばモーツァルトとかマーラーとか――の中にも、似たようなものはいくらでもあるのに、結局、その人にしかなく、その人の作品の旗印と呼んでもいいような旋律を書いた人がいたのと同じことである。モーツァルトの若いころのディヴェルティメントやセレナーデを彩る旋律、マーラーの《若い日の歌曲集》の中で躍動したり溜息をついたりしているあの旋律たち。ああいうものは、ほかの音楽家の作品にないのはいうまでもないが、当のモーツァルトやマーラーの、後年の傑作たちの中にも、捜してもみつからなくなってしまった。しかも、モーツァルトやマーラーは、後年の名作と「若書き」と、その両方を通して、存在しているばかりか、その両方を通してはじめてモーツァルトでありマーラーであることになるのだ。
 鉄斎は、こういう人たちと肩を並べて論ずるに足る芸術家だった。「やっぱり、いたのだ!」。私の喜びは大きかった。
 もちろん、これまでも、私は鉄斎の絵をみたことがないというのではなかった。しかし、振りかえってみると、私が持ったのは主として本を通じて――つまり複製を通じてみた鉄斎だった。また、たとえ本物でも、一度にみた作品の数は、一枚とか二枚とか、ごくわずかだった。正直いうと、それもはっきり覚えてはいないのである。
 実物を、一度に、たくさんみたのでないと、わからないものがあるのである。いや、わからないといえば、一度みただけでは、もちろん、十分ではない。ただ、「この人が並はずれた巨人だった」という確信だけは、この一回で、私には十分だった。
 どうして、今まで複製ではこういう感じが得られなかったのか。
 この展覧会をみたあと、重くて大きなカタログに載った解説…のほか、井上靖さんや中国の学者の文章を読んでみたが、鉄斎の偉大を理解する上での具体的な指摘はあんまりなかった。小林秀雄にも鉄斎についての短い文章が幾つかあったのを思い出して、読みかえしてみたが、これも、すばらしい名文ではあっても、私の求めているものにはぶつからない。
「仕方がない。やっぱり自分でみて、自分で考えるほかないのだ。そうなると、あるところまでゆくのに少なくとも十年はかかるだろうが、それまで生きていられるかしら?」と考えた。
 ところで、写真と実物の違いだが、その中でひとつ、私にとって、鉄斎を解く鍵の一つとなるだろうものは、彼の絵の墨の色の独特な点である。彼の絵のほとんど全部は墨絵であるが、その墨の絵が尋常でない。いや、私は墨絵について一向に不案内な人間だから、一口にそうとだけいっていいかどうか。むしろ、こういおう。
「鉄斎では、まず、墨の色に非常な魅力がある」と。それは、文人画の常として、濃厚強烈なものから淡白清新なものまで、さまざまに使いわけられているのだが、その多様性の使いわけと分配、濃淡の墨色の組み合わせと相互間の均衡の在り方が、一見、奔放自在なようでいて、しばらくその前に立っていると、次第に巧緻綿密に工夫されているようにも見えてくるのである。
 この自由で即興的、興の赴くままに筆を握っているような趣と、綿密巧緻な筆のいろいろな使いわけの共存。
 鉄斎の絵は、ちょっとみて、すぐ人の心を把えずにおかない魅力――官能的、感覚的といってよい魅力――を放射すると同時に、どの細部も一分の隙もないくらい充実している上に、全体としては重厚といってよい、ゆるぎのない構成力の遍在の、疑いようのない、そうしてずっしりと腹にひびくような実感を与えながら、みるものの目の前に立っているのである。
 この特質は、墨色の変化、筆の使い方のこまかな変化の認知を通じて、私たちに伝わってくるのだから、それが十分正確に再現できない写真印刷による複製を見たのでは、よくわからないのは当たり前である。しかし、世の中にはかなりの程度まで、わかる複製もあるし、また、一度、実物をみて目の訓練を経たあとだと、複製を見て、相当正確に思い出すことは不可能ではない。
 鉄斎を「知る」には、まず、このさまざまの墨の性質とその使い方についての理解が不可欠である。それについて語らない鉄斎論は不十分だし、特に私にはほとんど無価値に等しい。
 もうひとつ、だが、実物をみて、私を驚かせたものがある。それは、この濃淡さまざまの墨の色――そこから放射されてくる何ともいえない生気を帯びた艶、磨かれきった光の具合――の上に鉄斎が施した、ほかの「色」の配合である。鉄斎は、日本画伝統の群青とか緑青とか、その他、何というのか、赤、褐系統の幾通りかの色彩を、すごく巧妙に、そうして、時に大胆に――賦与していて、それがまた、驚くべき効果を上げているわけだが、(これは、私がわざわざ書くまでもなく、みんないってきたことだ)、その中で、私が今度はじめてはっきり知ったのは、幾つかの絵では、その墨の色の中に、淡い黒と重なりあうようにして、これまた淡い「青」ないし「青灰色」が加わっている点である。
 …だが、私はこれまで、鉄斎で、いかに墨の黒が青に移ってゆくか、その移りゆきの微妙さと、それから黒にぼっと青がかかっていることが、どんなに彼の絵に神韻縹渺とした趣を与えるかといったことについて、一言半句読んだ覚えがないので、驚くと同時に、強い感銘をうけた。(もっとも、私は鉄斎についてのモノグラフィーは何一つ読んだことがないのだから、これは要するに私の不勉強のせいでしかないのかもしれない。)
 この青に気づくと、つぎは絵によっては茶色がかった灰色、緑を帯びた灰色のあるのも目に入るし、墨の塗り方にも、筆だけでなく、板片か何かで塗ったのもあるように見えてくる。
 …会場には、新しく気に入った墨が手に入ったのを喜んで描いた絵というのがあったが、それは彼――に限らず、水墨画の人――にとっては当然の話だろう。ただ、その中で、彼の墨の色はいかにも良い。惚れ惚れとしてしまう。と同時に、これは、ただその使った墨そのものの品質というだけでなく、その美しさをつくり出す上で、彼の工夫考案が加わっているのであって、ただ素材がいいというのとはまるで違う話だ。
 私は芸術について考える時、この基本にある素材――美術の世界の人のマチエールというのは、これを指すのだろうが――の質、その素材そのもののもつ性質の重要さについて、前よりもずっと気がつくようになった。特に、鉄斎とかピカソとか、セザンヌとか、その芸術家が大きな存在になればなるほど、このマチエールについての配慮、その使い方、生かし方についての、知恵というか天分というかの重大なことが、わかって来たように、思う。りんごの絵は、セザンヌでなくとも、大勢の画家が描いてきたが、その絵に、りんごはもちろん、それが置かれている机とか皿とかうしろの壁とかを描いている絵の具をカンヴァスにおいてゆくおき方、ブラッシの使い方(絵の具の塗り方)それ自体が、すでに、画面を構成する最も重要な成分になっているといった、そういう絵の描き方まで工夫し、独創し、つき進んでいった人は、セザンヌ以前にはなく、セザンヌのあとは、みな、少なくとも一度セザンヌから学んで出発したのだった。中には、一生、その模倣を出ない人もいた。
 絵とは、本当は、そういうものなのだ。鉄斎やピカソやセザンヌは、そう私に教えてくれた。…

―「絵と音楽とマチエール」(『時の流れのなかで』中央公論新社2000年所収)から抜粋


…私は先月鉄斎展で、近代日本にも大芸術家のいたのにはじめて目を開かされたばかりだ。鉄斎も大地をゆり動かす絵を描いた。これを「志の芸術」と呼ぶなら、それも結構。ただし私はもっと精緻的確な分析を求めたい。鉄斎こそはそのままでジョットにもセザンヌ、ピカソにも通じる人で、この人たちはみなどこからとも知れぬ力にかられて天地のすべてに貫く芸術を追求したのだった。…

―「サントリーホールの階段」(『新・音楽展望』朝日新聞社1991年所収)から抜粋



 

寺田 透

…鉄斎もまたかれのうちの志、気、想を現実化する方法として絵を考え、絵を即自絶対目的とは見ていなかった。専門画家が生きる場所とは違うところで自分は生きるという自覚がかれにはあったと言える。しかもそういうかれの「モチーフ」は、和漢の典籍によって、支援され、立証されるものであり、セザンヌの場合より一層複雑な構造で、印象派的科学主義から遠ざかっていたと言わなければならぬ。…
…まず文字があり、それに触発される画想があって絵が出来るのだとすると、その絵には辞みようのない内から外への、展開的様式がみとめられるはずである。それが通例専門画家の作風をなしていて、鉄斎でも七十歳代までの絵は多くそういう傾向を持ち、画中に展開する粗散空濶な空間として、われわれには印象される。
 しかし、「九袠」(八十一歳以上九十までの年令をいい、『赤壁四面図』などの落款のうちに見える語)に達した鉄斎の絵は、この洒脱にも散漫にも通ずる傾向を拭い去っていて、その代りそこになんとしてでも絵をまとめあげ、余人には踏み入れない画境を作ろうとする執念の磅礴するのが感ぜられるようになる。かれのえがく僊境が、たしかにこの世のどこかに(それが鉄斎の心裡眼前にすぎなくても)あるらしい確実な存在感を持ち、かたがた、冷たく人を撥ねつけるようなことはなくて、暖く、濃く、親しめるものなのに、われわれがそこへ行くための道は絶たれていると感じさせるのが、それと相応ずると言えよう。画中に岩山がくれの隘路は通じているが、それは画中の人物だけが通れる道で、われわれにはその道を行くための案内はつけられていない。画中の人物も、仙人たちはすでにその仙境に入りこみ、坐りこむか立話をしていて、大抵はかれらの薪水の用を弁ずる童子らが歩むだけと言っていいくらいである。
 この期のものに、童画のようにまどかに楽しい一方のものもまた見出せるのだが、今見た点に眼をとめれば、それは大雅の画境とまるで違うことが分る。大雅がその画中の世界にわれわれを鷹揚に晴々した気分で迎え入れるのに対して、鉄斎の仙境は、多く偏屈に、それを外から眺めるように出来ているのだ。
 それだけ鉄斎の世界は近代絵画風に出来ているとも言えるわけだが、五十三歳の頃『大雅軼事巻』をかいて、大雅に対する深甚な親しみを表現しえた鉄斎が、晩年の弟子の、…蔭軒本田成之に、「大雅は人格は高かったが学問をせなかったから進歩がなかった」と語ったというのが注意を惹く。
 私は儒者だというのは、私は学問をしているということであり、大雅との優劣はともかく、儒者である自分には進歩があるという自負をこの言葉は暗示していると見る他ない。
 本田蔭軒も、それを紹介している件りに、「文晁や崋山にも敬服してをられた。先生は祇園南海にしても山陽にしても凡て古人には一種の敬意を払はれてゐた。しかし先生も自分の得意の作が出来ると髯を掀って莞爾として笑ひ、古人と雖も敢て譲らずといふ襟度が見えた」と言っている。
 けして陰にこもった邪曲な競争心ではないが、強い競争心が鉄斎の内部深くに蟠っていて、それが単に僊境図ばかりでなく、種々の山中の景をも、えがくにつれていよいよ辿りつきがたい遠く深いものにしてしまったのではないかと思う。
 その筆致は内へ内へと廻りこむような動きを示し、中央部に道の通じた狭隘な世界を造る。救いは、僊境にいる人物たちの楽しげな、質朴な顔立ちを見せる様子であって、それがなかったら鉄斎作品はその親しみを半減させてしまっただろう。
 さきの、自分は世道人心のために絵を作るという言葉は、それを引いたとき省略があると言ったが、次のように続いていた。
「……しかし一度画にも志したからには、天下に名を成すだけの画は描くつもりじゃ――。画においても、己の趣味に徹すれば天下敵なしだ。」
 これにつけて正宗得三郎は、「翁はよく天下という言葉を使われた。豪気の風にきこえた」と評唱を加えているが、鉄斎の絵から感ぜられる一種兇悪なものも、この発想に連なるように思う。
 それは簡単に言えば、国粋主義者のパトスの色合いだろう。
 正宗が、鉄斎の仕事を「皇学と儒学との間に生まれた画業」と呼んだのは、正しく的を射ている。
 鉄斎は学者としてもけして単に狭義の儒者ではなく、儒学から出てその逸格として(すなわち出ながら内にあるものとして)成り立った文人画なるもののどれを鉄斎の画業に近づけてみても、鉄斎のうちにただ異質なものを見出させる結果に終るのはそのせいだろうと思う。

―「鉄斎の一つの見方」(『平凡社ギャラリー28鉄斎』平凡社1974年所収)から抜粋



 

加藤周一

 日本文人画最後の代表的作家。…晩年に至って、水墨と彩色のいずれにおいても独創的な様式を生み出し、近代日本の芸術家としても傑出する。梅原竜三郎は、将来の日本美術史が〈徳川期の宗達、光琳、乾山とそれから大雅と浮世絵の幾人かを経て、明治・大正の間には唯一人の鉄斎の名を止めるものとなるであろう〉といった。…
 絵は60歳以後、ことに80歳以後に妙味を加え、成熟して、独特の世界をつくり出した。…円熟した時期の画面の構成は、とりわけ風景画において、余白を残さず、近景から遠景へ重畳して隈なくかきこむことを特徴とする。その迫力は、洒脱の味からもっとも遠く、むしろ西洋の近代絵画に近い。…水墨の筆法は、薄い墨で山や水や樹木を描き、そこに濃い墨を加えて、律動感をつくり出す。また描写を離れて、抽象的表現主義的な効果のためにも用いられる。…水墨のこのような用法は、大雅にも、石濤にも、みられないわけではない。しかし鉄斎は、はるかに徹底して、水墨の抽象的表現主義を追求し、独創的な画面をつくった。また色彩家としても、中国日本の伝統的な画家のなかで際立つ。…近代日本において、油絵の影響を受けることもっとも少なかった鉄斎は、伝統的材料と手法とを駆使して、筆勢においても色感においても、西洋の油絵の傑作にもっとも近い画面をつくり出した。
 鉄斎の評価がきわめて高くなったのは、日本国内でも、国外でも、主として第2次大戦後である。梅原竜三郎や中川一政、美術史家ケーヒルJames Cahillや画家ビニングB.C.Binningは、鉄斎を世界美術史上の天才とし、しばしばセザンヌと比較した。作品は多く宝塚の清荒神清澄寺にあつめられ、鉄斎美術館が設けられている。…

―『平凡社大百科事典』(平凡社1985年)から抜粋


…つまり、徳川時代の文人画は、穏かに準備され、周到に培われた絵画的主観主義である。その意味では、室町時代の水墨画を継ぐと同時に、最後の偉大な文人画家、富岡鉄斎…の出現を可能にしたといえるだろう。
 鉄斎は日本の「文人画」最後の巨匠である。中国の古典によく通じ、書を能くする。水墨を描き、筆法、構図、画題は、大雅以来の伝統を継ぐ。しかし、鉄斎の画業はまた「文人画」の枠を大いに超える。彼の画は、時に淡彩を施したが、しばしば青緑、朱、青などの鮮やかな濃彩も用いた(『寿老人図』)。筆法は「気韻生動」の強い線を引くと共に、墨をぼかしてその明暗による色彩的効果を狙うこともある。効果は、抽象的表現主義を容易に聯想させる(『水墨清趣図』)。水墨における写実主義を雪舟が代表したとすれば、鉄斎は水墨における表現主義を代表するといえるだろう。風景を半鳥瞰的視点から描くのは「文人画」の伝統であるが、『聖者舟遊図』の視点は伝統を逸脱し、『古仏龕図』の下から見上げる構図は独特である。画題も多くは中国の詩文に採るが、写生の人物もあり、アイヌの熊祭もある。
 しかし、鉄斎においておどろくべきことは、ただ「文人画」の伝統の枠を超え得たことではない。さまざまな様式で、さまざまな対象を描いたことである。洋の東西を問わず、画家が自分自身の世界を発見する以前の、模索の時代にではなくて、大成した後の比較的短い時期に多くの様式を試み、そのすべてに成功したのは、先に鉄斎、後にピカソ Picasso 以外にはほとんどないだろう。
 しかし、鉄斎は決して新しい素材(油絵画)やその技法、あるいは題材(たとえば裸体)を採ろうとはしなかった。あくまでも江戸「文人画」以来の絹に墨と日本絵具で描き、ひたすら自分自身の世界を表現しようと努めることによって、北斎以後二〇世紀初めまでの日本の絵画の独創性と迫力とを証明したのである。彼は伝統的な手段を用い、それにも拘らずではなく、おそらくそれ故に、自由で大胆な表現に到達した。

―『加藤周一セレクション3日本美術の心とかたち』(平凡社2000年)から抜粋


 晩年の富岡鉄斎の仕事は、殊にその七〇歳以後に、いよいよ冴えわたってきた、――筆法の抽象的表現主義においても、省筆の写実の正確さにおいても、彩色の妙においても。
 たとえば「聚沙為塔図」(一九一七)。画面の中央に、小石を積んだ塔があり、塔の右手には薄墨の花樹、左手には濃い墨の画題と署名がある。塔をとりまいて、七人の子供が、あるいは立ち、あるいは膝をつき、両手を挙げて、塔を仰ぎ、奇跡の成就を讃歌するかのようである。子供たちの表情は、それぞれ異り、驚きのあまり呆然とした者も、手に花をもっていくらか考え深そうな者もいる。しかしそれぞれがその顔の表情と共に全身で、それぞれの感情を表現している、という点では、変らない。そこには、空飛ぶ米俵に驚く「信貴山縁起絵巻」の群衆にも通じる活気がある。その活気(あるいは動的表現)と子供たちが輪を作って集っている安定感(配置の静的表現)とのつり合いは、造型的に、完璧というべきだろう。
 彩色もまたこれに応じる。墨の濃淡による左右の対照については、すでに触れた。塔と河原の石は、緑の淡彩を主として、そこに子供たちの上着の濃く鮮かな色と金泥の模様を配する。手前の子供二人、立っている方は紺青、膝をつく方は朱、紺青の左隣は薔薇色、主の右隣はいくらか明るい青である。背景の三人は灰色と明るい茶褐色で、いちばん奥の子だけが朱に戻る。下から上へ(手前から奥へ)、濃彩で始め、いくらかの淡彩に移行し、再び濃彩で終る秩序は、実に鮮かである。朱は、手前と奥に強い色の塊りとして用いられているばかりでなく、また子供の靴と花に使われ、画面に点在してにぎやかな「アクセント」を作っている。その「アクセント」は、場面の感情に見事に適う。
 題材は、「聚沙為塔」であるから、賽の河原の子供たちが、小石を聚めて塔を作る話である。何度作ろうとしても地獄の鬼に壊される。地蔵の助けで、はじめて塔ができあがったというのが、この場面である。子供たちは驚いているばかりでなく、よろこんでいる。そのよろこびの内容は、いきなりの地蔵の介入ということではなく、彼ら自身の長い努力の末に地蔵が介入したということにちがいない。すなわちこの子供たちは、「無垢の童心」というような成人の想像とは係わりなく、経験を通じて自己の能力の限界を自覚したところの、その意味ですでに過去を負うところの、したがって決して「幼稚」ではない人間にほかならず、さればこそ彼らの顔には考え深そうな表情もあらわれ得るのだろうと、察せられる。
 このような題材が時代を反映していないことは、いうまでもない。鉄斎は、一九一七年、一〇月革命の年に、こういう絵を描いていた。セザンヌが、パリ・コムミューンの最中に、りんごの絵を描いていたように。ヴィトゲンシュタインが、第一次大戦の塹壕のなかで、『論理哲学要綱』の問題を考え、「砲弾のような些末な事柄に注意を払っている暇はない」と手紙に書いていたように。鉄斎は、一〇月革命のような、――いや、明治維新以後の日本の「近代化過程」のような、些末な事柄に注意を払っている暇はない、と呟いていたのかもしれない。
 明治の芸術家の時代錯誤は他にもあった。たとえば鉄斎よりも一世代前の黙阿弥や、一世代後の露伴も、時代錯誤のなかで彼らの仕事を完成した。しかし黙阿弥や露伴の仕事は、過去の総決算であって、未来の準備ではなかった。鉄斎とセザンヌは、それぞれの絵画的伝統に深く根ざしながら、同時にその先へ向ったのである。一方は立体主義へ、他方は抽象的表現主義へ。彼らの時代錯誤は、創造的であった。
 かくして鉄斎晩年の画業は、題材と「マティエール」における保守主義が絵画的革命すなわち面と線と色彩における新しい「ヴィジョン」の条件ではないか、という考えに、私を誘う。しかしここでは、その詳細にたち入ることができない。その代わりに私が一言しておきたいと思うのは、「聚沙為塔」の画面に漂う一種の微笑み、または「ヒューモア」である。明治以後の日本社会は、まことに、くそ真面目であった。しかし成熟した社会と文化は、微妙で洗練された「ヒューモア」を生むだろう。その意味でも私は鉄斎の時代錯誤に共感するのである。

―「偉大な時代錯誤」(『絵のなかの女たち』南想社1985年所収)から抜粋


…富岡鉄斎は、文人画の伝統をまもって、西洋美術の影響をほとんど受けなかった。生涯にわたって成熟しつづけたその書画の世界の豊富(題材の面でも、造型的な面でも)・独創性・迫力に、油絵の技術を学んで比敵し得た芸術家は、おそらく一人もいなかった。…

―『日本文学史序説』(筑摩書房1980年)から抜粋



 

杉本秀太郎

…鉄斎は文字で読み知るだけでは飽き足りず、知り分けたことを形にあらわし、形に色をほどこして心の渇きを医した。そういう人の描いた絵をまた文字に置き換えてみたとて何になろうか。それならいっそ鉄斎を臨摹 していたほうがためになるのでは。それに飽き足りなくなったら、自分で形と色を見きわめ、心の響きを絵に変えることをしたほうが、さらにためになるのでは。かような内心のささやきが聞こえる限り、鉄斎の絵を文字で描写するようなまねはしにくくなる。
 この人はみずから画賛をしるすのを常としていた。賛文には、画題を得た典籍、古書の一節を書き写す(なかには随分な俗本、雑書もある)。わしが何を思うてこの絵を物したか、そこをまず承知した上で、わしの絵は見てもらいたい、と鉄斎は口ぐせのように人に告げていた。絵を見る人も振り出しからはじめてくれということになる。そうまで鉄斎が願っていたことなら、どうしても賛文を読解して、しかるのちに絵をながめ、また時には賛文を振り返りもして、文字と絵のあいだを往復することをしなくては申訳がない。
 私がそう思うということが言いたいのではない。鉄斎が好きなら、そう思わざるを得ぬところまで鉄斎が引っ張ってゆく。だから賛文の難関を少しでも早く突破したいと願う人は少なくない。…
 曾与の像を見て、なんと美しい絵かと驚かない人があるだろうか。おそよは年の頃三十歳前後とおぼしい。婚期を逸してなお梅の花のような馥郁たる美婦である。泥酔の父親は、半裸のまま野道にころがり、嘔吐をこらえて身をよじり、うつ伏せ加減になって、左の手を口に当てながら、右手の指を大きな徳利のくびにしっかり絡ませている。このあさましい父親の背から下半身に、家から持ち出した蚊帳をかけ直しているおそよの、面高な、白くふくよかな顔。かような親の介抱に心からの生き甲斐をおぼえている娘の目元、口元のやさしい風情。無造作に束ねた黒髪。耳たぶにかかる鬢のほつれ。たすき掛けの袖口に見えている両腕の肉付き。裾から出ている白いふくらはぎのつややかさ。鉄斎はなかなかどうして、隅には置けぬ人である。そして、ほとんど一筆描きで父親の体躯の特徴をつかみ出している眼力と筆致。徳利に絡まる指の恰好、もう一本の徳利ともみえ、あるいは海西郡の産物たる蓮根を暗に示しているともみえる右腕の筋肉の付き具合、泥酔者の表情。ころがっているこの男の腰から爪先にとつながる体形は、おそよがふんわりと打ちかけた蚊帳の下に十分に見て取ることができる。路傍いっぱいにまで水のたまっている沼(鳥ヶ池か)のありさまは、これが大夕立後の夜半であることを告げている。むこうの竹やぶには、豪雨に打たれて傾いたままの竹が見える。さぞかしむし暑く、蚊も多かっただろう。おそよの取り落した白い団扇が、睡蓮の浮き葉とぴったり同じ水面に浮いているところなど、これまた目と手のたしかな一瞬の協同無しには描かれない。
 いや、もっと驚かされることがある。おそよの白い顔と沼に落ちた白い団扇は、画面の上下で相呼応している。父親の間抜けた土気色の泥酔顔は、この丸くて白いふたつを垂直に結ぶ線の中間点に、わずかながら横に逸れた位置に配されている。徳利がおそよの顔ならびに団扇と鋭角の三角形を形成するべく配置され、まずおそよの顔に、次いで徳利、団扇に、人の目を引きつけようとする構図の妙こそ、まさにおそよに寄せる鉄斎の好意のあらわれである。この孝女は、父親のこんな顔を人に見られたくはなかっただろう。鉄斎はやむを得ずに、おそよが見世物にされたくはないと思っている親の顔を描くほかはなかった。ちゃんと描いておきはするが、絵を見る人の目がせいぜいこの顔に注がれないように、鉄斎は心配りを欠かさなかった。
 かように見てみれば、「孝女曾与像」の画面がいかに美しく、そして心をゆさぶる内容を秘めていたか、察していただけるかもしれない。たしかに鉄斎は曾与を借りて孝行を絵解きしている。だが、それだけではない。絵を描く快楽に心身を委ねきっている鉄斎がすばらしい。いつでも、どのような画題を採り上げようと、たとえ先人の絵を臨摹 していても、いつでも鉄斎はこういう人である。…
 鉄斎の山水画は、見ながら深呼吸をしていると、こちらも次第に画中に溶け入るような快い陶酔にさそわれるのをつねとする。しかし、いまこの室内にかかっていて最晩年の大作とされる「詩経天保九如章図」には、快い気分をさそうところが少しもないのはどうしたことか。くずれた木偶のような山容、温泉の湯けむりのような雲畑、黒く塗りつぶされた隠者、にわかにあらわれた渓流と不自然な橋、橋を渡る軽そうな人物……鉄斎らしい品位は画面から迫ってこない。
「暮山帰樵」と題された扇面掛幅があった。八十六歳の作。賛文はしるされていない。しかし扇面上の題詞には「幽渓帰樵」とある。少々訝かしいが、描かれているのは、金色の光のたばとなって水平に射しこむ夕陽に照らし出された山間の景。折しも家路をいそぐひとりの木樵りが谷に渡された危なかしい藤づるの橋を降りてくる。杉、ひば、その他の雑木の枝葉が混合し交錯する空間に射しこんだ光が音立てて炸裂し、すでに夕やみに侵された林間に、明暗の縞を浮かび立たせている。それは夢まぼろしにも似たただ一瞬の景である。鉄斎は一気息のうちに自然を解体し、生あるものの命の精髄を析出し、この精神の働きにふさわしいスピードで、解体された自然の局面、析出されたいのちの精髄の躍動を写し取ったかに見える。
 ガラスケースのなかにてのひらに収まるほどの小さな画帖が展示されていた。題して「漱老謔墨帖」。鉄斎の自跋にいう、「ある夕、たらふく飯を食って太鼓腹になった。そこで燈下に、この小冊をなぐり描きをして、夜半にいたって寝た。翌朝、童子が一言跋を書いて下さいと乞うたが、拒絶してこう言った、これは私が描いたのではない。粥飯の気が溢れて、この幻の象/かたち/となったにすぎぬ。引き裂いてもかまわない、と」(「鉄斎研究」第十七号所収、「大意」)。すべて二十一図。どれもみな典故にもとづく中華の風俗人物。この一夜の豊かに氾濫する弄筆のあとを見ていると、ヴァレリーの戯語が思い出される。「精神の経済学では、浪費家が太り、倹約家は細る」。まだら文のついでに言えば、もしもユゴーの『レ・ミゼラブル』に鉄斎が挿絵をほどこすことがあったとすれば、さぞかし見応えのあるものが残されただろうに。

―「鉄斎展」(『まだら文』新潮社1999年所収)から抜粋


 桃の花をえがいた最も美しい絵は、と問われたら、それは鉄斎の「武陵桃源仙境図」とためらわずに答えたい。
 去る十二月十七日、京都国立博物館に行って、ただ一室の小規模なものながら鉄斎生誕百五十年の記念展を見た。…
 二十点余りの選りすぐった作品のなかに、明治三十七年(一九〇四)数え年六十九歳の鉄斎がえがいた六曲一双の大屏風「武陵桃源・蓬莱仙境図」があった。たとえ懲役十年、二十年を食らっても、なんとか盗み出して、一晩だけで結構、あの屏風をながめ飽かしたい。鉄斎も罪な人である。
 桃源郷へ脱け出る洞窟の透きとおった穴に魂魄を吸い取られて、私は呆けたような顔をして、ふらふらと屏風のまえを離れた。手すりに手を添え――まだそんな年齢でもないのに――階下へ降りると、呼びかける声がした。ついさっきまで雑談をしていた友人だった。私は独りで鉄斎を見たかったので、いま特別展をやってるね、と何気ない話にして、知らん顔で別れたのである。ところが、この相手は、彼もまた鉄斎を好むこと一通りでない人物。さっそく見に来たものと知れたが、いつの間にか女連れなのだ。それでは魂魄を絵に持っていかれる心配はない。桃源郷のこちら側にいる人の顔を見ているうちに人心地がついた。…

―「桃」(『花ごよみ』講談社1994年所収)から抜粋


 

本田成之

 私が老先生に親しく御指導を受けるやうになりましたのは漸く此の四五年以來に過ぎないのであります。併し御承知の通り老先生は非常に御親切なお方でありまして、飽く迄提撕してやらうと思はれたか其れは/\真劍でありまして時々猛烈に叱られたこともあり、兎に角ひどく熱心に激勵されました。それで私が眞面目にやらないとあの鋭い目で凝と見詰められたのであります。併し私は感覺が鈍いので其れ程痛切には思ひませんでした。たゞでは仲々やらぬと思はれてか先生はしば/\繪をかけば生活と云ふことも學校で講讀をやるよりはよくなる、『余は切に繪を畫くことをお勸めする』といふことを仰せられた。恐らく老先生は誰の繪でも高く賣れる者と思はれたらしく只でも貰ひ手の無いやうな繪のあることは御存知なかつたと見える。
 私が直接に先生の御指導を受けたのは右のやうに此の四五年間でありますけれども實は私は明治四十二年に京都へ參りまして此の京都大學の撰科へ這入りました。其の時に狩野先生、内藤先生等の御指導を受けまして厚顏しく色々なことを聞きに上つたのでありますが、其の時に今の鐵齋先生の御令息であります桃花(謙藏)先生にお目にかゝりました。私はもと/\繪は好きでありまして、子供の時分に岐阜の森半逸と云ふ人に少し手引を受けたことがあります。それ以來二十年捨てて居りましたが、さういふ縁故から繪といふことには餘り無關心では無かつたのであります。所が『京都には鐵齋先生といふ非常な學者であつて書も畫も立派である方が居られるから其中何か一枚頼んで呉れ』といふことを國の方から云つて來たので初めて先生の偉いことを知つたのでありますが偶然或る所で老先生の繪を見た、所が如何にも自分が畫かねばならん繪であつたやうに思ひ急にすきになつて何とかして學びたいと思ひました。けれども其の時分私も高等學校の卒業試驗を受けると云ふので大變忙しい時分でありました。又御承知の通り其當時桃花先生の筆で玄關の所に「老父は一切面會せぬ」とありましたので強ひて面會を願つたこともありませぬ。併し間接に桃花先生を通して指導を受けたやうなことはありました。それはどういふことであるかといひますと其の時分に私に鐵齋先生が繪を畫くと云ふなら先づ之を讀めといふことであると云つて石濤和尚の畫語録を貸して下さつた。私は家で早速寫しましたが却々其の時分では一寸わかりかねる難しいもので、それを讀んでも急に繪が上手になる譯には行かなかつた。――鐵齋先生の話で無く自分の話になりますけれども――其の時分には王建章の畫冊といふものが出來まして其れを内藤先生から借りまして其の渇筆の山水を頻りと練習して半折四五枚も畫き老先生に見て貰ひました。それから桃花先生から老先生に見せて下さつたらしいのですが老先生のお詞として兎に角花卉をもう少しやるがよからう粉本は幾らでも貸すといふことでありまして陳道復の花鳥眞蹟といふ東京の或る人の所藏品の寫眞影印本を頂戴しましたが、其の當時迚も私共の手に合ふものでは無かつた。併し、いつでも「繪のことならば自分が親父にきいて粉本も幾らでも貸すしドン/\やるがよい」といふやうに始終奬めて下さつた。桃花先生は學問上でも非常に私に對し陰に陽に激勵されまして色々なものを貸して下さつたり見せて下さつたり頂戴したり種々奬勵的の言葉を受けました。其の時分のことを思ひますと私はもう少しえらくなつて居る筈ですが、未だ先生の恩を返すことが出來ません。兎に角先生には大變に恩になりました。
 それから私は一時大正六年伊勢へ行くことになりました。其の時に桃花先生は「ヤアお氣の毒なことで……」といはれた。私はみんなから榮轉々々といはれたのに獨り先生からさういふ言葉を頂戴しました。マア早速歸つて來るがよい、といふことでありましたが成る程直に厭になりまして三年ばかりで歸つて來ました。所が桃花先生は既に其前年の暮に道山に歸られまして、當時のことを色々考へますと涙の種であります。
 所が桃花先生が御逝去になりましてから其の藏書を整理することを頼まれまして――實は私の方から頼んだ形迹もありますが――丁度今の新築の前のお宅でしたから建の低い畫室でありました。其の丁度前に書庫があります。其の書庫に隔日か三日目に一返位上りますので其の度に老先生に拜謁も出來ますし又お描きになつて居られる有樣も能く見ることが出來るやうになりました。實に私は喜んだ。今迄さういふ機會を望んで居つたのですから、之を左傳流にいふと、其喜而後可知也とでも書くべき所であります。
 それから壽老人の畫像を書きまして先生に見せました所が先生が鋭い目で見られて、先生は繪を見る時には特別に鋭い目をせられるのですが、それから後ニツコリ笑はれまして、之は白描法といふ最も難しい描方である。君の繪は頭をツル/\にして鬚髯を一本殘らず櫛でといたやうだ、壽老人は今床屋から出たてと云ふやうだ。幾ら壽老人でも毎日剃りたての頭ばかりしては居まいと云つて小さい紙片を出されまして、私のを見ながら描かれ髯などは筆の極惡さうなのをクシャ/\にしてきたなくお描きになつた。結局先生一流の私なんかと段が違ふ一見薄汚ないやうな併し品位の高い力強い壽老人が出來上つた。そこで私は初めて得る所があつた。壽老人ばかりで無い詰り繪といふものは餘所行や剃立の頭ばかり書くので無くていつもあり得る所を掴む、それが必要だといふことであります。それから老先生の繪を見ますと、大抵どの繪を見ましても木でも山でも恰好のよいのばかりでは無い。人間の顏でも大抵餘り見よい顏ばかりでありませぬ。詰りそれが一種の先生の畫法で之は古い畫論にある經を畫いて變を描かずと云ふことでありますが、さういふことを吾々讀んで居つてもわからぬので、偶にしか無いやうなことしか描かぬ、普通に南畫と云つたら山はツル/\で草一本生えて居らぬ者を描いたり南畫に限らず人間はどこにも無ささうな美人を書いたのが多いが、老先生のお書きになる山水でも人物でも美醜相交り寧ろ野趣に富む所が多いのでありますが其れが如何にも親はしさを感ずるのであります。人間味とでも申すのでせう。
 其の時に感心したのは僅に紙片に私に見せる爲に一寸お書きになるのだから斯うザツに書いたらよささうですが決してさうで無い。初めに淡墨でお書きになつて念入りに最後に濃墨で以て書き上げられた。之は實に驚くべきことで、どんな簡單なものをお書きになつても極めて愼重な態度で書かれたのであります。色々繪をお描きになる所を拜見して居りますと――先生は愈々といふ場合には勿論疾風迅雷のやうに筆を動かされることがあります。けれども却々さう早くお書きにならぬ。どんなつまらんものをお書きになるにも前後左右を睨めて餘程躊躇してお書きになる。或る時斯ういふことがありました。夏でありまして、私が書庫へ上つて居るといふことは先生御存知ない、丁度私が書庫から見ると畫室が開放してある、じつと仕事をして居るやうな顏をしてのぞいて居る、甚だ質の惡いことでありますが、見ると中畫箋紙位の全紙に水墨の大幅をお書きになつて居る。どういふ風にお書きになるかと思つてじつと見て居りますと、先づ筆を筆洗でよくお洗ひになつて、それをダブツと墨におつけになつて、遠くではつきりわかりませんが、三つばかり黒い點をボタリ/\/\とお書きになる。之は却々面白いと思つて降りました。二階から見て居つては間に合わんと思つたのです。
 見て居りますと始め濃い墨を浸した奴を洗はず其のまゝお書きになつて濃くしたり淡くしたり、其の間約二時間半位になりまして全紙が殆んど薄黒く塗り潰されたのであります。それから女中が手傳つて檐側に乾して置かれる。先生のお側には必ず二人位女中が附いて居るのであります。それで乾かす間先生はゴロンと横になつて、それから書見をして居られる。此の畫は確か午前十時頃からお書きになりましたが夕方になつてもまだ出來上らなかつたのであります。其出來上りは拜見しませんぬでしたが其の後一月程立ちまして表裝も出來箱も出來ました。此の畫は大變お得意の作でありまして、特に私を呼び寄せられまして、「これだけの墨色は一寸出ん」、と云つて斯う長い鬚髯をお掀りになつて得意滿面と云ふお顏附でありました。成程立派でありました。
 先生は總て非常に氣に入つた作で無いと却々見せられない。よく檐前に箱書など山と積んでありましたので先生之を一寸拜見、といふと、それはいかん、それは見るに足らんものである、といつてから兩手で箱の上から壓へて居られたのであります。何も無理に引ッたくつて見ようとはしませんが、そこが先生無邪氣な所で、奪つてみるかと思つて手で抑へてさういはれる。併し得意の作でありますといふと、態々私がそこから立つて行かうとするのを呼び止めてよく見せられました。扇面の眞中に圓いものをお書きになつて其の中に五六人の人物が書いてある。これらは全紙に書くよりも骨が折れたと云つて居られたことがありました。其れは非常に念の入つたものでありました。
 兎に角さういふ譯でありまして、先生を御存知の方は御承知ですが半切のやうなものは一氣呵成に書いたやうに見えますがさう短時間に出來たのではありませぬ。一日若しくは數日になつて初めて出來上るといふやうなものもあるやうです。翌日になつてもまだお書きになつて居ることは隨分見ました。絹本の着色なんか大變に手數がかゝつて時として下書をして居られることもありました。之は一寸普通にあの繪を見ただけではそれ程の手數がどこに掛つて居るかと思ふやうですが實際は非常に苦心されたのものであります。
 先生の畫は勿論不世出の天禀によつて出來ましたといふことは事實であります。けれども併し之はよく色んな雜誌や新聞にも書いてありますが、先生は非常に研究心の強い方でありまして、さうして一方から見まして美といふものに對する際限の無い情熱的の方であると私は考へるのであります。
 實際先生は山林枯槁のやうな人ではありませぬ。學問殊に藝術に對しては一種の情熱家であつたといふことは疑ふことが出來ませぬ。それは先生の斷簡零墨に對しても如何に強い暖い情熱が迸つて出て居るかといふことでわかると思ひますが、併し其の研究的態度といふものは全く嚴肅であつて極精密であつたことは當然であります。それで――私の話ばかりになりますが――或時扇面に竹を一枚書きました。別に先生に見せた譯ではないが、先生はじつとそれを見てお居でになりましたが、いつものやうに微笑をたゝへられて之は嗤笑か微笑か大變あやしいもので餘程氣味の惡いものでありますが、それから、竹は極く難しいものだ、此の間も西園寺が來て竹を習ひたいと云つたから拒絶した。「お前見たやうな年寄が竹をやらうと云つても難しいからおかつしやい」それよりも此「金冬心の藝術」(青木正兒氏著)を讀むが可いと云つて貸してやつた。あの本は餘程能く鑒てあると先生は大變感服して居られました。これが考槃社の出來る遠因になりますが、兎に角西園寺さんよりは若いから見込みがある、と思はれたのですか竹をやることは拒絶されませんでした。手本は幾らでもあるから貸して上げると云つて、それから一番初めに日本人の美竹齋といふ人の眞筆、僅か五六枚しかありませんが、それに魚尾とか何とか名がついて居る、これを順番に貸して下さる、それから其の版本が四冊程ある。それを頻りに二晩か三晩位、おそうまで書きなぐつて達者になつて清書見たやうなものをして先生に見せた。所が美竹齋の畫譜といふのは謂はゞ撃劍や柔道の型であつて段取りは書いて無い、實際のものを書かうとすると書けぬ、兎に角書いて見せた。所がお前の竹は一樣だ、竹といふものは見樣によつて色々違ふ、さう一樣な葉ばかりで無い、日本人の竹を習ふとさういふ風になる。それから文湖州派の竹、柯丹邸の竹、それは僅か五六枚しかない帖でありますがそれを貸して下さる。それから雪齋竹譜、李息齋竹譜詳録(知不足齋本)それから梅道人の竹といふやうなもの、それから梅道人の竹の描方を詳細に書いた寫竹簡明法といふ非常に珍しい本、是れは先生態々私の居る二階へ持參して下さつて、『此の筆法が却々イケぬじや』などと指摘されました。次に呂端俊、それから金氏と前の手本がまだ十分書けんのに次から次へと私の顏さへ見ると竹のことをいはれる、もうかなはん、さう竹ばかり上手になるより外の繪が書きたい、といつても先生耳が遠い、竹ばかり無茶苦茶にお出しになる。之は迚もかなはぬ、甚だ勿體ない失禮な話ですが私は大分弱りました。それから今度はそればかりなら宜しいのに、あらゆる日本全國にある竹の種類を集めた日本竹譜といふ竹のの種類を六十幾つ集めてある者、これを見よと云はれる。それもよいが今度は植物學上から見た竹の横斷面を出される、私は竹を描くと云つてもホンノ墨竹を一寸やるつもりでそんな精しいことは要らんと思つたのでありましたが、ざつと斯ういふ工合であつて先生却々放過しませぬ。併し其の時に私の顏色か何かでわかつたと見えまして、『苟くも竹一枚でも書かうとすればあらゆる竹を研究しなければ書くことが出來ぬ。何でも物は念には念を入れて精密に調べてやらなければならぬ』といはれてひどく汗顏の至りでありましたが、竹ばかりではありませぬ、此の時成る程之が先生の學問の方法だ、繪ばかりでない。此の位綿密でなければ一代に傑出することは出來ぬ、斯う思つて私はひどく自分の遣り方の今迄粗雜であつたといふことを耻ぢ入つた次第であります。其の癖先生竹は得意でない、只頼まれれば書くといふ位でありました。其れにも拘らず其れ程多くの材料と研究とを積まれて居つたと云ふことは驚くのであります。終ひに竹位上手に書いたつて飯は食へぬといふことをいはれた。それは寧ろこつちが云ひたいことで、老先生よく/\私が竹が好きだと思はれたか、其れともすべて畫は斯くの如くあるべきであるといふ教訓であつたと私は思ふのであります。それから竹ばかりではいかんから山水を書いて來い、といふことで山水を書くやうになりました。
 斯ういふ風で、私は先生に對してたゞ繪といふことばかりで無く色々な方面で非常な啓發を受けたのであります。右の竹だけでもわかる譯ですが先生はどんなものを書くにしても輕々しく筆を取られなかつたことは前にも申したが、又飽くまで研究を怠られなかつたといふこと(研究のことを先生は究理と云はれて居た)研究に熱心であつたといふことも色々な例を私は澤山知つて居ります。けれども一々しやべつて居ると時間ばかり取りますが、東坡の竹とやかましくいひますが支那でも日本でも滅多に無いのであります。先生はどこで探されたか日本に其版があるといふことを見つけられまして、それからそれを私が話に聞いてからも三四年經つて漸く何年目やらにわかつて、其の土地の人が來たらお前の所から何里ばかり隔つた所に東坡の竹があるからそれを一枚刷つて來て呉れ、といふことで其れから其土地の人が刷つて來て初めて手に這入つたと云ふことで私にも貸して下さつたのであります。それから先年青木迷陽君が支那へ行かれまして又別の東坡の竹の拓本を一軸私に贈つて呉れられましたので其れを先生に見せた所大に喜ばれまして何でも其れを雙鉤で寫されたやうでありました。そんなことは隨分ありました。先生は東坡が大變好きで其東坡の肖像などは四十幾種も蒐められてあつた。姑蘇城外寒山寺といひますが詩で歌つてもどんな寺か知らずに居りますが、先生は寒山寺の屋根はかういふ風に葺いてあると云ふこと迄調べ其瓦を一枚取寄せられまして、『寒山寺は斯ういふ瓦で葺いてある』と云ふお話。斯う云ふ例は澤山ありまして例へば本など古本をさらへて、之はこゝに鹿田といふ本屋さんがお出でになりますからよく御存知でありますが、何時か彙文堂なんかへも、私は滅多に行きませんが、偶に行くと屹度其の度に老先生が二人引の俥で女中を伴れられ店頭へ來られる、石刻の繪の本は無いか、斯ういふ本は無いかと云つて探して居られるのに出喰はす。あの年になつてまだ研究しなければならんかと思ふと、實に恐ろしい根氣といはなければならんですが、此の間聞く所によると死なれる前に或る本屋に何とかいふ本を注文なさつてそれが來んうちに死なれたさうですが若い者が研究に熱心なと云つてこれ位熱心な人は恐らくなからうと思ひます。
 先生は非常な讀書家でありまして、毎日未明に起きられ、私はいつもあの側に居りましたが遂に朝寢をするので先生のお起きになつたのを見かけませんが、一通り御散歩が終つて書見に耽られるといふことは時々見受けました。先づ一人女中をお連れになつて書庫にお出でになりいつもこれ位の本を讀んでお出になる、殆んど數十冊で其の中には唐本もあれば和本もある。色んな本がある。それを毎日お出しになつて一日お讀みになる。繪を書いたすきま/\にお讀みになつて翌日藏つて又新しいものをこれ位出される。いつの時だつたか其の中に寫生秘訣といふ本も這入つて居たのを見受けました。之は何でも明治初年の頃の本らしかつたのですが今頃何でそんな本が要るのかと思はれる位ですが、さういふものでも御覽になつたのであります。
 それから私が庫の書物を調べて居りましたら色々な質問をなされる。二十一史の中にある元人の何とかいふ蒙古人の變な名前でありましたが、此の人の傳記を探して呉れと云ふお話。そんなものに何の必要があるかと思ふ位でありました。其の他よく地名など、之は一體どこのどの邊にある地名か調べて呉れ、そんな地名など別に旅行するのでもない、どこにあつてもよからうと思つたのですが、非常にさう云ふことを詳しくお調べになつた。
 それからさういふものを何と云ふこと無しにお讀みになつて其中に興味が湧いて來ると筆をお取りになるといふのが毎日の日課であつたやうに思ひます。
 それから私に常に、と云つた所でさう始終は行きません、四五年と申しましても其の間私は、先生は聞きたいことがあつたら何時でも構はぬ聞きに來い、併し夕方は疲れて居るから朝の間に聞きに來い、と仰しやりましたけれども聞きに行くだけの研究もして居りませんし、旁々お邪魔になると思つてツイそこまで行つてもお訪ねすることは極く稀でしたが、適に行つてお話になることは大變結構なことでありまして、私がいつもよく聞いたのは繪を描くといふことに就いて、繪を描くと思つてはいかぬ、たゞ紙の上に樣によつて葫蘆を畫くと考へてはいけない。自分で一つの考案により一つの世界を作る、さういふ言葉では無かつた「造化を作る」とか何とか其言葉は忘れましたがとにかく宇宙手に在りと云ふ考で文を作るも同じことであると云ふことを反覆されました。それで私の下手糞の繪を書いて先生に見て戴く場合でも、決して上手とか下手といふことは仰しやらぬ、たゞこゝが少し工合が惡い、例へば私は、家を書くなら家を書いたらよいと思ふが、先生は此の家は窓が開いて居らぬ、之は柱が弱い、地震が一寸搖ると倒れさうだ、戸や窓も開けずに置くとしめきつたやうだ、戸を開け窓を開けたら中に人を住ませなければならぬ空家ではいかぬ。川が書いてあるが橋が無い、之ではこつちからこつちに行く時に困る、橋を書いて置かなければならぬ、御注意といつたらさういふ點ばかり御指摘なさる。之は畫論にも其の他にも書いてあつてそれに相違無いのですが、さて愈々打突かるまで氣が附かぬ、そこでさういふ點をいつも御指摘して下さる。
 それから遠近法といふことも大變やかましい。私は老先生の繪には遠近法は無いつもりで居りましたが却々嚴重な規則がありましてひどく叱られたことがありました。
 それで先生は支那の山水を主としてお書きになつたのですが假令支那へ御旅行はなくても餘程調べ上げた上で描かれたのであります。名山記、海内奇觀などは勿論地方誌迄も常に調べられました。餘程ザッと書いてありましても皆典據がある。山水に樹木は附物でありますが、其れは支那の古い植物書である本草綱目といふ着色圖入のものがありまして、それは六十何冊位だつたと思ひますが寫本と刊本と兩方あつて其れを始終調べて、例へば庭にあるツイ何でも無いやうな木でも是れは何の木、又之は莊子にある大椿といふ木で本草に出て居ると云ふ話。すつかり參つてしまふ。其の他支那建築なんか吾々はいつも先生はよい加減に書かれるものと思ふと、なか/\さうでない。支那にも尠い營造法式といふ隨分古い寫本をお持ちになつて、「こゝに斯ういふ建築法がある、」「ヘーイ、」總てさういふ工合で吾々すつかり參つてしまひます。其他勿論支那の地理書で山嶽を書いたものは澤山ありますが、日本の風景も隨分お書きになる。日本の風景を書いたのでは先生が前にお寫しになつた山水奇勝と云ふ本、版本もお持ちですが其他日本全國の名所舊蹟は殆んど網羅されて居ります。又風俗畫も澤山集められて居る、藤原時代、鎌倉、室町、といふやうに婦人の風俗なども澤山集められてある。ああいふ老先生のやうな繪は其風俗など百年や二百年は違つても差支へなからうと思ひますが非常に緻密に研究してお書きになる。
 それから裸體のやうな人物をお描きになります。あれでも無茶苦茶で無い、西洋畫も御參考になりましたらうが和蘭人の解剖を描いた本がありまして、骨組がすつかり描いてある、之は實に驚くべきものであります。魚類なんか滅多にお描きになりませんが其れでも緻密に寫生したものがありまして、何といふ魚は斯ういふ恰好をして居る、といふことが書いてある。異獸圖と云ふ本がありまして、山海經にも無いやうな變テコリンな動物の描いてある者迄御所藏になつて居る。
 それから繪具に至つては色々な古いものをお集めになつて、木米が使つて居つたといふきたないやうな黛赭の皿詰を珍藏されて其れを時々お使ひになる。又古渡の波斯藍所謂プルシヤン、ブリユウを大事にして居られる。他の人はとても根氣の及ばんことであります。殊に筆と墨と來たら之はいふまでもなく支那日本のあらゆる名筆名墨をお集めになりました。而して殊に墨法、墨色といふものがさきに先生の畫は青木迷陽君が石濤以來初めてだといはれたが私も同感であります。殊に墨法は非常に得意でありまして私の見た所では元の梅道人、明の李流芳、清の石濤の三人、まだ外にもあるか知れませんが、古い所で唐の王洽からはじまるといふ溌墨法――見たことはありませんが――が先生によく似て居る、而も先生は其の通りでは無いこれら以上にやはり一種獨得の妙處に達せられたと私は見るのであります。つまり先生は溌墨、破墨、積墨を兼ね用ゐて巧みに渾融されて居るのであります。
 以前に内藤先生からも私に鐵齋先生の着色法を早く研究するがよいといふ勝手な話で、研究して來いとか教へて貰へといふお話で、私は極く遠慮の無い人間なので鐵齋先生に其の通り申上げた、所が着色法は難しい、先づ墨色から這入らねばならぬ。墨には色々ある、之は東坡の持つて居た墨でこれ位使つてある、之は元の時の墨、之は明の時、とても墨だけでも一朝一夕にはいかん、勿論さういふ墨を求めることも出來ませんが、兎に角さういふ工合でありまして、それから私は非常に苦心するがどうしても先生のやうな墨色が出ぬ。之はよい墨を買うたらよからうと思つて其の通りにやりましたら多少それに近い色が出た。先生は「今の日本の畫工は道具材料なしによい繪を描かうとする不屆な心掛ぢやからいかぬ、それで余は道具材料には金を惜まず集めて居る」といふお話。私も道具を集めましたけれどもやはり道具だけではいけませぬ。併し道具が非常に必要なといふことはわかりました。
 それから先生の着色法でありますが、是亦先生獨特のものでありまして、先生の繪はどこの誰の繪を眞似たのでも無いだらうと思ひますが着色法なんか殊にさうだらうと思ひます。併しあれだけの研究家でありますから何か始終御研究になつて居る。いつか斯ういふことを仰しやつたことがありました。丁度去年の夏頃でありました。自分は狩野探幽などの流れを汲んで居るものでは無いけれども、一般の畫工は殆ど探幽の恩を受けて居り乍ら、一向其恩を知らぬ、余は其の墓を見つけて修理して掃除した。さうして余は單に探幽といふものの墓を無意味に修理したのでは無い。といふお話でありましたが非常に含蓄の多いお言葉でありまして意味がはつきりと取り難かつたのですけれども其語氣から推しまして先生は探幽の着色法から何か得る所があつたのでは無いかと思ふのであります。
 まあさういふことを話しますと幾らでも材料があります。けれどもまだ桃花先生も生きてお出でになる時分に獨逸の批評家だ相ですがグラーゼルと云ふ、それが日本へ來て東洋の藝術を研究しようといふ譯、其の時に老先生の繪を見て、此の繪を見たならば外の繪は見るに足らぬ、まだ外によいのがあるかも知らんけれどもこれだけのものを見たらよい、といつてこれから外の繪を漁ることをやめて専ら先生の繪を澤山買ひ集め、それから何とかして先生に面會してお話を承りたい、といつた相です。其の時に桃花先生はあの調子で毛唐人に何がわかるものか、と刎ねつけられた、所が飽迄熱心に是非會ひたい、といふので會はれたさうです。所がグラーゼルは大變喜んで、老先生は耳が遠いことを知つて獨逸へ歸つてから耳のよくきこえる受話器のやうなものを二つ贈つて來た、先生は最後までこれを御使用になつて居られたのであります。それから間もなく歐洲戰爭になつたのでありますが、さういふ所から見ると先生の繪は西洋人の目から見てもやはり相當價値があると思ひます。
 もう一つさういふ話は、之は久佐木喜房と云ふ人から聞いた話ですが或る洋畫を描く人で名前は知りませぬ、佛蘭西かどこか洋行して大いに研究する積りであつた。所が鐵齋先生の繪を見て、これだけの色が出れば西洋へ行く必要は無いと云つて洋行を思ひ止まつたといふ。其の後どうしたか知りませんがそこまで聞いたことがありました。
 私は別に自分が好きだからほめるといふ譯ではありませぬ。さういふ人さへさういふ風にいふのですから吾々がほめるのは無理も無いと考へるのであります。恐らく古今東西に亙つて、私の考へによると先生の畫よりも好きな畫は無い、少く共先生の畫よりもよい畫は無いと思ふのであります。雪舟だの大雅だの蕪村だの竹田だのと云つた所で先生の畫に較べたら何の深みも親みもない者であります。私は先生の如きは畫聖として敬慕してよからうと思ふのであります。下らぬ話をいつまでして居りましてもつまりませんからこれ位にして置きます。(大正十四年三月講演)

―「鐵齋先生を憶ふ」(『富岡鐵齋と南畫』湯川弘文社1943年所収)全