小説剰語

その一【 小説、危うし。】


 小説の地位は、この十年ほどの間に、急速に下落してきたようです。販売部数などのデータは把握していませんが、書店では文学本(特にハードカバー)は隅に追いやられているし、その書棚の前に立ち止まる人は、雑誌や一般書のコーナーに比べて、微々たるもの。学生の間で新作の小説が話題になったり、といったことも今や稀でしょう。そもそも社会全体の興味が小説から離れてしまっている感じです。なぜ、こんなことになっているのでしょう。
 振り返ってみると、僕の十代後半から二十代前半の興味の中心には、いつも小説がありました。大江健三郎の現実と想像力をない交ぜにした傑作『洪水はわが魂に及び』が僕等を興奮させ、『ピンチランナー調書』が僕等を戸惑わせたのもこの頃ですし、五木寛之が『青春の門』で幅広い読者を集めていたのもこの頃。埴谷雄高の『死霊』再開なんてのもありました。あの真黒な装丁の分厚い本の、中身はよく分からなかったけれど、序文の面白かったこと。あの頃、小説は僕等の欠かすことのできない食べ物であり、文弱の嫌いの強かった僕などは、小説半分・現実半分という栄養状態で暮らしていたように思います。
 その僕にしても、実はここ数年、小説の新作はまったく買っていないのです。社会人になり、中年になって、小説なんてものから離れるのは当たり前? いやいや、並の人ならそうでもありましょうが、僕は、自分で言うのも何ですが、誇り高い文学使徒の末。一生文学とは手を切らないと誓った身でありながら、この体たらくは何事か。
 時代の空気が変り、環境が変わって、小説の役目が小さくなった。そう言わざるを得ないものを感じます。娯楽としての役割は、より容易に楽しめる漫画や映像にとって代わられ、情報の媒体としては電波・電子メディアが圧倒的で、社会的な問題提起やプロテストに時代の関心は薄い。いや、幾つも大きな問題が我々の前に立ちふさがってるじゃないか。そう、でも、たとえば地球環境問題や冷戦後の世界を語るのに、小説が有効な形式だと言えるのかどうか。小説の拠って立つ足場はどんどん小さくなり、読者は減り、小説を迎える時代の空気は冷め、優れた才能が出現する可能性も低くなる。第一、大江健三郎だって『ピンチランナー』の後、ブレイクと家族に閉じこもって勝手に自己完結しちゃったし、開高健は書けなくなって、「書けない、書けない」と言う小説を書いて死んじゃったじゃないですか。大きな才能だって苦しい時代に、大安売りの文学賞が量産する作家が、魅力的な本を書いたらそれこそ奇蹟だ。実はそんな奇蹟を待ち望んでもいるのですが、ついぞそんな便りは聞きません。
 しかし、もう小説の現状をあげつらうのはやめておきましょう。創造の苦しい戦いに身を置いていない者が、高い所からあれこれ言うのは簡単、でも僕等にはひとこまだって気のきいた場面は書けないのですから。ただ、かつては僕にとって即自(?)的な存在だった小説が、対自(?)的なものとなった今こそ、その勘所を正しく捕まえることができるのはないか。そして、かつては数ある芸術形式の中でも、雑駁を恐れないたくましさで不滅だと思われた小説が、気息奄々と死に赴いているように思える今こそ、その本来の力を再認識することが必要なのではないか。そんな大層な目論見を心のどこかに気にかけつつも、気楽に小説について喋ることで、もう一度小説の楽しみを取り戻してみたいと思うのです。
 題して「小説剰語」。現役の小説読みの方からすれば、話柄が喰い足らず、黴臭を帯びるのは必至ですが、一応、月一ぐらいのペースを目標に、小説に関するよしなしごとを、起承転結・首尾一貫を気にせず、何や彼やと書き連ねていくことにします。

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