[山荘風雨図]
紙本・淡彩

 最近模様替えをした本サイトのトップページに拝借した絵だが、新春の大和文華館「富岡鉄斎と近代日本画」展で、タイミングよく実物に触れることができたので、部分を切り取り、単色化してしかも左右反転するという勝手な扱いをフォローする意味も込めて、感想を報告しておきたい。といっても、これは同館が所蔵する鐵齋晩年の名品の一つで、そんな理由づけがなくても取り上げるに値する絵であることは言うまでもない。
 鐵齋得意の風雨図だ。バックに薄い墨を斜めに掃いて、画面全体に風雨の調子を与える。その上に描かれる形象が、いつもにも増して引き締まり、諧調を感じさせるのは、左上から右下へ走る風雨の動きに、すべての物が(この絵には峰と山荘と群竹の3種類のものしか描かれていないが)従っているからだろう。なかでもわかりやすいのが、山荘とその手前の門の二つの屋根の流れが、風雨の動きとほぼ平行であること。この二つの人工物は、ごく自然に画面の動きに和している、と同時に、柱の垂直の線、棟と軒端の線といった何本かの平行線がしっかり引かれ、風に傾き揺れる群竹との対比も鮮やかに、揺るがない頼もしさをも感じさせる。横時雨も、山荘での読書の楽しみを妨げない趣だ。一方、遠景の峰はほとんど風雨と一体に描かれていて、まさに峰から吹き下ろす颯颯たる響きが聞こえるよう。ただ、その風は酷薄なものではなく、時雨というよりも緑山の驟雨であってもかまわないような、爽快な描かれ方のようにも感じられる。
 小品というのでもないが、総合的に画技を傾けた仙境図のような絵ではなく、特定のテーマと題材、そして手法に絞って描かれたこのようなタイプの絵も、鐵齋はすばらしい。惚れ惚れとその筆遣いの鮮やかさに浸ることができるという点では、むしろこっちの方が適しているといってもいいかもしれない。ここには、吉田秀和も言っているように、筆の使い方自体が「画面を構成する最も重要な成分になっている」という鐵齋の達成が、一番わかりやすい形で見られる。筆触の一つ一つが、ここでは何かを描くための手段ではなく、絵そのもの、創造そのものになっている。そして、ここにある颯爽たるスピード感、奥行きのある透明感、筆触と濃淡の全幅の自由さは、油絵にはとうてい実現不可能な、筆と墨の東洋画だけが絵画史にもたらし得た美だったことを改めて実感させられる。思うに、筆と墨を日常生活から除き、修練の機会を遠ざけた時から、鐵齋が全面的に開花させたこの美の領域をさらに押し広げる可能性は、我々から失われてしまったのではないだろうか。
(2003.2.25)