------------------------------------------------------------------  泉鏡花の最高傑作(従って、江戸文学の伝統を受け継ぐ日本近代の作家 が残した最上の作品)である「歌行燈」は、この「書庫」の他の作品とは 違って、現在印刷物としても容易に入手可能です。しかし、その滋味深く 美しい文章を、電子メディアの世界へ最初に移植することの誘惑を退けが たく、初春の幾晩かをその入力に費やすこととなりました。  なお、すでにテキスト化した「親子そば三人客」と同様、底本に見られ る総ルビは大部分を省略し、最小限必要と思われるもののみ〈 〉内に記 しています。また、漢字コード外の文字は〓で表示し、読み仮名を付して います。 ------------------------------------------------------------------    歌行燈            泉 鏡花           一  宮重大根のふとしく立てし宮柱は、ふろふきの熱田の神のみそなはす、七里のわた し浪ゆたかにして、來往の渡船難なく桑名につきたる悦びのあまり……  と口誦むやうに獨言〈ひとりごと〉の、膝栗毛五編の上の讀初め、霜月十日あまり の初夜。中空は冴切つて、星が水垢離取りさうな月明に、踏切の棧橋を渡る影高く、 灯〈ともしび〉ちら/\と目の下に、遠近〈をちこち〉の樹立の骨ばかりなのを視め ながら、桑名の停車場〈ステエシヨン〉へ下りた旅客がある。  月の影には相應〈ふさは〉しい、眞黒な外套の、痩せた身體に些と廣過ぎるを緩く 着て、焦茶色の中折帽、眞新しいは扨て可〈い〉いが、馴れない天窓〈あたま〉に山 を立てて、鍔をしつくりと耳へ被さるばかり深く嵌めた、剰〈あまつさ〉へ、風に取 られまいための留紐を、ぶらりと皺〈しな〉びた頬〈ほゝ〉へ下げた工合〈ぐあい〉 が、時世なれば、道中、笠も載せられず、と斷念〈あきら〉めた風に見える。年配六 十二三の、氣ばかり若い彌次郎兵衞。  然〈さ〉まで重荷ではないさうで、唐草模樣の天鵝絨〈びろうど〉の革鞄〈かばん〉 に信玄袋を引搦めて、這個〈こいつ〉を片手。片手に蝙蝠傘を支〈つ〉きながら、 「さて……悦びのあまり名物の燒蛤に酒汲みかはして、……と本文にある處さ、旅籠 屋へ着の前に、停車場前の茶店か何かで、一本傾けて參らうかな。(何〈ど〉うだ、 喜多八。)と行きたいが、其許〈そのもと〉は年上で、些とそりが合はぬ。だがね、 家元の彌次郎兵衞どの事も、伊勢路では、これ、同伴〈つれ〉の喜多八にはぐれて、 一人旅のとぼ/\と、棚からぶら下つた宿屋を尋ねあぐんで、泣きさうに成つたとあ るです。處で其許は、道中松並木で出來た道づれの格だ。其の道づれと、何んと一口 遣らうではないか、えゝ、捻平〈ねぢべい〉さん。」 「また、言ふわ。」  と苦い顏を澁くした、同伴の老人は、まだ、其の上を四つ五つで、やがて七十〈な ゝそぢ〉なるべし。臘虎〈らつこ〉皮の鍔なし古帽子を、白い眉尖〈まゆさき〉深々 と被つて、鼠の羅紗の道行着た、股引を太く白足袋の雪駄穿〈せつたばき〉。色褪せ た鬱金の風呂敷、眞中を紐で結へた包を、西行背負〈さいぎやうじよひ〉に胸で結ん で、これも信玄袋を手に一つ。片手に杖は支いたけれども、足腰はしやんとした、人 柄の可いお爺樣。 「其の捻平は止〈よ〉しにさつしやい、人聞きが悪うて成らん。道づれは可けれども、 道中松並木で出來たと言ふで、何とやら、其の、私〈わし〉が護摩の灰ででもあるや うに聞えるぢや。」と杖を一つ丁〈とん〉と支くと、後の雁が前〈さき〉に成つて、 改札口を早々〈さつさ〉と出る。  故〈わざ〉と一足後へ開いて、隱居が意見に急ぐやうな、連の後姿をじろりと見な がら、 「それ、其處が其れ捻平さね。松並木で出來たと云つて、何もごまのはひには限るま い。尤も若い内は遣つたかも知れんてな。はゝは、」  人も無げに笑ふ手から、引手繰るやうに切符を取られて、はつと驛夫の顏を見て、 きよとんと生眞面目。  成程、此の小父者〈をぢご〉が改札口を出た殿〈しんがり〉で、何をふら/\道草 したか、汽車は最〈も〉う遠くの方で、名物燒蛤の白い煙を、夢のやうに月下に吐い て、眞蒼な野路を光つて通る。…… 「やがて爰〈ここ〉を立出で辿り行くほどに、旅人の唄ふを聞けば、」  と小父者、出た處で、けろりとして又口誦んで、 「捻平さん、可い文句だ、これさ。……    時雨蛤みやげにさんせ       宮のおかめが、……ヤレコリヤ、よヲしよし。」 「旦那、お供は何うで、」  と停車場前の夜の隈に、四五臺朦朧と寂しく並んだ車の中から、車夫が一人、腕組 みをして、のつそりと出る。  これを聞くと彌次郎兵衞、口を捻ぢて片頬笑み、 「難有〈ありがて〉え、圖星と云ふ處へ出て來たぜ。が、同じ事を、これ、(旦那衆 戻り馬乘らんせんか、)と何故言はぬ。」 「へい、」と言つたが、車夫は變哲もない顏色〈がんしよく〉で、其のまゝ棒立。           二  小父者は外套の袖をふら/\と、醉つたやうな風附で、 「遣れよ、さあ、(戻馬乘らんせんか、)と、後生だから一つ氣取つてくれ。」 「へい、(戻馬乘らんせんか、)と言ふでございますかね、戻馬乘らんせんか。」  と早口で車夫は實體〈じつてい〉。 「はゝはゝ、法性寺入道前の關白太政大臣と言つたら腹を立ちやつた、法性寺入道前 の關白太政大臣樣と來て居る。」と又アハヽと笑ふ。 「さあ、もし召して下さい。」  と話は極つた筈にして、委細構はず、車夫は取着いて梶棒を差向ける。  小父者、目を据ゑて故と見て、 「ヤレコリヤ車なんぞ、よヲしよし。」 「否〈いや〉、よしではない。」  と其處に一人つくねんと、添竹に、其の枯菊の縋つた、霜の翁は、旅のあはれを、 月空に知つた姿で、 「早く車を雇はつしやれ。手荷物はあり、勝手知れぬ町の中を、何を當にぶらつかう で。」と口叱言〈くちこごと〉で半ば呟く。 「いや、先づ一つ、(よヲしよし、)と切出さんと、本文〈ほんもん〉に合はぬてさ。 處へ喜多八が口を出して、(せうろく四錢で乘るべいか。)馬士〈うまかた〉が、 (そんなら、ようせよせ。)と言ひやす、馬がヒイン/\と嘶〈いば〉ふ。」 「若いもの、其の人に構ふまい。車を早く。川口の湊屋と言ふ旅籠屋へ行くのぢや。」 「えゝ、二臺でござりますね。」 「何でも構はぬ、私は急ぐに……」と後向きに掴まつて、乘つた雪駄を爪立てながら、 蹴込みへ入れた革鞄を跨ぎ、首に掛けた風呂敷包みを外づしもしないで搖つて置く。 「一蓮托生、死なば諸共、捻平待ちやれ。」と、くす/\笑つて、小父者も車にしや んと乘る。…… 「湊屋だえ、」 「おいよ。」  で、二臺、月に提灯〈かんばん〉の灯〈あかり〉黄色に、廣場の端へ駈込むと…… 石高道をがた/\しながら、板塀の小路、土塀の辻、徑路〈ちかみち〉を縫ふと見え て、寂しい處幾曲り。やがて二階屋が建續き、町幅が絲のやう、月の光を廂で覆うて、 兩側の暗い軒に、掛行燈が疎〈まばら〉に白く、枯柳に星が亂れて、壁の蒼いのが處 々。長い通りの突當りには、火の見の階子〈はしご〉が、遠山の霧を破つて、半鐘の 形活けるが如し。……火の用心さつさりやせう、金棒の音に夜更けの景色。霜枯時の 事ながら、月は格子にあるものを、桑名の妓達〈こたち〉は宵寢と見える、寂しい新 地〈くるわ〉へ差掛つた。  輻〈やぼね〉の下に流るゝ道は、細き水銀の川の如く、柱の黒い家の状〈さま〉、 恰も獺が祭禮〈まつり〉をして、白張の地口行燈を掛連ねた、鐵橋を渡るやうである。  爺樣の乘つた前の車が、はたと留つた。  あれ聞け……寂寞〈ひつそり〉とした一條廓〈ひとすじくるわ〉の、棟瓦にも響き 轉げる、轍の音も留まるばかり、灘の浪を川に寄せて、千里の果も同じ水に、筑前の 沖の月影を、白銀〈しろがね〉の絲で手繰つたやうに、星に晃めく唄の聲。     博多帯しめ、筑前絞、      田舎の人とは思はれぬ、     歩行〈ある〉く姿が、柳町、  と、博多節を流して居る。……つい目の前の軒陰に。……白地の手拭、頬被、すら りと痩ぎすな男の姿の、軒の其の、うどんと紅で書いた看板の前に、横顏ながら俯向 いて、たゞ影法師のやうに彳〈たゝず〉むのがあつた。  捻平はフト車の上から、頸〈うなじ〉の風呂敷包のまゝ振向いて、何か背後〈うし ろ〉へ聲を掛けた。……と同時に彌次郎兵衞の車も、丁度其の唄ふ聲を、町の中で引 挟んで、がつきと留まつた。が、話の意味は通ぜずに、其のまゝ捻平のが又曳出す… …後の車も續いて駈け出す。と二臺が一寸〈ちょつと〉摺れ/\に成つて、すぐ舊 〈もと〉の通り前後〈あとさき〉に、流るゝやうな月夜の車。           三     お月樣が一寸〈ちよいと〉出て松の影、      アラ、ドツコイシヨ、  と沖の浪の月の中へ、颯と、撥を投げたやうに、霜を切つて、唄ひ棄てた。……饂 飩屋の門〈かど〉に博多節を彈いたのは、轉進〈てんじん〉を稍々縦に、三味線の手 を緩めると、撥を逆手に、其の柄で彈くやうにして、仄のりと、薄赤い、其屋〈そこ〉 の板障子をすらりと開けた。 「ご免なさいよ。」  頬被りの中の清〈すゞ〉しい目が、釜から吹出す湯氣の裏〈うち〉へすつきりと、 出たのを一目、驚いた顏をしたのは、帳場の端に土間を跨いで、腰掛けながら、うつ かり聞惚れて居た亭主で、紺の筒袖にめくら縞の前垂がけ、草色の股引で、尻からげ の形〈なり〉、によいと立つて、 「出ないぜえ。」  は、づるいな。……案ずるに我が家の門附〈かどづけ〉を聞徳〈きゝどく〉に、い ざ、其の段に成つた處で、件の(出ないぜ。)を極めてこまそ心積りを、唐突〈だし ぬけ〉に頬被を突込まれて、大分狼狽へたものらしい。尤も居合はした客はなかつた。  門附は、澄まして、背後じめに戸を閉〈た〉てながら、三味線を斜〈はす〉にずつ と入つて、 「あい、親方は出ずとも可いのさ。私の方で入るのだから。……ねえ、女房〈おかみ〉 さん、そんなものぢやありませんかね。」  と些と笑聲が交つて聞えた。  女房は、これも現下〈いま〉の博多節に、うつかり氣を取られて、釜前の湯氣に朦 として立つて居た。……淺葱の襷、白い腕を、部厚な釜の蓋に一寸載せたが、圓髷を がつくりさした、色の白い、齒を染めた中年増。此の途端に颯と瞼を赤うしたが、竈 〈へツつひ〉の前を横ツちよに、かた/\と下駄の音で、亭主の膝を斜交〈はすつか〉 ひに、帳場の錢箱へがつちりと手を入れる。 「あゝ、ご心配には及びません。」  と門附は物優しく、 「串戲〈じようだん〉だ、強請〈ゆする〉んぢやありません。此方が客だよ、客なん ですよ。」  細長い土間の一方は、薄汚れた縦に六疊ばかりの市松疊、其處へ上れば坐れるのを、 釜に近い、床几の上に、ト足を伸ばして、 「何うもね、寒くつて堪らないから、一杯御馳走に成らうと思つて。えゝ、親方、決 して其の御迷惑を掛けるもんぢやありません。」  で、優柔〈おとな〉しく頬被りを取つた顏を、唯〈と〉見ると迷惑處かい、目鼻立 ちのきりゝとした、細面の、瞼に窶は見えるけれども、目の清らかな、眉の濃い、二 十八九の人品〈ひとがら〉な兄哥〈あにい〉である。 「へゝゝゝ、いや、何うもな、」  と亭主は前へ出て、揉手をしながら、 「しかし、此のお天氣續きで、先づ結構でござりやすよ。」と何もない、煤けた天井 を仰ぎ/\、帳場の上の神棚へ目を外らす。 「お師匠さん、」  女房前垂を一寸撫でて、 「お銚子でございますかい。」と莞爾〈につこり〉する。  門附は手拭の上へ撥を置いて、腰へ三味線を小取廻し、内端に片膝を上げながら、 床几の上に素足の胡座。  ト裾を一つ掻〈かい〉込んで、 「早速一合、酒は良いのを。」 「えゝ、もう飛切りのをおつけ申しますよ。」と女房は土間を横歩行き。左側の疊に 据ゑた火鉢の中を、邪險に火箸で掻い掘〈ほじ〉つて、赫と赤く成つた處を、床几の 門附へずいと寄せ、 「さあ、まあ、お當りなさいまし。」 「難有え、」  と鐵拐に褄へ引挟んで、ほうと呼吸〈いき〉を一つ長く吐〈つ〉いた。 「世の中にや、こんな炭火があると思ふと、里心が付いて尚ほ寒い。堪らねえ。女房 さん、銚子を何うかね、ヤケと言ふ熱燗にしておくんなさい。些と飮んで、うんと醉 はうと云ふ、卑劣な癖が付いてるんだ、お察しものですぜ、えゝ、親方。」 「へゝゝ、お方、それ極熱ぢや。」  女房は染めた前齒を美しく、 「あい/\。」           四 「時に何かね、今此家〈こゝ〉の前を車が二臺、旅の人を乘せて駈拔けたつけ、此の 町を、……」  と干した猪口で門を指して、 「二三町行つた處で、左側の、屋根の大きさうな家へ着けたのが、蒼く月明りに見え たがね、……彼處は何かい、旅籠屋ですか。」 「湊屋でございまさ、なあ、」と女房が、釜の前から亭主を見向く。 「湊屋、湊屋、湊屋。此の土地ぢや、まあ彼處一軒でござりますよ。古い家ぢやが名 代で。前〈ぜん〉には大きな女郎屋ぢやつたのが、旅籠屋に成つたがな、部屋々々も 昔風其のまゝな家〈うち〉ぢやに、奧座敷の欄干〈てすり〉の外が、海と一所の、大 〈いか〉い揖斐の川口ぢや。白帆の船も通りますわ。鱸は刎ねる、鯔は飛ぶ。頓と類 のない趣のある家ぢや。處が、時々崖裏の石垣から、獺が這込んで、板廊下や厠に點 いた燈を消して、悪戯をするげに言ひます。が、別に可恐〈おそろし〉い化方はしま せぬで。こんな月の良い晩には、庭で鉢叩きをして見せる。……時雨れた夜さりは、 天保錢一つ使賃で、豆腐を買ひに行くと言ふ。其も旅の衆の愛嬌ぢや言うて、豪い評 判の好い旅籠屋ですがな、……お前樣、此の土地はまだ何も知りなさらんかい。」 「あい、昨夜初めて此方〈こつち〉へ流込んで來たばかりさ。一向方角も何も分らな い。月夜も闇の烏さね。」  と俯向いて、一口。 「どれ延びない内、底を一つ温めよう、遣つたり! ほつ、」  と言つて、目を擦つて面を背けた。 「利く、利く。……恐しい利く唐辛子だ。恁〈か〉う、親方の前だがね、つい過般 〈こなひだ〉も此の手を食つたよ、料簡が悪いのさ。何、上方筋の唐辛子だ、鬼灯 〈ほゝづき〉の皮が精々だらう。利くものか、と高を括つて、お錢〈あし〉は要らな い藥味なり、どしこと丼へぶちまけて、松坂で飛上つた。……又遣つたさ、色氣は無 えね、涙と涎が一時だ。」と手の甲で引擦る。  女房が銚子のかはり目を、ト掌で燗を當つた。 「お師匠さん、あんたは東の方ですなあ。」 「然うさ、生は東だが、身上〈しんしやう〉は北山さね。」と言ふ時、徳利の底を振 つて、垂々〈たら/\〉と猪口へしたむ。 「で、お前樣、湊屋へ泊んなさらうと言ふのかな。」  其れだ、と門口で斷られう、と亭主は其の段含ませたさうな氣の可い顏色〈かほつ き〉。 「御串戲もんですぜ、泊りは木賃と極つて居まさ。茣蓙と笠と草鞋が留守居。壁の破 れた處から、鼠が首を長くして、私の歸るのを待つて居る。四五日は此の桑名へ御厄 介に成らうと思ふ。……上旅籠の湊屋で泊めてくれさうな御人品なら、御當家へ、一 夜の御無心申したいね、どんなもんです、女房さん。」 「こんなでよくば、泊めますわ。」  と身輕に銚子を運んで寄る。と亭主驚いた眉を動かし、 「滅相な。」と帳場を背負〈しよ〉つて、立塞がる體に腰を掛けた。いや、此の時ま で、紺の鯉口に手首を縮〈すく〉めて、案山子の如く立つたりける。 「はゝはゝ、お言葉には及びません、饂飩屋さんで泊めるものは、醤油〈おしたぢ〉 の雨宿りか、鰹節の行者だらう。」  と呵々〈から/\〉と一人で笑つた。 「お師匠さん、一つお酌さしておくんなさいまし。」と女房は市松の疊の端から、薄 く腰を掛込んで、土間を切つて、差向ひに銚子を取つた。 「飛んでもない事、お忙しいに。」 「否な、内ぢや藝妓〈げいこ〉屋さんへ出前ばかりが主ですから、ごらんの通りゆつ くりぢやえな。眞個〈ほん〉にお師匠さん佳いお聲ですな。なあ、良人〈あんた〉。」 と、横顏で亭主を流眄〈ながしめ〉。 「然よぢや。」  とばかりで、煙草を、ぱつ/\。 「なあ、今お聞かせやした、あの博多節を聞いたればな、……私や、ほんに、身に染 みて、ぶるぶると震へました。」           五 「然う讃められちやお座が醒める、醉も醒めさうで遣瀬がない。たかが大道藝人さ。」  と兄哥は照れた風で腕組みした。 「私がお世辭を言ふものですかな、眞實〈まつたく〉ですえ。あの、其の、なあ、悚 然〈ぞつ〉とするやうな、恍惚〈うつとり〉するやうな、緊めたやうな、投げたやう な、緩めたやうな、まあ、何と言うて可からうやら。海の中に柳があつたら、お月樣 の影の中へ、身を投げて死にたいやうな、……何とも言ひやうのない心持に成つたの ですえ。」  と、脊筋を曲〈くね〉つて、肩を入れる。 「お方、お方。」  と急込んで、譯もない事に不機嫌な御亭が呼ばはる。 「何ぢやいし。」と振向くと、……亭主何時の間にか、神棚の下〈もと〉に、斜と構 へて、帳面を引繰つて、苦く睨み、 「升屋が懸は未だ寄越さんかい。」  と算盤を、ぱちり/\。 「今時何うしたえ、三十日〈みそか〉でもありもせんに。……お師匠さん。」 「師匠ぢやないわ、升屋が懸ぢやい。」 「そないに急に氣に成るなら、良人、ちやと行つて取つて來〈き〉い。」  と下唇の刎調子。亭主ぎやふんと參つた體で、 「二進が一進、二進が一進、二一天作の五、五一三六七八九〈ぐいちさぶろくなゝや あこゝの〉。」と、饂飩の帳の伸縮みは、加減〈さしひき〉だけで濟むものを、醤油 に水を割算段。  と釜の湯氣の白けた處へ、星の凍てさうな按摩の笛。月天心の冬の町に、恰もこれ 凩を吹込む聲す。  門附の兄哥は、ふと痩せた肩を抱いて、 「あゝ、霜に響く。」……と言つた聲が、物語を讀むやうに、朗に冴えて、且つ、鋭 く聞えた。 「按摩が通る……女房さん、」 「えゝ、笛を吹いてですな。」 「畜生、怪しからず身に染みる、堪らなく寒いものだ。」  と割膝に跪坐〈かしこま〉つて、飮みさしの茶の冷えたのを、茶碗に傾け、ざぶり と土間へ、 「一ツ此奴へ注〈つ〉いでおくんな、其の方がお前さんも手數が要らない。」 「何んの、私は些とも構ふことないのですえ。」 「否、御深切は難有いが、藥罐の底へ消炭で、湧くあとから醒める處へ、氷で咽喉を 抉られさうな、あのピイ/\を聞かされちや、身體にひゞつ裂〈たけ〉がはひりさう だ。……持つて來な。」  と手を振るばかりに、一息にぐつと呷つた。 「あれ、お見事。」  と目を〓〈みは〉つて、 「まあな、だけれどな、無理酒おしいなえ。澤山〈たんと〉、あの、心配する方があ るのですやろ。」 「お方、八百屋の勘定は。」  と亭主瞬きして頤を出す。女房は面白半分、見返りもしないで、 「取りに來たらお拂ひやすな。」 「えゝ……と三百は三錢かい。」  で、算盤を空に彈く。 「女房さん。」  と呼んだ門附の聲が沈んだ。 「何んです。」 「立續けに最う一つ。而して後を直ぐ、合點かね。」 「あい。合點でございますが、あんた、豪い大酒〈たいしゆ〉ですな。」 「せめて酒でも參らずば。」  と陽氣な聲を出しかけたが、つと仰向いて眦〈まなじり〉を上げた。 「あれ、又來たぜ、按摩の笛が、北の方の辻から聞える。……ヤ、そんなに未だ夜は 更けまいのに、屋根越の町一つ、恁う……田圃の畔かとも思ふ處でも吹いて居ら。」  と身忙〈みぜは〉しさうに片膝立てて、當所なく〓〈みまは〉しながら、 「音は同じだが音〈ね〉が違ふ……女房さん、どれが、どんな顏〈つら〉の按摩だね。」  と聞く。……其時、白眼〈しろまなこ〉の座頭の首が、月に蒼ざめて覗きさうに、 屋の棟を高く見た……目が鋭い。 「あれ、あんた、鹿の雌雄ではあるまいし、笛の音で按摩の容子〈ようす〉は分りま せぬもの。」 「眞個〈まつたく〉だ。」  と寂しく笑つた、波々注いだる茶碗の酒を、屹と見ながら、 「杯の月を酌まうよ、座頭殿。」と差俯いて獨言した。……が博多節の文句か、知ら ず、陰々として物寂しい、表の障子も裏透くばかり、霜の月の影冴えて、辻に、町に、 按摩の笛、其の或ものは波に響く。           六 「や、按摩どのか。何んだ、唐突に驚かせる。……要らんよ、要りませぬ。」  と彌次郎兵衞。湊屋の奧座敷、此れが上段の間とも見える、次に六疊の附いた中古 の十疊。障子の背後は直ぐに縁、欄干にずらりと硝子戸の外は、水煙渺として、曇ら ぬ空に雲かと見る、長洲の端に星一つ、水に近く晃らめいた、揖斐川の流れの裾は、 潮〈うしほ〉を籠めた霧白く、月にも苫を伏せ、蓑を乾す、繋船〈かゝりぶね〉の帆 柱が森差〈すく/\〉と垣根に近い。其處に燭臺を傍にして、火桶に手を懸け、怪訝 な顏して、 「はて、お早いお着きお草臥れ樣で、と茶を一ツ持つて出て、年増の女中が、唯今引 込んだばかりの處。これから膳にもせう、酒にもせうと思ふ一寸の隙間へ、のそりと 出した、あの面はえ?……  此の方、あの年増めを見送つて、入交つて來るは若いのか、と前髮の正面でも見よ うと思へば、霜げた冬瓜に草鞋を打着けた、と言ふ異體な面を、襖の影から斜に出し て、 (按摩でやす。)と又、惡く拔衣紋〈ぬきえもん〉で、胸を折つて、横坐りに、蝋燭 火へ紙火屋〈かみぼや〉のかゝつた灯の向うへ、ぬいと半身で出た工合が、見越入道 の御館へ、目見得の雪女郎を連れて出た、化の慶庵と言ふ體だ。  要らぬと言へば、默然〈だんまり〉で、腰から前へ、板廊下の暗い方へ、スーと消 えたり……怨敵、退散。」  と苦笑ひして、……床の正面に火桶を抱へた、法然天窓の、連の、其の爺樣を見遣 つて、 「捻平さん、お互に年は取りたくないてね。些と三絃〈ぺん/\〉でも、とあるべき 處を、お膳の前に按摩が出ますよ。……見くびつたものではないか。」 「兎角、其の年效ひもなく、旅籠屋の式臺口から、何んと、事も慇懃に出迎へた、家 の隱居らしい切髮の婆樣をじろりと見て、 (ヤヤ、難有い、佛壇の中に美婦〈たぼ〉が見えるわ、簀の子の天井から落ち度い。) などと、膝栗毛の書拔きを遣らつしやるで魔が魅〈さ〉すのぢや。屋臺は古いわ、造 りも廣大。」  と丸木の床柱を下から見上げた。 「千年の桑かの。川の底も料〈はか〉られぬ。燈も暗いわ、獺も出ようず。些と懲り さつしやるが可い。」 「さん候、これに懲りぬ事なし。」  と奧齒のあたりを膨らまして微笑みながら、兩手を懷に、胸を擴く、襖の上なる額 を讀む。題して曰く、臨風榜可小樓。 「……とある、如何樣な。」 「床に活けたは、白の小菊ぢや、一束にして掴みざし、喝采〈おゝ〉。」と讃める。 「いや、翁寂びた事を言ふわ。」 「それ/\、唯今懲りると言うた口の下から、何んぢや、其れは。やあ、見やれ、其 許〈そこ〉の袖口から、茶色の手の、もそ/\した奴が、ぶらりと出たわ、揖斐川の 獺の。」 「ほい、」  と視〈なが〉めて、 「南無三寶。」と、慌しく引込める。 「何んぢや其れは。」 「はゝゝはゝ、拙者うまれつき粗忽にいたして、よくものを落す處から、内の婆どの が計略で、手袋を、ソレ、ト左右絲で繋いだものさね。袖から胸へ潜らして、ずいと 引張つて兩手へ嵌めるだ。何んと恐しからう。捻平さん、恁くまで身上を思うてくれ る婆どのに對しても、無駄な祝儀は出せませんな。あゝ、南無阿彌陀佛。」 「狸めが。」  と背を圓くして横を向く。 「それ、年増が來る。秘すべし、秘すべし。」  で、手袋をたくし込む。  處へ女中が手を支いて、 「御支度をなさりますか。」 「いや、漸〈やつ〉と、今草鞋を解いたばかりだ。泊めて貰ふから、支度はしません。」 と眞面目に言ふ。  色は淺黒いが容子の可い、其の年増の女中が、これには妙な顏をして、 「へい、御飯は召あがりますか。」 「先づ酒から飮みます。」 「あの、めしあがりますものは?」 「姉さん、此處は約束通り、燒蛤が名物だの。」           七 「其のな、燒蛤は、今も町はづれの葦簀張〈よしずばり〉なんぞでいたします。矢張 り松毬で燒きませぬと美味うござりませんで、當家〈うち〉では蒸したのを差上げま す、味淋入れて味美〈あぢよ〉う蒸します。」 「はゝあ、榮螺〈さゞえ〉の壺燒と言つた形、大道店で遣りますな。……松並木を向 うに見て、松毬のちよろちよろ火、蛤の煙が此の月夜に立たうなら、丁と龍宮の田樂 で、乙姫樣が洒落に姉さんかぶりを遊ばさうと云ふ處、又一段の趣だらうが、故と其 れがために忍んでも出られまい。……當家〈ここ〉の味淋蒸、其れが好からう。」  と小父者納得した顏して頷く。 「では、蛤でめしあがりますか。」 「何?」と、故とらしく耳を出す。 「あのな、蛤であがりますか。」 「いや、箸で食ひやせう、はゝはゝ。」  と獨〈ひとり〉で笑つて、懷中から膝栗毛の五編を一冊、ポンと出して、 「難有い。」と額を叩く。  女中も思はず噴飯〈ふきだ〉して、 「あれ、あなたは彌次郎兵衞樣でございますな。」 「其の通り。……此の度の參宮には、都合あつて五二館と云ふのへ泊つたが、内宮樣 へ參る途中、古市の旅籠屋、藤屋の前を通つた時は、前度いかい世話に成つた氣で、 薄暗いまで奧深いあの店頭に、眞鍮の獅噛〈しかみ〉火鉢がぴか/\とあるのを見て、 略儀ながら、車の上から、帽子を脱いでお辭儀をして來た。が、町が狹いで、向う側 の茶店の新姐に、此の小兀〈すこはげ〉を見せるのが辛かつたよ。」  と燈に向けて、てらりと光らす。 「ほゝ、ほゝ。」 「あはゝ。」  で捻平も打笑ふと、……此の機會に誘はれたか、――先刻〈さつき〉二人が着いた 頃には、三味線太鼓で、トヽン、ヂヤカ/\ぢやぢやぢやんと沸返るばかりだつた― ―丁度八ツ橋形に歩行板が架つて、土間を隔てた隣の座敷に、凡そ十四五人の同勢で、 女交りに騷いだのが、今しがた按摩が影を見せた時分から、大河の汐に引かれたらし く、一時〈ひとしきり〉人氣勢〈ひとけはひ〉が、遠くへ裾擴がりに茫と退〈の〉い て、寂〈しん〉とした。たゞだゞ廣い中を、猿が鳴きながら走廻るやうに、キヤ/\ とする雛妓〈おしやく〉の甲走つた聲が聞えて、重く、づつしりと、覆〈おつ〉かぶ さる風に、何を話すともなく多人數の物音のして居たのが、此の時、洞穴〈ほらあな〉 から風が拔けたやうに哄〈どつ〉と動搖〈どよ〉めく。  女中も笑ひ引きに、すつと立つ。 「いや、此方は陰々として居る。」 「其の方が無事で可いの。」  と捻平は火桶の上に脊くゞまつて、其處へ投出した膝栗毛を差覗き、 「しかし思ひつきぢや、私は何うも此の寢つきが惡いで、今夜は一つ枕許の行燈で讀 んで見ませう。」 「止しなさい、これを讀むと胸が切〈せま〉つて、尚ほ目が冴えて寢られなくなりま す。」 「何を言はつしやる、當言〈あてごと〉もない、膝栗毛を見て泣くものがあらうかい。 私が事を言はつしやる、其許が餘程捻平ぢや。」  と言ふ處へ、以前の年増に、小女がついて出て、膳と銚子を揃へて運んだ。 「蛤は直きに出来ます。」 「可〈よし〉、可。」 「何よりも酒の事。」  捻平も、猪口を急ぐ。 「さて汝〈てめえ〉にも一つ遣らう。燗の可い處を一杯遣らつし。」と、彌次郎兵衞、 酒飮みの癖で、些とぶるぶるする手に一杯傾けた猪口を、膳の外へ、其の膝栗毛の本 の傍〈わき〉へ、疊の上に丁〈ちやん〉と置いて、 「姉さん、一つ酌いで遣つてくれ。」  と眞顏で言ふ。  小女が、きよとんとした顏を見ると、捻平に追つかけの酌をして居た年増が見向い て、 「喜野、お酌ぎ……其の旦那はな、彌次郎兵衞樣ぢやで、喜多八さんにお杯を上げな さるんや。」  と早や心得たものである。           八  小父者は何故か調子を沈めて、 「あゝ、能く言つた。俺を彌次郎兵衞は難有い。居心は可、酒は可。これで喜多八さ へ一所だつたら、膝栗毛を正のもので、太平の民となる處を、さて、杯をさしたばか りで、恁う酌いだ酒へ、蝋燭の灯のちら/\と映る處は、何うやら餓鬼に手向けたや うだ。あの又馬鹿野郎は何うして居る――」と膝に手を支き、疊の杯を凝〈じつ〉と 見て、陰氣な顏する。  捻平も、不圖、此の時横を向いて腕組した。 「旦那、其の喜多八さんを何んでお連れなさりませんね。」  と愛嬌造つて女中は笑ふ。彌次郎寂しく打笑み、 「むゝ、そりや何よ、其の本の本文にある通り、伊勢の山田ではぐれた奴さ。いゝ年 をして娑婆氣な、酒も飮めば巫山戲〈ふざけ〉もするが、世の中は道中同然。暖いに つけ、寒いにつけ、杖柱とも思ふ同伴の若いものに別れると、六十の迷兒に成つて、 もし、此の邊に棚からぶら下がつたやうな宿屋はござりませんかと、賑かな町の中を 獨りとぼ/\と尋ね飽倦〈あぐ〉んで、もう落膽〈がつかり〉しやした、と云つてな、 どつかり知らぬ家の店頭へ腰を落込んで、一服無心をした處……彼處を讀むと串戲で はない。……捻平さん、眞から以て涙が出ます。」  と言ふ、瞼に映つて、蝋燭の火がちら/\とする。 「姉や、心を切つたり。」 「はい。」  と女中が向うを向く時、捻平も目をしばたゝいたが、 「ヤ、あの騷ぎわい。」  と鼻の下を長くして、土間越の隣室〈となり〉へ傾き、 「豪いぞ、金盥まで持ち出いたわ、人間は皆裾が天井へ宙乘りして、疊を皿小鉢が踊 るさうな。おゝおゝ、三味線太鼓が鎬〈しのぎ〉を削つて打合ふ樣子ぢや。」 「もし、お騷がしうござりませう、お氣の毒でござります。丁ど霜月でな、今年度の 新兵さんが入營なさりますで、其の送別會ぢや言うて、彼方此方、皆、此の景気でご ざります。でもな、お寢〈よ〉ります時分には時間に成るで靜まりませう。何うぞ御 辛抱なさいまして。」 「いや/\、其れには及ばぬ、其れには及ばぬ。」  と小父者、二人の女中の顏へ、等分に手を掉つて、 「却つて賑かで大きに可い。惡く寂寞〈ひつそり〉して、又唐突に按摩に出られては 弱るからな。」 「へい、按摩がな。」と何か知らず、女中も讀めぬ顏して聞返す。  捻平此の話を、打消すやうに咳〈しはぶき〉して、 「さ、一獻參らう。何うぢや、此方へも酌人を些と頼んで、……えゝ、それ何んとか 言ふの。……桑名の殿樣時雨でお茶漬……とか言ふ、土地の唄でも聞かうではないか の。陽氣にな、くわつと一つ。旅の恥は掻棄てぢや。主はソレ叱言のやうな勸進帳で も遣らつしやい。  染めようにも髯は無いで、私はこれ、手拭でも疊んで法然天窓へ載せようでの。」 と捻平が坐りながら腰を伸して高く居直る。と彌次郎眼〈まなこ〉を〓〈みは〉つて、 「や、平家以来の謀叛、其許の發議は珍らしい、二方荒神鞍なしで、眞中へ乘りやせ う。」  と夥しく景氣を直して、 「姉〈あんね〉え、何んでも構はん、四五人木遣で曳いて來い。」  と肩を張つて大きに力む。  女中酌の手を差控へて、銚子を、膝に、と眞直に立てながら、 「さあ、今彼方の座敷で、もう一人二人言うて、お掛けやしたが、喜野、藝妓さんは あつたかな。」  小女が猪首で頷き、 「誰も居やはらぬ言うてでやんした。」 「かいな、旦那さん、お氣の毒さまでござります。狹い土地に、數のない藝妓やに依 つて、恁うして會なんぞ立込みますと、目星い妓たちは、ちやつとの間に皆出拂ひま す。然うか言うて、東京のお客樣に、餘りな人も見せられはしませずな、容色〈きり やう〉が好いとか、藝がたぎつたとか言ふのでござりませぬとなあ……」 「いや、恁うなつては、宿賃を拂はずに、此方人等〈こちとら〉夜遁をするまでも、 三味線を聞かなきや納まらない。眇〈めつかち〉、いぐちでない以上は、古道具屋か らでも呼んでくれ。」 「待ちなさりまし。おゝ、あの島屋の新妓〈しんこ〉さんなら屹と居るやろ。聞いて 見や。喜野、ソレお急ぎぢや、廊下走つて、電話へ掛れや。」           九 「持つて來い、さあ、何んだ風車。」  急に勢の可い聲を出した、饂飩屋に飮む博多節の兄哥は、霜の上の燗酒で、月あか りに直ぐ醒める、色の白いのも其まゝであつたが、二三杯、呷切(あふつきり)の茶 碗酒で、目の縁へ、颯と醉が出た。 「勝手にピイ/\吹いて居れ、でん/\太鼓に笙の笛、此方あ小兒だ、なあ、阿媽 〈おつか〉。……いや、女房さん、其れにしても何かね、御當處は、此の桑名と云ふ 所は、按摩の多い所かね。」と笛の音に瞳がちらつく。 「あんたもな、按摩の目は蠣〈かき〉や云ひます。名物は蛤ぢやもの、別に何も、多 い譯はないけれど、こゝは新地なり、旅籠屋のある町やに因つて、つい、あの衆が、 彼方此方から稼ぎに來るわな。」 「然うだ、成程新地〈くるわ〉だつた。」と何故か一人で納得して、氣の拔けたやう な片手を支く。 「お師匠さん、あんた、これから其の音聲〈のど〉を藝妓屋の門で聞かしてお見やす。 眞個〈ほん〉に、人死が出來ようも知れぬぜな。」と襟の處で、塗盆をくるりと廻す。 「飛んだ合せかゞみだね、人死が出來て堪るものか。第一、藝妓屋の前へは、うつか り立てねえ。」 「何故え。」 「惡くすると敵〈かたき〉に出會〈でつくは〉す。」と投首する。 「あれ、藝が身を助けると言ふ、……お師匠さん、あんた、藝妓ゆえの、お身の上か え。……眞個にな、仇だすな。」 「違つた! 藝者の方で、私が敵さ。」 「あれ、のけ/\と、あんな憎いこと言ひなさんす。」と言ふ處へ、月は片明りの向 う側。狹い町の、ものの氣勢にも暗い軒下を、からころ、からころ、駒下駄の音が、 土間に浸込むやうに響いて來る。……と直ぐ其の足許を潜るやうに、按摩の笛が寂し く聞える。  門附は屹と見た。 「噂をすれば、藝妓はんが通りまつせ。あんた、見たいなら障子を開けやす……其の かはり、敵打たれうと思うてな。」 「あゝ、何時でも打たれて遣ら。ちよツ、可厭〈いや〉に煩く笛を吹くない。」  かたりと門の戸を外から開ける。 「えゝ、吃驚〈びつくり〉すら。」 「今晩は。――饂飩六ツ急いでな。」と草履穿きの半纏着、背中へ白く月を浴びて、 赤い鼻をぬいと出す。 「へい。」と筒拔けの高調子で、亭主帳場へ棒に突立ち、 「お方、そりや早うせぬかい。」  女房は澄ましたもので、 「美しい跫音やな、何處の?」と聞く。 「こなひだ山田の新町から住替へた、こんの島家の新妓ぢや。」と言ひながら、鼻赤 の若い衆は、覗いた顏を外に曲げる。  と門附は、背後の壁へ胸を反らして、一寸伸上るやうにして、戸に立つ男の肩越し に、皎とした月の廓の、細い通を見透かした。  駒下駄は些と音低く、未だ、からころと響いたのである。 「澤山出なさるかな。」 「まあ、こんの饂飩のやうには行かぬで。」 「其の氣で、すぐに屆けますえ。」 「はい頼んます。」と、男は返る。  亭主帳場から背後向きに、日和下駄を探つて下り、がたりびしりと手當り強く、其 處へ廣蓋を出掛ける。はゝあ、夫婦二人の此の店、氣の毒千萬、御亭が出前持を兼ね ると見えたり。 「裏表とも氣を注けるぢや、可〈え〉いか、可いか。一寸道寄りをして來るで、可い か、お方。」  と其處等〈そこいら〉じろ/\と睨廻して、新地の月に提灯入らず、片手懷にした なりで、亭主が出前、ヤケにがつと戸を開けた、後を閉めないで、ひよこ/\出て行 く。  釜の湯氣が颯と分れて、門附の頬に影がさした。  女房横合から來て、 「何時まで、うつかり見送つてぢや、そんなに敵が打たれたいの。」 「女房さん、桑名ぢやあ……藝者の箱屋は按摩かい。」と悚氣〈ぞつ〉としたやうに 肩を細く、此の時漸と居直つて、女房を見た、色が惡い。           十 「然うさ、如何に伊勢の濱荻だつて、按摩の箱屋と云ふのはなからう。私もなからう とは思ふが、今向う側を何とか屋の新妓とか云ふのが、からんころんと通るのを、何 心なく見送ると、あの、一軒おき二軒おきの、軒行燈では浅葱になり、月影では青く なつて、薄い紫の座敷着で、褄を蹴出さず、ひつそりと、白い襟を俯向いて、足の運 びも進まないやうに何んとなく悄れて行く。……其の後から、鼠色の影法師。女の影 なら月に地〈つち〉を這ふ筈だに、寒い道陸神が、のそ/\と四五尺離れた處を、ず つと前方〈むかう〉まで附添つたんだ。腰附、肩附、歩行く振、捏(で)つちて附着 〈くツつ〉けたやうな不恰好な天窓の工合、何う見ても按摩だね、盲人らしい、めん ない千鳥よ。……私あ何んだ、だから、按摩が箱屋をすると云つちや可笑い、盲目に 成つた箱屋かも知れないぜ。」 「どんな風の、どれな。」  と門へ出さうにする。 「いや、最う見えない。呼ばれた家へ入つたらしい。二人とも、ずつと前方で居なく なつた。然うか。あゝ、盲目の箱屋は居ねえのか。ア又殖えたぜ……影がさす、笛の 音に影がさす、按摩の笛が降るやうだ。此の寒い月に積つたら、桑名の町は針の山に 成るだらう、堪らねえ。」  とぐいと呷つて、 「えゝ、ヤケに飮め、一杯何うだ、女房さん附合ひねえ。御亭主は留守だが、明放し よ、……構ふものか。それ向う三軒の屋根越に、雪坊主にやうな山の影が覗いてら。」  と門を振向き、あ、と叫んで、 「來た、來た、來た、來やあがつた、、來やあがつた、按摩々々、按摩。」  と呼吸も吐かず、續け樣に急込んだ、自分の聲に、町の中に、ぬい、と立つて、杖 を脚許へ斜交ひに突張りながら、目を白く仰向いて、月に小鼻を照らされた流しの按 摩が、呼ばれたものと心得て、其のまゝ凍附くやうに立留まつたのも、門附はよく分 らぬ状で、 「影か、影か、阿媽、眞個の按摩か、影法師か。」  と激しく聞く。 「眞個なら、何うおしる。貴下〈あんた〉、そんなに按摩さんが戀しいかな。」 「戀しいよ! あゝ、」  と呼吸を吐いて、見直して、眉を顰めながら、聲高に笑つた。 「はゝゝはゝ、按摩にこがれて此の體さ。おゝ、按摩さん、按摩さん、さあ入つてく んねえ。」  門附は、撥を除けて、床几を叩いて、 「一つ頼まう。女房さん、濟まないが一寸借りるぜ。」 「此の疊へ來て横にお成りな。按摩さん、お客だす、あとを閉めておくんなさい。」 「へい。」  コト/\と杖の音。 「えゝ……丁と早や、影法師も同然なもので。」と掠れ聲を白く出して、黒いけんち う羊羹色の被布を着た、燈の影は、赤く其の皺の中へさし込んだが、日和下駄から消 えても失せず、片手を泳ぎ、片手で酒の香を嗅分けるやうに入つた。 「聞えたか。」  と此の門附、權のあるものいひで、五六本銚子の並んだ、膳を又傍へずらす。 「へゝゝゝ」と一寸鼻をすゝつて、ふん、とけなりさうに香〈にほひ〉を嗅ぐ。 「待ちこがれたもんだから、戸外〈そと〉を犬が走つても、按摩さんに見えたのさ。 恁う、惡く言ふんぢやないぜ……其處へぬつくりと顕れたらう、醉つて居る、幻かと 思つた。」 「眞個に待兼ねて居なさつたえ。あの、笛の音ばかり氣にしなさるので、私も何うや ら解〈よ〉めなんだが、漸と分つたわな、何んともお待遠でござんしたの。」 「これは、おかみさま、御繁昌。」 「お客はお一人ぢや、ゆつくり療治してあげておくれ。其れなりにお寢つたら、お泊 め申さう。」  と言ふ。  按摩どの、けろりとして、 「えゝ、其の氣で、念入りに一ツ、掴りませうで。」と我が手を握つて、拉ぐやうに、 ぐいと揉んだ。 「へい、旦那。」 「旦那ぢやねえ。ものもらひだ。」と又呷る。  女房が竊〈そつ〉と睨んで、 「滅相な、あの、言ひなさる。」           十一 「いや、横になる處ぢやない、澤山だ、此處で澤山だよ。……第一背中へ掴まられて、 一呼吸でも應へられるか何うだか、實は其れさへ覺束ない。惡くすると、其のまゝ目 を眩〈まは〉して打倒れようも知れんのさ。體よく按摩さんに掴み殺されると云つた 形だ。」  と眞顏で言ふ。 「飛んだ事をおつしやりませ、田舎でも、これでも、長年年期を入れました杉山流の ものでござります。鳩尾に鍼をお打たせになりましても、決して間違ひのあるやうな ものではござりませぬ。」と呆れたやうに、按摩の剥く目は蒼かりけり。 「うまい、まづいを言ふのぢやない。何時の幾日〈いくか〉にも何時〈なんどき〉に も、洒落にもな、生れてから未だ一度も按摩さんの味を知らないんだよ。」 「まあ、あんなにあんた、こがれなさつた癖に。」 「そりや、張つて/\仕樣がないから、目にちらつくほど待つたがね、いざ……と成 ると初産です、灸の皮切も同じ事さ。何うにも勝手が分らない。痛いんだか、痒いん だか、風説〈うはさ〉に因ると擽つたいとね。多分私も擽つたからうと思ふ。……處 が生憎、母親〈おふくろ〉が操正しく、是でも密夫〈まをとこ〉の兒ぢやないさうで、 其の擽つたがりやう此の上なし。……あれ、あんなあの、握飯を拵へるやうな手附を される、と其の手で揉まれるかと思つたばかりで、最う堪らなく擽つたい。何うも、 あゝ、こりや不可〈いけね〉え。」  と脇腹へ兩肱を、しつかりついて、掻竦むやうに脊筋を捻〈よ〉る。 「はゝゝはゝ、これは何うも。」と按摩は手持無沙汰な風。  女房更めて顏を覗いて、 「何んと、まあ、可愛らしい。」 「同じ事を、可哀相だ、と言つてくんねえ。……然うかと言つて、恁う張つちや、身 も皮も石に成つて固りさうな、背が詰つて胸は裂ける……揉んで貰はなくては遣切れ ない。遣れ、構はない。」  と激しい聲して、片膝を屹と立て、 「殺す氣で蒐〈かか〉れ。此方は覺悟だ、さあ。ときに女房さん、袖摺り合ふのも他 生の縁ツさ。旅空掛けて恁うしたお世話を受けるのも前の世の何かだらう、何んだか、 おなごりが惜いんです。掴殺されりや其切だ、最一つ憚りだがついでおくれ、別れの 杯に成らうも知れん。」  と雫を切つて、ついと出すと、他愛なさも餘りな、目の色の變りやう、眦も屹と成 つたれば、女房は氣を打たれ、默然〈だんまり〉で唯目を〓〈みは〉る。 「さあ按摩さん。」 「えゝ、」 「女房さん酌いどくれよ!」 「はあ、」と酌をする手が些と震へた。  此の茶碗を、一息に仰ぎ干すと、按摩が手を掛けたのと一緒であつた。  がた/\と身震ひしたが、面は幸に紅潮して、 「あゝ、腸〈はらはた〉へ沁透る!」 「何か其の、何事か存じませぬが、按摩は大丈夫でござります。」と、これもおどつ く。 「先づ、」  と突張つた手をぐたりと緩めて、 「生命に別條は無ささうだ、しかし、しかし應へる。」  とがつくり俯向いたのが、ふら/\した。 「月は寒し、炎のやうな其の指が、火水と成つて骨に響く。胸は冷い、耳は熱い。肉 〈み〉は燃える、血は冷える。あつ、」と言つて、兩手を落した。  吃驚して按摩が手を引く、其の嘴や蛸に似たり。  兄哥は、確乎〈しつかり〉起直つて、 「いや、手をやすめず遣つてくれ、あはれと思つて靜に……よしんば徐〈そつ〉と揉 まれた處で、私は五體が碎ける思ひだ。  其の思ひをするのが可厭さに、種々〈いろ/\〉に惱んだんだが、避ければ摺着く、 過ぎれば引張る、逃げれば追ふ。形が無ければ聲がする……ピイ/\笛は攻太鼓だ。 恁う犇々〈ひし/\〉と寄着かれちや、弱いものには我慢が出來ない。淵に臨んで、 崕の上に瞰下〈みお〉ろして踏留まる膽玉のないものは、一層の思ひ、眞逆に飛込み ます。破れかぶれよ、按摩さん、從兄弟再從兄弟〈いとこはとこ〉か、伯父甥か、親 類なら、さあ、敵を取れ。私はね、……お仲間の按摩を一人殺して居るんだ。」           十二 「今から丁ど三年前。……其の年は、此の月から一月後〈おくれ〉の師走の末に、名 古屋へ用があつて來た。序と言つては惡いけれど、稼の繰廻しが何うにか附いて、參 宮が出來ると言ふのも、お伊勢樣の思召、冥加のほど難有い。ゆつくり古市に逗留し て、其れこそ次手に、……淺熊山の雲も見よう、鼓ヶ嶽の調も聞かう。二見ぢや初日 を拜んで、堺橋から、池の浦、沖の島で空が別れる、上郡から志摩へ入つて日和山を 見物する。……海が凪いだら船を出して、伊良子ヶ崎の海鼠で飮もう、何でも五日六 日は逗留と云ふつもりで。……山田では尾上町の藤屋へ泊つた。驚くべからず――ま さか其の時は私だつて、浴衣に袷ぢや居やしない。  着換へに紋付の一枚も持つた、縞で襲衣〈かさね〉の若旦那さ。……ま、恁う、雲 助が傾城買の昔を語る……負惜みを言ふのぢやないよ。何も自分の働きで然うした譯 ぢやないのだから。――聞きねえ、親なり、叔父なり、師匠なり、恩人なりと言ふ、 ……私が稼業ぢや江戸で一番、日本中の家元の大黒柱と云ふ、少兀〈はげ〉の苦い面 した阿父〈おやぢ〉がある。  いや、其の顏色に似合はない、氣さくに巫山戲た江戸兒でね。行年其の時六十歳を、 三つと刻んだはをかしいが、數へ年のサバを算んで、私が代理に宿帳をつける時は、 天地人とか何んとか言つて、禪の問答をするやうに、指を三本、ひよいと出してギロ リと睨む……五十七歳とかけと云ふのさ。可いかね、其の氣だもの……旅籠屋の女中 が出てお給仕をする前では、阿父〈おとつ〉さんが大の禁句さ。……與一兵衞ぢやあ るめえし、汝〈てめえ〉、定九郎のやうに呼ぶなえ、と唇を捻曲げて、叔父さんとも 言はせねえ、兄さんと呼べ、との御意だね。  此の叔父さんのお供だらう。道中の面白さ。酒はよし、景色はよし、日和は續く。 何處へ行つても女はふらない、師走の山路に、嫁菜が盛りで、然も大輪〈おほりん〉 が咲いて居た。  と此の桑名、四日市、龜山と、伊勢路へ掛つた汽車の中から、おなじ切符の誰彼が ――其の催について名古屋へ行つた、私たちの、まあ……興行か……其の興行の風説 をする。嘘にも何うやら、私の評判も可ささうな。叔父は固より。……何事も言ふに は及ばん。――私が口で饒舌〈しやべ〉つては、流儀の恥に成らうから、まあ、何某 と言つたばかりで、世間は承知すると思つて、聞きねえ。  處がね、其の私たちの事を言ふ次手に、此の伊勢へ入つてから、屹と一所に出る、 人の名がある。可いかい、山田の古市に惣市と云ふ按摩鍼だ。」  門附は其の名を言ふ時、うつとりと瞳を据ゑた。背を抱くやうに背後に立つた按摩 にも、床几に近く裾を投げて、向うに腰を掛けた女房にも、目もくれず、凝と天井を 仰ぎながら、胸前にかかる湯氣を忘れたやうに手で捌いて、 「按摩だ、が其の按摩が、舊は然る大名に仕へた士族の果で、聞きねえ。私等が流儀 と、同じ其の道の藝の上手。江戸の宗家も、本山も、當國古市に於て、一人で兼ねた り、と言ふ勢で、自から宗山〈さうざん〉と名告る天狗。高慢も高慢だが、また出來 る事も出來る。……東京の本場から、誰も來て怯かされた。某も參つて拉がれた。あ れで一眼でも有らうなら、三重縣に居る代物ではない。今度名古屋へ來た連中も然う ぢや、贋物ではなからうから、何も宗山に稽古をして貰へとは言はぬけれど、鰻の他 に、鯛がある、味を知つて歸れば可いに。――と才發〈さいはじ〉けた商人風のと、 でつぷりした金の入齒の、土地の物持とも思はれる奴の話したのが、風説の中でも耳 に付いた。  叔父はこく/\坐睡をして居たつけ。私あ若氣だ、襟卷で顏を隱して、睨むやうに 二人を見たのよ、ね。  宿の藤屋へ着いてからも、故と、叔父を一人で湯へ遣り……女中にも一寸聞く。… …挨拶に出た番頭にも、按摩の惣市、宗山と云ふ、これ/\した藝人が居るか、と聞 くと、誰の返事も同じ事。思つたよりは高名で、現に、此の頃も藤屋に泊つた、何某 侯の御隱居の御召に因つて、上下〈かみしも〉で座敷を勤〈し〉た時、(さてもな、 鼓ヶ嶽が近い所爲〈せい〉か、これほどの松風は、東京でも聞けぬ、)と御賞美。 (的等〈てきら〉にも聞かせたい。)と宗山が言はれます、とちよろりと饒舌つた。 私が夥間〈なかま〉を―― (的等。)と言ふ。  的等の一人、恁く言ふ私だ……」           十三 「尚ほ聞けば、古市のはづれに、其の惣市、小料理屋の店をして、妾の三人もある、 大した勢だ、と言ふだらう。――何を!……按摩の分際で、宗家の、宗の字、斯の道 の、本山が凄じい。  恁う、按摩さん、舞臺の差〈さし〉は堪忍してくんな。」  と、竊と痛さうに胸を壓へた。 「後で、能く氣がつけば、信州のお百姓は、東京の芝居なんぞ、眞個の猪はないとて 威張る。……な、宮重大根が日本一なら、蕪の千枚漬も皇國無双で、早く言へば、此 の桑名の、燒蛤も三都無類さ。  其の氣で居れば可いものを、二十四の前厄なり、若氣の一圖に苛々〈いら/\〉し て、第一其の宗山が氣に入らない。(的等。)もぐつと癪に障れば、妾三人で赫とし た。  維新以來の世がはりに、……一時〈ひとしきり〉私等の稼業がすたれて、夥間が食 ふに困つたと思へ。弓矢取つては一萬石、大名株の藝人が、イヤ楊枝を削る、かるめ ら燒を露店で賣る。……蕎麥屋の出前持に成るのもあり、現在私が其小父者などは、 田舎の役場に小使ひをして、濁り酒のかすに醉つて、田圃の畝に寢たもんです。……  其の妹だね、可いかい、私の阿母〈おふくろ〉が、振袖の年頃を、困る處へ附込ん で、小金を溜めた按摩めが、些とばかりの貸を枷に、妾にせう、と追ひ廻はす。―― 危く駒下駄を踏返して、駕籠でなくつちや見なかつた隅田川へ落ちようとしたつさ。 ――其の話にでも嫌ひな按摩が。  えゝ。  待て、見えない兩眼で、汝〈うぬ〉が身の程を明く見るやう、療治を一つしてくれ う。  で、翌日〈あくるひ〉は謹んで、參拜した。  其の尊さに、其の晩ばかりは些との酒で宵寢をした、叔父の夜具の裾を叩いて、枕 許へ水を置き、 (女中、其處等へ見物に、)  と言つた心は、穴を壓へて、宗山を退治る料簡。  と出た、風が荒い。荒いのが此の風、五十鈴川で劃〈かぎ〉られて、宇治橋の向う までは吹くまいが、相の山の長坂を下から哄と吹上げる……此が惡く生温くつて、灯 の前ぢや砂が黄色い。月は雲の底に淀〈どんよ〉りして居る。神路山の樹は蒼くても、 二見の波は白からう。酷い勢、ぱつと吹くので、たぢたぢと成る。帽子が飛ぶから、 其のまゝ、藤屋が店へ投返した……と脊筋へ孕んで、坊さんが忍ぶやうに羽織の袖が 飜々〈ひら/\〉する。着替へるのも面倒で、晝間のなりで、神詣での紋付さ。―― 袖疊みに懷中へ捻込んで、何の洒落にか、手拭で頬被りをしたもんです。  門附に成る前兆さ、状〈ざま〉を見やがれ。」と片手を袖へ、二の腕深く突込んだ。 片手で狙ふやうに茶碗を壓へて、 「ね、古市へ行くと、まだ宵だのに寂然〈ひつそり〉して居る。……軒が、がたぴし と鳴つて、軒行燈がばツばツ搖れる。三味線の音もしたけれど、吹さらはれて大屋根 の猫の姿でけし飛ぶやうさ。何の事はない、今夜の此の寂しい新地へ、風を持つて來 て、打着けたと思へば可い。  一軒、地の些と窪んだ處に、溝板〈どぶいた〉から直ぐに竹の欄干に成つて、毛氈 の端は刎上り、疊に赤い縞が出來て、洋燈〈ランプ〉は油煙に燻つたが、眞白に塗つ た姉さんが一人居る、空氣銃、吹矢の店へ、ひよろりとして引掛つたね。  取着きに、肱を支いて、怪しく正面に眼の光る、悟つた顏の達磨樣と、女の顏とを、 七分三分に狙ひながら、 (此の邊に宗山ツて按摩は居るかい。)と此處で實は樣子を聞く氣さ。押懸けて行か うたつて些とも勝手が知れないから。 (先生樣かね、いらつしやります。)と何と、(的等。)の一人に、先生を、然も、 樣づけに呼ぶだらう。 (實は、其の人の何を、一つ、聞きたくつて來たんだが、誰が行つても頼まれてくれ るだらうか。)と尋ねると、大熨斗を書いた幕の影から、色の蒼い、鬢の亂れた、痩 せた中年増が顏を出して、 (知己〈ちかづき〉のない、旅の方には何うか知らぬ、お望なら、内から案内して上 げませうか。)と言ふ。  茶代を奮發〈はず〉んで、頼むと言つた。 (案内して上げなはれ、可い旦那や、氣を付けて、)と目配をする、……と雜作はな い、其の塗つたのが、いきなり、欄干を跨いで出る奴さ。」           十四 「兩袖で口を塞いで、風の中を俯向いて行く。……其の女の案内で、つい向う路地を 入ると、何處も吹附けるから、戸を鎖〈さ〉したが、怪しげな行燈の煽つて見える、 ごた/\した兩側の長屋の中に、溝板の廣い、格子戸造りで、此の一軒だけ二階家。  軒に、御手輕御料理としたのが、宗山先生の住居〈すまひ〉だつた。 (お客樣。)と云ふ女の送りで、づツと入る。直ぐ其處の長火鉢を取卷いて、三人ば かり、變な女が、立膝やら、横坐りやら、猫板に頬杖やら、料理の方は隙らしい。… …上框の正面が、取着きの狹い階子段です。 (座敷は二階かい、)と突然頬被を取つて上らうとすると、風立つので燈を置かない。 眞暗だから一寸待つて、と色めいてざわつき出す。と其の拍子に風のなぐれで、奴等 の上の釣洋燈がぱつと消えた。  其處へ、中仕切の障子が、次の室の燈にほのめいて、二枚見えた。眞中へ、ぱつと 映つたのが、大坊主の額の出た、唇の大い影法師。むゝ、宗山め、居るな、と思ふと、 憎い事には……影法師の、其の背中に掴まつて、坊主を揉んでるのが華奢らしい島田 髷で、此の影は、濃く映つた。  火燧々々〈マツチ/\〉、と女どもが云ふ内に、 (えへん、)と咳〈せきばらひ〉を太くして、大な手で、灰吹を持上げたのが見えて、 離れて煙管〈きせる〉が映る。――最う一倍、其の時圖體が擴がつたのは、袖を開い たらしい。此奴、寢ん寢子の廣袖〈どてら〉を着て居る。  漸と臺洋燈を點けて、 (お待遠でした、さあ、)  つて二階へ。吹矢の店から送つて來た女はと、中段から一寸見ると、兩膝をづしり と、其處に居た奴の背後へ火鉢を離れて、俯向いて坐つた。 (あの娘で可いのかな、他にもござりますよつて。)  と六疊の表座敷で低聲〈こごゑ〉で言ふんだ。――はゝあ、商賣も大略〈あらまし〉 分つた、と思ふと、其奴が、 (お誂は。)  と大な聲。 (あつさりしたもので一寸一口。其處で……)  實は……御主人の按摩さんの、咽喉が一つ聞きたいのだ、と話した。 (咽喉?)……と其奴がね、異〈おつ〉に蔑んだ笑ひ方をしたものです。 (先生樣の……でござりますか、早速然う申しませう。)  で、地獄の手曳め、急に衣紋繕ひをして下りる。少時〈しばらく〉して上つて來た 年紀〈とし〉の少い十六七が、……こりや何うした、よく言ふ口だが芥溜〈はきだめ〉 に水仙です、鶴です。帯も襟も唐縮緬ぢやあるが、もみぢのやうに美しい。結綿のふ つくりしたのに、浅葱鹿の子の絞高な手柄を掛けた。やあ、三人あると云ふ、妾の一 人か。おゝん神の、お膝許で沙汰の限りな! 宗山坊主の背中を揉んでた島田髷の影 らしい。惜しや、五十鈴川の星と澄んだ其の目許も、鯰の鰭で濁らう、と可哀〈あは れ〉に思ふ。此の娘が紫の袱紗に載せて、薄茶を持つて來たんです。  いや、御本山の御見識、其の咽喉を聞きに來たと成ると……客に先づ袴を穿かせる 仕向をするな、眞劍勝負面白い。で、此方も勢、懷中から羽織を出して着直したんだ ね。  やがて、又持出した、杯と云ふのが、朱塗に二見ヶ浦を金蒔繪した、杯臺に構へた のは凄からう。 (先づ一ツ上つて、此方へ。)  と按摩の方から、此の杯の指圖をする。其の工合が、謹んで聞け、と云つた、頗る 權高なものさ。  どかりと其處へ構へ込んだ。其の容子が膝も腹もづんぐりして、胴中ほど咽喉が太 い。耳の傍から眉間へ掛けて、小蛇のやうに筋が畝くる。眉が薄く、鼻がひしやげて、 ソレ其の唇の厚い事、お剰に頬骨がギシと出て、齒を噛むとガチ/\と鳴りさう。左 の一眼べとりと盲ひ、右が白眼で、ぐるりと飜つた、然も一面、念入の黒痘瘡〈くろ あばた〉だ。  が、爭はれないのは、不具者の相格〈さうがう〉、肩つきばかりは、みじめらしく 悄乎〈しよんぼり〉して、猪の熊入道もがつくり投首の拔衣紋で居たんだよ。」           十五 「否な、何も私が意地惡を言ふわけではないえ。」  と湊屋の女中、前垂の膝を堅くして――傍に柔かな髮の房りした島田の鬢を重さう に差俯向く……襟足白く冷たさうに、水紅色〈ときいろ〉の羽二重の、無地の長襦袢 の肩が辷つて、寒げに脊筋の拔けるまで、嫋〈なよ〉やかに、打悄れた、殘んの嫁菜 花の薄紫、浅葱のやうに目に淡い、藤色縮緬の二枚着で、姿の寂しい、二十ばかりの 若い藝者を流盻〈しりめ〉に掛けつゝ、 「此のお座敷は貰うて上げるから、なあ和女〈あんた〉、最うちやつと内へお去にや。 ……島家の、あの三重さんやな、和女、お三重さん、お歸り!」  と屹と言ふ。 「お前さんがおいでやで、ようお客さんの御機嫌を取つてくれるであらうと、小女ば かり附けて置いて、私が勝手へ立違うて居る中や、……勿體ない、お客たちの、お年 寄なが氣に入らぬか、近頃山田から來た言うて、此方の私の許〈とこ〉を見くびつた か、酌をせい、と仰有つても、浮々とした顏はせず……三味線聞かうとおつしやれば、 鼻の頭で笑うたげな。傍に居た喜野が見兼て、私の袖を引きに來た。  先刻から、あゝ、恁うと、口の酸くなるまで、機嫌を取るやうにして、私が和女の 調子を取つて、よしこの一つ上方唄でも、何うぞ三味線の音をさしておくれ。お客樣 がお寂しげな、座敷が浮かぬ、お見やんせ、蝋燭の灯も白けると、頼むやうにして聞 かいても、知らぬ、知らぬ、と言通す。三味線は和女、禁物か。下手や言うて、知ら ぬ云うて、曲なりにもお座つき一つ彈けぬ藝妓が何處にある。  よう、思うてもお見。平の座敷か、其でないか。貴客〈あなた〉がたのお人柄を見 りや分るに、何で和女、勤める氣や。私が濟まぬ。さ、お立ち。えゝ、私が箱を下げ て遣るから。」  と優しいのがツンと立つて、襖際に横にした三味線を邪險に取つて、衝〈つ〉と縦 樣に引立てる。 「あゝれ、」  はつと裳を摺らして、取縋るやうに、女中の膝を竊と抱き、袖を引き、三味線を引 留めた。お三重の姿は崩るゝ如く、芍薬の花の散るに似て、 「堪忍して下さいまし、堪忍して、堪忍して、」と、呼吸の切れる聲が濕〈うる〉ん で、 「お客樣にも、此の内へも、な、何で私が失禮しませう。眞個に、あの、眞個に三味 線は出來ませんもの、姉さん、」  と言〈ことば〉が途絶えた。 「今しがたも、な、他家〈よそ〉のお座敷、隅の方に坐つて居ました。不斷ではない、 兵隊さんの送別會、大陽氣に騷ぐのに、藝のないものは置かん、衣服を脱いで踊るん なら可、可厭なら下げると……私一人歸されて、主人の家へ戻りますと、直ぐに酷い めに逢ひました、え。  三味線も彈けず、踊りも出來ぬ、座敷で衣物が脱げないない、内で脱げ、引剥ぐと、 な、帯も何も取られた上、臺所で突伏せられて、引窓を故と開けた、寒いお月樣のさ す影で、恥かしいなあ、柄杓で水を立續けて乳へも胸へもかけられましたの。  此方から、あの、お座敷を掛けて下さいますと、何うでせう、炬燵で温めた襦袢を 着せて、東京のお客ぢやさうなと、な、取つて置きの着物を出して、能う勤めて歸れ や言うて、御主人が手で、駒下駄まで出すんです。  勤めるたつて、何うしませう……踊は立つて歩行くことも出來ませんし、三味線は、 其が姉さん、手を當てれば誰にだつて、音のせぬ事はないけれど、彈いて聞かせとお つしやるもの、どうして私唄へます。……  不具でもないに情ない。調子が自分で出來ません。何を何うして、お座敷へ置いて 頂けようと思ひますと、氣が怯けて氣が怯けて、口も滿足利けませんから、何が氣に 入らないで、失禮な顏をすると、お思ひ遊ばすのも無理はない、なあ。……  此のお家へは、お臺所で、洗ひ物のお手傳をいたします。姉さん、え、姉さん。」  と袖を擦〈さす〉つて、一生懸命、うるんだ目許を見得もなく、仰向けに成つて女 中の顏。……色が見る見る柔いで、突いて立つた三味線の棹も撓みさうに成つた、と 見ると、二人の客へ、向直つた、ふつくりとある綾の帯の結目で、尚ほ其の女中の袂 を壓へて。……           十六  お三重は、而して、更めて二箇〈ふたり〉の老人に手を支いた。 「藝者でお呼び遊ばした、と思ひますと……お役に立たず、極りが惡うございまして、 お銚子を持ちますにも手が震へてなりません。下婢〈おさん〉をお傍へお置き遊ばし たとお思ひなさいまして、お休みになりますまでお使ひなすつて下さいまし。お背中 を敲きませう、な、何うぞな、お肩を揉まして下さいまし。其なら一生懸命に屹と精 を出します。」  と惜氣もなく、前髮を疊につくまで平伏〈ひれふ〉した。三指づきの折かゞみが、 こんな中でも、打上る。  本を開いて、道中の繪をじろ/\と默つて見て居た捻平が、重くるしい口を開けて、 「子孫末代よい意見ぢや、旅で藝者を呼ぶなぞは、なう、お互に以後謹まう……」と 火箸に手を置く。  所在なささうに半眼で、正面〈まとも〉に臨風榜可小樓を仰ぎながら、程を忘れた 卷莨、此時、口許へ火を吸つて、慌てて灰へ抛つて、彌次郎兵衞は一つ咽せた。 「えゝ、いや、女中、……追つて祝儀はする。此處でと思ふが、其の娘の氣が詰らう から、何處か小座敷へ休まして皆で饂飩でも食べてくれ。私が驕る。で。何か面白い 話をして遊ばして、軈〈やが〉て可い時分に歸すが可い。」と冷くなつた猪口を取つ て、寂しさうに衝と飮んだ。  女中は、これよりさき、支いて突立つた其の三味線を、次の室の暗い方へ密と押遣 つて、がつくりと筋が萎えた風に、折重なるまで摺寄りながら、默然で、燈の影に水 の如く打搖ぐ、お三重の背中を擦つて居た。 「島屋の亭が、そんな酷い事をしをるかえ。可いわ、内の御隱居に然う言うて、沙汰 をして上げよう。心安う思うておいで、眞個にまあ、よう和女、顏へ疵もつけんの。」  と、かよわい腕を撫下ろす。 「あゝ、其も賣物ぢや言ふだけの斟酌に違ひないな。……お客樣に禮言ひや。さ、而 して、何かを話しがてら、御隱居の炬燵へおいで。切下髮に頭巾被つて、丁度な、羊 羹切つて、茶を食べてや。  けども。」  とお三重の、其の清らかな襟許から、優しい鬢毛を差覗くやうに、右瞻左瞻〈とみ かうみ〉て、 「和女、因果やな、眞個に、三味線は彈けぬかい。ペンともシヤンとも。」  で、故と慰めるやうに吻々と笑つた。  人の情に溶けたと見える……氷る涙の玉を散らして、はつと泣いた聲の下で、 「はい、願掛けをしましても、鹽斷ちまでしましたけれど、何うしても分りません、 調子が一つ出來ません。性來〈うまれつき〉でござんせう。」  師走の闇夜に白梅の、面を蝋に照らされる。 「踊もかい。」 「は……い、」 「泣くな、弱蟲、さあ一つ飮まんか! 元氣をつけて。向後何處へか呼ばれた時は、 怯えるなよ。氣の持ちやうで何うにも成る。ジヤカ/\と引鳴らせ、絲瓜の皮で掻廻 すだ。琴も胡弓も用はない。銅鑼鐃〓〈どらねうはち〉を叩けさ。簫の笛をピイと遣 れ、上手下手は誰にも分らぬ。其なら藝なしとは言はれまい。踊が出來ずば體操だ。 一、」  と左右へ、羽織の紐の斷れるばかり大手を擴げ、寛濶な胸を反らすと、 「二よ。」と、庄屋殿が鐵砲二つ、ぬいと前へ突出いて、勵ます如く呵々〈からから〉 と彌次郎兵衞、 「これ、其の位な事は出來よう。いや、其も度胸だな。見た處、其のやうに氣が弱く ては、如何な事も遣つけられまい、可哀相に。」と聲が掠れる。 「あの……私が、自分から、言ひます事は出來ません、お恥しいのでございますが、 舞の眞似が少しばかり立てますの、其も唯一ツだけ。」  と云ふ顏を俯向けて、恥かしさうに又手を支く。 「舞へるかえ、舞へるのかえ。」  と女中は嬉しさうな聲をして、 「おゝ、踊や言うで明かんのぢや。舞へるのなら立つておくれ。此のお座敷、遠慮は 入らん。待ちなはれ、地が要らう。これ喜野、彼處の廣間へ行つてな、内の千が然う 言うたて、誰でも彈けるのを借りて來やよ。」  とぽんとして居た小女の喜野が立たうとする、と、名告つたお千が、打傾いて、優 しく口許を一寸曲げて傾いて、 「待つて、待つて、」           十七 「平時〈いつも〉と違ふ。……一度軍隊へ行きなさると、日曜でなうては出られぬ、 ……お國の爲やで、馴れぬ苦勞もしなさんす。新兵さんの送別會や。女衆が大勢居て も、一人拔けてもお座敷が寂しくなるもの。  可いわ、旅の恥は掻棄てを反對〈あべこべ〉なが、一泊りのお客さんの前、私が三 味線を掻廻さう。お三重さん、立つのは何? 有るものか、無いものか言ふも行過ぎ た……有るものとて無いけれど、何うにか間に合はせたいものではある。」 「あら、姉さん。」  と、三味線取りに立たうとした、お千の膝を、袖で壓へて、些とはなじろんだ、お 三重の愛嬌。 「絲に合ふなら踊ります。あのな、私のはな、お能の舞の眞似なんです。」と、言ひ も果てず、お千の膝に顏を隱して、小父者と捻平に背向〈そがい〉に成つた初々しさ。 包ましやかな姿ながら、身を揉む姿の着崩れして、袖を離れて疊に長い、襦袢の袖は 媚かしい。 「何、其の舞を舞ふのかい。」と彌次郎兵衞は一言云ふ。  捻平膝に本をばつたり伏せて、 「さて、飮まう。手酌でよし。此處で舞なぞは願ひ下げぢや。せめてお題目の太鼓に さつしやい。ふあはゝゝゝ、」と何故か皺枯れた高笑ひ、此の時ばかり天井に哄と響 いた。 「捻平さん、捻さん。」 「おゝ。」  と不性げに漸と應える。 「何も道中の話の種ぢや、一寸見物をしようと思ふね。」 「先づ、ご免ぢや。」 「然らば、其許は目を瞑〈ねむ〉るだ。」 「えゝ、縁起の惡いことを言はさる。……明日にも江戸へ歸つて、可愛い孫娘の顏を 見るまでは、死んでもなか/\目は瞑らぬ。」 「さて/\捻るわ、ソレ其處が捻平さね。勝手になされ。さあ、あの娘立つたり、此 の爺樣に遠慮は入らぬぞ。それ、何にも藝がないと云うて肩腰さすらうと卑下をする。 どんな眞似でも一つ遣れば、立派な藝者の面目が立つ。祝儀取るにも心持が可からう から、是非見たい。が、しかし心のまゝにしなよ。決して勤を強ひるぢやないぞ。」 「あんなに仰有つて下さるもの。さあ、どんな事するのや知らんが、まづうても大事 ない、大事ない、それ、支度は入らぬかい。」 「あい、」  と僅かに身を起すと、紫の襟を噛むやうに――ふつくりしたのが、あはれに窶れた ――  頤深く、恥かしさうに、内懷を覗いたが、膚身に着けたと思はるゝ、……胸やゝ白 き衣紋を透かして、濃い紫の細い包、袱紗の縮緬が飜然〈ひらり〉と飜〈かへ〉ると、 燭臺に照つて、颯と輝く、銀の地の、あゝ、白魚の指に重さうな、一本の舞扇。  晃然〈きらり〉とあるのを押頂くやう、前髮を掛けて、扇を其の、玉簪の如く額に 當てたを、其のまゝ折目高にきり/\と、月の出汐の波の影、靜かに照々〈てら/\〉 と開くとともに、顏を隱して、反らした指のみ、兩方親骨にちらりと白い。  又川口の汐加減、隣の廣間の人動搖〈どよ〉めきが颯と退く。  唯見れば皎然たる銀の地に、黄金の雲を散らして、紺青の月、唯一輪を描いたる、 扇の影に聲澄みて、   「――其時あま人申樣、もし此たまを取得たらば、此御子を世繼の御位になし給   へと申しかば、子細あらじと領承し給ふ、扨て我子ゆゑに捨ん命、露ほども惜か   らじと、千尋のなはを腰につけ、もし此玉をとり得たらば、此なはを動かすべし、   其時人々ちからをそへ――」  と調子が緊つて、   「……ひきあげ給へと約束し、一の利劍を拔持つて、」  と扇をきりゝと袖を直す、と手練〈てだれ〉ぞ見ゆる、自から、衣紋の位に年長け て、瞳を定めた其の顏〈かんばせ〉。硝子戸越に月さして、霜の川浪照添ふ俤。膝立 据ゑた疊にも、燭臺の花颯と流るゝ。 「あゝ、待てい。」  と捻平、力の籠つた聲を掛けた。           十八  で、火鉢をずつと傍へ引いて、 「女中、も些とこれへ火をおくれ。いや、立つに及ばん。其の、鐵瓶をはづせば可し。」 と捻平がいひつける。  此の場合なり、何となく、お千も起居に身體が緊つた。  靜かに炭火を移させながら、捻平は膝をずらすと、革鞄などは次の室へ……其だけ 床の間に差置いた……車の上でも頸に掛けた風呂敷包を、重いもののやうに兩手で柔 かに取つて、膝の上へ据ゑながら、お千の顏を除けて、火鉢の上へ片手を裏表かざし つゝ、 「あゝ、これ、お三重さんとか言ふの、其のお娘、手を上げられい、さ、手を上げて、」  と言ふ。……お三重は利劍で立たうとしたのを、慌しく捻平に留められたので、此 の時まで、差開いた其の舞扇が、唇の花に霞むまで、俯向いた顏をひたと額につけて、 片手を疊に支いて居た。恁う捻平に聲懸けられて、わづかに顏を振上げながら、きり /\と一先づ閉ぢると、其の扇を疊むに連れて、今まで、濶と瞳を張つて見据ゑて居 た眼を、次第に塞いだ彌次郎兵衞は、ものも言はず、火鉢のふちに、ぶる/\と震ふ 指を、と支えた態〈なり〉の、卷莨から、音もしないで、ほろほろと灰がこぼれる。  捻平座布團を一膝出て、 「いや、更めて、熟〈とく〉と、見せて貰はうぢやが、先づ此方へ寄らしやれ。えゝ、 今の謠の、氣組みと、其の形〈かた〉。教へも教へた、さて、習ひも習うたの。  恁うまで此を教ふるものは、四國の果にも他にはあるまい。あらかた人は分つたが、 其となく音信〈たより〉も聞きたい。の、其許も默つて聞かつしやい。」  と彌次が方に、捻平目遣ひを一つして、 「先づ、何うして、誰から、御身は習うたの。」 「はい、」  と弱々と返事した。お三重は最う、他愛なく娘に成つて、ほろりとして、 「あの、前刻〈さつき〉も申しましたやうに、不器用も通越した、調子はづれ、其の 上覺えが惡うござんして、長唄の宵や待ちの三味線のテンもツンも分りません。此の 間まで居りました、山田の新町の姉さんが、朝と晝と、手隙な時は晩方も、日に三度 づゝも、あの噛んで含めて、胸を割つて刻込むやうに教へて下すつたんでございます けれど、自分でも悲しい。……曉の、とだけ十日かゝつて、漸と眞似だけ彈けますと、 夢に成つて最う手が違ひ、心では思ひながら、三の手が一へ滑つて、とぼけたやうな 音がします。  撥で咽喉を引裂かれ、煙管で胸を打たれたのも、絲を切つた數より多い。  其も何も、邪險でするのではないのです。……私が、な、まだ其の前に、鳥羽の廓 に居ました時、……」 「あゝ、お前さんは、鳥羽のものかい、志摩だな。」  と彌次郎兵衞がフト聞き入れた。 「否、私はな、矢張お伊勢なんですけれど、父〈おとつ〉さんが死くなりましてから、 繼母に賣られて行きましたの。はじめに聞いた奉公とは嘘のやうに違ひます。――お 客の言ふことを聞かぬ言うて、陸で惡くば海で稼げつて、崕の下の船着から、夜にな ると、男衆に捉へられて、小船に積まれて海へ出て、月があつても、島の蔭の暗い處 を、危いなあ、ひや/\する、木の葉のやうに浮いて歩行いて、寂〈しん〉とした海 の上で……悲しい唄を唄ひます。而してお客の取れぬ時は、船頭衆の胸に響いて、女 が戀しうなる禁厭〈まじなひ〉ぢや、お茶挽いた罰や、と云つて、船から海へ、びし や/\と追下ろして、汐の干た巖へ上げて、巖の裂目へ俯向けに口をつけさして、 (こいし、こいし。)と呼ばせます。若い衆は舳に待つてて、聲が切れると、榮螺の 殼をぴし/\と打着けますの。汐風が濡れて吹く、夏の夜でも寒いもの。……私の其 は、師走から、寒の中で、八百八島あると言ふ、どの島も皆白い。霜風が凍りついた、 巖の角は針のやうな、あの、其の上で、(こいし、こいし。)つて、唇の、しびれる ばかりに泣いて居る。咽喉は裂け、舌は凍つて、潮を浴びた裾から冷え通つて、正體 がなくなる處を、貝殼で引掻かれて、漸と船で正氣が付くのは、灯もない、何の船や ら、あの、まあ、鬼の支いた棒見るやうな帆柱の下から、皮の硬い大な手が出て、引 掴んで抱込みます。  空には蒼い星ばかり、海の水は皆黒い。暗の夜の血の池に落ちたやうで、あゝ、生 きて居るか……千鳥も鳴く、私も泣く。……お恥かしうござんす。」  と翳す扇の利劍に添へて、水のやうな袖をあて、顏を隱した其の風情。人は聲なく して、たゞ、ちり/\と、蝋燭の涙白く散る。  此の物語を聞く人々、如何に日和山の頂より、志摩の島々、海の凪、霞の池に鶴の 舞ふ、あの、麗朗〈うらゝか〉なる景色を見たるか。           十九 「泣いてばかり居ますから、氣の荒いお船頭が、こんな泣蟲を買ふほどなら、伊良子 崎の海鼠を蒲團で、彌島の烏賊を遊ぶつて、何の船からも投出される。  又、あの巖に追上げられて、霜風の間々〈あひ/\〉に、(こいし、こいし。)と 泣くのでござんす。  手足は凍つて貝になつても、(こいし)と泣くのが本望な。巖の裂目を沖へ通つて、 海の果まで響いて欲しい。もう船も去〈い〉ね、潮も來い。……其のまゝで石に成つ てしまひたいと思ふほど、お客樣、私は、あの、」  と亂れた襦袢の袖を銜えた、水紅色〈ときいろ〉映る瞼のあたり、ほんのりと薄く して、 「心ばかりで長い事、思つて居りまする人があつて。……藝も容色〈きりやう〉もな いものが、生意気を云ふやうですが、……たとひ殺されても、死んでもと、心願掛け て居りました。  一晩〈あるばん〉も、矢張蒼い灯の船に買はれて、其の船頭衆の言ふ事を肯かなか つたので、此方の船へ突返されると、艫の處に行火〈あんか〉を跨いで、どぶろくを 飮んで居た、私を送りの若い衆がな、玉代だけ損をしやはれ、此方衆の見る前で、此 の女を、海士にして慰まうと、月の良い晩でした。  胴の間で着物を脱がして、膚の紐へなはを付けて、倒〈さかさま〉に海の深みへ沈 めます。づん/\づんと沈んでな、最う奈落かと思ふ時、釣瓶のやうにきり/\と、 身體を車に引上げて、髮の雫も切らせずに、又海へ突込みました。  此の時な、其の繋り船に、長崎邊の伯父が一人乗込んで居ると云うて、お小遣の無 心に來て、泊込んで居りました、二見から鳥羽がよひの馬車に、馭者をします、寒中、 襯衣〈しやつ〉一枚に袴服〈ずぼん〉を穿いた若い人が、私のそんなにされるのが、 餘り可哀相な、と然う云うて、伊勢へ歸つて、其の話をしましたので、今、あの申し ました。……  此の間まで居りました、古市の新地の姉さんが、隨分なお金子を出して、私を連れ 出してくれましたの。  其でな、鳥羽の鬼へも面當に、藝をよく覺えて、立派な藝子に成れやツて、姉さん が、然うやつて、目に涙を一杯ためて、ぴし/\撥で打ちながら、三味線を教へてく れるんですが、何うした因果か、些とも覺えられません。  人さしと、中指と、一寸の間を、一日に三度づゝ、一週間も鳴らしますから、近所 隣も迷惑して、御飯もまづいと言ふのですえ。  又月の良い晩でした。あゝ、今の御主人が、深切なだけに尚ほ辛い。……何の、身 體の切ない、苦しいだけは、生命が絶えれば其で濟む。一層また鳥羽へ行つて、あの 巖に掴まつて、(こいし、こいし、)と泣かうか知らぬ、膚の紐になはつけて、海へ 入れられるが氣安いやうな、と島も海も目に見えて、ふら/\と月の中を、千鳥が、 冥土の使ひに來て、連れて行かれさうに思ひました。……格子前へ流しが來ました。  新町の月影に、露の垂りさうな、あの、ちら/\光る撥音で、     ……博多帯しめ、筑前絞り――  と、何とも言へぬ好い聲で。 (へい、不調法、お喧しう、)つて、其のまゝ行きさうにしたのです。 (あゝ、身震がするほど上手い、あやかるやうに拜んで來な、それ、お賽銭をあげる 氣で。)  と瀧縞お召の半纏着て、灰に袖のつくほどに、しんみりと聞いてやつた姉さんが、 長火鉢の抽斗〈ひきだし〉からお寶を出して、キイと、あの繻子が鳴る、帯へ插んだ 懷紙に捻つて、私に持たせなすつたのを、盆に乘せて、戸を開けると、もう一二間行 きなさいます。二人の間にある月をな、影で繋いで、ちやつと行つて、 (是喃〈こいし〉。)と呼んで、出した盆を、振向いてお取りでした。私や、思はず 其の手に縋つて、涙がひとりでに出ましたえ。男で居ながら、こんなにも上手な方が あるものを、切めて其の指の一本でも、私の身體についたらばと、つい、おろ/\と 泣いたのです。  頬被をして居なすつた。あの其の、私の手を取つたまゝ――默つて、少し脇の方へ 退いた處で、(何を泣く、)つて優しい聲で、其の門附が聞いてくれます。もう恥も 何も忘れてな、其の、あの、何うしても三味線が覺えられぬ事を話しました。」           二十 「よく聞いて、暫時熟と顏を見て居なさいました。 (藝事の出來るやうに、神へ願懸をすると云つて、夜の明けぬ内、外へ出ろ。鼓ヶ嶽 の裾にある、雜樹林の中へ來い。三日とも思ふけれど、主人には、七日と頼んで。す ぐ、今夜の明方から。……分つたか。若い女の途中が危い、此の入口まで來て待つて 遣る、化されると思ふな、夢ではない。……)  とお言ひのなり、三味線を胸に附着けて、フイと暗がりへ附着いて、黒塀を去〈い〉 きなさいます。……  其の事は言はぬけれど、明方の三時から、夜の白むまで垢離取つて、願懸けすると 頼んだら、姉さんは、喜んで、承知してくれました。  殺されたら死ぬ氣でな、――大恩ある御主人の、此の格子戸も見納めか、と思ふや うで、軒下へ出て振返つて、門を視めて、立つて居るとな。 (おいで。)  と云つて、突然〈いきなり〉、背後から手を取りなすつた、門附の其のお方。  私はな、よう覺悟はして居たが、天狗樣に攫はれるかと思ひましたえ。  あとは夢やら現やら。明方内へ歸つてからも、其の後は二日も三日も唯茫として居 りましたの。……鼓ヶ嶽の松風と、五十鈴川の流の音と聞えます、雜木の森の暗い中 で、其の方に教はりました。……舞も、あの、さす手も、ひく手も、唯背後から背中 を抱いて下さいますと、私の身體が、舞ひました。其れだけより存じません。  尤も、私が、あの、鳥羽の海へ投入れられた、其の身の上も話しました。其の方は 不思議な事で、私とは敵のやうな中だ事も、種々入組んでは居りますけれど、鼓ヶ嶽 の裾の話は、誰にも言ふな、と口留めをされました。何んにも話がなりません。  五日目に、最う可いから、此を舞つて座敷をせい。藝なし、とは言ふまい、ツて、 お記念〈かたみ〉なり、しるしなりに、此の舞扇を下さいました。」  と袖で胸へ緊乎〈しつか〉と抱いて、ぶる/\と肩を震はした、後毛がはらりと成 る。  捻平溜息をして頷き、 「いや、能く分つた。教へ方も、習ひ方も、話されずと能く分つた。時に、山田に居 て、何うぢやな、其の舞だけでは勤まらなんだか。」 「はい、はじめて謠ひました時は、皆が、わつと笑ふやら、中には恐い怖いと云ふ人 もござんす。何故言ふと、五日ばかり、あの私がな、天狗樣に誘ひ出された、と風説 したのでござんすから。」 「は、如何にも師匠が魔でなくては、其の立方は習はれぬわ。むゝ、で、何かの、伊 勢にも謠うたふものの、五人七人はあらうと思ふが、其の連中には見せなんだか。」 「えゝ、物好に試すつて、呼んだ方もありましたが、地をお謠ひなさる方が、何ぢや やら、些とも、ものに成らぬと言つて、すぐにお留〈や〉めなさいましたの。」 「はゝあ、いや、其の足拍子を入れられては、やはな謠は斷〈ちぎ〉れて飛ぶぢやよ。 はゝゝはゝ、唸る連中粉灰ぢやて。かたがた此の桑名へ、住替へとやらしたのかの。」 「狐狸や、いや、あの、吠えて飛ぶ處は、梟の憑物がしよつた、と皆氣違ひにしなさ います。姉さんも、手放すのは可哀相や言つて下さいましたけれど、……周圍〈まわ り〉の人が承知しませず、……此の桑名の島屋とは、行かひはせぬ遠い中でも、姉さ んの縁續きでござんすから、預けるつもりで寄越されましたの。」 「おゝ、其處で、又辛い思をさせられるか。先づ/\、其は後でゆつくり聞かう。… …其のお娘、私も同一〈おんなじ〉ぢや。天魔でなくて、若い女が、術〈わざ〉をす るはと、仰天したので、手を留めて濟まなんだ。さあ、立直して舞うて下さい。大儀 ぢやらうが一さし頼む。私も久ぶりで可懷しい、御身の姿で、若師匠の御意を得よう。」  と言の中に、膝で解く、其の風呂敷の中を見よ。土佐の名手が畫いたやうな、紅い 調は立田川、月の裏皮、表皮。玉の砧を、打つや、うつゝに、天人も聞けかしとて、 雲井、と銘ある秘藏の塗胴。老の手捌き美しく、錦に梭〈ひ〉を、投ぐるやう、さら /\と緒を緊めて、火鉢の火に高く翳す、と……呼吸をのんで驚いたやうに見て居た お千は、思はず、はつと兩手を支いた。  藝の威嚴は爭はれず、此の捻平を誰とかする、七十八歳の翁、邊見秀之進。近頃孫 に代〈よ〉を讓つて、雪叟とて隱居した、小鼓取つて、本朝無雙の名人である。  いざや、小父者は能役者、當流第一の老手、恩地源三郎、即是。  此の二人は、侯爵津の守が、參宮の、假の館に催された、一調の番組を勤め濟まし て、あとを膝栗毛で歸る途中であつた。           二十一  却説〈さて〉、饂飩屋では門附の兄哥が語り次ぐ。 「いや、其から、種々勿體つける所作があつて、やがて大坊主が謠出した。  聞くと、何うして、思つたより出來て居る、按摩鍼の藝ではない。……戸外〈おも て〉をどツどと吹く風の中へ、此の聲を打撒けたら、あのピイ/\笛ぐらゐに纏まら うと云ふもんです。成程、隨分夥間〈なかま〉には、此奴に(的等。)扱ひにされよ うと言ふのが少くない。  が、私に取つちや小敵だつた。けれども藝は大事です、侮るまい、と氣を緊めて、 其處で、膝を。」  と坐直ると、肩の按摩が上へ浮いて、門附の衣紋が緊る。 「……此の膝を丁と叩いて、默つて二ツ三ツ拍子を取ると、此の拍子が尋常〈たゞ〉 んぢやない。……親なり師匠の叔父きの膝に、小兒の時から、抱かれて習つた相傳だ。 對手の節の隙間を切つて、伸縮みを緊めつ、緩めつ、聲の重味を刎上げて、咽喉の呼 吸を突崩す。寸法を知らず、間拍子の分らない、滿更の素人は、盲目聾で氣にはしな いが、些と商賣人の端くれで、聊か心得のある對手だと、トンと一つ打たれただけで、 最う聲が引掛つて、節が不状〈ぶざま〉に蹴躓く。三味線の間も同一だ。何うです、 意氣なお方に釣合はぬ……ン、と一つ刎ねないと、野暮な矢の字が、とうふにかすが ひ、糠に釘でぐしやりと成らあね。  さすがに心得のある奴だけ、商賣人にぴたりと一ツ、拍子で聲を押伏せられると、 張つた調子が直ぐにたるんだ。思へば餘計な若氣の過失〈あやまち〉、此方は畜生の 淺猿〈あさま〉しさだが、對手は素人の悲しさだ。  あはれや宗山。見る内に、額にたら/\と衝と汗を流し、死聲を振絞ると、頤から 胸へ膏〈あぶら〉を絞つた……あの其の大きな唇が海鼠を干したやうに乾いて來て、 舌が硬〈こは〉つて呼吸が發奮〈はず〉む。わなわな震へる手で、疊を掴むやうに、 うたひながら猪口を拾はうとする處、ものの本を未だ一枚とうたはぬ前、ピシリと其 處へ高拍子を打込んだのが、下腹へ響いて、ドン底から節が拔けたものらしい。  はつと火のやうな呼吸を吐く、トタンに眞俯向けに突伏す時、長々と舌を吐いて、 犬のやうに疊を嘗めた。 (先生、御病氣か。)  つて私あ莞爾したんだ。 (是非聞きたい、平に何うか。宗山、此の上に聾に成つても、貴下のを一番、聞かず には死なれぬ。)  と拳を握つて、せい/\言つてる。 (按摩さん。)  と私は呼んで、 (尾上町の藤屋まで、何のくらゐ離れて居る。) (何んで、)  と聞く。 (間に依つては聲が響く。内證で來たんだ。……藤屋には私の聲が聞かしたくない、 叔父が一人寢てござるんだ。勇士は霜の氣勢を知るとさ――唯さへ目敏い老人〈とし より〉が、此の風だから寢苦しがつて、フト起きてでも居るとならない、祝儀は置い た。歸るぜ。)  ト宗山が、凝と塞いだ目を、ぐる/\と動かして、 (暫く、今の拍子を打ちなされ……古市から尾上町まで聲が聞えようか、と言ひなさ る、御大言、年のお少さ。まだ一度も聲は聞かず、顏は固より見た事もなけれども… …當流の大師匠、恩地源三郎どの養子と聞く……同じ喜多八氏の外にはあるまい。然 やうでござらう、恩地、)  と私の名を丁と言ふ。  あゝ、醉つた、」  と杯をばかりと落した。 「饒舌つて惡い私の名ぢやない。叔父に濟まない。二人とも、誰にも言ふな。……」  と鷹揚で、按摩と女房に目をあしらひ。 「私は羽織の裾を拂つて、 (違つたやうな、當つたやうだ、が、何しろ、東京の的等の一人だ。宗家の宗、本山 の山、宗山か。若布〈わかめ〉の附燒でも土産に持つて、東海道を這ひ上れ。恩地の 臺所から音信れたら、叔父には内證で、居候の腕白が、獨楽を廻す片手間に、此の浦 船でも教へて遣らう。)  とずつと立つ。」           二十二 「痘瘡の中に白眼を剥いて、よた/\と立上つて、憤つた聲ながら、 (可懷いわ、若旦那、盲人の悲しさ顏は見えぬ。觸らせて下され、つかまらせて下さ れ、一撫で、撫でさせて下され。)  と言ふ。  いや、撫でられて堪りますか。  摺拔けようとするんだがね、六疊の狹い座敷、盲目でも自分の家だ。  素早く、階子段の降口を塞いで、無手〈むず〉と、大手を擴げたらう。……影が天 井へ懸つて、充滿〈いつぱい〉の黒坊主が、汗膏を流して撫でうとする。  いや、其の嫉妬執着の、險な不思議の形相が、今以て忘れられない。 (可厭だ、可厭だ、可厭だ。)と、此方は夢中に出ようとする、よける、留める、行 違ふで、やはな、かぐら堂の二階中みし/\と鳴る。風は轟々と當る。唯黒雲に捲か れたやうで、可恐しくなつた、凄さは凄し。  衝と、引潜つて、ドンと飛び摺りに、どゞゞと駈け下りると、ね。 (袖や、止めませい。)  と宗山が二階で喚〈わめ〉いた。皺枯聲が、風でぱつと耳に當ると、三四人立騷ぐ 女の中から、すつと美しく姿を拔いて、格子を開けた門口で、しつかりと掴まる。吹 きつけて揉む風で、颯と紅い褄が搦むやうに、私に縋つたのが、結綿の、其の娘です。  背中を揉んでた、薄茶を出した、あの影法師の妾だらう。  ものを言ふ清〈すゞし〉い、張のある目を上から見込んで、構ふものか、行きがけ だ。 (可愛い人だな、おい、殺されても死んでも、人の玩弄物〈おもちや〉にされるな。)  と言捨てに突放す。 (あれ。)と云ふ聲がうしろへ、ぱつと吹飛ばされる風に向つて、砂塵の中へ、や、 躍込むやうにして一散に駈けて返つた。  後に知つた、が、妾ぢやない。お袖と云ふ其の可愛いのは、宗山の娘だつたね。其 れを娘と知つて居たら、いや、その時だつて氣が付いたら、按摩が親の仇敵でも、私 あ退治るんぢやなかつたんだ。」  と不意にがツくりと胸を折つて俯向くと、按摩の手が、肩を辷つて、ぬいと越す。 ……其の袖の陰で、取るともなく、落した杯を探りながら、 「もしか、按摩が尋ねて來たら、堅く居らん、と言へ、と宿のものへ吩〈いひ〉附け た。叔父のすや/\は、上首尾で、並べて取つた床の中へ、すつぽり入つて、引被つ て、可心持に寢たんだが。  あゝ、寢心の好い思ひをしたのは、其晩切さ。  何故ツて、宗山が其の夜の中に、私に辱められたのを口惜しがつて、傲慢な奴だけ に、ぴしりと、もろい折方、憤死して了つたんだ。七代まで流儀に祟る、と手探りで にじり書した遺書〈かきおき〉を殘してな。死んだのは鼓ヶ嶽の裾だつた。あの廣場 の雜樹へ下つて、夜が明けて、漸ツと小止〈こやみ〉に成つた風に、ふら/\とまだ 動いて居たとさ。  此方は何にも知らなからう、風は凪ぐ、天氣は可。叔父は一段の上機嫌。……古市 を立つて二見へ行つた。朝の中、朝日館と云ふのへ入つて、いづれ泊る、……先へ鳥 羽へ行つて、ゆつくりしようと、直ぐに車で、上の山から、日の出の下、二見の浦の 上を通つて、日和山を棧敷に、山の上に、海を青疊にして二人で半日。やがて朝日館 へ歸る、……と何うだ。  旅籠の表は黒山の人だかりで、内の廊下もごつた返す。大袈裟な事を言ふんぢやな い。伊勢から私たちに逢ひに來たのだ。按摩の變事と遺書とで、其の日の内に國中へ 知れ渡つた。別に其の事について文句は申さぬ。藝事で宗山の留〈とゞめ〉を刺した ほどの豪い方々、是非に一日、山田で謠が聞かして欲しい、と羽織袴、フロツクで押 寄せたらう。  いや、叔父が怒るまいか。日本一の不所存もの、恩地源三郎が申渡す、向後一切、 謠を口にすること罷成らん。立處に勘當だ。さて宗山とか云ふ盲人、己〈おの〉が不 束なを知つて屈死した心、斯くの如きは藝の上の鬼神なれば、自分は、葬式〈とむら ひ〉の送迎、墓に謠を手向けう、と人々と約束して、私は其の場から追出された。  あとの事は何も知らず、其の時から、津々浦々をさすらひ歩行く、門附の果敢い身 の上。」           二十三 「名古屋の大須の觀音の裏町で、これも浮世に別れたらしい、三味線一挺、古道具屋 の店にあつたを工面したのがはじまりで、一錢二錢、三錢ぢや木賃で泊めぬ夜も多し、 日數をつもると野宿も半分、京大阪と經めぐつて、西は博多まで行つたつけ。  何だか伊勢が氣に成つて、妙に急いで、逆戻りに又來た。……  私が言つた唯一言、(人のおもちやに成るな。)と言つたを、生命がけで守つて居 る。……可愛い娘に逢つたのが一生の思出だ。  何う成るものでもないんだから、早く影をくらましたが、四日市で煩つて、女房さ ん。」  と呼びかけた。 「お前さんぢやないけれど、深切な人があつた。漸と足腰が立つたと思ひねえ。上方 筋は何でもない、間違つて謠を聞いても、お百姓が、(風呂が沸いた)で竹法螺吹く も同然だが、東へ上つて、箱根の山のどてつぱらへ手が掛ると、もう、な、江戸の鼓 が響くから、何う我慢が成るものか! うつかり謠をうたひさうで危くつて成らない からね、今切は越せません。これから大泉原、員辨、阿下岐をかけて、大垣街道。岐 阜へ出たら飛騨越で、北國筋へも廻らうか知ら、と富田近所を三日稼いで、桑名へ來 たのが昨日だつた。  其の今夜は何うだ。不思議な人を二人見て、遣切れなくなつて此家へ飛込んだ。が、 流の笛が身體に刺る。平時よりは尚ほ激しい。其處へ又影を見た。美しい影も見れば、 可恐しい影も見た。此處で按摩が殺す氣だらう。構ふもんか、勝手にしろ、似たもの を引つけて、と然う覺悟して按摩さん、背中へ掴つて貰つたんだ。  が、筋を拔かれる、身を〓〈むし〉られる、私が五體は裂けるやうだ。」  と又差俯向く肩を越して、按摩の手が、其れも物に震へながら、はた/\と戰きな がら、背中に獅噛んだ面の附着く……門附の袷の褪せた色は、膚薄な胸を透かして、 動悸が筋に映るやう、あはれ、博多の柳の姿に、土蜘蛛一つ搦みついたやうに凄く見 える。 「誰や!」  と、不意に吃驚したやうな女房の聲、うしろ見られる神棚の灯も暗くなる端に、べ ろ/\と紙が濡れて、門の腰障子に穴があいた。其れを見咎めて一つ喚く、とがた /\と、跫音高く、駈け退いたのは御亭どの。  いや、困つた親仁が、一人でない、薪雜棒、棒千切れで、二人ばかり、若いものを 連れて居た。 「御老體、」  雪叟が小鼓を緊めたのを見て……恁う言つて、恩地源三郎が儼然として顧みて、 「破格のお附合ひ、恐多いな。」  と膝に扇を取つて、會釋をする。 「相變らず未熟でござる。」  と雪叟が禮を返して、其のまゝ座を下へおりんとした。 「平に、其れは。」 「いや、蒲團の上では、お流儀に失禮ぢや。」 「は、其の娘の舞が、甥の奴の俤ゆゑに、遠慮した、では私も、」  と言つた時、左右へ、敷物を齊〈ひと〉しく刎ねた。 「嫁女、嫁女、」  と源三郎、二聲呼んで、 「お三重さんか、私は嫁と思ふぞ。喜多八の叔父源三郎ぢや、更めて一さし舞へ。」  二人の名家が屹と居直る。  瞳の動かぬ氣高い顏して、恍惚と見詰めながら、よろ/\と引退〈さが〉る、と黒 髮うつる藤紫、肩も腕も嬌娜〈なよやか〉ながら、袖に構へた扇の利劍、霜夜に聲も 凛々と、 「……引上げ給へと約束し、一つの利劍を拔持つて……」  肩に綾なす鼓の手影、雲井の胴に光さし、艷が添つて、名譽が籠めた心の花に、調 の緒の色、颯と燃え、ヤオ、と一つ聲が懸る。 「あつ、」  とばかり、屹と見据ゑた――能樂界の鶴なりしを、雲隱れつ、と惜まれた――恩地 喜多八、饂飩屋の床几から、衝と片足を土間に落して、 「雪叟が鼓を打つ! 鼓を打つ!」と身を揉んだ、胸を切めて、慌しく取つて蔽うた、 手拭に、かつと血を吐いたが、かなぐり棄てると、右手を掴んで、按摩の手を緊乎と 取つた。 「祟らば、祟れ、さあ、按摩。湊屋の門まで來い。最う一度、若旦那が聞かして遣ら う。」  と、引立てて、ずいと出た。  「(源三郎)……かくて龍宮に至りて宮中を見れば、其の高さ三十丈の玉塔に、彼    玉をこめ置、香花〈かうげ〉を備へ、守護神は八龍並居たり、其外惡魚鰐の口、    遁れがたしや我命、さすが恩愛の故郷〈ふるさと〉のかたぞ戀しき、あの浪の    あなたにぞ……」  爾時〈そのとき〉、漲る心の張に、島田の元結弗〈ふツ〉つと切れ、肩に崩るゝ緑 の黒髮。水に亂れて、灯に搖めき、疊の海は裳に澄んで、塵も留めぬ舞振かな。  「(源三郎)……我子は有らん、父大臣〈おとゞ〉もおはすらむ……」  と聲が幽んで、源三郎の地謠ふ節が、フト途絶えようとした時であつた。  此の湊屋の門口で、爽に調子を合はした。……其の聲、白き虹の如く、衝と來て、 お三重の姿に射した。  「(喜多八)……さるにても此のまゝに別れ果なんかなしさよと、涙ぐみて立ちし    が……」 「やあ、大事な處、倒れるな。」  と源三郎すつと座を立ち、よろめく三重の背を支へた、老の腕に女浪の袖、此の後 見の大磐石に、みるの緑の黒髮かけて、颯と翳すや舞扇は、銀地に、其の、雲も戀人 の影も立添う、光を放つて、灯を白めて舞ふのである。  舞ひも舞うた、謠ひも謠ふ。はた雪叟が自得の秘曲に、桑名の海も、トトと大鼓 〈おおかは〉の拍子を添へ、川浪近くタタと鳴つて、太鼓の響に汀を打てば、多度山 の霜の頂、月の御在所ヶ嶽の影、鎌ヶ嶽、冠ヶ岳も冠着て、客座に並ぶ氣勢あり。  小夜更けぬ。町凍てぬ。何處としもなく虚空〈おほぞら〉に笛の聞えた時、恩地喜 多八は唯一人、湊屋の軒の蔭に、姿蒼く、影を濃く立つて謠ふと、月が棟高く廂を照 らして、渠の面に、扇のやうな光を投げた。舞の扇と、うら表に、其處でぴたりと合 ふのである。  「(喜多八)……又思切つて手を合せ、南無や志渡寺の觀音薩〓〈た〉の力をあは    せてたび給へとて、大悲の利劍を額にあて、龍宮に飛び入れば、左右へはつと    ぞ退いたりける、」  と謠ひ澄ましつゝ、 「背〈せな〉を貸せ、宗山。」と言ふとともに、恩地喜多八は疲れた状して、先刻か ら其の裾に、大きく何やら踞まつた、形のない、ものの影を、腰掛くるやう、取つて 引敷くが如くにした。  路一筋白くして、掛行燈の更けた彼方此方、杖を支いた按摩も交つて、ちら/\と 人立ちする。 底本:岩波書店 鏡花全集 入力:西岡 勝彦 w-hill@mx6.nisiq.net 1998/3/24