この絵は、生誕150周年記念の富岡鉄斎展で見たし、鉄斎美術館でも見ていると思う。しかし、一番強い印象を受けたのは、画集で最初に見た時だった。「なんと規矩正しい絵だろう」というのが、その時の感想だった。鐵齋は、その奔放なタッチの印象があまりに強いため、構成にとらわれないアドリブ型の画家と見なされがちではないかと思うが、実際のところは自在なタッチのめだつ晩年の絵に、構成の弱さ、バランスの崩れを感じさせるものはほとんどない。むしろ、大和絵を学んだ若書きの頃の絵に、構成の弱さを感じさせるものがあるように思う。晩年の特に山水画では、鐵齋は構成的な手腕も発揮している。確かに山水画、特に仙境図の構図はお決まりのもので、さして構成を工夫する必要もないように思えるが、それは逆で、あれだけ数多くの仙境図を描きながら、一点一点に違う世界を開いてまったくマンネリを感じさせず、しかもそれぞれが自然に仙境図であるところに、鐵齋の非凡な構成力があるのではないかと思う。それが、仙境図ではないこの絵には、よく現れている。 遠景の峰々はお決まりの眺めだが、この絵では左右ほとんど中央に滝が落ちていることがちょっと変わっている。滝の真下から建物が始まっていて、その屋根が描く何本かの水平と斜めの平行線の配置、バランス、リズムがこの絵の眼目だろう。その幾何学的な線を和らげているのが、両側からかぶさる群竹…。屋根の下、群竹の中には柔らかな暖色に塗られた“閨窓”があり、その手前にはひときわしっかり描かれた門があって、上の屋根の水平・斜めの線を受け止めている。ここまで見てきて、この門のところで、構図がピタっと決まったという印象を受けるのだ。このすばらしくかっちりした清潔な構成は、けだし、この絵のテーマである、夫の留守を守る夫人の心に鐵齋が形を与えたものだろう。門の周辺の橋や岩に、待つ人の帰りをうながすように、ひときわ心地よく墨の濃淡が駆使されているのも目を引く。 |