西暦 | 年号 | 記録 | |
1836 | 1歳 | 12月19日(太陽暦1837年1月25日)京都三条通新町東、法衣商十一屋伝兵衛・富岡維叙の次男として生れる | |
1856 | 21歳 | 父伝兵衛維叙死去 | |
1858 | 23歳 | 分家 | |
1859 | 24歳 | 羅渓慈本に詩文を学ぶ | |
1867 | 32歳 |
画家中島華陽の女、達(19歳)と結婚 野川へ移居 『銕荘茶譜』を出版 | |
1868 | 33歳 |
長女秋生れる 中井竹山著『草茅危言』を校訂して出版 11月・12月紀州・那智へ旅行 | |
1869 | 34歳 |
御幸町姉小路上ルに移居 3月天皇に随行して東京へ 妻達死去 西園寺公望の開いた立命館の教員となる 『称呼私弁』『山陽詩註』を出版 | |
1871 | 36歳 |
4月大和畝傍山に神武天皇陵を参拝 5月大台ヶ原に登る 10月箕面観楓、奈良滞在 11月奈良・大阪回遊 | |
1872 | 37歳 |
1月敦賀の武田耕雲斎の墓を弔う 2月備前・美作へ旅行 佐々木禎三の三女ハル(26歳)と結婚 5月大阪府大参事岩下方平に随って鹿児島へ旅行 東三本木南町、頼山陽の旧居「山紫水明処」に移居 | |
1873 | 38歳 |
長男謙蔵生れる 5月北海道旅行のため京都を出発。東京に滞在中、湊川神社に奉職の官命を受け帰洛 湊川神社権禰宜兼補訓導に任命さる。地位に不満があり、一応赴任したが、帰洛、辞表提出 12月伊予松山に旅行 | |
1874 | 39歳 |
1月美濃に旅行 3月徳島に旅行 6月−10月北海道旅行。東北・日光・東京を経て帰洛 10月江州長浜へ行く 上京三十区亀屋町へ移居 | |
1875 | 40歳 |
2月備前小島郡の醤油醸造家・陸養三郎方に滞在作画 6月信州浪合村・飯田・富士登山・東京へ旅行 大田垣蓮月尼死去 | |
1876 | 41歳 |
2月岡山に旅行 大和石上神社少宮司に任命される 5月讃岐白峰の崇徳天皇陵に参拝 石上神社に出社。単身村の民家に下宿 7月天皇陵を巡拝 11月紀州旅行、僻村の小学校調査 堺県令の内命により大和巡幸道筋の絵図作成のための実地検分 和泉大鳥神社大宮司に任命される | |
1877 | 42歳 |
大鳥神社に赴任、教導職試補を拝命 堺行在所で天皇に拝謁 5月和歌山県名草郡竃山神社に参拝、高野山を経て丹生川村の長慶天皇陵に参拝 7月淡路に遊ぶ 正七位に叙せられる 9月大和国多社に参拝 大鳥神社官司に任命される | |
1878 | 43歳 |
河内讃良郡南野村小楠公墓碑落成式に臨む 河内郡上水分村水分神社楠公社五百五十年祭に臨む | |
1879 | 44歳 |
兼補権少教正に任命される | |
1881 | 46歳 |
和泉国大鳥神道事務分局長を拝命 兄伝兵衛衛敬死去 兄亡き後、老母に仕えるため官を辞して京都に帰る 上京区室町通一条下ル薬屋町四百二十四、五番戸の家を買う | |
1882 | 47歳 |
母絹、法衣商十一屋を廃業 薬屋町の家に移居。没年までここに住む 大和高市郡柏ノ森村加夜奈留美神社社殿造営正遷宮の奉幣祭式を勤める | |
1883 | 48歳 |
谷文晁画「石譜」を模写 高山寺鳥獣戯画を借りて模写 | |
1886 | 50歳 |
中江藤樹像を模写 7月笠置山に遊ぶ 詩仙堂住尼の後見人となる 京都青年絵画研究会展覧会の品評員となる | |
1887 | 52歳 |
4月但馬城崎郡玄武洞を探勝 8月越前坂井郡称念寺の新田義貞の墓を弔う 太秦広隆寺の牛祭を再興 11月上嵯峨の祇王寺、新田社を訪れ、荒廃を嘆く | |
1888 | 53歳 |
京都府皇典講求分一所三等仮試験に合格 車折神社の祠掌となる 冷泉家で冷泉為村の肖像を模写 | |
1889 | 54歳 |
2月高知県土佐郡一宮村高鴨神社に参拝、国府址と紀貫之の旧跡を尋ねる 4月冷泉為紀と江州上坂本の定家の墓に参拝 8月−10月鎌倉・宇都宮・日光に旅行 | |
1890 | 55歳 |
4月−7月東京、鎌倉、甲府を旅行 京都美術協会委員となる 京都美術雑誌第1号に寄稿 | |
1891 | 56歳 |
土佐光信五百年祭に光信像を模写 5月摂津川辺郡多田村在芋生村の紺生村を尋ね「絵画叢誌」第51巻に「紺生山」を発表 京都私立日本青年絵画共進会審査顧問となる 真如堂の白幽子の墓を尋ねる 10月名古屋に旅行 | |
1892 | 57歳 |
粟田青蓮院で尊円親王の像を写す 京都市美術工芸品展覧会審査顧問を嘱託される 京都美術協会評議員となる 大徳寺竜光院で十六羅漢の展観を見る 宮内庁蔵版の鹿持雅澄著『万葉集古義』125冊を一覧 | |
1893 | 58歳 |
京都市美術学校教員となる 京都市新古工芸品出品鑑別員を嘱託される 京都市美術工芸並著名物産の沿革取調を嘱託される 車折神社祠掌辞職願を提出 京都美術協会特別会員に推薦される 建仁寺の応挙百年祭遺墨展観を見る 本法寺の光悦二百五十年祭で遺作展観を見る | |
1894 | 59歳 |
「等伯画説」を書写する 京都市工芸品展覧会出品審査員を嘱託され、絵画部審査部長となる 5月名古屋・秋葉山・興津へ旅行、興津清見寺で書画70葉を制作 京都市美術学校教師を嘱託され修身を講じる 美術学校教員・生徒らと大原三千院の宝物を見る 東大寺尊勝院の経庫に収納する経典4,555巻を点検 | |
1895 | 60歳 |
醍醐三宝院に泊まり、什宝を見る 2月伊賀上野に旅行、月ヶ瀬観梅 第四回内国勧業博覧会審査官に任命される 醍醐寺保存会評議員を嘱託される 母絹死去(85歳) 6月伊賀上野の兼好法師の塚を弔う 大極殿遺跡建碑取調委員となる 日本青年絵画共進会協議員となる 冷泉家の家宝を見る 小沢蘆庵追悼展観を円山左阿弥で行う 伏見仏国寺の銅碑を尋ね、黄檗山万福寺の大雅筆襖絵を見る | |
1896 | 61歳 |
新古美術品展覧会絵画部審査員となる 5月江州筑摩神社の祭礼に行く 南宗画学校の新古書画展を見る 建仁寺方丈の畸人伝遺墨会を見る 天竜寺の長州藩士殉難三十三年祭に参拝、遺墨陳列を見る 書肆嵩山堂から高其佩の「指頭画説」を借りて筆者 奈良博物館を観覧、古梅園を訪問 長女秋死去(29歳) | |
1897 | 62歳 |
3月月瀬行 5月大阪府泉南郡麻生郷半田村道教寺の鐘を見て、信之田森葛葉稲荷に参詣 祇園中村楼に清国人力釣を招き、江馬天江らと会飲 鞍馬の火祭に行く | |
1898 | 63歳 |
和気会評議員となる 伊賀上野の広願寺で十六羅漢供養会(画会)を催す 5月近江八幡の西川氏に招かれ、同氏邸に泊まる 6月吉野上市の樋口氏に招かれ、同氏邸に数日滞在、吉野の古跡を尋ねる 荒神口久邇宮邸の大文字鑑賞に招かれる 黒谷金戒光明寺方丈書院の襖4枚、壁紙全紙をはじめ、境内寺院の襖合計14枚を描く。午前8時より始め夕方6時に終わる 9月丹後天橋立に遊ぶ | |
1900 | 65歳 |
京都美術協会創立十周年記念式に伏見宮貞愛親王より金牌を受ける 息健蔵、結婚 9月春子を伴い北陸に旅行 金閣寺の夢窓国師550年忌に出席 | |
1901 | 66歳 |
渡辺崋山遺愛の鳳淵閣を購う 初孫弥生生れる 6月伊賀上野に旅行 9月静岡に旅行 妙覚寺内の狩野家墓を修理 第8回美術品展覧会出品協議員となる | |
1902 | 67歳 |
北野神社の菅公一千年祭に参拝 上鴨の競馬を見る 岡崎博覧会場跡で開演のインド人チャットレー一座の大曲馬を見る。後日、再び同曲馬団の珍獣奇鳥を見る 橋本雅邦の招宴に出席、富士図と印を雅邦に贈る 南禅寺宮崎氏画仙堂の木米70年祭に出席、陶器の陳列を見る | |
1903 | 68歳 |
シャム国皇太子の前で今尾景年等とともに陶器に絵を描く 醍醐寺保存会評議員となる 南禅寺西福寺の秋成75年忌に参じ、遺墨を見る 大阪史編纂係蒐集の浪花名家肖像展覧会を見る 10月-11月信州・関東・東北を歴遊 | |
1904 | 69歳 |
伊藤仁斎200年祭を拝する 嵯峨釈迦堂松明式を見る 京都市美術工芸学校嘱託教員を解職 鞍馬寺の竹伐式を見る 盂蘭盆に宗祖の墓をはじめ、黒谷大江家、白幽子、蘆庵、狩野元信の墓に詣でる 11月寒霞渓に遊び、琴平神社に参拝、応挙の遺墨を見る 去来200年祭に嵯峨落柿舎へ行く途中、車夫道を誤り、長刀坂で転覆負傷。手当ての後、祭典に出席 孫女冬野生れる | |
1905 | 70歳 |
日露戦争で旅順陥落。御苑南門前で帝国万歳を三呼する | |
1906 | 71歳 |
寺町議事堂で催された日露戦役戦勝の官民祝賀会に赴く 久邇邸での日露戦役凱旋祝会に春子を同道出席 4月紀州粉河寺・根来寺・和歌浦・高野山へ旅行 亡父の50年祭を行う 養楽会主催富岡鉄斎先生書画陳列を開催 洛北白川村白幽子山居の跡に石碑を建てる 鳴滝了徳寺の大根煮供養に行く | |
1907 | 72歳 |
6月丹波瑠璃渓に遊ぶ 京都久邇邸で侍従東園基愛より御用画制作の内命を受ける 四条大橋北畔で人魚の見せ物を見る 奈良春日野の神鹿角切りを見る 南都倶楽部の柳沢淇園150年祭に出席、遺物陳列を見る 嫡孫益太郎生れる | |
1908 | 73歳 |
「阿倍仲麻呂唐明州望月図・群仙高会図」双幅完成、京都久邇宮邸にて侍従東園基愛内覧後、宮中に献上 妙覚寺で狩野元信350年忌を営む 息健蔵京都帝国大学文科大学講師となる | |
1909 | 74歳 |
2月胃潰瘍により吐血卒倒。4月末平癒 光琳百年忌、抱一の追薦・建墓記念の画と文書類陳列を見る 京都本願寺をはじめ、諸家の別荘を縦覧 | |
1910 | 75歳 |
崋山会名誉会員となる 韓国統督府のため、幅三尺縦七尺の大幅を揮毫 摂津古曽部村の能因法師の墓に参拝 健蔵北京に出張、鉄斎のために書籍・文具類を購い帰る | |
1911 | 76歳 |
11月竹輿に乗り、将軍塚に登る ドイツの美術学者クルト・グラーゼル夫妻来訪、帰国後レンブラント画譜や補聴器を2度に渡って送ってくる 書庫賜楓書楼落成 孫女夏枝生れる | |
1912 | 77歳 |
洛東田中村に羅振玉(清末の著名な金石考証学者、辛亥革命を逃れて京都に住む)を訪問。 謙蔵、奉天出張の際、諸葛武侯の遺物と伝えられる銅鼓を持ち帰る。鉄斎これを喜び、銅鼓堂と号す | |
1913 | 78歳 |
女子美術学校賛助員となる 堀川頭瑞院「大石山科幽居」襖絵12枚を制作 南座の中村鴈治郎出演の英一蝶「北窓画談」を観劇 | |
1914 | 79歳 |
4月大原野神社・勝持寺を訪ねる 西宮の辰馬家に滞在して、「阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図」六曲屏風一双を制作 北京翰文斎将来の書籍・書画数百点を見る 南座で中村鴈治郎、魁車の演じる「渡辺崋山」を見る | |
1915 | 80歳 |
建仁寺より什宝石磑を借りて図す 奈良博物館を見学、東院の俊乗上人の遺物を見、宇陀郡仏隆寺に弘法大師唐より将来の石碾を見る | |
1916 | 81歳 |
八坂倶楽部で行われた北京翰文斎書画即売会で50年ぶりに西園寺公望と会い、後日西園寺公望来訪 | |
1917 | 82歳 |
帝室技芸員に任命される 養楽会主催の富岡鉄斎先生書画陳列会が催される | |
1918 | 83歳 |
鉄斎八十三・春子七十二の祝いを祇園円山の左阿弥で催す 謙蔵死去(46歳) | |
1919 | 84歳 |
帝国美術院会員に任命される 大徳寺真珠庵で藤原惺窩300年祭を行う | |
1921 | 86歳 |
西宮の辰馬悦叟の墓碑(鉄斎筆)落成、墓前法要に赴く。辰馬家の配慮で二等客車1両を借り切った | |
1922 | 87歳 |
孔子二千年祭に参列 書庫魁星閣落成 正五位に叙せられる 書庫を新築し、「無量寿仏堂」と命名する | |
1923 | 88歳 |
米寿内祝として、市内貧困者のために京都市に壱千円を寄付、関東大震災に義金壱千円を送る 大阪高島屋呉服店美術部、鉄斎米寿墨戯展を開催 住居を新築、「曼荼羅窟」と名づける 孫女夏枝死去 | |
1924 | 89歳 |
画集『米寿墨戯』を出版 名古屋いとう呉服店で鉄斎作品展観開催、画集『紙芳墨痩』出版 西賀茂神光院で蓮月尼五十回忌法要を営む 12月初旬持病の胆石症発病。中旬一旦快方に向かうが、年末再発、病状はさほど重くなかったが、12月31日様態急変して死去 翌大正14年1月4日維新の際国事に奔走した功により位一級を追陞して従四位に叙せられる。同日密葬 1月8日葬儀、寺町四条下ル竜池山大雲院内富岡家塋域に葬る。法名無量寿院鉄斎居士 |