●底本には明治24年博文館発行の近古文藝温知叢書第五編(帝国大学教授内藤耻叟・慶應義塾大学部講師小宮山綏介標註)を使用した。
●底本の頭注は省略した。
●底本のルビは、/ /内にすべて収録した。
●底本は全編読点(、)のみを用いるが、適宜句点(。)に置き換えた。また、適宜句読点、段落を追加した。
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近世物之本江戸作者部類二卷


底本解題

此書、撰人ノ氏名詳カナラス、蟹行散人ハ、其別號ナルニ似タリ、又蚊身田龍唇窟トハ、其人或ハ藩士ニシテ、天保ノ頃神田辰ノ口邊ノ第舍ニ在シモノカ、又平賀鳩溪ノ没セシトキ年十三ナリト云フニ據レハ、明和四年ノ生レニテ、此編ヲ草セシ天保五年ニハ、凡六十八歳ナルヘシ、其他ハ總テ考フル所ナシ、第三以下ハ、當時已ニ成稿ナカリシヨシ、書中ニ見エタリ、又雲府舘ノ傳ニ據レハ、外ニ京坂ノ作者部類アリシニ似タレト、其書傳本アルヤ否ヤ詳カナラス、按スルニ、書中ニ載スル所ハ、天保以上江戸ニ居住セシ稗史ノ作者一百二十人ノ傳ナレト、曲亭ガイハデモノ記ヲ藍本トシテ纂述シタレハ、京傳及曲亭ガ事蹟ノミ殊ニ委曲ニシテ、其他ハ甚タ匆草ナルモノ多シ、然レトモ撰人ハ唯稗史ヲ嗜メルノミナラス、少歳ヨリ親シク其人ニ交リシモ尠カラサルヨシナレハ、幸ニ此編ニ由テ、其逸事ヲ傳ヘシモ多カルヘシ、然ラハ撰人ノ功徳モ亦無量ナリト云フヘシ、但原本ハ編者ガ見ル所、只一本ノミニテ類本ヲ得サレハ、其訛闕ヲ補訂スルニ由ナシ、是ヲ遺憾トス
戯作者ノ傳記ヲ録スルノ書ハ本書ノ外更ニ戯作者小傳アリ頗ル本書ノ遺漏ヲ補フニ足ルヲ以テ亦叢書中ニ合刻スヘシ



近世物之本江戸作者部類


   卷第一
 赤本作者部   洒落本作者部  中本作者部
   卷第二
 讀本作者部上
   卷第三
 讀本作者部下  淨瑠璃本江戸作者部
   卷第四(以下係附録)
 近世浮世江戸畫工部  赤本讀本淨瑠璃本江戸筆工部
 明和以來劂人小録

一作者は享保以來天保まてを録すると雖、明和以前は其書に名號を著す者稀也。只其二三を記載す。是れ遠きを畧して近きを詳にするのよし也。
一江戸の新淨瑠璃にも佳作尠からす。しかれ共世の人只院本の名題をのみ記臆して、作者を云はず。記者と雖も名號を忘れたるあり。今其書を求るに懶けれは、姑息其院本の名題をもて某作者と録するあり。其名號の失せしは、異日刊行の印本を求め照て下に録すへし。
一筆工は、むかしより寛政享和の頃まて、姓名を署せしものなし。文化に至りて讀本甚しく行はれしより其書の編左に筆工と彫工の名さへ録する事になりたり。よりて寛政以降を録載す。それより以前は考索によしなし。
一劂人はその人尤多かり。何ぞ千百のみならん。今毛擧に遑あらす。この故に明和以來只そのけやけきもの一二を附録して、もて遺忘に備るのみ。


近世物之本江戸作者部類卷第一目録
 赤本作者部
  丈阿       近藤清春(又出畫工部)       富川吟雪(同上)
  喜三二      戀川春町(又出畫工部)       通笑
  全交       楚滿人      四方山人     唐來三和
  戀川好/スキ/町  森羅萬象(一稱築地善好)      山東京傳
  七珍萬寶     櫻川慈悲成    曲亭馬琴     傀儡子
  樹下石上     關亭傳笑     十遍舍一九    式亭三馬
  東西庵南北    曼亭鬼武     山東京山     榻/たふ/見
  九年坊      面徳齋夫成    鶴成       糊人
  吉町       柳亭種彦     可候       東里山人
  爲永春水     墨川亭雪麿    橋本徳瓶     一返舍白平
  五返舍半九    徳亭三孝     古今亭三鳥    益亭三友
  五柳亭徳升    川關樓琴川    椒芽/きのめ/田樂 竹塚東子
  一二三      學亭三子     小金厚丸     篠田金治
  樂々庵      馬笑       梅笑       尉姥輔
  雪亭三冬     春亭三曉     時太郎      吾蘭
  本ノ桑人     山月古柳     匠亭三七     後烏亭焉馬
  志滿山人     笠亭仙果     鶴屋南北     林屋正藏
  後戀川春町    律秋堂      後唐來三和    船主
  緑間山人     澤村訥子     市川三升     板東水佳
  尾上梅幸     瀬川路考     西來居未佛    江南亭唐立
  持丸       板東簑助     中村芝翫     十字亭三九
  後式亭三馬
   補遺
  前蓬莱山人歸橋  後喜三二     内新好      待名齋今也
  緑亭可山     柴舟庵一雙    蘭奢亭薫     文寶亭
  素速齋      麟馬亭三千歳   振鷺亭      松甫齋眉山
  欣堂閑人     西川光信     福亭三笑     蔦唐丸
  吉見種繁     忍岡常丸     多滿人      種麿
  仙鶴堂      逸竹齋達竹    風亭馬流     烏有山人
  寶田千町     仙客亭柏琳    墨春亭梅麿    歌扇亭三
  柳屋菊彦
    統計一百十一名、除明和以往丈阿清春吟雪亭等外、自喜三二至達竹
    爲一百零八名、恐遺漏尚有焉、異日又考索新出者、共當録於後集也

洒落本作者部
  游子       風來山人     四方山人(再出) 山手馬鹿人
  田螺金魚     蓬莱山人歸橋(再出)        唐來三和(再出)
  志水燕十     萬象亭(再出)  山東京傳(再出) 振鷺亭(同上)
  梅暮里谷峨    三馬(再出)   一九(同上)
    洒落本の作者遺漏多かるべし。然共其書絶板せられて年既に久し。
    今さら考索に由なし。此故に當時世に知られたるものをのみしるす。

中本作者部
  重田一九(三出) 振鷺亭(同上)  本町庵三馬(三出)
  曼亭鬼武(再出) 東里山人(再出) 爲永春水(同上)
  瀧亭鯉丈 附録蔦唐丸         岳亭(又出畫工部)
  後焉馬(再出)  五柳亭徳升(同上)後三馬(同上)
  岡山鳥(同上)  圓屋賀久子
    統計二十八名、内重複一十八名
    近頃中本の作者、新に出る者亦多かり。いまだ搜索に及ばず。多くは
    是泛々の輩遺すと云とも憾なからん歟。異日又後集に録すべし。



 この書に録する作者畫工に、なほ現在の者多くあり。然共親しきを資けて疎きをなみせず。其略傳毎に敢て筆を曲ざれば、褒貶の詞なきことを得ざる也。これは是遺忘に備ん爲にして、人に見すべきものならねば、只是初稿のまゝなるを、やがて秘簏にうち藏めて、紙魚/シミ/のすみかとならんことを惜まず。蓋稗官小説は鄙事也。名を好むものゝなす所、是を兒戯の冊子とす。後に傳ふべきものにあらず。さはれ和漢の大才子、佳作能文あるときは、後にあらはせじと欲するとも、必好事者流の爲におさ/\その名を稱せられん。彼の泛々の作者の如きは、後世誰かこれを知へき。そを憐まずは、いかにして此筆すさみに及んや。寔に要なき秘録なれ共、百とせの後、已にひとしきものゝ見ることあらは、亦得がたき珍書とし、後の游戯三昧を相警るよすがとならば、寫し傳るも可ならん歟。或は俗子の手に落て醤を覆ふも亦可なり。
 天保五年甲子の春む月七くさはやすあした
               蟹行散人蚊身田の龍脣窟に稿す



近世物之本江戸作者部類卷第一

赤本作者部
 江戸の名物赤本と云る小刻の繪草子は、享保以來しいだしたり。貞享元祿の間享保まては、さる草子ありと雖、紗綾形或は毘沙門龜甲形なる行成標紙を以てして、酒顛童子物語、朝顏物語なとの繪卷物を小刻にしたり。或は界町なる操り芝居、和泉太夫が金平淨瑠璃の正本を板せしのみなりき。かくて享保よりして後は丹標紙をかけたるもの、年年出しかは、世俗これを赤本と喚做したり。かくて寛延寶暦より漸々に冊の價貴くなりしかは、代るに黄表紙を以てして一卷を紙五張と定め、全二卷を十二文に鬻き三冊物を十八文に鬻きたり。そが中に古板の冊子には、黒標紙を以てして一卷の價五文つゝ也。世にこれを臭草紙といふ。この冊子は書皮/ひやうし/に至る迄、薄樣の返魂紙/スキカヘシ/にて惡墨のにほひ有故に臭草紙の名を負したり。この頃より畫の外題にして赤き分、高半紙を裁て墨摺一遍なりき。その作の新しきを旨とし、舌切雀猿蟹合戰なとの童話を初として、或は太平記の抄録説經本の抄録なと春毎に種々出たり。價も黄標紙新板一卷八文(二冊物十六文、三冊物廿四文)古板は七文(二冊物十四文、三冊物廿一文)なりき。しかるに書賈は臭草紙の臭の字を蒼(あを)といひけり。黄表紙なるを蒼と唱ること、理にかなはざるやうなれ共、寶暦以後墨の臭氣もらあらす。世俗草冊子とこゝろ得たるもあれば、草の蒼々たる義を以て蒼と唱へ、黒表紙を黒といひけり。かくて明和の季より草ざうしの作、滑稽を旨とせしかは、大人君子も是をもてあそぶあるにより、いよ/\世に行れて、畫外題を四遍の色摺にしたり。そが中に殊にあたり作の新板は、大半紙を二つ切に摺りて薄柿色の一重表紙をかけ、色ずりの袋入にして三冊を一冊に合卷にして、價或は五十文六十四文にも賣けり。(こは天明中の事なり)かくて寛政の初より、草ざうしの價又登りて、黄表紙は一卷十文、(二冊物二十文、三冊物卅文)黒表紙は一卷(二冊物十六文、三冊物廿四文)になりぬ。かくて文化の年よりこれらのよろしきものを半紙に摺り、無地の厚標紙をかけて袋入にしたるを上紙摺りと唱て京攝の書賈へ遣して、彼所の貸本屋へ賣らせ、こゝにても二三百部は春毎に賣たれ共、價の貴ければにや、草ざうしの一部數千賣れたるには似ざりき。(上紙摺りは、三冊を合本二冊三冊にして、壹匁より或は壹匁五分の物あり)扨又文化の中年より二代目西村屋與八(鱗形屋孫兵衛の二男にして、西村屋の婿養子になりしものなり)が初て思ひ起して、草ざうしを小半紙に摺りて三冊物四冊物六冊物を、二冊三冊の合卷にして、いとうるはしき摺りつけ表紙をかけて賣出せしが、婦幼の爲に愛翫せられて、いたく行はれしかは、是よりの後、地本問屋等、皆合卷摺付の標紙にせさるはなし。そが中に上紙摺と唱るは、糊入のみよし紙に摺出すもあり。價は壹匁より壹匁五分に至る。これを合卷と唱へて今に至れり。是よりの後、黄表紙の草ざうし(本書あほ表紙なり)はすたれて、折々田舍の書賈へ遣すのみ也。初の行成表紙より遂に四度その趣を易へて美を盡したり。泰平の餘澤にして、文華の開けたるに從ふものにもあるべけれ共、華美を欣ぶものは、奢侈の弊なきことを得す。みな是時好に從ふ所、心あるも心なきも、勢ひ已を得さるなるべし。
 又云草さうしは、予か稍東西を知れる明和安永の頃は、二冊物すみけなし。そが中に壹冊物は、なぞづくし、地口づくし、目つけ繪なとなり。目付繪は寶暦明和の間流行して、年々古板新板ともに摺出さゝるは無し。いづれも一卷の紙五張也。文化に至りて四冊物六冊物出たるが、是よりして二冊十張の物は行はれずなりぬ。かくて傾城水滸傳出しより、十數編の續きもの流行す。此已前正本仕立の作數編出たりと雖、一編々々に狂言の趣向替りたれは續きものにあらす。讀切物のいと長きは、右にいへる傾城水滸傳と金毘羅船利生纜よりはじまりし也。享保已前は小判の繪草子に、作者の名號を著はしたる者を見さりき。勿論作といふべきほとの物にもあらねはなるへし。享保以後赤本の作者漸々に多くなりたる、今記臆したるを録するに左のことし。

丈阿
 今より百年ばかり已前の赤本に、此作者の名號あるものは、大抵享保の季より寶暦迄の人と覺し、何人なるや詳ならす。

近藤助五郎清春
 原本詳ならす。享保より寶暦の比まて行れし畫工にて戯作を兼たる也。享保中象の來つる折の赤本も、此清春の自畫也。赤本の作多くありしが、今世に得かたくなりぬ。

富川吟雪
 この吟雪も畫工にて作者を兼たれ共、清春吟雪の外は畫作と記せしものを見す。羽川珍重なとにも比例ありけん歟。丹繪に月の大小の作なとはあり。其餘未た所見なし。

喜三二
 久保田侯の留守居平澤平角の戯號也。狂歌には淺黄裏成と云しを、後に手柄の岡持と改めたり。又作名は月成と云けり。安永の初の頃より初て草ざうしに滑稽を盡して大に行はる。名月全盛吉原饅頭、人間萬事萬八傳(並鱗形屋孫兵衛板)又新建立忠臣藏天道大福帳(蔦重板)なと枚擧に遑あらす。就中文武二道万石通(三冊物蔦屋板)古今未曾有の大流行にて、早春より袋入にして、市中を賣あるきたり。(天明八年正月新板也)畫は喜多川歌麿の筆なりき。赤本の作ありてより以來かばかり行はれし者は、前代未聞の事也という。此後故ありて喜三二の戯號并狂名淺黄裏成を、本阿彌氏に取らして戯號をやめたり。文化十年五月廿日没す。享年七十九歳。

戀川春町(號壽亭)
 駿河の小島侯の家臣倉橋春平の戯號也。小石川春日町の邸に在るをもて戯號をしかいへり。(戀川はこいし川の中畧、春町は春日町の中略なり)この人の作は皆自畫也。好畫にはなけれども一風あり。安永中喜三二と倶に、草ざうしの作に滑稽をはじめて、赤本の面目を改めたり。そは金々先生榮花夢、高漫齋行脚日記(春町自畫にて安永正月出つ、鱗形屋孫兵衛板)是臭草紙に滑稽を旨とせし初筆にて、當年いたく行れたり。就中萬石通の後編、鸚鵡返し文武の二道(北尾重美畫、天明九年正月出つ。三冊者蔦屋重三郎板)彌益行れて、こも亦大半紙摺りの袋入にして、二三月頃まて市中を賣あるきたり。(流行此前後二編に勝るものなし)當時世の風聞に右の草紙の事に付て白川侯へめされしに、春町病臥にて辭して參らす。此年寛政元年己酉、七月七日没。年若干(葬於四ツ谷淨覺寺云)

通笑
 岡附鹽町の表具師也。實名を忘る。安永中より寛政の頃迄草冊子の作年々出たり。滑稽の才なしと雖も、いと古き作者なれば、世の人に知られたり。

全交
 芝に住す能樂の狂言師也。和漢共に學問はなけれ共、滑稽の上手にて當り作尠からず。安永中より寛政に至る迄、春毎に新作あり。通油町なる鶴屋喜右衛門か得意の作者にて多く刊行したり。そが中に寛政壬子癸丑年の新板十二傾城腹内、鼻下長物語、同後編、白髯明神御渡申(并に北尾重政畫三冊物、鶴屋喜右衛門板也)時好に稱ひて多く賣たりと云。寛政七八年の頃没しぬ。

楚滿人
 號南仙笑、芝に住して鞘師なりと聞えき。實名を知らす。滑稽の才なしといへとも、こもふるき作者にて、安永中より文化に至れり。初よりをさ/\若き中の作のみに、世の評判も果敢々々しからざりしに、文化に至りて、敵討の臭草紙の流行により、時好に稱ひて折々にあたり作あり。そが中に敵討三組盃、(五冊豐廣畫、和泉屋市兵衛板)尤婦幼に賞玩せらる。生涯著す所の草ざうし三百餘種ありと覺ゆ。文化四年丁卯之春三月九日没しぬ。西久保心光院に葬る。子なし遺金五兩ありけり。年來親しかりし友人等、うちつどいて來り、喪事/トリヲキ/を資/タス/けたりと云。

四方山人
 草ざうしの作、その趣をなさゝれ共、安永天明の間二冊物三冊物の新板樣々出たり。そが中に唐錦并關取(春潮畫、二冊物うろこかたや板)なとあり。(記者云。唐錦并關取は嵐雪か句に、相撲とり并ふや秋のから錦と云るを取れり。しかれとも此冊子に力士の事なし。初は拳相撲酒關取とありしを、いかなる故にや書名を更て出されたり。そのあかしは、此冊子の折目の見出し毎に、けんずまふと記してある也)又蔦屋重三郎か板せしも多かりけれとも、戯作の才は喜三二春町の二の町にて尤/けや/けきあたり作はなかりき。天明中此作者の二冊ものゝ草冊子に(書名を忘れたり)猿が龍宮にて、京鹿子娘道成寺を踊る所の詞かきに、かねにうらみは、さる/\ご猿といふかき入あるを予も見たり。(この餘は一つも記臆せず)天明七八年以來憚るよしありて、戯作をせずなりぬ。此頃迄吉原細見の序も、毎春改正の度々に、この人綴りたり。(太田氏名は覃俗稱直二郎、後改て七左衛門、文政六年癸未四月六日没す。享年七十五)

唐來三和
 はしめ高家衆何某殿の家臣なりしが、天明中故ありて町人となりて本所松井町なる私窠子茶屋和泉屋が婿養子になりて、其家を相續して和泉源藏と呼れたり。言行ともに老實の好人なるに、さる渡世をするは、過世あやしむべしと云人多かり。能文にはなけれ共、趣向は上手にて、折々あたり作もありき。そが中に天下一面鏡の梅鉢(天明九年春鸚鵡返文武二道と同時に出たり)と云もの流行しつ。こも袋入になりて市中を呼はりつゝ賣あるきたり。この外甚しきあたり作なし。文化中没しぬ。(京傳が作の臭草紙、地獄一面鏡淨瑠璃も、當年同時の作なり)

戀川好/スキ/町
 實名は北川嘉兵衛、狂歌堂眞顏が戯號也。戀川春町を師として戀川好町といゝけり。數寄屋河岸なる地主なれば也。天明中二冊物の作ありといへども、もとより得たる所にあらざれば、はやく戯作をやめて狂歌を専門にせしかば、一家をなして第一の判者たり。批點百首の料、銀壹兩と定めて、狂歌をもて渡世にしたるは、此老一人也。文政十二巳丑年六月五日に没す。享年七十五歳。

森羅亭萬象(一稱築地善好、初は草冊子に萬象亭と署せしも多かり)
 桂川甫周法眼の舍弟、森島中良の戯號也。萬象亭と號す。、狂歌には竹杖のすがると云けり。後に萬象亭を戯作の門人七珍萬寶に附與して、其身は築地善好と改めたり。(芝全交没せし頃也。寛政八九年の頃、萬象亭芝全交が長物語を模擬して、小田原相談「三冊物重政畫つるや板行」を綴りし折、初て善好と稱したり。又文化年中よみ本の作には亡師の戯號をつぎて、福内鬼外と稱したり。便是異稱同人なるを知るへし)

山東京傳
 江戸京橋銀座一丁目の家主、岩瀬傳左衛門(本姓は灰田也)の長男にて實名を傳藏と云。名は田藏/ノブヨシ/字は伯慶、後に名を醒/サムル/字を酉星と改め、山東庵と號し醒々老人と稱す。嘗て畫を北尾重政に學ひて、畫名を北尾政演/ノブ/といひけり。然共畫は得意にあらざりければ、棄て多く畫かず。天明中初て敵討の草冊子を著す。(二冊物、此書名を忘れたり)是其初作なり。自然と滑稽の才世に勝れたりけれは、寛政中より文化に至るまて、この人の作いたく行はれて、當時第一人と稱せらる。就中心學早染草、又其後編人間一生胸算用共に善玉惡玉の趣向、尤時好に稱ひて今なほ人口に膾炙す。(大傳馬町大和田安兵衛板三冊物、後編續編は蔦屋板也)この他、年々あたり作多し。枚擧に遑あらす。是世の人の知る所也。文化十三年丙子の秋九月七日の暁、脚氣を患て暴/ニハカ/に没す。享年五十六歳。九月八日本所回向院に葬る。法號智譽京傳信士と云。
 付ていふ。昔は臭草紙の作者に、潤筆をおくる事はなかりき。喜三二春町善好なとは、毎歳板元の書賈より、新板の繪草子錦繪を多く贈て、新年の佳義を表し、且其前年の冬、出板の草ざうしにあたり作あれは、二三月の頃に至りて、その作者を遊里へ伴ひ、一夕饗應せしのみなりしに、寛政に至て京傳馬琴のみ、殊に年々行れて、部數一萬餘を賣るより、商賈蔦屋重三郎、鶴屋喜右衛門と相謀りて、初て草さうしの作に潤筆を定めたり。こは寛政七八年の事にて、當時は京傳馬琴の外に潤筆を受る作者はなかりしに、後に至りては、さしもあらぬ作者すら、なべて潤筆を得る事は、件の兩作者を例にしたるなり。是等の事をよく知る者稀なれば、後世に至りては、誰か亦かゝる事ありとしもいふものあらんや。當時の流行思ふべし。さはれ當時と雖、名の世に聞えさる素人作者は、入銀とて多少の金を板元の書賈に遣してその作の草紙を印行さするも多かりき。今もなほさる作者も稀にはあるべし。

七珍萬寶
 芝増上寺門前なる上菓子店翁屋の主人也。戯作は萬象亭を師として、天明の季より寛政中まて、毎春くさ草紙の新作出たれ共、させるあたり作なし。後に師の名號を附與せられて萬象亭と號す。文化の初の頃より眞顏に從ひて、狂歌を専門にして草冊子を作らず。竟に眞顏側上足の判者になりたり。

櫻川慈悲成
 芝に住す今利焼なとの陶器を鬻く小店の主人也。實名を知らず。萬寶と時を同ふして、ふるき草さうしの作者なれ共あたり作なし。文化に至りて落語を専門にして、又臭草紙を作らす。落語はくさ冊子の手際に似ず、いと上手なりとて、可樂夢羅久焉馬等と頡頏したり。初めは狂歌をよみて親の慈悲成といひけり。狂歌も下手なるに落語のみすぐれたり。七十餘歳にて堅固の老人なり。

曲亭馬琴
 寛政二年、壬生狂言流行せしかは、用盡/ツカヒハタシテ/貮分狂言といふ二冊物を綴りて、明春辛亥印行したり。(和泉屋市兵衛板歌川豐國畫)此折は名號大榮山人と署したり。深川八幡の社頭に僑居したれは也。この年(寛政三年)山東京傳故あり籠居二三月に及び、九月下旬に其厄釋けたり。故に新作の臭草紙、明春正月の出板に一筆にて整ひがたしと云。是をもて馬琴代作して稍其數に充たり。當年京傳が作四種の内、龍宮羶/ナマグサ/鉢の木(二冊物蔦重板、重政畫、趣向は京傳又は馬琴代作)實語教幼稚/オサナ/講釋、(三冊物、同畫、趣向かき入とも馬琴代作なり)なと代作なれは、馬琴の名を著はさず。書賈へも秘しけれは、是を知るもの稀也。(當稿は京傳自ら畫きたり)寛政四年壬子の春の新板、鼠婚禮塵劫記(三冊物豐國畫芝泉市板)自花/ハナヨリ/團子食氣/クヒケ/話(三冊物大和田板)荒山水天狗の鼻祖/ハシマリ/(一冊物右同)御茶漬十二因縁(三冊物春英畫伊勢屋治助板)當年此四種より馬琴作と署したり。
(記者云。鼠婚禮塵劫記の序を京傳か書て、曲亭某嚮に予隱れ里に寓居し、ひとつ皿の油を嘗て友とし善しといひしは彼京傳が屏居の折、馬琴か止宿して久しく慰め、且この折は臭草紙の代作さへしたれはなり)
 かくて寛政七乙卯年正月の新板、蔦屋重三郎が誂へにより、京傳か善玉惡玉の第四編(三冊もの)四遍摺心學草紙いたく行れしより其名を世に知られたり。されば抜萃のあたり作多かる中に、滑稽物流行の頃の無筆節用似字/ニタジ/盡なとは、流行江戸のみならす、京浪花にても人の賞玩大かたならす。こゝをもてその翌年、京師より新織の金襴純子に似字を織たるを江戸へ出こしたり。又文政中に傾城水滸傳、時好に稱ひて十數編に至れり。是よりの後通俗水滸傳さへ更に流行して、煙管の毛彫并紙老鴟/イカノボリ/の畫髮結床の暖簾まて、水滸傳の人物ならさるはなかりき。當時の流行想像/ヲモイヤル/べし。されば寛政二年より今に至て四十餘年、書賈の需已む時なくその著編三百部に及ふと云。

傀儡子(又作魁蕾子)    玉亭
 こは別にその人あるにあらず馬琴が異稱也。書賈の誂/アツラヒ/にて其意にあらさる臭草紙を綴る折は、傀儡子作と署したるあり。そは寛政五年春出し増補伊賀越物語(全三冊鶴屋板)同八年の春の新板、彦山權現誓の助劍/スケダチ/(五冊物にて蔦屋の板)同九年の春新板、賽山狐修怨/シカヘシ/(二冊物蔦屋板)是なり。又寛政十三年の春新板、繪本復讎録(三冊物にして山口屋忠介板)を綴りし折は、故ありて作名を玉亭と異稱したり。扨この後も讀本の題跋なとに、傀儡子又魁蕾子(杜甫の句に梅蕾魁春とあるを取る)とも署したれは、世の看官は、實に其人有と思へり。馬琴は初より戯作の弟子といふものなく、文化より文政に至る、また幾何人が縁を求めて入門を請ひしものありしかと意見を述、固辭して師となることを肯ぜず。其人々強ひて名號に琴字を用ひんことを請ふに及ひて、そをしも推辭によしなく、表徳に琴字をもてせんをは、各まに/\なるへし、昔は儒に琴所あり、當今も琴臺あり吾のみに限らんや、近く曽て軍書の講師に馬琴と名のるものさへありしに、其徒に識られて海魚と改名したりと聞にき、琴字は吾が知る所にあらすとて許せしかは、やがて琴字をもて戯號にしぬるもの六人あり。そは琴川(小倉侯家臣川關庄助)琴鱗(松前侯家臣柴田半平元亮)琴驢(近藤家臣島岡權六後に岡山鳥と改めたり)琴雅(御臺所人小泉熊藏)琴梧(姫路侯家臣加藤恵藏規矩)琴魚(伊勢松坂の人櫟齋と號す、殿村精吉)此中著述をもて世に知られしは琴魚のみ。其餘久からすして、皆胡越の如くならさるは稀也。しかれとも琴某と號するをもて、世の人は馬琴の弟子ならんと思ふべく、其身も人に對しては、馬琴の弟子也といふもあるべし。文化の頃遠州菊川の鬼卵すら狂歌堂を眞顏を介としもて、馬琴の門人たらん事を請しかと、馬琴は丁寧意見を示して肯せさりしと聞えたり。かゝる事は世の人のよく知るへきにあらされは、後の世に人の論議もあらん歟とて其概畧をしるすのみ。

樹下石上
 こは古るき作者にて寛政中より其名聞えたり。鍛冶橋御門のほとりなる武家の臣なりしとぞ。實名を知らす。その作風楚滿人に似て多くかたき討物を著したれとも、あたり作はなし。今は古人になりしと歟。詳なることを聞さりきなほたづぬべし。

關亭傳笑
 奧の泉侯の家臣なり。實名を忘れたり。こもふるき作者なり。初は通笑に從ひ、後に京傳に從へり。よりて通笑京傳の一字を取りて傳笑と號す。滑稽に長せされはにや、聞えしあたり作はなかりき。性老實の好人物にて、うち見は臭草紙なとを作るへしとは思はれず。予相見さる事、十八九年。今なほ此人の作年々に出づ。嗚呼壯んなるかな。

十遍舍一九
 生國は遠江也。小田切土州大坂町奉行の時、彼家に仕て浪華にあり。後に辭し去て、大坂なる材木商人某甲の女婿になりしが、其所を離縁し流浪して江戸に來つ。寛政六年の秋の頃より通油町なる本問屋蔦屋重三郎の食客となりて、錦繪に用る奉書紙にドウサなどをひくを務にしてをり。其性滑稽を好みて、聊うき世繪をも學得たれは、當年蔦重が誂て心學時計草と云三冊ものゝ臭草紙を綴らしめ、畫も一九が自畫にて、寛政七年の新板とす。(此冊子の趣向は石川五老が思ひを起して蔦重に説示せしを、蔦重やがて一九に誂へて綴らしめたりと云。時計草は吉原の晝夜十二時のことをつづりたり。文化中又六樹園五老か吉原十二時と云かな文を綴りて藏板にしたり。願ふに一九が時計草の如き、吉原のことを記して心學と題せしは、當時心學のはやりたる故のみにあらず、禁忌を憚りて紛らせし也。當年心學と題せし臭草紙多かりしは、さる意味なきも皆流行に因てなり)是其初筆也。此冊子頗世評よろしく有しかば、是より年々に臭草紙の作あり。初は多く自畫にて板したれとも、其畫拙けれはにや時好に稱はす。故に後には皆別人に畫せたり。かくて寛政の季に至りて、長谷川町なる町人某乙が家に入夫となりて數年ありしに、又其所を離縁して更に妻を娶り、通油町鶴屋の裏なる地本問屋の會所を預りて、其所に住居ぬ。後の妻に女兒出生したるのみ。此女兒二八の頃より舞踏の師となりて、親の生活/ナリハイ/を資けしと云。自いふ重田氏、名は貞一、しかれども人只一九と喚るのみ。性酒を嗜む事甚しく、生涯言行を屑とせす。浮薄の浮世人にて文人墨客の如くならされば、書賈等に愛せられて、暇あるをり、他の草冊子の筆工をさへして旦暮に給し、其半生を戯作にて送りしは、此人の外に多からす。然共臭草紙には尤/ケヤ/けき當り作なし。只膝栗毛と云中本の作太/イタ/く時好に稱ひて十數篇に及へり。其名聞三馬に勝/マサリ/しは此戯作あるによりて也。文化の初め繪本太閤記に擬して化物太閤記と云臭草紙を作りたる御咎めによりて罪あり。手鎖五十日にして赦されけり。(此事は一九のみならす畫工にも多かり。そは畫工の部に録すへし)文化己丑の春三月の大火に、會所も類燒したれは、長谷川町邊なる新路の裏屋に借宅す。この頃より手足偏枯の症にて遂に起/タヽ/ず。天保二年辛卯の秋七月二十九日没す。享年六十七歳なり。
附て云。一九が戯作の弟子、半九三九と二人あり。その實名は聞知らず。師の没後名號を受嗣んとて爭ひしが、半九は別に生業あれは、戯作はせてもあるへしとて、一九の後家些の黄白に易て、一九が名號を三九に名のらすと聞にき。此事傳聞なれは詳なる事をしらす。尚たつぬへし。

式亭三馬
 三馬は板木師菊地茂兵衛の子也。名は太助、總角の時より茅塲町なる地本問屋西宮新六に仕へて後に手代になりぬ。年季滿て後去て、山下御門外なる書林萬屋太次右衛門が婿養子になりしに、妻早世したれは、遂に離縁して石町なる裏屋に借宅す。其後大坂の町人某甲が、江戸掛店の中絶したるを再興すとて、これを三馬に委ねしかば、遂に本町二丁目に開店しける。しかるに舊來の藥は多賣れず。三馬が新製の江戸の水と云賣藥、世の婦女子に愛せられて、漸々多く賣れしかば、なほ種々の藥を鬻て終に其身の株にしたり。戯作は寛政八九年の頃より名を著はして、初は西宮新六板にて、二冊三冊の臭草紙を作り、又洒落本とか云誨淫の小冊を綴て印行したり。みつから云。吾は唐來子の才を慕ひ、烏亭子に忘形の友とせられしより、三和焉馬の一字を取りて三馬と號するとぞ。寛政の季に芝全交が没せし後の全交たらんと欲せしに、障ることありて果さず。とかくする程に、彼火消人足鬪爭の一件より三馬の名號、暴/ニハカ/に躁がしくなりしかば、初念を絶にきと云。されば寛政十一年巳未の春、新板に前年の一番組二番組の火消人足等が鬪爭の趣を侠/キヤン/太平記向鉢卷と云臭草紙に作り設けしを、三馬が舊主西宮新六が刊行したれば、よ組の人足等怒りて、巳未の春正月五日、板元及三馬が宅を破却しけり。この一件にてよ組の人足幾名か入牢す。裁許の日、西宮新六は過料、人足は出牢赦免せらる。作者三馬も罪を蒙り、咎め手鎖五十日にして赦免せられけり。後文化中、天明水滸傳とか云寫本の俗書に本づきて、いたく殺伐なる臭草紙(平子魔陀六物語の類也)を設けて時好に媚しかば、其名一時に躁がしくなりたり。然れ共、京傳が善玉惡玉、馬琴が無筆節用似字盡(寛政八年の春出つ、麁想案文當字揃の前編也)の如き、抜萃なるものはなかりき。手迹は惇信樣にて拙からず。畫は學ばざれども頗る出來者たり。學問は無けれ共才子なれば、自序などを綴るに能く故事を取まはして、漢學者の如く思はれたり。只其人に憎みありて性酒を嗜み、人と爭鬪せしこと屡聞えたり。絶て文人の氣質に似ず。又商賈の如くにもあらず。世の侠客に似たること多かりしに、既に初老に及びてより、醉狂を愼みて渡世を旨とせしと云。そが中に一事賞すべきは、其親茂兵衛も酒を嗜むにより、月毎に酒錢として南鐐三片づゝ餽/オク/ること數年來間斷なかりしとぞ。(茂兵衛は始終三馬と同居せず、別宅に在て剞劂/ハンホリ/を職にしたり)焉馬豐國等と友として善し。京傳馬琴等と交らず、就中馬琴を忌むこと舊敵の如しと聞えたり。いかなる故にや、己に勝れるを忌む、胸狹ければならん。文政五年壬午の春閏正月十六日に没す享年四十七歳。其子尚總角なりけれは、戯作の弟子益亭三友等相資けて、賣藥店を相續せしめたりしとなん。
 記者の曰、戯墨をもて産を興せし者は、京傳と三馬のみ。京傳は子なし。弟京山が代りて店を繼くに及ひて、煙管煙包の賣買を廢したり。三馬は其子に至て、父の生業を改めす。因て思ふ、身後の福は三馬京傳に勝れり。或人云、三馬は山下町に在りし頃より、しば/\狂歌堂に交加/ユキカヒシ/て狂歌を眞顏に學びたり。眞顏も其己を愛敬するを欣ひて、常に人に對して三馬は才子なりとて褒美しけり。然れとも其才狂歌には足らさりけるにや、聞えたる秀逸は一首もなし。まして狂詩なとは作り得す。俳諧の發句すらせさりし歟、一句だも見たる事あらず。かゝれは純粹の戯作者也。明の謝肇淛が所謂才子書を讀ざるの類なるべし。

東西庵南北
 芝明神町の邊なる板木師也。實名を忘れたり。浮世畫も些/ワツカ/ばかり畫く事を得たり。絶て學問はなき男なれども、文化中より年毎に臭草紙を作るをもて粗名を知られたり。只抜萃なる妙作なし。多くは先輩の舊作を飜案して綴りたる物多かり。文政の間、落語を渡世になす者、東西庵南北と號するあり。知らざる者は、戯作者の南北なりと思ふも多かり。又三四年前の事なりき。鍛冶橋の内なる堀殿の領分(信州飯田)に遊歴して、東西庵南北と號せしかありける由、堀殿の家臣鈴木生の話也。是等は風流の賊なれは論ずるに足らされ共、南北すら名を盗む事かくの如し。況んや京傳馬琴の名號をぬすみをかし、遊歴して渡世する者折々ありと聞えたり。(寛政の年、岡崎名古屋の間を遊歴せし者、山東庵京傳たる由を佯/イツハ/りて、其地の風流士を欺きたるも有けり。又文化の年、奧州白河の城よりいく里かこなたなる路の傍の石に、曲亭馬琴某月某日此所を通ると書付てありけるよし、奧の會津の商人安積屋喜久二、白河へゆく折目撃したりと云へり。又天保初年、曲亭馬琴と名のりて、姫路の城下を遊歴せし者あり。姫路の家臣等欺れて詩をおくりしもありしに、其假馬琴和韻得ならず。倶したる一個の徒弟の資助を得て、いと拙きことを述て答しかは、姫路の士疑ひて、江戸の邸なる同僚淺見生は、馬琴と相識なるよし兼て聞ぬる事なれは、附郵して其眞僞を問はる。淺見生聞てそは疑ふべくもあらぬ贋物なる由を答て遣しける。其回報未た屆かざる程に、假馬琴ははやく姫路を辭去りしとぞ。この一條は、當年淺見生の話也。又三四年前柳亭種彦の名を盗みおかして、伊勢の松坂に遊歴せし者あり。坂人亦あざむかれて馳走せしを同郷の人小津桂窓は曲亭と面識にて、兼て聞たる事あれは、そはにせ者なるへしとて看破しけれは、假種彦は更に言を改て、吾は種彦にあらず、種彦の弟子なりと言しとて笑へり。此他かゝるまぎれ物幾何もあるへし。たゞ正/マサ/しく視聽したるを録すのみ。是等はすべて風流の盗人と云へし)聞人の名號を竊みて、田舍人を欺きて世渡りになすものはいと憎むべしといへとも、畢竟は虚名の弊也。むかし元祿の年間/コロ/俳諧師鬼貫なりと佯/イツハ/りて東國を遊歴せし者あり。世の人これを東人の鬼貫なりといへり。かゝれは昔よりさる紛れ者なきにあらす。遠境の人油斷すべからすとぞ。

曼亭鬼武(一號咸和亭)
 實名を忘れたり、寛政中迄御代官の手代にて、飯田町萬年樹/モチノキ/坂の邊りに居れり。(この頃の姓名は名橋羅一郎とか覺しが定かならす。なほよく考て異日追録すべし)後に一橋のみたちの御家人某甲の名跡を續て御勘定を勤め、淺草寺の裏手に卜居し、後また家督を婿養子某に渡して、をさ/\戯作を旨としたり。初は山東庵に交加/ユキカヒ/し、文化の初より曲亭に就て、自作の臭草紙を印行せん事を請しかは、馬琴則山城屋藤右衛門(馬喰町の書賈也)に紹介して、其作初て世に著はれしは、文化五年の事なりき。是より後新編の臭草紙を印行せしかとも、させるあたり作はなし。性酒を嗜み、退隱の後、放蕩無頼を事として、瘡毒を患ひ、遂に鼻をうしなひたれ共羞とせず、歌舞伎の作者たらん事を欲して、一年木挽町の芝居において、やうやく前狂言を綴る事を得たれ共、其徒に撩役せらるゝに堪ずとて、果さずして退きたり。かくていよ/\零落して、身のさま初にも似ずなりしかと、猶うかれあるきつゝ、瘡毒再發して身まかりけり。(没年文政の初にやありけんたつぬべし)此人の戯作多かりしが、そが中に自來也物がたりと云よみ本のみ頗る時好に稱ひたり。そは讀本の條下にいふへし。

山東京山
 京橋銀坐一丁目の家主傳左衛門の二男にして京傳の弟也。乳名を相四郎と云り。幼弱より漢學を爲して時彦と交り、又書を東洲佐野文助に學ひたり。弱冠の時、外叔母鵜飼氏の養嗣になり、某の老侯に仕へて近習たりし事數年(鵜飼氏は某の老侯の妾にて、當主の實母なり)養母の意に愜/カナハ/さることありて離縁せられ、又父兄と同居したり。佐野東洲か銀座町に卜居せし頃、東洲の婿養子になりて、佐野巒山と號しけり。(鵜飼氏の養子たりし時、うかひ助之進と呼たり)しかれ共遂けす、又離縁せられて暫く浮浪し、竟に町人になりて淺草馬道に卜居し、大吉屋利一と改名し、新吉原江戸町なる長島屋の熱妓の年季滿たるを妻とし子供多くうましけり。この頃より戯作をもて生活の資にせまく欲し、兄京傳の幇助によりて、初て臭草紙をつゝりて京山と號しけり。是より後春毎に新編あり。戯作の才は京傳に及へくもあらねとも、聞人の弟なれば書賈もかいなての作者とせず、其名速に世に知られて愛する者もありけり。かくて京橋一丁目の河岸町に移住して、戯作と篆刻を活業/ナリハイ/にしたり。(文化中より)篆刻者は前輩多けれ共、京傳の弟たるをもて、そを求る者尠からす。(篆刻は田良庵の弟子也)是をもてともかくもして世を渡る程に、文化十三年の秋九月七日、兄憂ひにありし頃より、嫂/アニヨメ/(京傳は前後妻共に吉原の熱妓也、後妻は彌八玉やの娼妓にて、白玉と呼れしものなり)と愜/カナ/はす、よりて其家事を資/タス/けまく欲せす、其明年京攝に遊歴してけり。其歸る頃及/コロオヒ/より嫂病に嬰/カヽ/りて、久しうして身まがりけれは、京山遂に兄の家を繼て山東庵と號し、賣藥讀書丸の外に、房藥に似たる藥さへ鬻/ヒサ/きて(孕む藥孕まざるくすりの類を云ふ)煙包煙管を賣る事は廢しけり。未た幾時もあらずして、其子筆吉に家名を讓り、其身は笹山侍從の舊臣と唱へ帶刀したり。かたちは武士にて渡世は商人ならざることを得す。人皆此を一奇とす。其女兒は萩の殿に徴れて妾になりぬ。公子をうみまゐらせたれは、京山夫婦には扶持を賜りたりといふ。さらても京傳の遺財あり。妻子の爲にとて髪結床の株とか云物をさへもてりしを、京山沽却して家を造り更めたりしに、そは文政巳丑の火に燒□□□資によりて元の如くに家を造りぬ。かゝれは頗ゆたかに似たれとも、其子筆吉が放蕩にて、教訓もいふかひなく殆勞すると云り。
 抑京山は文筆に才あるのみならず、貨殖の事にも疎からさるにや、世と共に昇降す。是をもて風流の友には尊大なれ共、勢利の爲にはしからず。但戯作は兄に及ばず。隅田の春藝者氣質なと言ふ臭草紙は、おさ/\婦幼の爲に賞玩せられたれ共、尤/ケヤ/けきあたり作は聞えず。娼妓を妻にして子供五六人まうけたるも亦一奇なり。(鵜飼氏の養嗣たりし時、妻を娶る事ふたゝびなりしに、養母の意にかなはざるよしにて、幾程も無く離別したれは子なし。又東洲の女婿たりし時も其妻に子なし。最後に熱妓をめとりてより、子の多かること右のごとし)心術すへて京傳に似ず。其家を繼ての後、帶刀しぬる頃より、通稱/タヾヘナ/を岩瀬百樹/モヽキ/と告/ナノ/れり。淳く學ひたるにあらねとも漢學に疎からず、詩を賦し手迹もよくして、且篆刻をもなすなれは戯作者にはおしかるへき多能の人なり。然れとも世評種彦に及ばず。かゝれは戯作は別才といはんも亦宜ならずや。
 附て云。京山は兄弟姉妹四人なり。姉は小傳馬町なる高麗物商人伊勢屋忠助と云ものに妻/メアハ/せたり。こもしたゝか者にて凡庸の婦女子に似す。實母の身まかりし時手づから沐浴し且入棺して、見へかくれに墓所まて送りぬ。此一事をもて知るへし。妹も文才ありて狂歌を咏し黒鳶式部と號したり。寛政の初にかありけん、そが綴りたる臭草紙を京傳が筆削して、印行せしことありけり。惜むべし短命にて二八のあまりを一期としたり。或は云。京傳は傳左衛門の實子にあらず。某侯の落胤なりとぞ。しかれとも其家にて秘する事なるを、あなくりしるすべくもあらず。姉にも子なし。兄京傳は後妻(名は百合)の女弟/イモト/を養ひて女兒とし、穉/オサナ/き時より三絃をならはせ、且畫を學はせて水仙女と號し、鐘愛したるに、年十五にて夭折しけり。(この養女名は鶴)其後京山の長女を養んとて、家に呼ひとりて在らせしに、いかほともなく京傳は世を去り、其妻も身まがりけれは、京山か兄の迹を繼しより、件の長女は成長の後、他へ(八丁堀なる町同心に)嫁したるに、不縁にて歸りにき。更に再醮したるなるへし。顧/オモ/ふに京山は二親の愛子なりけるが、同胞にはみな子なく、獨京山のみ男女の子供多く擧/アゲ/て、後を絶に至らさるの孝あり。父母はさりとも、知るべきにあらねとも、其愛の深かりしも是等の故にやと、後におもひ合されたり。同胞の男女四人ながらうちも揃て、其才の闌/タケ/たるは、こも亦多く得がたかるべし。

榻見
 何人なるをしらす。寛政九年、臭草紙相撲番附に、二段目に出て浴爵一口淨瑠璃と云臭草紙、通油町鶴屋の板也。其餘なほあるへし。

九年坊
 これも寛政九年、右の番附に即席御療治と云臭草紙、馬喰町寶屋板にて、西の小結に出てたれ共、佳作にはあらざりき。當時此人の作多かり。

面徳齋夫成
 楚滿人が戯作の弟子也。何人なるを知らす。享和四年甲子の年(この年改元文化)敵討恩亂菊(豐廣畫、五冊物、榎本吉兵衛板)と云ふ臭草紙出たり。

鶴成   糊人
 右におなじ、此二人も寛政中に出たる掻撫/カイナテ/の戯作者也。必是狂歌社中のものなるへし。

柳亭種彦
 高屋氏、下谷御徒町御先手組屋敷内に借地して住り、初は讀本をのみ綴りしが、文化の季の頃より、讀本を綴らず、臭草紙の作を旨とせり。文化丙子の新板、正本製/シタテ/といふ合卷物、(歌川國貞畫、西村屋與八板)時好に稱ひて、數續相續て出たり。此合卷、文を少なくして畫を旨とす。其畫精妙、本文に勝れり。又文政十三年の春の新板、田舎源氏と云合卷冊子、世評噪がしき迄に行はれたり。(鶴屋板)こも畫は國貞にて其繪ます/\妙なれば也。既に數篇におよべり。(但二十張合卷二冊を一編とす)是をもて當今臭草紙の巨擘と稱せらる。其身に於ても自負甚たしと云。此人させる學力も無けれと、狂才は餘の作者の白眉たること、世の婦幼の評する所也。聞くに舊き義太夫本數十種を藏弆して、戯作の種とし、且西鶴が浮世本八文字屋本などをも多く藏めたりと云。さもあらんか。思ふに元祿年間より源氏ものかたりを無下に俗文につゝり、更て婦幼の玩び物とせしも多かり。そは女五經あかしもの語五冊、(延寶九年の印本也)風流源氏、(元祿中の古板也)若草源氏、(寶永三年の印本也)雛鶴源氏、(右の後編なり)猿源氏、(享保三年の印本、江島生島の事を、ほのめかしく作り設けたるなり)此餘なほあるべし。田舍源氏は竊に是等のを父母として作り設たるなるべし。本を得しらで、末を取るはながれての世の常なれば、きのふけふは、某源氏など云中本物さへ出て種彦の顰に做ふもありと聞きにき。かばかりの作者にだも及ふものゝなきを思へば實に才難しといふべし。

可候
 文化中の臭草紙に、この作名見えたるが、久しからずしてみまかりしと云。何人なるをしらず。没年月は墓所一覽に見えたり。この作者編者と親しければにや。さらずばかの一覽に、芝全交唐來三和をすら漏せしに、獨可候の載らるべくもあらずかし。

東里山人
 麻布に居宅せる御家人(御勘定付御普請役)實名を忘れたり。文化四五年の頃、和泉屋市兵衛に請て、初て臭草紙(當時合卷既に行はる)を印行せられしより、年毎にこの人の作出たり。然共抜萃なるあたり作なし。其作り状/サマ/南北と相似たることあり。前輩の舊作を剽竊して作れるもの多かり。

爲永春水
 實名を越前屋長二郎と云。隻眼なるをもて、人或は渾名/アダナ/して眼長と喚做たり。初は柳原土手下小柳町の邊に居れり。舊本の瀬捉/セトリ/といふ事を生活/ナリハヒ/にす。且軍書讀の手に屬/ツキ/て、夜講の前座を勤ることも折々ありと云。文政の初の頃より、合卷臭草紙をつくりて、彼此/アチコチ/の板元へ售/ウリ/て印行したりといへども一箇もあたり作はなし。文政十年の頃より、古人楚滿人の名號を接/ツ/きて、南仙笑楚滿人と號したるに、その新作の讀本、世評なかりければ、板元並貸本屋等が楚滿人と云名は、ふさはしからずと云より、又春水と改めたり。(軍書の講釋に出る折は爲永正介といふとぞ)馬琴が舊作のよみ本の、火に係りて全部せざるものを板元より買取り、恣/ホシイマヽ/に補綴して畫を易て新板の如くになして鬻きしは、此男の所爲なり。常世物かたり三國一夜物語、化競うし三つの鐘等此餘なほあらん。具には又讀本の條下にいふべし。

墨川亭雪麿
 越後高田侯の家臣也。俗稱は田中源治と云。文政の初の頃より、臭草紙をつゝりて印行せらるゝもの多かり。初は世評よしと聞えしのみ。抜萃なるあたり作はなし。然共亹々としてやまず。戯作を著はすをもて樂とす。みつから云。幾十歳になりても童心のうせされはにや、冬毎に自作の冊子を發兌するを待わひざる年はあらずと云けり。好む事の甚しけれはならん。うち見は老實なる好人物にて俗氣あり。書は讀まぬ人なるべし。

橋本徳瓶
 俗名は徳兵衛、文化中より筆工を生活にしたれは、漸々に他作の綴りさまを見なれたりけん、其身も臭草紙をつゝりて、諸板元に請て印行せしも多かるべし。此等は名の爲にあらず、只利の爲にせしものなれは、佳作あるべくもあらずかし。

一返舍白平
 一九が戯作の弟子也。文化四年の春、書賈東邑閣が板せし、戯作者畫番付に載たり。

五返舍半九
 此も一九が弟子也。文化十年無名氏の藏板なる戯作浮世繪相撲、東西番付に載て下段に在り。この二子の戯作は、世に聞えたるものなし。

徳亭三孝   古今亭三馬   益亭三友
 この三子は三馬が戯作の弟子也と云。然共世に聞へたる佳妙の作なし。

五柳亭徳升
 鎌倉河岸なる豐島屋の紙店のあるじの子也。放蕩にて久しく浮浪せしが、近日御魚屋/ナヤ/の書役になりたりと聞にき。實名未詳。

川關樓琴川
 姓名は川關庄助といふ。初は築地の萬象亭に從ひて義太夫をつゞりたれとも、操芝居にて興行せし事はあらず。文化四年丁卯の春より、北尾恵齋の紹介にて、しば/\曲亭が許に來訪して、自作の臭草紙を印行せん事を請しかは、馬琴則ち山口屋徳右衛門(馬喰町の書賈也)に託して其戯作敵討甚三が紅絹(三冊物臭草紙)敵討女夫柳(六冊并に春齋畫共に、文化五年の新板)を印行したり。此後一百張許の年代記を著して、藏板にしたれ共障ることありて行はれざりき。この人下谷なる御徒方より出て、小倉侯に仕へたりしに、其養父の故をもて、身の暇を賜り下谷煉塀巷路の邊りなる所親の地所に僑居したり。今は鬼籍に入りしなるへし。

椒芽/キノメ/田樂
 尾州名古屋の藪醫師にて、神谷剛甫と云者なり。滑稽を好みて小才ありけれは、享和元年に、桃燈庫闇の七扮と云臭草紙(三冊物なり)をつゞれり。そを馬琴に請て次の年の春、(享和二年壬戌正月)鶴屋にて印行せし事ありけり。江戸にて其戯作を板せしは、只是のみなれども、遠方他郷の人にこの作あるはめつらしけれは、こゝへ載たり。

竹塚東子
 千住の近郷竹が塚の農戸也。天明中法橋越谷吾山の弟子にて、俳諧を旨とせしものなるが、文化に至りて、合卷の臭草紙の流行を羨み、初は入銀なとしつゝ、この人の作を印行したり。然共世に聞えたる佳作は無かりき。この他文化中の臭草紙に、作名の見えたる者左の如し。

一二三        學亭三子      小金厚丸(狂歌師)
篠田金治(歌舞伎作者)樂日庵       馬笑
梅笑         尉姥輔       雪亭三冬
春亭三曉       時太郎       吾蘭
本の桑人       山月古柳      匠亭三七
 皆何人なるを知らす。一時の流行に從ひて、其作ありと雖、毎春久しく印行せしにあらず。素より泛々のともがらなりければ、佳作ありとしも聞く事なし。そか中に三某と號せしは、三子が弟子か、さらすは三馬が假初に作り設たる作名なるか未詳此にもらしたるも尚あるべし。

後の烏亭焉馬
 八町堀に住す、武辨の人也。(寄騎の弟也と云)名弘會觸の折、初て對面して實名を聞しかとも忘れたり。(寄騎の弟子と云)はじめは、松壽堂永年と名のりて狂歌を旨とし、後ちに六樹園の社に入て古人蓬莱山人歸橋の名號を繼て、蓬莱山人と號せしを、文政の季の頃、又古人焉馬の名號を焉馬の門人麟馬寶馬に乞受て、又烏亭焉馬と改めたり。故の焉馬は臭草紙の作なし。後の焉馬は近來毎春合卷草紙の新作二三種つゝ出さることなし。只抜萃の當り作はなきのみ。

志滿山人
 何人なるをしらずたつぬべし。

笠亭仙果
 種彦の戯作の弟子也と云。實名未詳、原田仙果ともあれは原田氏か、尋ぬべし。

鶴屋南北
 歌舞伎の狂言作者也。二代目南北(初名は勝俵藏)の子板東鶴十郎文化の年、役者をやめて商人になると聞えしが、親の南北みまかりし已前より、狂言作者になりて三代目南北になりしとぞ。昨今このものゝ合卷草紙毎春印行す。さはれ世に聞えたるあたり作はなし。

林屋正藏
 落語を旨として夜々寄塲へ出る者也。(自作の合卷を、席上の景物に出すと云この故に板元より作者の買たるも多しとぞ)此餘文政中より今天保に至て合卷の臭草紙に作名の見ゆる者左の如し。

後の戀川春町   律秋堂
後の唐來三和(小半紙二ツ切の豆本に、此作名見えたり)
船主(半紙二ツ裁の小本に、此作名見えたり)
縁間山人(板東三津五郎、瀬川菊之丞か世をさりし頃、追薦の合卷に此作名見えたり)
澤村訥子(此は文化中なり)
市川三升(白猿になりても)板東秀佳   尾上梅幸
瀬川路考(訥子以下別人代作)
 後の春町より下、縁間山人に至る迄、何人なるをしらず。又佳作あることをも聞かす。大凡古人の名號を冒すものは、歌舞伎作者か、昔の高手なる役者の名字を繼く如く、由縁無きも縁を求めて、古人の名によりて、はやく世に知られん事を欲するのみ。名號は古人と同しけれとも、其才と技は、古人の半にも及はざるもの多かり。只戯作のみならず、俳諧師にも其餘の藝技にも、この例尠からす。徒らに古人の名號を汚ささるは稀也。亦歌舞伎役者の名を假て、臭草紙に其名を著はす事は、文化年間書賈西村源六が、澤村宗十郎の尚源之助と云し頃、其名を借て、或人に代作せし臭草紙、當時婦女子に賞玩せられて、甚しく行はれしかは、是より地本問屋等、當塲/タテモノ/の役者の作と佯り、臭草紙を年毎に印行することになりたり。其代作をなすものは、狂言作者の二の町なるが、畫工國貞を介にして名を借て、些の潤筆を利とせる也とぞ。さるを給事/ミヤツカヘ/の女房市井の婦女子等さへ、代作なりとは得もしらで、愛玩する事甚しかりしに、近頃は代作なる事やうやく聞えて、婦女子のすさめぬも多かれとも、猶田舍にては眞作なりと思ふものあれは、今に至りて印行す。只初の如く多からさるのみ。これらは贔負の役者の紋を釵兒/カンサシ/に付け、或は役者の自筆の發句を欲して、縁を求めて□□面服紗なとへ書せしを、肉筆僞筆のえらみもなく、十襲秘藏せると同日の談なれは、作の巧拙にかゝはらす、一時流行しぬる共、文墨を事とせる者と、肩を比べん事、尤耻へきにあらすや。かゝればはかなき小兒の戯れなれ共、合卷草紙を欣ひて見るものに三等あり、とにかく其作の好をえらむあり、亦浮華/アダ/なるを欣ふあり、役者の僞作を愛するものは、しかも下の亦下なるもの也。

西來居未佛  江南亭唐立(狂歌師)  持丸(是狂歌師なるべし)
板東簑助   中村芝翫 (以上二人別人代作)
 此等もすべて右におなし。未佛唐立持丸等は、何人なるをしらず。文政より今天保に至て、作者の合卷草紙見へたり。簑助芝翫は例の代作なることいへはさらなり。

十字亭三九
 十遍舍一九が戯作の弟子也。この三九か合卷草紙、文政中より見へたり。但多からざるのみ。一九が没して後、師の未亡人/ゴケ/に請て、遂に十遍舍一九の名號を許されたりとぞ。後の一九はこれなるべし。

後の式亭三馬(幼名虎之助)
 三馬か没せし頃は、なほ總角也と聞えたり。文政十一年戊子の春、尚少年にして三國妖狐殺生石と云合卷草紙を綴て、式亭三馬伜/セガレ/虎之助作と落款にあり。(鶴屋板國安畫)是其初筆也。この明年己丑の春より、彼此の書賈に請て、戯作を印行せしに、なほ式亭虎之助作とあり。かくの如くにして四五年を歴るほとに、竟に亡父の名號を承嗣きて、自ら式亭三馬と號す。思ふに京傳京山は兄弟にて、共に戯作に名たゝるすら、珍らしき事なるに、三馬は二世の戯作者也。抑いかなる因果ぞや。是前代未聞の奇事ならずや。且親の三馬が賣藥をもて、家をおこしたるは、戯作の虚名によりて也。かゝれは其子後の三馬も亦戯作をもて世に知られなは其藥店も衰へず、いよ/\繁昌すへき事猶京傳が讀書丸の京山に至りても、世の人忘れざるが如けん。後の三馬を知らす、いまだ其戯作を見ざれとも、必是才子なるへし。さはれ年尚わかけれはにや一種も戯作に尤けきものなく、出藍の譽れあるよしを聞くことを得さるのみ。

 記者の云。享保元文以降、赤本と唱ふる兒戯の畫冊子、年々新編出て、世に行はれしより、文化文政にいたりて、既に三變したり。明和の季の頃より、喜三二春町兩才子出て、臭草紙に滑稽を旨とせしより、天明寛政の間、全交京傳馬琴等の諸才子出て、錦の上に花を添しかは、其滑稽にあらざる者は、童子といへとも欣はざりき。此時に當りて通油町なる地本問屋鶴屋蔦屋二店にて毎春印行せる臭草紙は、必作者を擇むをもて、前年の冬より發兌して、春正月下旬迄、二冊物三冊物一組にて、一萬部賣れざるはなし。そが中にあたり作ある時は、一萬二三千部に至る事あり。猶甚しく時好に稱/カナ/ひしものあれば、そを拔出して別に袋入にして、又三四千も賣る事ありといへり。是をこそ眞盛りなるへしと思ひしに、文化に至りて、滑稽廢れて敵討もの流行して、續きて種々の時代物世話物語流行しぬるに及て、初て臭草紙に美を盡し、合卷と唱ふるに及ひて、高手と稱せらるゝ二三子の新作、前年の冬十月より、はやく出たるは七八千部賣るゝといふ。寛政の壹萬二三千部に比ふれは、其數足らさるに似たれとも、臭草紙とは價の貴きこと十倍なれは其利も隨て多かるへし。且今の合卷の十數編續くものは、年々に其古板すら二三百部つゝ賣るゝといへは、竟には一萬五六千部にも至るへし。かゝれは其盛りなる、こゝに於て極れり。物壯なれは必衰ふ、是より後は如何なるへき。且兒戯の小冊子に美を盡して人工を費しぬるは、要なきわさに似たれども、こも泰平の餘澤にて、文華いやましに開けたる時勢に從ふものなるへし。(文化中永田備州町奉行たりし時、合卷臭草紙の彩色標紙、華美なる事、しかるべからずとて、禁止せられしかは、薄墨つや墨の外、色を用ることを得さりしに、ほとなく永田殿卒去して、公儀其禁を退けられしかは、元の如く數篇の彩色摺になす事を得たり)

 自是而下係于補遺

蓬莱山人歸橋
 天明中のこの作者の洒落本よく行はれしにより、又臭草紙の稿本を乞ふ書賈のありけん、天明の季の頃より寛政の初まて、幾種の臭草紙の作ありけれとも、洒落本の手際にはいたくおとりて、一種も聞えたる物はなかりき。詳なる事は洒落本作者の部に見えたり。

後の喜三二
 本阿彌三郎兵衛の狂名也。下谷に居宅す。始め喜三二に從ひて戯作狂歌を學ひたり。因て喜三二の狂名淺黄裏成といひしをゆつられ、其後寛政のはじめに至て、喜三二は憚るよしありて、赤本の作をせすなりしかは、更に喜三二の戯號を乞受け、後の喜三二と稱して、二冊三冊の臭草紙作りて印行したれとも、聞へたる佳作は一種もなかりき。故にはやく戯作の筆を住めて狂歌専門にしたりしかは、竟に獨立の判者になりぬ。芍藥亭是なり。

内新好
 魚堂と號す。何人なるを知らず。文化二年乙丑の春新板に、花紅葉二人鮟鱇と云臭草紙は、此内新好の作也。此餘も尚ありけんを、一つも記臆せず當時あたり作なければ也。

待名齋今也
 狂歌師なるべし。實名を知らず。此の作者の臭草紙は、文化元年甲子の春の新板に、敵討春手枕といふあり。畫は豐國にて和泉屋市兵衛の板也。これ等を書賈は受入作と云。此類いと多かり。

緑亭可山  柴舟庵一雙
 並何人なるを知らず。可山は百合若弓術/ユミヤ/の譽れと云合卷一冊の作あり。(小川美丸畫)一雙ハ千疋鼻闕猿と云合卷一冊、(畫工同上)共に文化十年己酉の春の新板なるを覺へたり。皆是斗筲の作のみ。此餘なほありといへども數ふるに足らず。

蘭奢亭薫
 元飯田町中坂下なる煙草店三河屋彌平治の狂名也。牛込揚場の豪家三河屋に仕へて主管/ハンタウ/たりし時より、をさ/\狂歌を好みて三陀羅法師の社中なりき。後に蜀山人に從事して無二の陪堂也。文政中時の流行に誘れて臭草紙を作りたり、看々踊□/キンラ/の唐金(五冊物合卷歌川國安畫、文政五年春出、山口屋板)躾/シツケ/方浮世の諺、(二冊物、鶴屋板、文政七年春出)など也。然共戯作は素より得たる所にあらず。狂歌も亦秀逸あることを聞ざりき。文政七年甲申夏四月廿六日(曉天)に没す。享年五十七。

文寶亭
 元飯田町中坂の茶舖龜屋の婿養嗣、久右衛門と通稱す。多年蜀山人に從て手迹を學び、又畫も聊成す事を得たり。(畫は誰に學びしや詳ならず、好畫にはなかりき)狂歌もよめども秀逸なし。但この手迹は蜀山人の骨髓を得て、彼紫の朱を奪ふ菖蒲燕子花とも云はましとて、よく玉石を辨するものなし。よりて師の僞筆をなすに、乞ふ者僞筆と知りつゝも、其速/ハヤキ/を欣ふもありけり。此をもて月の十九日毎なる杏花園の小集に、主翁の書を乞ふもの多かる時は、文寶主翁の傍に侍りて、公然として僞筆をしたり。たま/\乞ふもの稀なる日、主翁みつから書くことあれは、主翁ほゝゑみて、今日偶ま客多からねは、據なく自筆をもて、御需に應し候なといはれたり。扨文寶は戯作の才なけれとも、文化の年流行に誘はれて、三冊の臭草紙を作りたりと聞しのみ。其書名は詳ならす。文政のはじめの頃より、活業不如意になりしかは、親族に店庫(茶店生業野蔬店)を皆讓り渡して、下谷三筋町に退隱して、名を久助と改めけり。かくて蜀山人物故の後、文政戊子の頃、故ありて剃髪して師の家の子孫に、蜀山人の名號を請ひて後の蜀山人と稱しつゝ、名弘の書畫會を興行せしより、蜀山人と呼れしも、夢のうき橋渡る程にて、巳丑の春三月廿二日、傷寒を患ひて身まがりにき。享年六十二歳なり。この人草冊子の作ありしは、纔かに一種なりけれとも、風流好事は、餘の戯作に立まさりたる趣あり。素より是好人物にて、師の名號を續しより幾程も無く世を去りたれは、因にこゝに具/ツブサ/にす。其劇病にて簀を易しは、僞筆の祟りなるへしとて、是を論ずる者ありけり。かの應報の果否を知らねと、よしや一時の遊戯にて、名利の爲にせずとても、世に筆墨を事とせるもの、以て誡となすへきのみ。

素速齋  麟馬亭三千歳
 并に姓名詳ならす。素速齋は文化五年の春、新板の臭草紙(福來笑門松、久信繪、山城屋板)其名號を署したり。又麟馬亭三千歳は、文化九年春、新板の臭草紙に、春の月薄雪櫻と云三冊物あり。前の焉馬は落語の弟子に寶馬麟馬と云二人あり。同號異人歟、尋ぬへし。

振鷺亭
 この作者は、寛政のはしめより、文化のなかは過まて、讀本洒落本中本の作多くあり。只臭草紙は作らさりしに、文化九年の春、新板の臭草紙十二月晦日五郎六月朔日九郎四月/ウツキ/八日譚、(國直畫、鶴屋板)と云三冊物のあるを見出したり。此餘もある歟詳ならねとも、臭草紙の作は、得たる所にあらず。小傳は洒落本作者の部、及讀本作者の部に在り。合見るへし。

松甫齋眉山  欣堂閑人  西川光信  福亭三笑
 並に姓名いまた詳ならす。此四作者は文政の年より初て出たるもの也。三笑は三馬が弟子歟。眉山は文政五年の新板の臭草紙に、孝貞六助誓カ働(六冊、國丸畫、森屋板)と云一作あり。この餘もある歟未た見す。欣堂は文政五年又七年の新板の臭草紙に昔々鳥羽の戀塚(六冊國丸畫、山本平吉板)着替浴衣團七島(六冊仝上)なと見へたり。此餘なほあらん歟たつねへし。又西川光信は、文政七年の春、新板の臭草紙に、通神百夜車(國安畫、鶴屋板)と云一作あり。三笑は文政辛巳の春、新板の草雙紙に、仇ナ文字しろとの留筆、(春亭畫、山本平吉板)といふ三冊物の作見えたり。いづれも佳作にあらねとも、搜索の折書名を録し置たれは具にす。上を貶して追加の作者を賞する故にはあらずかし。

葛唐丸
 寛政中通油町なる書肆蔦屋重三郎(名は柯理/カラマル/)の狂名也。天明の年、四方山人社中の狂歌集に、唐丸の歌あれとも自吟にあらす、別人代作したる也。是より先にも別人代作の臭草紙一二種あり。其書名は忘れたり。唐丸は寛政九年五月六日に没しぬ。畧傳は洒落本の部に云へし。

吉見種繁  忍岡常丸
 並に姓名未た詳ならす。常丸は文政七年の春、人形町鶴屋金助が新板の臭草紙の内に、妙藥妙術寶の因/タ子/蒔と云一作あり。種繁は種彦の弟子歟。天保四年の春新板に改色/イロアゲ/團七島(西村屋板)と云臭草紙の作見えたり。大凡文政よりこのかた、昨今新出の戯作者、そを板せし書賈に問はゝ姓名を知るべけれ共、皆泛々の輩なるを詳に記すも要なし。戯號を載らるゝを幸とすへきにや。

多滿人  種麿
 多滿人は文政十二年の春、新板の臭草紙いさをしくさ泰平/ミヨ/の錦繪(五冊物合卷、英得畫西村板)に此作名見えて、爲永門人とあれは、春水の弟子なるべし。眼長(春水の佯名)を師とせる戯作もある歟とて、ある人駭嘆しけり、又種彦の弟子に種麿と云ものあり。今茲正月廿四日、書賈仙鶴の送葬にも、種彦これを倶して、鶴屋の菩提所本法寺(淺草寺町)に赴きし折、他は己が弟子にて候とて、會集の書賈等に、汲引したりと聞きにき。おもふに愛顧かくの如くならば、既に請れし書賈ありて、その戯作を印行したるや。いまだ詳ならずといへども、豫めこの集中に録してもて數に充つ。

仙鶴堂
 通油町なる書賈鶴屋喜右衛門(小林氏、前の喜右衛門近房の長子也)の堂號なり。文化十五年(四月改元文政)の春、千本櫻の合卷冊子に、仙鶴堂作とあるは、馬琴が代作したる也。文化十三年の頃、畫工豐國が淨瑠璃本なる千本櫻の趣を、當年江戸俳優の肖面/ニガホ/に畫きしを、つるやが印行したれども、只一九が序あるのみにて、讀べき所の些もなければ、絶て賣ざりし故、仙鶴堂則馬琴に乞ふて、畫に文を添まく欲せり。馬琴已事を得ず、千本櫻の趣を其畫に合し畧述して、僅に責を塞ぎたれども、こは本意にあらざりければ仙鶴堂の代作にして、只其序文のみ自分の名號を著しけり。かくて板をはぎ合して、書畫具足の合卷冊子にして、戊寅の春再刷し、發行しけるに、此度はいたく世に稱/カナ/ひて賣たる事數千に及びしと云。當時豐國が畫きたる合卷の草冊子多く時好に稱ふを以て、作者と肩を比/ナラ/ぶるを、なほ飽ぬ心地して、いでや吾畫をのみもてうらせて、其効をあらはさんとて、文なき繪草紙を書賈等に薦めて、遂に印發したれ共、只畫のみにて文なき冊子は、婦幼もすさめざりければ、豐國是を耻ぢたりけん、又さる繪冊子を畫かざりけり。かの畊書堂(唐丸が號也)と云ひ仙鶴堂と云ひ、よしや別人の代作なりとも、書賈にして草紙の作あるは、享保中京師なる八文字屋自笑を除くの外、其類あらざるものなり。(自笑も端笑より下子孫の又自笑と呼ぶとは、別の代作也)此仙鶴堂は、其三四歳の頃より、己レ相識る者也。性として酷/イタ/く酒を嗜みたる故にや、天保四年癸巳の冬十二月十日未牌、暴疾にて身まかりけり。(卒中なるべし)享年四十六歳也。折から歳暮の事なれば、當夕みそかに寺へ送りて、葬式は明春正月下旬にこそなと聞えし折、著作主人の讀みて手向けたりといふ歌。
  しるやいかに苔の下なる冬ごもりしがしの松に春をまたして
是より卅七年已前、寛政九年五月六日、畊書堂蔦唐丸の没したる折、著作堂の惜みの歌あり。そは
  思ひきやけふはむなしき藥玉も枕のあとに殘るものとは
要なきことなれ共、筆の序にしるすのみ。

逸竹齋達竹
 こも亦馬琴の異稱也。文化の初の頃、書賈の好み辭しがたく、つゝりたりと云臭草紙に、この名號あり。かゝれは傀儡子玉亭逸竹齋、こは同人異稱也。別人にも此例あるは、萬象亭の善好と呼ひ、福内鬼外と稱したる是也。亦三馬か弟子に三某と云者いと多かる、そが其中には同人の稱ならんと思ふもなきにあらす。さはれかれ等は馬琴萬象等と用意おなしからす。一箇の弟子の多きに誇らんとの所存にてあらめ。其識見に昂低あるを、識者ならずは知らさるへし。

記者云。臭草紙は文化中より合卷の華美なる摺着表紙になりても、只新らしきを旨としてけり。古板を再刷しぬるは、數編打つゝくものゝみ、餘は一ヶ年を限りとす。此故に其摺本は後年まて殘るもあれど、板ははやく削棄られて、他書の彫刻料にせられぬは稀也。かゝれは春の花年々に咲き馨/ニホ/ふが如く、其花は相似たれ共、ふる年の花にあらず。いともはかなき筆ずさみなれは、かの小文才ありて且名を好む者、自作の稿本を地本問屋へもてゆきて是印行して給ひねと頼むこと、幾人ありと云ことを知らす。そをつれなくは推辭/イナミ/がたさに、かにかくといらへして、預り置くもあり、受とらさるも多かれとも、生憎/アヒニク/にもて來れば、幾種か箱に收めてありと、甘泉堂のはなしなり。さらは今よりして後、初めて出る作者も多かるへく、又本集に漏らせしもあらん。其等は異日搜索して、又後集に録すへし。

 臭草紙作者増補
風亭馬流   烏有山人   寶田千町
仙客亭柏琳  墨春亭梅麿  歌扇亭三
 是等の作者は天保五年新板の臭草紙に作名見えたり
 記者云、右の六名は、一知音の追加也。今按るに、右之内墨春亭梅麿は、御用達町人神室方深秘職棟梁某氏也。墨川亭雪麿の懇友にて、弟子にはあらねと、所望にまかせて墨字を送りて、しか名のらすと云。雪麿の話也。(又上に録せし種麿の事を、或人に聞しに、こは小祿の御家人にて、實名は八木彌吉とか云へり。板行の彫刻を内職に爲せり。種彦か作合卷冊子を、此人にのみ課/オフ/せてゑらせしかは、種彦則種字を授けて然/シカ/名のらす事也。然は戯作者にはあらず彫刻工といへとも、其手に付は名號一字を授けたりしこと、俳優者流のおもむけに似たりけり。名聞うき世にぞありける)

柳屋菊彦
 天保六年乙未の春、書肆仙鶴堂が新板の合卷冊子目録中に見えたる。是を件の書肆に問ひしに、この人こたび初めて出たる作者にあらず。素より種彦の弟子にて經政と云し、御家人の戯號ながら憚よしありて、しか改めたりと云へり。



洒落本并中本作者部
 明和の季の頃より、寛政のはしめ迄、柳巷花街に耽りぬる嫖客のおもむきを、半紙二ツ裁りたる小冊に綴りて、よく其情状を述たる誨淫の艷史を、世俗洒落本と喚做たり。其が大半紙半枚をもてしたるも有けり。寛政のはじめに至りて官禁あり。なべて洒落本の絶板せられしより以來、叫化子/コツジキ/のすなる浮世物眞似とかいふごとめきたる根なし話説を、いとおかしく綴り成たるもの、各一二卷を壹編とせしを、中本と唱へたり。こは半紙半枚の小冊と半紙本の間なるものなれは、中本と云なりけり。これらは青樓嫖客の事にあらずと雖、畢竟洒落本の一變したるものにして、只看官の噴飯に供/ソナ/ふるの外なし。洒落本より今も行はるゝ浮世物眞似の中本に至る迄、細に其作者を僂/カヽナヒ/なば數十名なるべけれ共、みな絶せられぬも、泛々の作者をは、打忘れざるは稀也。この故に只其尤/ケヤ/けき者を録して具/ツブサ/ならんことを欲せす。記者の好まぬものなれはなり。

遊子
 明和年間はじめて青樓のおもむけを旨として、嫖客の情態を綴りたる小冊、遊子放言の作者也。所謂遊子云々は、楊子方言の秀句、何人なるをしらず。予少年多志、心ともなく其書を見たれ共、年久しき事なれは、作者の名號を忘れたり。故に姑く遊子をもて號となすのみ。是よりして安永天明に至て、これに做ひし猥褻誨淫の小冊子、(當時はすへて全編一卷也)多く出しかは、世の人此を洒落本と唱て、賢も不肖も雅客も俗人も、愛玩せさるは稀なりき。かゝれは此遊子放言初め俑を作りし者なり。
 天明中狂歌を以て世にしられたる平秩東作は、四ツ谷内藤新宿の煙草店なり。此人隨筆莘野茗談と云ものを閲せしに、遊子放言の作は、丹波屋利兵衛と云者にて須原屋市兵衛方にて、板行したりしに、大に行はれてけり云々、是によりて唐本表紙の小冊流行すとあり。是黙老の談なり。

風來山人
 平賀源内の戯號也。(此人の事はよみ本の部に具にすべし)安永中作者の綴りたる小冊子太く世に行はれたり。然共遊里の事を綴りしは、里のおだまき(一卷)と云小本あるのみ。又男色細見菊の園、おなしく後編、(共に横本一卷なり)痿陰隱逸傳、(小本一卷)なとは、最猥褻の冊子なりき。とんだ噂の評と云小冊子は、安永中市川團十郎(五代目、後に蝦/エビ/藏又白猿と改名)が、市川八百藏の後家に通せしと云風聞噪かしかりけるを、例のサゲとかいふゑせ商人の板せしを、「とんだ事とんた事を、御覽じろと喚りツゝ賣あるきしかは、山人解嘲の小編あり。そを印行したるにて當時世俗愛玩せざるはなかりき。此他も放屁論、天狗髑髏辨なと、半紙半枚の小本にて、他作の洒落とおなじからす。又長枕褥合戰といふ褻戯の冊子は、清の李笠翁の肉蒲團に做へる歟、男女房中秘戯を、義太夫本の如くつゝられたる。こは半紙本にて小冊子にあらすと雖、其猥褻誨淫の趣に於ては、後の洒落本と頡頑すへきもの也。此餘も當時印行の小冊多くありけんを、今はいふがひもなく忘れたり。抑風來子の奇才なることいへはさら也。其専門にせし所、蘭學物産に過され共、狂簡斐然として章をなす癖あるをもて、かゝる遊戯猥雜の小冊子さへ多く著はしたりけれは、其名一時に噪しかりき。然とも後の戲作に比/クラブ/れは、持論學問庭徑あり。只文に臨み忌憚ざる事多かり。□□病によりて跌危を惹出すに至らずとも、傍より是を見れは、謹愼に疎き人に似たり。幔心昂上して自から禁し得さりしなるへしと或る人言へり。

四方山人(一稱寢惚先生)
 當時戯墨の小冊幾種か出たり。所謂洒落本にあらねとも、狂詩のこときは時勢粧を諷せしも多けれは他作の洒落本と共に行はれたり。其中に通詩選承知は唐詩選に擬したる狂詩也。前編五七言絶句は翁の一作にあらす。社中才子等口に信せて吐出せしを編集したれは平仄押韻も整はさりき。後編五七言律は翁の一作にて、平仄韻字も正しく佳句いと多かり。そが中に鷺の畫賛に、頼風獨立勘當段、路考欲晴妄執雲と云妙對あり。又擅那山人藝者集も翁の狂詩集也。通詩選は美濃紙半枚の中本也。藝者集は享和年間花屋久二郎が舊板を購得たりとて、翁の新自序を請ふて、再刷したる事あり。こは半紙二ツ切の小本にて製本すへて洒落本とおなじけれは、併して此に録するのみ。

山手馬鹿人
 何人なるをしらす。安永天明の間、此作者の洒落本二三種見えたり。中に、賣花新驛といふ中本(大半紙二裁全本一卷)は、内藤新宿なる賣色のおもむけをつゝりたり。賣女の座席にて、盲目/メクラ/法師が仙臺淨瑠璃を語る打諢塲/チヤリバ/ありしを、看官抱腹せさるはなかりき。

田螺金魚
 神田三河町邊なる町醫の子也と聞たるのみ。其姓名を知らす。此作者のつゝりたる傾城買虎之卷(中本一卷)といふ洒落本は、天明中鳥山檢校が、新吉原松葉屋なる瀬川に懸想したるに得靡かざりしを、辛/カラウ/じて根引せしと云世の風聞をたねとして、つゝりたるもの也。こは狂言の首尾整ひて、作りざま餘の洒落本と瀬川が寃魂の段なとを、看客あはれ也とて甚しく賞玩したりしかは、板本はさら也、なべて貸本屋をうるほしたりとぞ。此板寛政に削られしを、竊に再板せしものありと歟聞たるが、初のはひには似ざるなるべし。

蓬莱山人歸橋
 高崎侯の家臣也。姓名を知らず。安永より天明に至るまで、この作者の洒落本春毎に出て、小本作者の巨擘と稱へらる。只吉原の事のみならず、品川深川洒落も有りと聞えしかば、遊里に□しき人なるべし。かくて天明に至て、京傳の洒落本世に出しより、歸橋が作は稍衰へたり。とかくするほどに寛政の初此主君より禁止せられて戯作の筆を絶たりと聞にき。當時歸橋の作の臭草紙、幾種か出たるが、洒落本の如くには行はれず。其小冊子の板下は當時柳生侯の家臣なりける乾氏の筆工したるが多かりき。

唐來三和
 天明年間、小刻の洒落本二三種出たり。そが中に三教色といふ洒落本は孔子老子釋迦の一座にて、遊里に趣く由をつゝりて太く世に行はれたり。其小冊の開手は、孔子の居宅の所にて、子路は食客にて銅壺を磨ことなどあり。又長寄合町の所に、小三板/カムロ/の愛する白鼠を崑崙奴/クロヌ/呑て、鼠に付けたる小鈴の咽喉につかへて苦しむをかしみおどけあり。三和が作も多かる中に、臭草紙にては天下一面鏡の梅鉢、小本にては三教色も多く、賣れたりと云。かばかりの才子も、今は得がたく、且時好に從ふの甚しかりしを、遺憾とするのみ。

志水燕十
 燕十も才子にて洒落本の作幾種かあり。書名は今ひとつも覺へず。三和と親友にて、合作の小本も出たり。只洒落本のみならず、書圖勢勇談の小引も燕十が文なりき。大約三和と燕十が作の、冊子は、畊書堂蔦重が板ならぬは無し。しかるに此燕十は他事によりて罪を蒙りて終る處を知らず。

萬象亭
 萬象亭森島氏(名は中良)は蘭學戯作共に、風來山人(平賀源内)弟子也。天明年間、戯作の小冊二三種出たり。その中に田舍芝居と云洒落本(一冊にて)小本尤行はれたり。その自筆序に、今洒落本は睾丸を顯はして笑はするが如しとあり、京傳閲して欣はず、こは吾が事を云る也と思ひしかは、是より萬象亭と交はらずなりぬ。(此一條は京傳みつから云る也)文に臨みておもはすも、かゝる事誰が上にもあらん。愼へき事歟。

山東京傳
 天明中より洒落本の新作、春毎に出て評判よからぬは無く、小本臭草紙共に滑稽洒落第一の作者と稱せられたり。そが中にゆふべの茶殻/カラ/京傳予誌、ムスコビヤ、傾城四十八手なといふ洒落本あり。四十八手尤行はれたりと云。かくて寛政二年官命ありて、洒落本を禁せられしに、蔦屋重三郎(書林并地本問屋)其利を思ふの故に、京傳をそゝのかして、又洒落本二種をつゝらしめ、其表袋に「教訓讀本」かくの如くしるして三年春正月印行したり。錦の裏といふと(よし原のしやれ本)仕掛文庫(深川の洒落本)といへる二種の中本、此洒落本は京傳が特によく其の趣を盡したりけれは、甚しく行はれて、板元の贏餘多かり。此事官府に聞えけん。此年の夏五六月の頃、町奉行初鹿野河内守殿の御番所へ、彼洒落本にかゝつらいて出板を許したる、地本問屋行事二人(いせ屋某等、行事近江屋某兩人也)并に錦の裏仕掛文庫の板元蔦屋重三郎、作者京傳事、京橋銀座町一丁目家主傳左衛門伜傳藏を召出され、去年制止ありける趣に從ひ奉らす、遊里の事をつゞり、剩教訓本と録して印行せし事不埒なりとて、しば/\吟味を遂られしに、板元并に作者全く賣徳に迷ひ、御制禁を忘却仕候段不調法至極、今更後悔恐れ入候よしを、ひとしく陳謝に及ひしかは、其罪を定められ、行事二人は輕追放、板元重三郎は身上半減の闕所、作者傳藏は手鎖五十日にして、免されけり。(行事二人は蔦重より手當として金幣を遣して立退せたり、素より地本屋の夥計なれども、裏屋住ひにて冊子の仕立を生活にせしものなれは、はじめ蔦重の件の小本を印行せし折、禁する事あたはす。因て此不慮の罪を得たり。數年を經て赦免せられしかは、舊町に立かへりて渡世しけり)是よりして京傳はいたくおそれて、五六年の間は、臭草紙の趣向も勸懲を旨とし、淺はかなる事をつゞりしかは、世の看客はその所以を得しらす、京傳は冊子の趣向竭たりけん、近頃の新作はおかしからすと云もの多かり。(馬琴が京傳を資けて草冊子の代作せしは、かの時の事也)文化に至りて、臭草紙の趣向一變してより、亦京傳の新作行はるゝ事、始の如く賣れすといふものなかりしとぞ。

振鷺亭
 濱町の邊り久松町なる大間の家主某甲が子也。(實名を忘れたり)頗る才子にて、些は文字もありけれは、性として戯作を好みたり。寛政のはじめ、洒落本を禁せられたる後も、なほ其利を思ふ書賈等、行事の檢定を受ずして私にかの小冊を印行せしもの尠からす、此時に當りて振鷺亭が新作の洒落本、日本橋四日市なる書賈上總屋利兵衛、上總屋忠助(利兵衛に仕へて分家せしものなり)等、多く印行したり。そが中に深川神酒の口といふ小冊は、深川の洒落也と聞にき。此餘も宣淫の作あり。そは書名を忘れたり。寛政三四年頃より、淺草寺隨身門外なる水茶屋の水汲娘那波屋喜多、兩國藥研堀なる高島屋のひさ、初として、所々の煎茶店に、美女を置事流行せしかは、振鷺は此茶店のおもむきをつゝらんとて、日毎に處々の茶店に憩ひて、多く錢を費す程に、其書未成らすしてありける内、官禁ふたゝひ嚴重にて、振鷺が用意いたづらになりしとぞ。

梅暮里谷峨
 久留利侯の家臣也。姓名を知らす。寛政中の事成りけり、此作者二筋道と云洒落本をつゞりたり。其趣傾城買虎の卷に伯仲すとて、愛玩するもの多かりけれは、其名世に聞えて相續き二三編に及びたり。此餘の小冊讀本にも、此作者の編述多けれとも、二筋道の外あたり作ありしとも聞えす。戯作の才はありなから、文字は素よりなき人なるへし。

三馬  一九
 此兩作の洒落本も、當時幾種か出たれ共、書名は一も記臆せす。そは尤/ケヤ/けき當作無く、久しからずして絶板せられたれは也。只馬琴のみ始より洒落本を作らす。當時利を以て薦めて、稿本を乞ふ者多けれ共、馬琴肯せすして云らく。戯作は好む所なれ共、利に誘引/サソハレ/て洒落本を作らは、後に子をもたん時、何をもて子に教んや。再ひ請ふ事なかれとて、つれなくいふて返せしとぞ。
 抑件の洒落本は、半紙を二ツ裁にして、壹卷の張數三十頁許、多きも四十頁に過ず。筆工はかなのみなれは、傍訓の煩はしき事もなく、畫は略畫にて、簡端に一頁あるもありなきもあり。其板壹枚の刊刻、銀二三匁にて成就しぬるを、唐本標紙とて、土器色なる切付にしたるなれは、製本も極めて易かり。さはれ本錢を多くせずして、全本一冊の價銀壹匁五分也。其が中に大半紙二裁にせし中本形なるは、貳匁五分に鬻ぎしかば、其板元に利の多かる事いへばさら也。貸本屋等も、其新板なるは、一卷の見料貳拾四文、古板なるを拾六文にて貸すに、借覽するもの多く、本より多かりけれは、利を射らん爲に禁を忘れて、印行やう/\多かるまゝに、寛政八九年の頃、當年洒落本の新板四十二種出たり。此故に板元を穿鑿せられしに、多くは貸本屋にて、書物屋は二人あるのみ。町奉行所へ召出されて吟味ありしに、其洒落本の作者は、武家の臣なるもあり、其家人さへ有けれは、申立るに及はす。皆板元の本屋が自作にて、地本問屋の行事に改正を受けす、私に印行し、不調法の由をひとしく陳申しゝかば、件の新板の小本四十二種はさら也、古板も洒落本と唱ふる小冊は、此時皆町奉行所へ召拿れて、遺り無く絶板せられ、そが板元の貸本屋等は、各過料三貫文にて赦れけり。そが中に馬喰町なる書物問屋若林清兵衛は、貸本屋等と同かるへくもあらず。享保已來の御定紋を辨へ在なから、制禁の小本を私に印行せし事、尤不埒也とて、身代半減闕所にて、其罪を宥められ、又日本橋四日市なる書物問屋上總屋利兵衛は先年もかゝる事あり、今度も再犯たるにより、輕追放せられけり。(是より石渡利助と變名したるが、數年を歴て赦にあひけれは、元の上總屋利兵衛に成り返て、舊町に在り)こは根岸肥州の裁許にてありける。是よりして臭草紙はさら也、都て作り物語も稿本を兩御番所へ差出して、伺の上行事等、其板元に賣買を許すへしと命せられしかは、像/カタ/の如く取行ひしに、未幾何もあらす、御用多けれはとて、町年寄三人に其義を掌らせ玉ひしに、町年寄も亦御用多くして事不便なりと申により、文化の年に至りて肝煎名主四人(岩代町名主山口庄左衛門、常盤町名主和田源七、上野町名主佐久間源八、雉子町名主齋藤市左衛門等是也、此改正名主、没したるもあり、今は七人也)に、草紙類の改正を命せられし也。又錦繪も明和年間、彩色摺はじまりしより、地本行事の撿正を受て、印行したれ共、文化に至りて、畫工歌麿が畫本太閤記の人物を、多く錦繪にゑがきて罪を蒙りしより、錦繪道中双六の類は更也、狂歌の摺物、或は書畫會の摺物に至る迄、件の名主等に呈閲して免許を乞ふにあらざれば、印行する事を得ざるとなん。

 記者云。寛政の初の頃、秋七月十四日の下晡/ナヽツサガリ/に、予通油町にて若き法師の畊書堂に立よりて洒落本幾種か買取を見たりしが、其法師は諸檀越へ棚經にうち廻りたる返り也と覺しくて、件の小本の價をとて懷より取出ぬる物は、棚經の布施に得たる五十三十の裏錢にぞありける。おもふに一時漫戯の小冊と云とも、誨淫導欲の世の後生に害ある事、法師といへどもかくの如し。幸にして官禁ありて作者の面目を改めしは、人の親たるものゝ仰べき所にして、いともかしこき御善政と申さまし。さるを今亦書に筆して、其事をしも録するは、要なきわざに似たれ共、鄭衛淫娃のからうたも、聖人削り殘されしは、警誡を後に垂るゝ也。是をもてこれを見るに、後の戯作を好むもの、以て前轍の警となす時は、小補なくばあるべからず。且當年洒落本を作りしも、多くは若き折の愆/アヤマチ/にて、後に悔しく思ひしもあらん。彼一小冊をもて、其作者を論ずるも、胸廣からぬ所爲に似たり。只其昨の非を知るを、よき戯作者といはまくのみ。餘人はしらず山東京傳これなるべし。
 洒落本既に一變して、浮世物眞似めきたるゑせ物語流行す。其冊子糊入のみよし紙を、二裁にしたれば、中本物と呼做たり。又其作者に匱/トモ/しからず各才に任/マカ/せてなすと雖、一九が膝栗毛にますものなし。こゝには世に聞えたる作者をのみ録して、其餘はこれを省くと云。

重田一九
 文化五六年の頃より、膝栗毛と云中本をつゞりて、太く時好にかなひしかば、年々に編を繼て本集九編續集九編、共に十八編に至れり。此冊子は彌次郎兵衛北八と云浮薄人、同行二名、諸州を遊歴しぬる旅宿の光景を、いとおかしくつゞりたり。はじめ一二編は、新案を旨とせしが、編を累るまゝに、古き洒落などをもまじへ、且相似たる事多けれ共、看官は其所/ソコ/らに意をとゞめず、只笑を催すを愛/メデ/たしとして飽く事なかりしかは、板元はさら也、貸本屋等も、利あるもの、是にまされるはなしと云にき。はじめは通油町なる村田屋次郎兵衛が印行したり。其後村次は衰へて、其板株を賣與しぬる事二三傳に及びしかとも、膝栗毛の評判はなほおとろへず。是をもて一九は編毎に潤筆十餘金を得て、且趣向の爲に、折々遊歴すとて、板元より路費を出させしも尠からすと聞えたり。扨これに接/ツギ/て六阿彌陀詣、(五卷)江の嶋みやけ、(二卷)二日醉、(二卷)貧福論(三卷)堀の内詣、(二卷)きうかん帖、(鬼武と合作二卷)一九が記行、(二卷)廿四拜詣、(若干卷)金の草鞋、(全本廿編)此餘猶あるへし、皆膝栗毛の糟粕なれとも、編毎に行はれて、一九が半生は、此等の中本の潤筆にてすぐしたりと云。只村農野孃の解易くて、笑を催すを欣ぶのみならす、大人君子も、膝栗毛の如きは、看者に害なしとて賞美したりける。げに二十餘年相似たる趣向の冊子の、かくまてに流行せしは、前代未聞の事なり。只是一奇といはまくのみ。(一九が行状、彌二郎兵衛北八等に似たることあり。戲謔も思ひより出るもの歟。さきの年、某侯一九が女兒、よく雜劇の踏舞をなすと聞て、妾にせまく欲し給ひしを、一九いなみて、かれあらでは吾が旦暮をいかゞせん、縦後に幸あるとも、さる事はねがはしからずとて、竟にまいらせざりし也。此一條は京傳にまされりとある人云り)

振鷺亭
 洒落本を禁ぜられし後、此作者のつゝりたる中本多かり。そが中にいろは醉語傳(一冊)は、當時相撲取九紋龍が、日本橋のほとりにて、巾着切りとか云ふ賊を捉拉/トリヒシ/ぎたると云風聞あるによりて作れり。部したる物にあらねとも、水滸傳に本つく事、京傳が忠臣水滸傳より前にあり。雅語(一卷)宇志の日待(二卷)あり。は作者の自製なるべし。傍訓なけれはよみ得がたく、其義も亦詳ならす。此餘成田道中金の駒、(二卷)今西行東/アヅマ/くたり、(二卷)千社詣、(二卷)此餘は一九が膝栗毛を剽竊擬したり。然とも尤/ケヤ/けきあたり作はなかりき。

本町庵三馬
 一九が膝栗毛の行はれてより、亦赤幟を其間に建んとて作りたる中本多かり。そは戯塲醉言幕の外、(二卷)小野譃/ハカムラウソ/字盡、(一卷)生醉氣質、(二卷)浮世爐/ブロ/、(四編共に八卷)浮世床、(二編共に五卷)四十八癖、(三卷)客者評判記、(三卷)田舍芝居忠臣藏、(一卷)人間萬事譃計、(一卷)古今百馬鹿、(二卷)一盃奇言、(一卷)素人狂言、(三卷)人心覗機關/ノゾキカラクリ/、(二卷)田舍操/アヤツリ/、(二卷)忠臣藏偏痴氣論、(一卷)此餘猶あるへし。右の小野虚字盡は寛政中馬琴が著したる臭草紙無筆節用似字盡、及その後編麁想案文當字盡を剽竊擬したる也。譃の二字も、振鷺がの如し。作者の自製なれは、傍訓なくては讀べからす。又人心覗機關は、芝全交が十二傾城腹の内を擬したるものにて、田舍芝居忠臣藏は、萬象亭の田舍芝居と云小本より出たり。又忠臣藏偏痴氣論は、曲亭が胡蝶物語に忠臣藏おかる小浪を論せしを見て、稿を創めしならん。且鷺坂半内を忠臣也と云が如きは、古人唐來三和か常に論せし事なれとも、物にしるし付ざれは、取て自説にし□□也。そはともかくもあれ、伴内を忠臣と云も公論にあらず。只浮世爐のみ當年評判第一なりき。されは四編まて相續せしを、看官飽ずとて又浮世床前後二編を出したり。さはれ皆膝栗毛の二の町にて、等類を脱れかたかり。畢竟淺草の奧山にて、留藏が落語に聞ほれて、長き春の日の暮るを知らぬ看官を、一の得意とすなる冊子にあなれは、好惡褒貶なき事を得ず。譬は振鷺亭の文を愛るものは、振鷺が中本を妙とす。三馬をひくものは亦これにおなじ。然共走る者は必疾く、勝者は自ら強し。只一部たりとも、多く賣るゝを板本の忠臣とすべけれは、膝栗毛の久しうして、貸本屋等をさへ肥せしに及ぶべくもあらずかし。

曼亭鬼武(號咸和亭)
 上に録せしきうかん帖と云中本は、此作者一九と合作也と云。この餘も中本の作有けん、今は一も記臆せす。そは聞えたるものなけれは也。

東里山人
 中本の作あり。書名は覺えず何にかありけん。三卷は見たることありき。忘れたれはいふかひなし。

爲永春水
 近屬この作者の中本多く出たり。そが中に明烏と云中本は、新内ぶしなるあけがらすと云艷曲を取れるものにて、聊評判よかりしかは、後編を續き出したりときゝにき。此餘は耳に入るものなし。

瀧亭鯉丈
 此作者は何がし町の縫箔屋也とぞ。實名詳ならす。近頃多く中本を作るに評判春水にまされりといへり。七八年前なりけん、全本一卷(八笑人と云もの)借覽せしに、亦例の茶番狂言に似たるものにて、新奇の趣向はなかりき。其が中に、浮薄人二名、飛鳥山にてかたき討のまねをして、人を驚かさんと示合せてゆきたる折、お國侍、其を實事と思ひて、助太刀せんと云に困じたる打諢/チャリ/塲ありしのみ覺へたり。かばかりの才子にだも匱/トモ/しきは、戯作者は今船間にやあらんすらむ。

 記者の云。此等の中本は、本錢多からぬ貸本屋にも、刊行しやすきをもて、近來其輩の春毎に開板發兌しぬるが、いと多かりと聞ゑしかば、吾聞知らぬ中本の作者も、必す多く出たるならん。そは異日よく搜索考按して後集に録すべし。今は此等の中本に新奇のものゝある事なけれは、板する貸本屋等が口癖に賣れず/\と咳/ツブヤ/けと、彫/エ/らてやまんはさすがにて、猶こりずまに新板の年々に出るといふ也。世に冗籍の多かるは、是等の故にあらんかし。
 附て云。吉原細見は享保中より印行したり。(此頃は小冊の横本多かり)さるを天明の初、書賈畊書堂蔦重(狂名を蔦唐丸と云けり、然共自からは得讀ます、代歌にて間を合したり)か吉原なる五十間道に在りし時、(天明中通油町なる丸屋といふ地本問屋の店庫奧庫を購ひ得て、開店せしより、其身一期繁昌したり)其板を購求めて、板元になりしより、序文は必四方山人に乞ふて印行しけり。又朱良/アケラ/菅江の序したるも有りき。(菅江か序文の篇末に、「五葉ならいつてもおめしなさいけん、かはらぬ色の松の板元、と云狂歌ありしと覺へたり。細見の書名を五葉松といへは、かくよみし也)天明の季より四方山人は青雲の志を旨とせし故に、狂歌をすらやめけれは、細見に序を作らずなりぬ。是よりして蔦重は、其序を京傳に乞ふて、年毎に刊行したるに京傳も亦錦の裏仕掛文庫二小冊の故に、事ありしにこりて、寛政四五年の頃より、細見の序文をかゝすなりけり。是よりして浮薄の狂歌よみ名聞を貪る者、或は金壹分或は南鐐三片を板元におくり彫刻料として、其序を印行せらるゝを面目にしたりき。はじめ諸才子の序したる天明寛政の間はかの細見の賣れたるいと多かりと聞えたる。顧/オモ/ふに件の蔦重は風流も無く文字もなけれど、世才人に捷/スグ/れたりけれは、當時の諸才子に愛顧せられ、其資/タスケ/によりて刊行の冊子、皆時好にかなひしかは、十餘年の間發跡して一二を爭ふ地本問屋になりぬ。世に吉原に遊ひて産を破る者は多けれと、吉原より出て大賈になりたるは、いと得がたしと皆言けり。當時の狂歌集に、代歌せられて、唐丸か歌の入らさる者無かりしかは、其名田舍まても聞えて、いよ/\生活の便宜を得たりしに、惜むへし寛政九年の夏五月、脚氣を患ひて身まがりぬ。享年四十八歳なり。墓は三谷正法寺(日蓮宗)に在り。南畝翁墓碑を撰述して石に勒したり。こも又一奇人なれは、因に是に畧記すと云。

岳亭丘山
 元是小祿の御家人なりと云。退糧したるなるへけれとも猶帶刀す。畫工にて戯作を兼たり。此作者の中本幾種か印行の者ありといへとも、一箇も記臆せす。世に聞えたるものなければ也。文政のはしめの頃より人形町の表店に借宅し、標札を掲けて有しか、浪花のかたに遊歴すとて、兩三年他郷にあり。近頃江戸へ歸りしと云。そか中本の書名は知る者に問ふて追録すへし。

後の焉馬
 俳優畸人傳(二卷)沽金剛傳、四十八手關取鏡(中本一卷)なと、此人の作なほあるへし。これらはかの浮世ものまねめきたるものにはあらねど、共に中本なれは是に録す。

五柳亭徳升
 聲色早合點初篇より二三篇に至ると云。此外にも猶ある歟、たづぬへし。

後の三馬
 茶番早合點初篇、二篇既に刻成したり。二篇三篇續出すといふ。

 記者云。上にもいへる如く近來新に出る中本作者には、遺漏多かるべし。そは亦異日此書の後集に收むへし。

岡山鳥
 近藤淡州の家臣島岡權六の戯號也。文化年間讀本の筆工を旨として五六六と稱し、又節亭琴驢と號せしを、文化の季の頃より、岡山鳥と改めたり。琴驢と號せし頃、鈴菓物語と云中本二卷をつゞり、曲亭に筆削を請ひ、且曲亭の汲引によりて柏屋半藏が刊行したり。其後今の名に改めても、二三種中本の作ありと聞にき。文政中退糧して、濱町なる官醫(石坂氏)の耳房/ナガヤ/を借りてありしが、舊主に歸參して、又佐柄木町の屋敷に在り。戯作は素より多からず。筆工も今は内職にせるなるべし。

圓屋賀久子
 近頃此婦人の作れる中本多く出ると云。女筆にてかゝる戯作は珍らし。尚よく知る人にたづねて追て録すべし。後に此かく子の作の中本に赤繩結紙古滿/エニシノイトムスブカミコマ/(前後二編共八卷、越前屋長二郎板)秋雨夜話、(三篇共九卷)を見しに疑ひあり。此二書は婦人の作也とはおもはれず。筆ずさみにあらず。必是爲永春水の作なるを、故意/ワザト/婦人の作なりといつはりたるものなるべし。當春春水が作の中本、世評宜しからずとて貸本屋等が厭ふとかいへば、婦人の作にせは、看官の珍らしく思はんとてのわざなるべし。こは己が推量なれども大かたは違ふべからず。なほよく彼樂屋をさぐるべきになん。


近世物之本江戸作者部類卷第一終



近世物之本江戸作者部類卷第二目録
 讀本作者部上
  吸露庵綾足   風來山人   平澤月成(重出)
  蜉蝣子     芝全交(再出)山東庵京傳(三出)
  桑楊庵光(狂歌師而偶有讀本之作者、如狂歌堂六樹園皆倣之)
  雲府舘天府   曲亭主人(再出)
一赤本洒落本讀本の如き、各その差有といへども、戯墨は是一なり。但其文に雅俗あり。作者用意も亦同しからず。この故に其部を分ちて詳にせざるを得ず。是等の集に収る所の作者名號、重複を厭ざるゆえんなり。
一作者の畧傳、上に詳なるものは、下に是を畧し、前に畧せる者は、後に之を詳にす。中に現在の作者といへども、いまだ己が知らざるあり。今是をあなくり糾さんと欲すれは、徒に日を費して、この書速に成りがたし。こヽをもて、いまだ實名居宅活業の詳ならさるものは、異日其書を刊行したる坊賈に問て、追て録すべし。又姓名居宅の知れたるも、憚るよしあるは、こヽに具にせず。作者に種彦、畫工に榮三の如き是なり。
一本集四卷を全部とす。一二の兩卷、稿本方に成れり。餘卷いまだ稿せず。異日暇あらん折、稿を續て録すべし。



近世物之本江戸作者部類卷第二


読本作者部上
 今より百年餘り已前、世俗なべて冊子物語を物の本といひけり。こは物語の本といふへきを、語路の簡便に儘/マカ/せて、中畧したるなり。そを又近來は、讀本といふ。書として讀まざることはなかるへきを、稱呼理りなきに似たれとも、こも亦故なきにあらす。寛文より以降、享保の頃まては、童の翫ひにすなる物、多くは繪本なりし事、今の錦繪の如し。(菱川師宣奥村政信等が畫に、折本とぢ本、今も罕にあり)さらでも赤本と唱へたるは、畫を宗として、只其譯/ワケ/を畧記したるのみ。又そのたぐひながら、文を旨として、一卷にさし畫一二張ある冊子は、必ず讀むへき物なれは、畫本に對へてよみ本と、いひならはしたり。但作者の稿本を種本といふも、百年前よりの事なるべし。昔は作者の稿本麁鹵/そろ/にて、自ら畫稿をなすこともなく、恣に創稿せしを、畫工筆工の手に任して、初て書となるものなれは、譬は作者の稿本は物の種の如し。畫工筆工はそを培養して、秋歛の功を奏する老圃に似たれは、印行の種なる物といふこゝろもて、しか唱へたり。然るに三四十年こなたは、作者の稿本いと精細なる隨/マヽ/に、卷毎の楮/カミ/數、文字の大小傍訓、眞名假名の差別はさら也、出像も作者之を創して、かたの如く畫工に誂へ、篗/ワク/の模樣、表袋外題標紙の模樣まで、悉皆作者の稿本によらずといふものなければ、是を種本といふべからず。さはれ書賈は昔より呼熟たれば改めず、今も作者の稿本を種本とのみ唱ふるは、思はざるの甚しき者也。此分別を知れる作者は、種本といはるゝを羞て、いふめれと、此等の事を得知らざる作者は、みづから其稿を種本と云ふもありけり。はくらん病の藥をはくらんやみが買ふと云、鄙言/コトワサ/に似ていとをかし。
 近世物の本の愛たきは、後恩成寺殿の鴉鷺合戰物語、(寫本)無名氏の三人法師譚、(印本作者不詳)あり。天正年間、中村某(近江六角家麾下士の息也と云)が、奇異雜談集、(印本)又常盤姥物語、精進魚物語などの作者なほ多かるべし。寛永より下、元祿享保に至りては、京浪花に、物の本の作者多く出たり。其中に箕山(色道大かゝみの作者也。京都の人歟。なほ是具/ツブサ/には下に辨すべし)仙皓西鶴(浪花の俳諧師也。元祿六年八月十日歿。五十二歳)北條團水、(浪速俳諧師也)錦文流(浪速の人なり)西澤一鳳(仝上)八文字屋自笑(京師享保)江嶋屋其磧(同上)八文字屋端笑(自笑が子也。是より世々自笑と稱す)等あり。なほ有へけれ共、當時世に知られたるは、此數人のみ。明和安永に至りて、京なる前枝畸人(上田秋成の戯號也)雨月物語あり。(秋成は浪速の人也。後に京師に住す)椿園主人が坂東忠義傳、兩劍奇遇女水滸傳あり。浪華人都庭鐘(近路行者と假稱す)が英雙紙、繁夜話あり。大約此二三の才子は、竊に唐山の俗説を我大皇國/ミクニ/の故事に撮合してつゝり、其著筆、浅井了意の剪燈新話を飜案して、御伽/とぎ/冊子の一書をなしたるにおなしけれとも、件の作者等は、江戸人にあらざれば、敢て此部類に收めず。さはれ彼此比校の爲に、只概畧を録するのみ。
 此大江戸にも、二百年來戯作者に乏/トモ/しからず。今其代の二三をいはゝ、そゝろ物語の作者、ぼく山入道(寛永十六年の印本)が尤ふりたる。是に加ふるに、松井正三が二人比丘尼、幇間道之が吉原の草紙、(天和三年印本)地黄坊樽次が水鳥記(慶安中の印本なり)竹齋物語(天和の印本)釣醉子が紫文蜑の囀(源氏物語を俗文につゝりし也)鹿野武左衛門がしかたばなし、是等は今も好事者流に十襲愛玩せらるゝもの也。此餘松井喜久が虚實雜談集、(此以下享保の印本)何がしが四人比丘尼、(作者の名を忘る。一名花の情)紀の常因が怪談實録、無名氏の辻談義、増穗が殘口八部の書、(共に二十四卷、艷道通鑑も此一部の内也)の如きものにあらずば、多くは果敢なき浮世雜談、或は柳巷梨園の褻語、或は輪廻應報の物語のみなりしに、寶暦明和の年間に至り、ひとり建部綾足が本朝水滸傳(一名吉原譚)あり。水滸傳を剽竊摸擬して、我朝の古言をもて、つゝりたり。此等をこそ國字の稗説と云ふべけれ。よりて此部類には綾足より後々まての作者を收めて、是より上のものをとらず。そが中に、昨今のものといへとも、泛々の作者を數へ漏らせしもあらんかし。(元祿寶永の間、物の本の作者に東國太郎と云ふもの有。こは俳諧師其角が戯號也。又享保中俳諧師不角が作の、かな冊子あり。そが書名を記臆せす。擧るに足らぬものなれはなり)
 附ていふ。よみ本にも中本あり。近頃の中本は洒落本が、よみ本より前に出たり。又膝栗毛の如きも、よみ本の中本より後也。もしよみ本に中本なるあれは、其下に云々とことはる。大本あるも是におなじ。其餘はなべて半紙本なれは註するに及はす。文化年間、網本錢なる書賈の作者に乞ふて、讀本を中本にしたるもあれと、そは小霎時/シハシ/がほどにして、皆半紙本になりたるなり。

吸露庵綾足
 綾足(又作阿也太理)は、建部氏字孟喬奧の南部の人なり。壯年に及びて、江戸に僑居す。又京浪華にも遊びたり。甞て畫をよくして、寒葉齋と號す。(寒葉齋畫譜、世に行はる)其はじめ俳諧の連歌を希因に學ひて、綾帒と稱す。又凌岱にあらたむ。後に俳諧を排斥して、萬葉集の古風を唱ふ。然共獨學孤陋とならんことを耻て、其妻を加茂眞淵の弟子にして、竊に縣居(眞淵)の説を聞て、益を得たり。遂に萬葉片歌をはじめて、一派の祖師たらまく欲せしが、行はれず。いまだ俳諧を排斥せざりける、寛延辛未の秋、(此年寶暦と改元す)蕉門頭陀袋一卷を著す。(寫本)こは芭蕉の門人が、門人の事跡異聞三十三條をかきつめたり。其事虚實はいまだ、詳ならねとも、作り物語にあらず。享和中蓑笠漁隱これに傍註して架藏すと云へり。綾足、片歌を唱へしより、國史萬葉集等の國學を講するに及ひて、其才名を賣まく欲して、明和五年の春、西山物語(三冊)をつゞりぬ。是物の本を綴る初筆なり。其文古言をもてせしを、みづから分註して、出所を詳にしたり。且其冊子に作り設たる大森七郎と云ふ武士、其族八郎と中わろくなりしより、義の爲に其妹を殺せることは、當時京師に相似たる實事あり。綾足其巷談街説を取りて、件の草紙物語をつゞりしとぞ。其後明和十年春正月(此年安永と改元)本朝水滸傳初編十卷をつゞりしかは、京師の書賈等櫻木に上して、安永二年春發行しけり。後編十五卷も稿本ありといへとも、當時の好みにかなはざりけん、刊行は初編のみにして續出さで止にき。其後編の稿本は、好事の者傳寫して今稀に在り。編末に第三編の總目録を附出せしに、そは、いまだ稿を成さずして身まかりしかは、世に傳はらざる由、後編の奧書に見ゆ。凡百ヶ條にて、局を結ぶべかりしと、得果さゞりけるは惜むべし。唐山の名だゝる稗史を換骨奪胎して、一百條の草紙になさまくほりしたる、その全豹を見ることを得されとも、後の才子是を見て、國字の稗史を作る者尠からずなりぬれは、今の戯作者の陳勝と稱するとも過たりとすべからす。さはれ本朝水滸傳を古言をもて綴るものから動もすれば、今の俚語をまじへし所も多けれは、すべて体裁不調の書也。且道鏡をもて宋の高俅に擬し、藤原恵美押勝を梁山伯の義士宋江に擬しながらいと淺はかなる筋多くして、巧なりと思ふすぢなし。只其おもむき水滸傳を摸擬したれとも、水滸の古轍を蹈ずして、別に一趣向を建たるは、當時の作者の及はざる所也。實に今のよみ本の嚆矢也と、曲亭の評に見えたり。(本朝水滸傳の評一卷あり。著作堂の戯墨也。後編に至ては、黙老人の評言有。此二書は尚評者の秘筐にあらん。知音の友にあらざれは、看る事をゆるさすとぞ)又此作者の著述三四種あり。そはおり/\草、(寫本六卷)とはし草(印本二卷、原本不明、)すゞみ草(印本一卷)歌集(寫本一卷)等は、國字稗史の類にあらざれとも、こゝに附録す。多くは得がたき才子なれとも、心術正しからざりけれはにや、後人其非をいふものあり。(畸人傳にも見ゆ)没せし歳月詳ならす。安永中と聞たるのみ。
 記者云。綾足が西山物語は、當時京師の街談を取て作りし者也といへは、(友人桂窓子の話あり)件の物の本は、京師に客遊の折、つゞりたるにやあらんずらん。又本朝水滸傳を刊行しぬるも、皆京師の書賈なれは、こも西遊の日に作りたるならんとおほゆ。そを江戸作者の部に收めて、卷頭に出せしを、いかにぞやと云者あるべし。己がおもふはしからす。西山物語はとまれ、かくまれ、本朝水滸傳の編を印行せしは、京の書賈なれはとて、必しも綾足が京に在りし日に作りたりとは定めかたかり。よしや江戸の僑居の折なりとも、當時浮たる冊子物がたりを印行しぬるは、江戸より京の書賈に多かり。そは八文字屋本の此頃までも、多かるをもて知るべし。又京師に在りし折、件の冊子を綴るとも、綾足は京の人にあらす。故郷は奧の南部にて、江戸に流しぬる日も、一朝の事ならねは、こを江戸作者の部に收めて、卷頭に録するとも、愆とすへからす。譬へは風來山人は、原是讃州志度の人也。壯年より江戸に僑居し、又長崎にも遊學したる、此義をもて江戸作者にあらすと云は可ならん歟。綾足の事なぞらへ知るべし。
 或る人、記者に問て云。綾足と鳩溪(風來山人)は、同時の人にて、倶に奇才と稱せらる。但鳩溪は蘭學物産の義を發明して、雅俗に裨益多かり。綾足は萬葉の古學を唱へて、片歌をはしめたれ共行れず。かゝれはなす所雅俗に裨益ある事を聞かす。そを鳩溪か上に録して、辨論なきをいかゝやと詰られしに答て云。否、予が此部類に收めたる作者は、其才の長短と、本事の用と、無用によりて、敢て甲乙を定むるにあらず。風來山人の奇才たる、綾足が兄たらん。足下の辨を俟たすして人の知る所也。然共其戯作は唐山の稗史を摸擬せし數十回の編述ある事なし。此故に讀本作者、其部には宜しく一級を讓るべし。鳩溪をしてなほ世にあらしめば、此稿本を示すとも、必吾言にしたがはん。好憎無きを知ればなり。

風來山人
 風來山人平賀源内は、名は國倫、字士彜、鳩溪と號す。讃州志渡の人也。性聰敏にして、本草赭鞭の學に精し。其祖は信州の豪族平賀入道源心の後也といふ。源心武田晴信に討滅せられてより、其裔孫讃州に移り住む事數世、高松侯の小吏になりぬ。源内髫歳より大志あり。才智衆に超へ、且博識也。成長に及て、穆公に仕へて、藥園方を勤めたり。(月俸四口、銀拾枚を給す)此時に當りて、侯廣く和漢の鳥獸草木魚蟲介貝金石類を集め、且其形像を寫眞して、和漢名蘭名を註し給ふ。源内即君命により、頓て此に預りて、其事を資助す。後に職を辭し、東都に浪居して、大に高名を發しぬ。(鳩溪が讃藩を去りたる事情を原るに、其身は小吏の子なるを以て、既に登用せらるゝと雖、同僚の爲に慢侮せらるゝ事多かるのみならず、其君寵に過るを妬む者も在しかは、久しき後心もとなく思ふをもて、遂に侯に乞ひまつるに、再ひ師家に隨從して、醫學を研究せまく欲す。身の暇を給はるへしと申せしかは、君侯惜み給へとも、申事の理りなれは、所望に任せ給はんとて、すらと命せらる。時に寶暦十一年辛巳九月廿一日也。其折渡されし書の末に、其方願の趣御内々達御聽、格別之思召を以て、御扶持切米被召上、永御暇被下置候。尤御屋敷へ立入候儀は、只今迄の通に可被相心得候。但他へ士官之儀は、御搆被遊候とあり。是非召返し給はんとの思召、御ふくみありての事とぞ)
 鳩溪既に江戸に浪居して後、エレキトル寒熱昇降水等の蘭製の珍器を摸作し、初て金唐革を造製し、且人參を培養し、砂糖を製す。其國益を計る事尠からず。蝦夷産のイケマ蠻産のブスの類、日本にもある事を初て見出し、昔よりなきためしにしたる火浣布畧説、物類品隲と云二書を著述し、又傳奇院本を作るに名高く、其餘雜著の戯作多く、浄瑠璃本を作る時は、福内鬼外と稱し、戯作の小冊子には、風來山人と號す。實に近世の奇才也。行状は任侠にして、常に食客の多きを厭はす。壬午年に至て、神田邊(當作馬喰町、是傳聞の失なり、)に、賣居の巨宅あり。此家の前主は、某と云盲人也。高利の金を貸すを以て、暴富になりたる者なれは、非理の事露顯して、終りをよくせざりしとぞ。然るに此盲人死後に、其靈魂毎夜宅内にあらはれて、こゝにありしが見えず/\といふて尋るといふ風聞ありしかは、其家久しく賣れさりけれは、價賤くなりたるよしを、鳩溪聞て幸として、件の凶宅を購求め、人の諫るを聽すして、やがて移り住たるに、聊かも怪異の事無かりし。是より半年餘りを經て、鳩溪狂疾におかされ、愆て人を害せしかは身は獄中に没しぬ。こは默老翁の聞まゝ記に載せたるを略抄す。鳩溪が人を害したる顛末は傳聞の愆りあらん事を思ふの故に、本書に省きて、下に細書抄録す。亦是異聞なれは也。
(聞まゝ記に云。鳩溪か愆て人を害したる其故は一諸侯當時別莊を修理し玉ふ事あり。出入の町人に課せて、土木工匠の費用まて計られしに、思ふに増て多かりけれは、兼て親しく參りぬる鳩溪に、其承課/ウケオヒ/書を示して其意見を問はれしに、鳩溪答て云。この儀某に命したまはゞ、此積り多寡三か一にて成就すへしと申すにより、去ばとて件の作事を鳩溪に課せんとありしに、始より其事を承りたる町人、鳩溪をうらみ意趣を述て頗爭論に及ひしかは、其家の役人等扱ひて和睦をとゝのへ、鳩溪と其町人と相倶に修造をなすへしと命せられたり。是によりて、鳩溪が宅へ其事を掌る役人と、かの町人とを招きて、終日酒をすゝめけり。其折件の町人算勘の己れといたく異なる所以を問しに、鳩溪答て、そは吾秘事なれとも、かく和睦したれは、隱すべくもあらすとて、書冊を取出し見せけるに、此度の修法を詳に記したるにて、譬へは此木石は何方より云々の便りに、云々して取よすれは、費を省くこと云々。工匠も云々すれは日數幾日を減して云々の利分あり。君にも亦かばかりの費を省く。故に上下の利也といふよしを具にしるしてありけれは、件の町人駭嘆して、言下に感服したりける。斯て日は暮更闌/ヨフ/けしかは、かの役人等は辭して屋敷へ返りぬ。其件の町人は酩酊して立も得ざれは、そがまゝ臥して是を知らす。鳩溪も痛く醉しかは、席をも去らて醉眠しつゝ、曉かたに及ひ、眠り覺てあたりを見るに、嚮に件の町人に見せたる書冊なし。訝りながらあちこちと隈もなく尋しに、竟にたづね得ざりしかば、さてはかの町人が盗みたらんと疑ひて、熟睡したるを呼覺して云々と詰り問へとも、素より知るへき事ならねは、とにかくと陳するを、鳩溪は聽ずして、言葉のたゝかひつのるまゝに、町人を斫りかける。斫られて一聲あと叫ひつゝ、外面へ逃去りしを、追かくれとも及はざりしかは、生べからすと思ひしか。覺期を究め家にかへり、調度なんとを取かたづくるに、ぬすまれたりとおもひし書冊、手箱の内より出にけり。是にいよ/\端慮の失を悔ゆれとも、甲斐あらざれは、自殺せんとしたるほとに、門人并隣人等このよしを聞、集ひ來て取とめ、遂に公訴に及ひしかは、軈/ヤガ/て獄につながれしに、自殺せんとしたる時に、聊傷付きし所より、破傷風と云病になりて身まかりぬ。安永中の事なりき。「已上本文、」今其文の最要を摘て是に録す。然共本文と意のたかふ事なし。
 記者云。亥年平賀鳩溪か、人を害して獄に繋かれたりしと云、風聞のさはかしかりし折は、己れ十三歳の冬なりき。當時の街談巷説に平賀源内は、親しき友と雖とも、著述の稿本を見る事を許さず。然にいぬる日、常に源内許/ガリ/したしく交る米あき人の子某、源内の他へ出たる折に來りて、其かへるを待ほとに、机上に置たるを心ともなく開きつゝ、時うつるまで閲せし折、源内家に歸り來て、其稿本を恣に閲せしを怒り咎めて、うちわぶれとも聞かす、矢庭に刀を抜き閃かして、したゝに斫しかは、手を追ながら、逃れたれとも、療治屆かずして死けれは、源内は獄につながれたりと云へり。鳩溪が常に稿本を秘藏して人に見せずといふ噂は、此外にも聞たることあれは、さもありけんと思ひしが、聞まゝ記を看るに及ひて、其説に異同あるを知れり。孰か是なるか、今さら考る所なし。
 記者又云。文化年間、元飯田町なる家主に、渾名/アザナ/をチヨチヨラ傳兵衛と云ものありけり。□□馬喰町に居り。平賀源内と同居なりけれは、かの人を斫りつゝ、追て路次口迄出たるを目撃したりとて、當時の光景をはなしたれとも、其故は詳ならす。亂心の所爲なれは也と云へり。おもふに、鳩溪が馬喰町の居宅は、裏店ならは、裏口より追て路次口にいたりしなるべし)
 又南畝翁の一話一言に云。平賀源内名は云々。狂名は風來山人。又の號は天竺浪人。讃州志渡浦の人也。寶暦の末に始て江戸に來りて、聖堂に寓居す。官醫田村玄雄と共に、物産の學を勤む。火浣布を考へ出して、御勘定奉行一色安藝守につきて、公に獻り、上覽に入らる。後に神田白壁町の裏に住居す。又藤十郎新道に移り、又柳原細川玄蕃頭殿の前の町家に移る。(此頃門に柳を一もと植たり)終に馬喰町に移る。(検校の住し凶宅なり)明和七年庚寅の頃、長崎に赴く。大通詞吉雄幸左衛門家をあるじとす。阿蘭陀本草を學ひ、エレキテル、セイリテイトと云奇器(人身の火をとりて、病をいやすうつはなり)作る事を學ひ、歸りて専ら蠻學をなす。或は伽羅の櫛(銀むね象牙の齒、月に杜鵑なとの細工也)作る事をなし、或は金から革をつくりて、常の産とす。安永八年十一月廿日の夜、病狂喪心して人を殺し(米商人の子也と云)獄に下る。十二月十八日病て獄中に死す。屍を從弟某に賜ふ。橋塲總泉寺に葬る。其友杉田玄白(酒井修理大夫醫師)私財を以て、墓碑(墓表に智見靈雄居士)を立て、表とす(默老云、當時讃州志渡の郷士平賀某大夫と云者は、鳩溪の從弟なり。鳩溪が遺物多く此家に在)著す所の書、印行して海内に布くも夥し。或は其をかりて僞作する物も亦尠からす。今一二記臆のまゝをしるす。物類品隲、萬國圖、火浣布畧説、根なし草、(以下洒落本作者の部に録したるを以て畧す)淨瑠璃本云々、(淨瑠璃作者の部に録す、并見るへし)
 鳩溪かつて云く。幼少の時、夢中に發句をなせり。
  霞にやこして落すや峯の瀧
 狂歌も亦多し。鐘子期死て伯牙琴を破りしは、世に耳の穴の明きたる人なけれは也。
  此調子聞てくれねは三味線の、ちりてつとんとひいて仕舞そ
 又飜譯は不朽の業、舊師の高恩、須彌山よりも高きにほこりたる事をしらずして、いろ/\の物好は、榮曜のいたりなりと、自ら我身をかへりみて、
  むき過てあんに相違の餅の皮名は千歳のかちんなる身を
 いかなる時にか
  かゝる時なにとせんりの小間物屋伯樂もなく小つかひもなし
 心地たがへるまへにかきて人にしめせし發句。
  乾坤の手をちゞめたる氷かな
 われ嘗て狂文の落たるを集めつゝ小冊とし、飛花落葉と云ひ、世に行はる。下谷池の端伏見屋善兵衛板なり。火に燒てなし。(已上全文)
 南畝子は壯年の時、鳩溪と友とし善し。明和安永の間、投扇興流行の折なとは、しば/\面會せしよし。西原梭江に與ふる手簡に見えたり。又默老子は牟禮氏高松の家宰也。かゝれは、この兩家老翁のしるす所、前後倶に多くあやまりなるべし。
 記者云。風來山人の戯作は、小冊多し。半紙形の讀本は、風流志道軒傳五卷、根なし草(前後十卷)あり。根なし草は、明和年間荻野八重桐といふ歌舞伎役者、中洲河に漁獵せし折、謬りて水に落て身まがりたる評判、當時噪しかりしかば、そを物語の種にして作り設けたる也。其書甚しく時好にかなひて、三千部賣れたりとて、後編に自負せられたり。よしや三千部は貳價/カケ子/なりとも、かく讀本のさかりに行はれたるものは有がたし。當時は國字稗説の未だ流行せさりしかは、此作者又淨瑠璃の新作をもて一時に都下を噪したり。倘文化まて死なすもあらば、必よみ本にも新奇を出して、楮/カミ/の價を貴くすへし。誠に戯作の巨擘なれとも、勸懲を旨として、竊に蒙昧を醒すに足る親切の作編あるを見す。只其奇才は稱すへし。其徳は聞ことなし。

平澤月成
 月成は、喜三二の俳名なるよし、既に赤本作者の部にいへるが如し。名常富、俗字は平角、虎耳窟と號す。自ら云。享保二十乙卯春閏三月廿一日に生れたり。(こは後は昔物語のはしに見ゆ)天明中、古朽木と云冊子(半紙本)五卷を著す。此書も例の作り物語なり。印行の折、記者も見たれと、四十五年の昔にあなれは、いふがひなくも忘れしを、伊勢松坂なる篠山老人、そを記臆したりとて、予が爲にいへらく。喜三二が古朽木の世界は、俗に云世話狂言に似たれど、何事を父母にして作りたるか知らず。いと俗にたる趣向にて、富家の子が吉原へ櫻を栽へんとて、損をせし事なともあり。(記者云。こは、大申が吉原へ櫻をうへし事を作りたるなるへし)そが結髮/ユヒナツケ/の妻にお犬と云娘あり。(記者云また)猿藏とかいへる惡棍/ワルモノ/ありて、彼富家の寶とする隱蓑を盗む事なともあり。結局に地藏菩薩が願人坊主に變し來て、因果の理りを解き示す事ありしやにおぼへたるのみ。此餘の事は忘れたりと云へり。
 記者云。右の冊子は、當時通油町なる書肆蔦屋重三郎が印行しけり。時好に稱ふべきものならねは、纔に三四十部賣たるのみ。製本いたづらに、板元の庫中に年を累ねて、螵/シミ/のすみかとなりしとぞ。又おらく物語といふ戯墨一卷(寫本)あり。又享保年間、西原梭江子(名は好和、柳川家臣)の需に應して、後は昔物語一卷(寫本)をつゝる。こは享保已來の事、并に歌舞伎役者の事を旨とかきつめたる隨筆也。唯よみ本と稱すへきものは、右の二部に過ず。その中におらく物語は、部したるにあらす。且刊行せさる冊子なれは、世に知らざる人多かるべし。抑此作者は、滑稽本の嚆矢なれとも、其才と學術は讀本に足らさるに似たり。惜むへきかな。没年は上卷にみえたり。

蜉蝣子
 著す所奇傳新話六卷(四日市上總屋利兵衛板)あり。吾友篠齋子此冊子を閲せし折、予が爲にいへらく。奇傳新話は卷尾にも序にも年號なけれは、印行の歳月詳ならざれ共、序中に去春辛巳云々と云ふ事あり。辛巳は天明元年也。是より天明二年に上木せしかと猜するのみ。右の序は、江左の釣翁愛筌軒にしるすとあり。作者の姓名詳ならす。件の序中に、駿臺に隱士あり、蜉蝣子と號す。此翁奇傳新語五卷を撰し、卷毎に三章、通計十五章なりしに、辛丑の火に燒失せぬ。翁も其後物故せり。其友木校亭一卷三章を寫し傳へ、亦一老士五回を傳へたり。よりて其八回を六卷にして、世に傳ふと云へり。此冊子の趣向は、唐山の稗史より出たるもあり、亦當時の街談を取りなほしたるもあり。一回ツヽの連續せさる話説也。すへて勸懲の意ありて、浮たる物にあらず。和文は拙なけれとも、漢字は多少ありし人なるへし。

芝全交
 全交は、在世の日、よみ本の作印行の物なし。嘗て云。我臭草紙を作ること既に久しくなりたれとも、いまだよみ本の作を乞ふ者なし。臭草紙は其年のみにて摺せし事なし。いかて部したる讀本を刊行して、後に貽さは、文墨に遊ふ甲斐あるへしとて、宿望胸に在りながら、當時の流行、其處にあらねは、黙止して年頃を經たり。かくて寛政中に至て、全交が世を去りし頃、遺稿のよみ本五卷あり。題して全交禪學の噺(一名全交通鑑)といふ。こは手嶋やうの物にして、教訓の中に滑稽をまじへたり。全交の妻子其遺稿の事を、書賈仙鶴堂に告て、亡父の宿望を、はたさんと欲するに、仙鶴堂も亦年來全交が作の臭草紙を印行して、贏餘すくなからざれは、報恩の爲にとて、即ち其書を刊布しけるに、道學冊子なとも、既に衰へたる頃なれは、禪學の噺も行はれす。發販の折、入銀とかいふ義を以て(書林板元其書を發行已前に、其書を一部夥計/ナカマ/の書賈に見せて、おのかしゝ買取らんと思ふ部高を、帳面に記させて、賣出す前日、其數の如く夥計へ配るを入銀といふ。素人作者の板元へ金を送りて、彫刻を資/タスク/るを入銀と云におなじからず。混すへからす)賣らまくせしに、思ふにも似す、買ふ者稀にて纔に五十部許賣る事を得たりとそ。此故に當時といへども、彼書の事を言ふもの稀也。まいて後に至りては、知るものもあらすなりにけり。只板元の不利のみならす、作者の不幸也。

山東庵京傳
 天明の季の頃、麹町善國寺谷なる書賈の需に應して、孔子一代記(半紙本也、卷數を忘れたり、三冊もの也)弟京山が相四郎と呼れし頃、手傳して孔子國語禮記なとより、孔子の事實を抄録して、やがて和文につゝりたるに、さし畫(北尾重政畫也)を加へたるもの也。當時洒落本をつゞりて名たゝる作者に、孔子一代記を誂へしは、ふさはしからぬに、時好にかなふべきものならねは、いかばかりも賣れざりけり。是京傳が半紙形なる讀本綴りし初也。
 爾後寛政の初の頃、四季の交加/ユキカヒ/と云畫本を著はす。(半紙本二冊物也)畫は北尾重政也。(作者の畫稿にしたかふ)此書は江戸の名所、男女の風俗を旨として、是を賛するに、假名書の文を以てす。通油町の書賈蔦屋重三郎の刊行しけるに、これも時好に稱はさりけるにや、纔に四五十部賣れたるのみにて、製本いたづらになりけり。
 文化のはじめの頃、忠臣水滸傳の作あり。(前後十卷にて、北尾重政の畫)此冊子は、かな手本忠臣藏の世界に、水滸傳を撮/トリ/合して、おかしく作り設けたり。是京傳が國字の稗史を綴る初筆也。且水滸傳を剽竊摸擬せし者、是より先に、曲亭が高尾船字文ありと雖も、そは中本也。亦振鷺亭が伊呂波水滸傳の如きは、醉語と題して相似さる者也。かゝれは綾足が本朝水滸傳ありて以来、かゝる新奇の物を見ると云世評特に高かりしかは、多く賣れたり。
 此頃よりして、讀本漸く流行して、遂に甚しくなる隨/マヽ/に、京傳の稿本を乞ふて板せんと欲する書賈尠からす。是によりて、又安積沼五卷をつゞる。(畫は重政)俳優小幡小平治が冤鬼の怪談を旨として作れり。いよ/\時好にかなひしかは、賣れる事數百部に及ひしと云。皆つるや喜右衛門が板也。又優曇華物語七冊を綴る。(印行の書賈右に同し)唐畫師喜多武清(文晁門人)と親しかりけれは、此度は武清に誂へて、作者の畫稿によりて畫かゝしけり。此草紙の開手は、金鈴道人といふもの、子平の術に妙ありて、未然に吉凶を卜せしより、洪水に人を救て禍に遇ひし人の子、後に父の仇を討つ物語也。趣向の拙きにあらねとも、さし畫の唐樣なるをもて、俗客婦幼を樂まするに足らす。此故當時評判ふの字なりき。京傳竊にこれを悔ひて、亦櫻姫全傳(五卷)を綴るに及ひて、出像を歌川豐國に畫かしむ。此書のいたく時好に稱ひて、雅俗ともに妙とせり。其明年又うとふ安方忠義傳(六卷畫は豐國也)をつゞりて、印行せしに、いよ/\其新奇に愛/メテ/て是を看る者は、只三都會のみならす、田舍翁も亦此佳作あることを知れり。京傳が作のよみ本、多かる中に、此二種尤さかんなりとす。
 爾後又不破名護屋稻妻表紙(五卷豐國畫)を著はす。茅塲町の書賈伊賀屋勘右衛門が板なり。此冊子佳ならず。板元伊賀屋勘右衛門は前の勘右衛門が養嗣也。當年父子不熟の口舌あり。とかくするほとに、後の勘右衛門が妻身故/ミマガ/りぬ。京傳竊におもへらく。稻妻表紙の書名は、昔歳市川才牛が初て不破半左衛門に打扮せし折、雲に稻妻の縫箔したる、外套/ハヲリ/を披/キ/たりけれは、今に至りて伴左衛門に扮する俳優人は、必さる外套を披ぬる事、世の人の知る所なるに、百年ばかり已前の物の本に、稻妻の形ある標紙多かれは、これ彼をとりいでゝ云々と命せしが、今さら思へば、不祥に似たり。そをいかにぞとならば、不破名護屋は不和な子やにかよひ、稻妻表紙は否妻病死にかよへり。物の不都合にて思ひかけぬ事を、世俗いな事といへは、否妻病死に至る迄、悉皆板元の上に當れり。心づきなき悔しさよと、この頃所親にさゝやきけり。
 又本朝醉菩提六卷、後編四卷、共に十卷も、亦是伊賀屋の板にて、出像は豐國畫きたり。當時是等の畫工、例として未だ畫さる已前に、其濡筆を受ながら、技に誇りて畫くに遲かり。醉菩提を板するに及て、伊賀勘しば/\乞へとも、豐國事に托して、敢て畫かず、まづ板元に説薦めて、羽二重の袷半折二領を製らしめ、これを作者と畫工に贈らしむ。(其半折に京傳と豐國の花號/モン/を付たり)かゝる事は、歌舞伎の當塲作者に、此例あれはと云へり。只此事のみならず、或は酒肉珍菓を贈り、京傳と豐國を伴ひて、雜劇/シハヰ/を觀せ、或は酒樓に登る事、しば/\なりき。かくても豐國はなほ多く畫かず、催促頻りなるに及ひて、又板元にいふやう。己かく家に在りては、雜客もたへず、且錦繪の板元に責められて、よみ本のさし畫は筆を把〈以下脱文あり〉邊裏屋二軒を借りて、此處に豐國を請待し、日毎に酒飯を餽/オク/りて畫かせけるに、折から三月の頃なりけれは、豐國か又いふやう。時は今咲匂ふ花の三月なるに、斯垂籠てのみ有りては、氣鬱して病ひを生せんとす。いかで墨田川邊に徜徉して、保養せまくほしと云ひしを、伊賀勘聞て思ふやう。もし一日外に出さは、再び此處に歸るべからず。要こそあれと思案して、さりげもなく答ていふ樣。花を見まく欲したまはゝ、遠く墨田川に赴くに及はす。吾取よせて參らせんとて、大なる枝に花滿ちたる櫻を許多/アマタ/買とりて、そを花瓶にも樽なとへも活けて、豐國の几邊に置ならべ、其活花衰ふれば、取替/\見せしかは、豐國竟にせん方無くて、日毎に件の出像を畫くほどに、伊賀屋はさら也、京傳折々此假宅に來訪して、うちがたらひつゝ慰めけり。此等の事は、京傳の本意にあらねと、さきに優曇華物語の出像を、唐畫師に誂へて、後悔せしに、櫻姫全傳の作よりして豐國に畫かして、特に時好にかなひしかは、是より豐國と親しく交りて、功を讓る事大かたならず。夫に今淨瑠璃をもて譬ふるに、畫工は大夫の如く、作者は三味線ひきに似たり。合卷の臭草紙はさら也。讀本と云とも畫工の筆、精妙ならざれは、賣がたしと云により、豐國も亦自ら許して、其功我に在りとおもひしかば、是より合卷の奧半張に畫工の名を上にして、豐國畫京傳作と署したり。既にかくの如く、畫工に權をつけしかは、豐國の恣なるをにく/\しくは思ひながら、竟に諫むる事あたはず。其好に從ひつゝ、二とせばかり稍印行することを得たれとも、思ふにも似ず冊子の世評妙ならず。損するほどにあらねとも初に畫工作者をもてなしたる諸雜費のいと多かりけれは、竟に板元の算帳あはず。加旃/シカノミナラズ/此板元に不如意さへ打續きしかは、活業/ナリハヒ/既におとろへて、他町へ轉居したりけり。
 是より先、文化三年の頃、四つ谷鹽町なる貸本屋住吉屋政五郎と云ふ者、曲亭に乞ふて、其稿本盆石皿山の記(中本也前後二編共に四卷)を刊行して、其明年括/ククリ/頭巾縮緬紙衣/カミコ/(半紙本にて三卷なり)を印行せしに、時好にかなひて、二書倶に九百部賣る事を得たり。其折政五郎思ふやう。曲亭ぬしの作を印行してすら、利あることかくの如し。今亦山東ぬしに乞ふて、かの人のよみ本を印行することを得ば、市利三倍疑ひなしと、一日山東が許に赴きて、來意を告て云々と乞しかは、京傳異議なく是を諾して、必稿を起さんと云けり。是より後、政五郎は、折々京傳が許に赴きて、其稿本を催促し、物を贈る事もしば/゛\也。とかくする程に、此年は暮て、次の年も稿本未たならず。京傳は素より遲吟遲筆なるに、當時は吉原なる彌八玉屋の藝妓白玉がり、ひたと通ふ毎に、逗留せし折なれは、次の年に至りても、政五郎の責を塞くによしなけれは、さすがに胸苦しくやありけん。趣向は未だ首尾せざれとも、先出像より稿本を始て、一二張つゝ政五郎に渡し、出像は豐廣に畫せたまへ、此板下の寫本を畫き終る頃には、稿本をわたすへしと云。政五郎欣ひて、かたの如くにしたり。かくて、豐廣が畫寫本出來ても、作者の稿本未ならす。先是を剞劂にわたして鏤/エラ/せたまへ、亦次の畫稿を政五郎にとらせて、豐廣に畫かせつゝ纔に板元を慰めけり。既にして政五郎は只此事のみにかゝつらひて、貸本も手に付かねは、所藏の貸本を皆沽却して、活業を勤めず。月には幾回も京傳が許に赴きて、稿本の成をうかゝふの外他事もなく、思はずも三歳を經て、四年といふ春の頃、稍發行する事を得たる、其書は浮牡丹是なり。(四卷)本の形なとも、作者の好みに任せて、半紙本ながら唐本の如く横幅を狹くしたれは、紙に裁落の費多かり。表袋も唐本の帙のごとくしたり。出像も細密なりけれは、本錢を容れたる事尠からす。なれとも此書を印行せは三歳の費用を取返さん事易かるへしと思ひしかは、先九百部製本して發兌せしに、板元の命祿頽廢すへき折にやありけん。價例より貴しとて貸本屋等敢て買ず。纔五十部ばかり賣て其餘八百五十部は一部も出ず成しかは、政五郎驚憂ひて後悔の外なかりけり。折から妻は病蓐に打臥てありけるが、亦此事に憂苦を増して、幾何もなく空敷なりぬ。跡には今茲/コトシ/に十四歳なる娘あるのみ。政五郎せんかたなさに、家を賣て裏屋に移り、此夏は團扇を賣あるきなとして、細き烟を立にけり。元より心さますなほにて、人に憎まるゝ事もなかりしかは、年頃疎からぬ書賈等、政五郎の爲に財布無盡とか云ことをして、些の本錢を取らせて、地本問屋鶴屋喜右衛門なとも、錦繪臭草紙の類を貸て賣らせにけれは、秋の頃よりさゝやかなる、秪店/ホシミセ/をしつらひて、繪草子を賣て生活にしつゝ、兩三年を歴るほとに、隣町に家主の株を賣る者あり。政五郎そを購求めて、家主になりけれは、世渡り安くなりぬとそ。
 當時識者評していはく、政五郎が大利を欲して、活業の貸本を廢し、所藏の書籍をさへ沽却して、印行の書籍行はれず、産を破るに至しは、只是自業自得にて、いふにしも足らぬ事ながら、畢竟は山東子か約束を、しば/\たがへて、三とせ餘り政五郎に歩を運はせたりけれは、わづか四卷の浮牡丹に、諸雜費もいと多かり。さるを此書は賣れずして、破産の人となりしかは、其義を言に出さず共、心に作者を恨めしく思ざらんや。そも板元の不幸にして、時運によるとはいふ者から、其本を推す時は、作者も徳を害ふことなからずやと呟きけり。
 此後又仙鶴堂の支店鶴屋金助の需に應して、梅花氷裂三卷を編演す。刊行に及て此書又評判妙ならす。思ふに冊子に載する所の小厮/コモノ/長吉は孝也。さるにより井を汲て七十金を得たりしは天感の致す所成へし。然るに、長吉は其金故に、由兵衛の害に遭て、命を殞すに至るが如き、勸懲正しからずと云べし。
 斯て文化十年ばかりの頃、亦雙蝶記六卷を編述す。腹稿大抵成るに及て、馬喰町なる書賈西村屋與八報るに、其腹稿を話すこと首尾極て精細也。京傳は能辨には非ざれ共、其腹稿を人に説示すに、其趣を盡せしかば、俗子は其稿本を讀せて聞よりすらよくわかるとて、感賞せざるはなし。(京傳嘗て云樣、其讀本の腹稿なる時は、先妻に説示すなり。しかせされは、吾忘れたる折是を求る所なし。近頃は記臆うすくなりて、折々忘るゝ事多かり。其折妻に問へは、預け置たる物を出すが如く、勞せずして便りいとよしといへり。されは腹稿成毎に、そを印行せんと云書賈に、其趣向は云々と精細にとき示せしかば、板元早く欣ひ受てたのもしく思はざるはなかりき)其折、京傳亦言やう。近頃曲亭なとの讀本、雅俗を混交しぬるを以て、体裁をなさゝる者也。己れ此度の雙蝶記は吾妻與五郎の事を旨としたる世界にて、世話狂言と云者に似たれは、をさ/\雜劇の趣きに倣ふて、詞は今の俚語をもてすへし。しか綴る時は、婦女の俗耳に入らざる事なし。其樂一しほに倍すへし。此書一度世に行はれなは、後の讀本の面目を改むへけれと、さゝやき示したりけれは、西村屋與八感佩して、いよ/\頼母しく思ひしかは、雙蝶記を彫刻しぬる頃に、小店のある者販子/ウリコ/等が、仕入の爲に來て、山東翁のよみ本は、いつ頃より賣出し給ふと問ふ者あれは、云々と答ふる語次/コトノツイデ/に、此度のよみ本は、山東子が世界の作者の面目を新にせんとて、綴られたれは、行はれん事疑なし。見玉へ是よりして、諸作者の讀本の風かはるへしと、誇り顏に説示せしとぞ。されは作者の腹稿成りしより、凡二歳ばかりにして発賣することを得たりしに、世の看官の評宜しからず。此雙蝶記は、趣向の建さま、歌舞伎狂言めきたるすらいかにやと思ふに、出像/サシエ/(豐國畫なり)も都て歌舞伎役者の肖面にてふさはしからず。且物語の中なる詞に、左樣でござりますなど言ふ事多くあれば、あまり今めかしく、さう/〃\しくて、おかしからずといふのみなりければ、おもふにたがひて、其本多く賣れず、板元の胸算用そらだのめになりしとぞ。
 筆の序にいふ。此西村屋與八は、初代の與八の養嗣にして上卷にもいへる如く、天明年間、店廢絶したる地本問屋鱗形屋孫兵衛の二男也。其心ざまおろかならず、賣買にさかしきものなるが、常にいふやう。板本は作者畫工の名を、世に高くすなれば、その爲に引札をするに似たり。かゝれば作者まれ畫工まれ、印行を乞ふべきものなり。吾は決して求めずと云へり。是をもて、文化の頃まで、西村屋のみ刊行の臭草紙に、京傳馬琴の作はなかりしに、京傳件のよしを傳聞て、畫工豐國を紹介にして、自今以後拙作を參らすべし。印行して玉はれといはせしかば、與八異議なく受引て、此年より京傳の作の臭草紙を印行せしに、あたり作なきにあらねば親しく交りて、文化丙寅の類燒の折などにも、おくり物少なからず。冬と春との夷講には、必京傳と豐國を招待せざる事なかりき。其後種彦も亦ある人の紹介を求めて、西村屋與八に對面し、自作の臭草紙を印行せられん事を請しかば、西與又種彦の作を印行するに及びて、種彦連に來訪して、いと親しくなるまゝに互に其妻子も往來するやうになりたり。
 是より先に、或る人、西村屋に云々のよしを馬琴に告て、西村屋は特に繁昌の書肆也。われ等媒介してまゐらせん。印行をたのみたまへと勸めしを、馬琴はつや/\肯ぜず。己れは年廿四許の時、初て臭草紙をつゞりしより今に至る迄、板元にたのみて、刊行せし事なし。寛政二年の秋、戯れに壬生狂言の臭草紙二卷をつゞりて、京傳に見せしに、吾にたまへ、吾序をものして、泉市へつかはして、我が怠りの責を塞ぐべしとて、かたの如くに計らはれたり。その後、泉市の需に應じて、鼠婚禮塵劫記と云三冊物を綴りしを、板元の好みにて、京傳が序を書たり。此年予が作の臭草紙四種を綴りたれども、大和田伊勢治等にたのまんやとて、竟に其儀をうけ引かす。かくて此西村屋與八は、世を去り、三代目の與八も婿養子也。文政の初の頃、泉屋市兵衛、鶴屋喜右衛門を紹介として、曲亭がり初て來訪し、馬琴に新作の合卷冊子を刊行せまくほしとて乞ひしかは、馬琴やうやく受引けり。是よりして西村屋も馬琴か作を刊行して今に至れりとそ。
 是より兩三年を經て、文化十三年九月七日の夜京傳は暴疾にてたちまち簀を易しかは、よみ本は雙蝶記が絶筆になりにけり。物の本を好むもの、かゝる作者は亦得がたしとて、知るも知らぬも是を惜みき。
 文化年間、唐來三和、其友の爲に、京傳馬琴の戯作を批して云。京傳は冊子畫組と、よく機を取る事に妙を得たり。されは臭草紙はさら也、よみ本といへとも、先づさし畫より腹稿して、後に文をつゝるといへり。是を以て、うち見は殊におもしろからんと思はざるもの無れとも、よくよみ見れは、見おとりのせらるゝ多かり。なれとも臭草紙はをさ/\婦幼の玩物なれは、さまて趣向の巧拙を擇まず。只其畫組の今樣にて、新奇を欣ふものなれは、臭草紙は第一の作者と稱せらるゝ事論なし。三馬は竊に京傳の作を摸擬するものなり。京傳は北尾に學ひたれは畫稿に自由を得たり。いはんや、其弟は三馬が企及ぶべくもあらす。
 又馬琴は、臭草紙よみ本共に、趣向と文を旨として畫組と思ひ付に骨を折らす。こゝを以て稿本成らされは、畫稿に及はすといへり。故にうち見はさまておもしろからじと思ふ者多かれ共、よく讀見れは、感賞せさる事なし。因て思ふに、臭草紙は馬琴、京傳に及はず。讀本は京傳、馬琴に及はす。そをかにかくといふ者は、好憎親疎によりて、私論をなすのみ。然とも、京傳はさまてもなき趣向にても、見てくれを旨として、よくかき活るをもて、人其拙に心つかず。馬琴は臭草紙といへ、よく根組を堅固にして、勸懲を正しくす。なれとも京傳は戯作の行はるゝ馬琴より五六年先たちたるに、且其年歳も兄なれは、世の人并書賈まて、此を以て甲乙を定むれとも、吾おそらくは、後世に至りて論定らは、必團扇を馬琴の方に揚らんといひしとそ。
 記者云。京傳が奇跡考骨董集の二書は、作り物語にあらず。なれとも風來山人の著書目の如く、よみ本ならねとも、亦是に録す。享和年間、近世奇跡考(五卷)印行の頃、雅俗倶に賞鑒して、多く賣べき勢なりしに、英一蝶の土手ぶしなどいふ小歌の事を載たるを、英一蝶怒りとがめて、むづかしく云しかば、京傳驚きて、異議も無よしを、板元大和田安兵衛に告知せて、其板を摧/クダ/けり。京傳は寛政の初め、洒落本の咎/トガメ/ありしより、をさ/\謹慎を旨としたれば、當時冊子の稿本を町年寄へ呈閲して、免許を乞ひし折なれば、故ありて奇跡考を板元自ら絶板すといふよしを、大和田安兵衛書林行事と倶に役所へ訴へたりと云。惜むべし。かくて文化の年に至りて、又骨董集の著述あり。嘗て云。吾は素より經書史傳を讀ざりければ、儒になるべくもあらず。亦國學をもて更に名を成さんと思へども、國學にも名哲前輩多ければ、企及ぶべからず。只二百年前後、民間の風俗、古書畫の事などをよく考察して、さる書を後世に貽せば、戯作の足を洗ふに足らんとて、其考索に苦心する事、一朝の技ならざりき。書は多く見ざりけれども、才子なれば、何をつゞりても、和漢の故事に拙からず。なれ共骨董集の一著述は、戯作と同じからねばとて、是よりして、何くれと無く看書も勉たりければ、おもはず學問を進めけり。もと貨殖に疎からねば、書を購求ること稀にて、大かたは交遊藏書家に借覽鈔録したるもの、一葛籠に餘れりとぞ。奇跡考は其抄録中の俗に近きを、抜出して、五卷に綴りし也。其質虚弱なりけれ共、好む事とは言ながら、思はずして壽を損ひたる事なからずやと、知れる人は言ひけり。
 只この著述に勞したるのみならず、三十餘年、著述は必ず夜を旨として、ひるは日の傾くまで起出ざりけり。されば、京傳がり來訪するもの、先打仰ぎて、二階の窓を瞻るに、時は八つまれ七つまれ、尚二階の窓を開らかざれば、京傳はいまだ睡り覺ずと知らざるものなし。二階を臥房にすれば也。人或は是を諫て、朝に陽氣を受ずして、夜を深くするは、養生の爲に宜しかるべからずといふもありしが、常にやむ事もなかりしかば、久しきに熟して掛念せず。簀を易る前年より、歩行の折に息ぎれして堪がたき事あり。且脚氣もあればとて、稀に三里へ灸したるが、果して脚氣衝心して、黄泉の客となりぬ。思慮の命を破る事、酒色より甚しと謝肇淛が警めたるを、知るも知らぬも推なべて、京傳は骨董集と討死をしたりと云者ありしを、こも天授の數ならば、悔てかひなき事ながら、みづから破るにあらずとは云がたかり。惜むべし。
 骨董集は全本六冊と定めたるを、初篇二卷中篇二卷刊行したるに、好事者流に賞鑒せられて、多く賣たりといふ。(鶴屋喜右衛門が板なり)下篇二卷は、未た其稿成らざりきも亦惜むべし。(骨董集は印行してより六七年は、年毎に五六十部摺出せしに、それより後は一部も賣れすなりぬと、板元の話也)京傳は世に名を知られてより、印行の冊子、其作として、よく賣ざる物なかりき。其中に孔子一代記、四季交加、浮牡丹、雙蝶記、此四種のみ賣さるの書也。俗に云上手が手より水の漏りたるものなるべし。

桑楊庵光
 光は龜井町の町代岸卯右衛門なり。天明の末の頃、四方山人狂歌を擯斥してより、狂歌堂眞顏と倶に、狂歌を唱へて、隨一の判者と稱せらる。性酒を嗜むの故に、壯年より月額の跡皆兀/ハゲ/て赫/アカ/うして且光れり。固て、つぶりの光と稱す。當時淺草市人三陀羅法師、淺草千則等、皆其社中なり。戯作はせざりけれとも、寛政三四年の頃、貸本屋の需に應して、兎道/ウヂノ/園五卷を綴りて印行せり。こは宇治拾遺に倣ひて、一段限りの物語を書つめたり。板下の淨書も、光が自筆也。當時は、かゝる物の本、いまだ流行せざれは、巧拙の世評を聞くこともなかりき。寛政八年丙辰夏四月十二日に没しぬ。駒込瑞泰寺に葬る。或はいふ。名は識之。(識一作誠)

雲府館天府
 此作者何人なるや、姓名いまた詳ならず。俚語に、事の天運に憑るを運風天賦とかいへは、かゝる戯號を造れるなるへし。此人寛政中、邂逅物語五卷(寛政九年丁己の春自序あり)を綴りしを、當時貸本屋等四名合刻にて、發賣しけり。こも五冊全部の續き物にて、趣向は唐山の稗説、今古奇觀なとの中なる一回を翻案したりと覺しく、妬婦と賢妾ありて、これにより種々の物がたりあり。妾の生る子は賢にして、名を成したる結局に、妬妻本然の善に歸して、終に席を讓り、妻妾位を易ふる團圓也。其文の巧拙は、とまれかくまれ、趣向はさばかり拙きにあらねども、當時は、滑稽物の赤本流行したれは、時好に稱はずやありけん、させる世評を聞くこともなかりき。亦同人の作に棧道/カケハシ/物語五卷あり。(寛政十三年戊午の春、自序あり)當時のよみ本は、一卷の楮/カミ/數十五六頁、或は二十頁にとゞまる。其筆耕九行か十行にて、細密ならず。さし畫も略畫にて、卷毎に二頁に過す。全本五卷の價銀五匁ばかりなりき。文化の年より、讀本流行するに至て、書賈剞劂の精密なる、和漢往昔無比といはまし。

(記者云。上に録せし、京江戸浪花なる作者の畧名傳の中に、思ひあやまれるもあり。足らざる事もありけるを、始より書改めんはわづらはしさに、かさねて此に細書すなり。こを見ん友達、前後照して見つへし。上に録せし色道大鏡の作者箕山は、何人なるやいまだ詳ならすと雖、後に古筆の鑒定家になれる由にて、顯傳明名抄一卷、類聚名傳抄十五卷を著はしたり。其書に、寛文甲辰の年號あり。又貞享五年の春、増補の序もあり。こは寫本にて、行はるに、作り物語にあらす。彼色道大鏡は、いまた見ることを得さりきと、桂窓子いへり。記者云。件の大鏡は、おのれ浪華に遊ひし折、作者の原本を閲したり。おもふに、箕山ははじめに、妓院の事にをさ/\筆を費せしに、後に志を改めて、眞の著述をなせしなるへし。兩巴巵言も同時世の物にて、篇末に、身毒牢人金天魔云々とありて、作者つくり號也。
 亦同し條りに録したる、上田秋成が戯墨の讀本は、雨月物語のみにあらす。春雨物語てふもの十卷あり。こも續き物語にあらす。一回毎に世界は異にして、十回あり。此書は印行せす。傳寫の本も、世に稀なれは、己れは其書ありとも知らざりしに、桂窓子いぬる年、作者の自筆の卷物十卷を見たり。其後類本を見ず。當年傭書に寫させて、藏弆すと、予爲にいへり。こも又得がたき珍書なれは、いかで借謄せまくほりす。よりて録して、仝好に示すのみ。
 亦其次の條りなる、江戸作者名録中に收めたる、増穂殘口は、江戸人にあらす。名は最中、姓は源氏、増穂大和と稱す。豐後の人なるが、京に至て、其主の府に仕へまつれり。享保二年秋九月没す、年六十三也と、續諸家人物志に見へたり。こを江戸作者の條下に紛れ入たりしは故あり。當時此人の戯作は、江戸日本橋南一町目の書賈須原屋茂兵衛が多く印行したれは也。さて上に録せし殘口八部の草紙は、艷道通鑑六卷、徒然東雲/シノヽメ/二卷、神國加魔秡三卷、異理和理合鏡三卷、小社捜二卷、神路手引草三卷、直路常世草三卷、田分言二卷是なり。此餘七福神傳記、神道本津草、増穂草なとあり。そのことばのなき浮世雜談、あるひは今昔男女の得失を論するに、勸懲を旨とつゝりたり。もとより滑稽の上手にて、妙文人意の表に出ること多かり。
 亦松井嘉文紀章なともその住所いまた詳ならず。なほよく考て訂すへし。亦上に録せし椿園主人の編に、尚漏せしものあり。そは今古小説唐錦四卷、安永八年七月作者の自序あり。今古奇談、翁草五卷、安永六年、當時翁草と云草紙二部あり。一は其蜩庵が翁草五卷、こは隨筆物にて、作り物語にあらず。又椿園が翁草は、をさ/\多田兵部を誚らんとて綴れり。こは椿園が作中の屑也。これ彼共に、安永中に書賈か印行したれは、混して思ひあやまるものあらんといふのみ)

曲亭主人
 寛政七年乙卯の夏、書賈耕書堂の需に應して、高尾千字文五卷を綴る。(中本にて畫は長喜也)是よみ本の初筆也。(明年辰の春發行)當時未熟の疎文なれとも、この冊子の開手絹川谷藏が、霹靂鶴之助を師とし相撲を學ふ所は、水滸傳なる王俅史進師徒のおもむけ摸擬したり。此餘の所も、焚椒録、今古奇觀なとより飜案したるすら多かり。なれとも當時は滑稽物の旨と行はれたれは、させる評判なし。江戸にては、三百部ばかり賣る事を得たれとも、大坂の書賈へ遣したる百五十部は、過半返されたりといふ。そはかゝる中本物は、彼地の時好に稱はす。且價も貴けれはなと云おこしたりとぞ。
 十年戊午の春、仙鶴堂が誂る爲に、繪本大江山物語三卷をつゝる。(畫は北尾重政なり。かゝる繪本株、素より鶴屋にあり。因て、折々新板を出せり。此冊子の形は、半紙と中本との間なるものなれは、中形本と唱ふ。以下倣之。この書、明年己未の正月發行したり)此年亦鶴屋の主管/バンタウ/忠兵衛が乞によりて、小冊鹽梅餘史一卷をつゝる。新作の落語也。(曲亭作の小冊は、只是のみ。當時洒落本禁止せられて、浮世物まねめきたる中本いまだ流行せす。よりて從て此所に録す)
 十一年己未の夏、京傳が勸めによりて、戯子名所圖會、流行の折なれは、此冊子時好に稱ひて、頗る賣たり。此年の冬、叶雛助(二代目)大坂より到れり。板元鶴屋亦雛助を増補し、且畫に色板をかへ、彩色摺にして、再刷發兌す。既に古板になりたる價、初度より貴けれは、再刷は多く賣れすといふ。
 十二年庚申の秋、繪本武王軍談五卷を綴る。(間形本重政畫)享和元年、又繪本漢楚軍談(前後十卷)を綴りて、印行せり。同年又天神記五卷を綴る。是等の繪本は、作者の得意にあらず。板元鶴屋が誂によれり。并に畫は北尾重政也。然るに、天神記は久しく成迄、其畫ならず。とかくするほどに、國字稗史流行して、年々多く出しかば、かゝる繪本は、時好に稱はず。板元仙鶴堂没して後、其畫やうやく成就しぬれど、既に流行に後れたれば、後の仙鶴堂、これを櫻木に登せて、ほどなく畫工重政も身まがりければ、此寫本絶筆になりぬ。
 享和三年、小説比翼文二卷(中本なり。つるや喜右衛門板也)又曲亭傳奇夜釵兒/カンザシ/二卷、(同上濱松や幸助板なり)を作る。此年又大坂の書賈河内屋太助に前約あれば、月氷奇縁五卷を作る。是曲亭が半紙本のよみ本を綴る初筆也。(出像は、浪花の畫工に繪がゝしむ。畫工の名をしらず)この書、太く時好に稱ひて、印行の年、(文化元年)大坂并江戸にて千百部賣たりといふ。是より讀本漸々に流行して、竟に甚しきまでに至れり。
 文化紀元甲子の年、稚枝鳩五卷(豐國畫鶴喜板)石言遺響五卷、(北馬畫、中川新七、平林庄五郎合刻)二種のよみ本を作る。明年の春、發行に及で、并大に行はる。こゝに於て、曲亭の讀本を刊行せんと乞ふ者、年々に多かり。此年の冬、四天王剿盗異録、前後拾卷を創す。(豐國畫、柏屋半兵衛板)三國一夜物語、(豐國畫、上總屋忠助板)水滸畫傳、(第十回まで、二帙十一卷、北齋畫、角丸屋甚助、前川屋彌兵衛合刻)椿説弓張月前編六卷、(北齋畫、林屋庄五郎板)等の繪本を作る。又盆石皿山の記前編二卷、(中本也。豐廣畫、住吉屋庄五郎板)敵討誰也行燈/タソヤアンドウ/二卷、(中本、豐國畫、鶴屋金助板)二種の作あり。此年又大坂の書賈大野木市兵衛が需に應じて、劇塲畫史(盧橘撰)の像賛狂詩三十六首を題す。こは京浪花の歌舞伎役者の肖像也。そが中に、江戸役者市川白猿、(五代目團十郎)只一人あるのみ。
 弓張月世評高かり。常世物語も明年發販の折、一千部賣れたり。三國一夜物語は、發兌して後、大坂にて歌舞伎狂言に取組て興行しけるに、片岡仁左衛門が淺間左衛門、生涯第一の大出來にて、看官群集、三四十日衰へざりきといふ。江戸の讀本を、浪花にて歌舞伎狂言にせし事、是をはじめとす。
 大約文化年中、馬琴の戯墨、毎歳臭草紙讀本共に、十餘種出板せざる事なし。其少なき時と云ども、八九種發行しけり。戯作者ありてより以來、一人一筆にして、かくの如く、著編の年に多かるは、前未聞也。遠方の看官は、是を疑ひて、馬琴といふもの、二人も三人もあるかといへり。弓張月は此後、編を續こと都て五次、其度毎に、板元の利市三倍也と云。全本廿九卷、文化七年に至りて、結局團圓す。八年の春、板元林庄五郎、作者に報ふに潤筆の外、金拾兩を以てす。且北齋に、爲朝の像を畫かせ、曲亭是を懸幅/カケエニ/して祭れり。其贏餘多きをもて、徳とする所也。
 文化五年戊辰の冬十月、浪花の淨瑠璃作者佐藤太、弓張月を新淨瑠璃に作りて繁昌せり。題して鎭西八郎譽の弓勢といふ。此冬大坂の歌舞伎座にても、亦是を興行して、大入なりと聞ゆ。此狂言番付今尚あり。(天保四年の秋九月、大坂中の芝居、嵐三津橘座にて、此狂言を興行して繁昌したり。是則文化中の狂言名題、島巡り月の弓張是なり。淨瑠璃とは、趣向大同小異也)
 是より先に、文化二年乙丑の冬十月、大坂の人形座にて稚枝鳩を新淨瑠璃に作りて、興行したるに太く繁昌したりとぞ。是も作者は佐藤太にて、淨瑠璃の名題會稽宮城野錦繍/ニシキ/といふ是也。曲亭の讀本を新淨瑠璃にせしは、是其はじめ也。當時の流行想像すへし。
 文化三年よりして、讀本の作ます/\多かり。よりて編述の歳月と、板元を具にせす。是煩雜なるを厭へは也。明年(文化丙寅)敵討裏見葛葉五卷をつゝる。こは平林庄五郎が好みに任せしのみ。作者の本意にあらす。又墨田川梅柳新書六卷、(鶴喜板行)園の雪五卷(角丸屋甚助板)の作あり。又盆石皿山の記後編二卷、(住吉屋板)枕石夜話二卷、巷談堤坡庵(上總屋忠助板)刈萱後傳、玉櫛笥三卷を綴る。皿山の記以下、此四種は中本なり。(此後、中形の讀本を作らす)
 此年の秋、麹町なる書賈角丸屋甚助、劂人/ハンギシ/米助に彫刻金、前借礙滞出入あり。遂に町奉行小田切土佐守殿に訴ふ。且この義に拒障をなす者は、作者馬琴也と申により、米助并に曲亭を召出して、其事を問はれ、遂に吟味に及はる。(此一件の吟味與力は三村氏也。當時小田切殿の御役屋敷は、御普請あり。故に麹町なる本屋敷にて、公事訴訟を聽れしなり)事の情を原るに、米助は(當時牛込御納戸町の借家に住居す)剞劂の良工也。(かしらほりといふものにて、讀本の綉像に初て微妙の刀を盡せしは、水滸傳より也。其人物のかしらは、みな米助が細工なり)水滸畫傳以來、園の雪なと多く角丸屋の板木を刊行しぬるにより、彫刻料漸々に前借して、金六兩あまりに及べり。此年の夏、米助一日曲亭か許に來て、在下/ヤツガレ/當夏は生活不如意也。いかで然るへき書物問屋へ汲引/ヒキツケ/して玉ひねといふ。曲亭は彼が角丸屋に前借あるを知らず。よりて鶴屋喜右衛門に告しかは、鶴喜則曲亭の新編なる梅柳新書の寫本を米助に皆〈以下脱文あり〉、彫刻を怠るとにはあらねとも、しば/\約束にたがひしを、甚助怒りて、緊しく米助を責にけれは、今さら包むに由なく、曲亭主の汲引/テヒキ/にて、鶴屋の梅柳新書を彫るにより、云る如くには果しがたかり。彫刻料を増し玉はゝ、速にせんと云けり。甚助是に彌怒りて、かたの如くに訴けり。兩吟味に及はれしに、米助は職人の事なれは、果敢々々しく申すことなく曲亭は、又米助が甚助に前借ある事を知らす。米助が云々と言し頼に依て、鶴喜へ引つけて遣候のみ。甚助に宿恨ありて、しかはからひたるには候はす。甚助が米助にゑらせ候讀本も、某が編述したる冊子に候へは、遅滯せん事を欣ひ候はんや。然るを甚助が理不盡に、某さへに相手とり云々と申立候事、迷惑限りなく候と陳じ申けり。其時甚助懷中より手簡を取出て、こは馬琴の腰を推し候證拠にて候とて、まいらせけり。其書は、甚助が米助の怠りを咎めて、むつかしく云ける折、米助が云々と馬琴に告けて、かゝれは鶴屋の梅柳新書も、約束の如くには果しがたかるへしと、いひおこせし回報に、角甚の板は、吾がしつらひたる事ならねば、いかにとも言ひがたし。鶴喜は和郎/ワヌシ/のたのみによりて、吾紹介したるに彫刻約束にたがひては、吾其折、鶴喜に面ぶせ也。天下の職人、和郎一人なるべからす。下細工人を多くせは、さる事はあるべからす。此義を以て、すへよくせられよといひ遣しけり。
 三村氏是を見て、天下と申すは憚るべき事也。天下一なと云賣藥も、近頃御沙汰ありて、其看板を改めさせられたるそ。こは甚しき過言也とて咎められしかとも、さりとて、腰推の証据になるべき手簡ならねは、いふかひもあらす。畢竟米助が不始末より事起れり。はやく甚助に前借金を返すへしと命せらる。是によりて、米助が店受人なと扱ひて和談に及ひ、當金三兩を甚助へ返し、其餘は十二月晦日限りに返濟すへしといふに、甚助も今さら計較/モクロミ/たがひて、せん方なけれは、其儀をうけ引、熟談して内濟を願ひ申せしかは、免許あり。頓て遺恨なきのよし證文を奉/マヰ/らせ、只一吟味に事たひらぎけり。此折、曲亭の所親京傳鶴喜なんと、多く奉行所の腰掛に來會し、件のよしを聞て心地よしとて祝さぬものはなかりけり。
 抑角丸屋甚助は、舊名を甚兵衛と呼て、天明の頃まて、元飯田町中坂の裏屋に居り。日毎に下駄を賣あるきしかは地方の人下駄甚と呼做たり。素より爭訴を好みしかは、故の白川侯へ駕訴/カゴソ/せし事あり。其後本錢を得て、麹町平川町に書籍の開店して、書林の夥/ナカマ/に入りぬ。文化の初の頃、麹町一丁目なる内藤殿の家臣二人合刻にて、懷中道しるべといふ武鑑めきたる折本(二卷)を印行の折、甚助そを製本して賣弘めたり。此罪により刊行の二人は追放せられ、甚助は重き過料にて、件の道しるべは、絶板せられたり。(懷中道しるべを印行して、罪を蒙りし二人は、隨澤堂青陽堂と號しき。一人は廣澤氏にて、共に内藤家の臣なりとぞ。文化元年甲子の秋九月、初篇を出し、二年丑の春三月後篇を出して、ほとなく絶板せられたり)是等の事を、曲亭は知らずして、此度連累せられしを、且悔且怕/ヲソ/れけり。
 この年の冬十月、角丸屋甚助、一日榎本平吉(本所森下町の書賈也)を介として、曲亭に謝して云。嚮には米助が事により、謬りて先生を連訴したる所、後悔今さら臍/ホソ/を噛/カ/めとも甲斐なし。願くは先非を許されて、水滸傳園の雪の次編を稿したまへ。先當今緊要は園の雪の彫刻既に竣/オハラ/んとす。校訂をなし給はゝ、幸甚しからんといへり。曲亭聞て怒りに堪ず。則平吉に答ていふやう。吾は素より人の借財の保人/ウケニン/に、なりたる事なし。まいて人に金錢を借りて、返さゝる事無けれは、後/ウシロ/安しと思ひたるに、甚助理不盡に連訴したる恨、生涯忘るべからず。千萬言を盡さるゝ共、其儀決して無益也といふ氣色、すさまじかりけれは、平吉殆と困し果て、宣ふ趣理り也。さりながら、園の雪の校合をなしたまはずは、甚助必そのまゝにて、製本發兌すべからんには、板木師の鏤謬て、事を正すによしなし。是も亦先生の面目を損/ソコナ/ふに似たり。よりて件の校合を甚助に取扱せず、小人是を持參して、おん直しを受奉らん。此義ばかりは許させたまへと、只管にわびしかは、曲亭やうやく點頭/ウナツキ/て、げに云るゝ如く、園の雪には、吾名號あるを、一字も校訂に及ばずは、後々まても遺憾なるべし。和殿自から往來して、校訂を受けんとならは、其儀は所望によるべき也と、既に約束したりしかば、其後件の校合は、平吉が日々携來て、なほしを受て、校訂三度におよび、摺刷/スリタテ/を許すを待て、製本發兌したりけり。然るに標紙へつくる外題は、板下を作者にみせず、筆工が書たるまゝに、彫刻したれば、標註の標の字を、漂に誤て、漂註園の雪と記せしを、曲亭後に見出して、打呟/ツブヤ/けども、かひなかりき。
 此明の春、角丸屋甚助、又榎本平吉、前川彌平等を介として、曲亭に罪を請ふ事初の如し。前川彌兵衛がいふ。水滸畫傳は知らるゝ如く、小人甚助合刻也。もし甚助と和睦を許したまはずば、畫傳の次篇は、稿本を小人に玉ひね。又園の雪の後篇は、甚助が孩兒/セガレ/へ賜へ。しかせば御意に悖/モト/ることなくて、二書の嗣刻を成すことを得べしといひしを、曲亭つや/\肯ぜず、答ていふやう。畫傳は和殿合刻と雖ども、其書に甚助名を除かざれば、他/カレ/が爲にも綴る也。且其親と絶交して、其子と交る方/ミチ/あらんや。二箇條共に受引がたしと、緊しく窘/タシナ/めて、ながく杜絶に及びけり。此故に水滸畫傳と園の雪は首尾整はざる書となりて、數年の後、角丸屋甚助園の雪の板を京都の書賈近江屋治助に賣けり。文政五年壬午の冬、治助江戸に到りて、山崎平八と相謀りて、曲亭許/ガリ/來訪し、園の雪の後編を綴り賜へとて乞しに、前編の出しより、既に多年に及びしかば、流行に後れたりとて、速にうけ引ざりしに、治助は歸京の後、身まがりて、其弟が兄の家を繼ぎたり。かゝる事にて、園の雪は後編出ずなりにけり。又水滸傳の板は、角丸屋甚助没して後、文政丁亥の秋、甚助が子某是を英平吉に賣けり。其折英平吉よしを曲亭に告て、嗣刻の爲に編を續ん事を再三たび乞けれども、曲亭思ふよしやありけん、固く辭/イナミ/て需に應ぜず。平吉なほ已ことを得ず、二以下の譯文/ヤクモン/を高井蘭山に乞ひ綴らせて、第二編五卷を刊行しけるに、當時曲亭が傾城水滸傳、時好に稱ひて、年々太く行はれたる折なるに、畫傳の譯文、曲亭にあらざること、看官飽ぬ心地して、多く賣れざりけり。とかくするほどに、英吉は暴疾にて世を去ければ、其子太助水滸傳の板と、蘭山が三編以下の稿本と、前の北齋が三十六回までのさし繪の寫本と、相共に是を大坂の書賈河内屋茂兵衛に賣けり。河茂則刻を續て全本になすと也。然ども時好曲亭が譯せし初編二編とおなじからねばにや、復此書の事をいふものなし。
 初米助は角甚の訴、和睦に及びし年の冬、彼梅柳新書の刊刻、大抵成就しぬれ共、そは下細工人に課/オフ/せしのみにて、米助が刀もてすべき物のかしら、いまだ鏤/エ/らす。この米助は、なほ壯年なるに、酒を嗜みて懈る事多かり。曲亭此よしを聞て、梅柳新書の刊行遅滯して、年間發賣しがたくは、吾仙鶴堂に對して、面伏なるのみならす、必甚助に笑はれんとて、梅柳新書の板元に代りて、しば/\米助に催促しぬれ共、米助得應/イラ/へのみして、事果つべうも非ざりけれは、此冬十二月朔日より曲亭自ら米助許/ガリ/に日々に赴くに、朝とく出て、日暮ざれは還らす。晝飯は宿所より割籠/ワリコ/をとりよする日もあり。さらぬ折は、牛込御納戸町なる飯店にて、腹を結ひ、米助が梅柳新書の出像の頭顱を鏤/エル/を、うち守りて、斯の如くする事、一日も間斷ある事無れは、米助細工に怠る事得ならす。且他の細工をなすことも得ならねは、困じて曲亭かいまだ來らさる已前、朝とく二階にうち登りて、垂籠て他の板をゑらまくす。其折曲亭が來て、米助の妻に問は、妻答て、良人は遁れがたき事ありてしか/\の所へゆき侍りなと云を、必らす空言ならんと猜/スイ/して、やがて二階に登りて見れは、米助は果して他の板を鏤/エ/りて居り。曲亭に見出されて、せんすべなけれは、亦梅柳新書のさし繪を刊刻す。既にして、一卷刻し終れは、曲亭傍より彫工の謬れるを校訂して、これを米助に補はせ、既に補ひ果たる、一卷の板は、人を傭ふて駄して板元鶴屋へ遣しけり。こゝをもて、十一月の季にいたりて、鏤り果る程に、校訂も板元を勞することなくはやく摺刷することを得たりしかば、鶴屋喜右衛門欣ひて、米助には別に折乾/サカシロ/二方金を取らせて、是を賞し、次の日みづから曲亭許/ガリ/詣來/マウテキ/て、件の欣を述、肴代と録して、金五百疋を贈りしを、曲亭受ずして、いふやう。吾儕米助か刊刻を懈らせじとて、三十許日、暇を費せしは、かゝる報ひを受ん爲にあらず。吾謬て米助を其許へ紹介せしより、角丸屋甚助に連訴せられて、不測の咎めを得んとせしに、幸ひにして無異に治るものから、米助生活に怠りて、梅柳新書の發兌遲滯せは、和主に理/コトワリ/なきのみならす、必甚助に笑れん。吾此義を思ふをもて、みつから勞して、本意を果せり。吾もし浮薄なるものならは、人もたのまぬ骨を折らんや。米助許/ガリ/かよひたる日數をもて、讀本を綴ること三十日に及びなは、其潤筆五六圓金は得易し。そを義の爲にみかへらて、事こゝに及べるにて、意衷を査/サ/せらるへき也と、理りを述て、受ざりけり。曲亭は、弱壯より行状義侠に近かりけれは、かゝる事多かりしを、稍老練に及ひ、昨非を知りて、求めて勞する事を要せず。萬事を自然に儘/マカ/せしとぞ。
(角丸屋甚助は、曲亭に杜絶せられしより、京傳がりしば/\赴きつゝ、其よみ本を印行せんと請し折、嚮/サキ/に曲亭を連訴せし事をいゝ出て、件の公事は吾勝べきこと勿論也。しかるに憖/ナマジヒ/に、曲亭を連訴せし技も力も勝/マサ/りながら、立合負をしたる也といひしとぞ。此後久しくなるまて、京傳が其乞るゝ稿本わたさずとて、甚しく催促せしかは、京傳怒りて、著編は問屋より買出す物と同しからねは、遲速はかねて料りがたし。且吾身が大江戸の通町なる表店にて、奴婢三四名を使ひ、活業をすなるに、其許より受る潤筆にては、一箇月も支がたかり。かゝれは活業の暇ある折ならでは、筆を把りがたし。そを遲しと思ひ給はゝ、別人にたのみ給へ。吾は得綴らじといゝしかは甚助も、亦うち腹たちて、この後來すなりぬ。此一條は、京傳の話也。
 扨米助は、梅柳新書を鏤果たる年の暮に、鹽引の鮭一尾引提け來て是を曲亭に贈り謝していふやう。嚮には、先生日毎にみつから賁臨/ヒリン/し給ひて、居催促せられし折は、いと恨めしく思ひしが、この故に思はずも生活に精を入れたりけれは、常にはあらぬ此歳暮には、春の營みをもしても、猶三四金餘りたり。是全く三十許日、著編の筆を止めて催促したまひたる、先生の御かけに候へ。この欣ひを申さんとて、めつらしけなき物を參らするにこそ。願ふは叱らで留おかれよといひけり。この米助は、職人の沿習/ナラヒ/にて、技/ワサ/に懈る事はあれとも、さるとて惡意あるものにあらす。性酒を嗜む故にや、折々血を吐く事ありしが、竟に内損の症にて、年四十に至らずして身まがりけり。
 亦鶴屋喜右衛門は、丙寅の十二月下旬に、梅柳新書を發兌せしに、當時曲亭が新篇として、賣ざる物は無かりしに、且其發兌の時節もよろしかりけれは、板元は思ひのまゝに、十二分の利を得たるなるへし。
 この明年丁卯、曲亭亦新累解脱物語五卷、(大坂河内屋板、此書は丙寅の年の編著也)雲妙間雨夜月五卷、弓張月後編六卷、頼豪阿闍利怪鼠傳(前後)九卷、松浦左用姫石魂録三卷、括頭巾縮緬紙衣三卷、三七全傳南柯夢六卷を綴る。皆行はれざるものなし。そが中に、南柯の夢は、榎本平吉板也。明年(戊辰)の春三月下旬に至て、製本發販せしに、時後れたれはにや、發販の日僅に二百部賣れたり。板本榎本平吉色を失ひて駭嘆せしに、此書の世評漸々聞へて、看官請求めさるもの無かりしかは、貸本屋等、これ無てはあるべからすとて、皆買とりて貸す程に、初秋に至る頃及/コロオヒ/に賣出すこと一千二百部なりといふ。板元の欣ひ知るべし。其行はること只江戸のみならす、京浪も是に同し。此年の秋九月、大坂道頓堀中の芝居にて、このよみ本の趣を狂言に取組み、名題を舞扇南柯ばなしといふ、九月十七日より開塲せしに、看官日々に群聚せざることなし。稠乎として錐を立る地もなかりしとぞ。市川團藏笠松平三に扮せしか、この狂言中に没せしかば、そが代りを大谷友右衛門になさしめたり。(此折友右衛門が本役は、赤根半六なりき。赤根半七は、嵐吉三郎、三勝は叶珉子なりと聞へたり)此頃大坂の細工人三勝櫛といふ者を作り出せしを、彼地の婦女子愛玩しけり。そは高峯の木櫛に、大柏の紋なとを蒔繪にしたる也。
 明年己巳の早春、京の書賈大菱屋宗三郎、山科屋次七合刻にて、南柯話飛廻雙陸といふものを印行して、一時太く行はれたりといふ。又大坂の書賈河内屋太助、南柯話の歌舞伎狂言の正本(畫大彩色摺、前後二篇八冊)を印行したり。江戸人は見しらぬ俳優の肖像なれは、さまて行はれざりけれとも、京浪花より西は、是亦太く行はれたりと云。
 上にしるせし三國一夜物語を、大坂にて歌舞伎狂言にせしは、文化五年秋八月の事にて、角の芝居にて興行、八月十日より開塲しけり。又島巡月の弓張の歌舞伎狂言は、同年の冬十一月、道頓堀中の芝居の顔見世狂言にて、十三日より開塲と聞えけり。亦同年の冬十一月大坂の大西の芝居にて、頼豪阿闍利怪鼠傳を狂言に取組たる名題は、軍法富士見西行、左右の割名は頼豪法師の怪鼠咒云々、西行法師閑談の猫云々と録したり。此年秋より冬に至て、曲亭のよみ本を浪花にて、歌舞伎狂言にせしもの四座、五たびに及べり。當時の流行想像すべし。
 江戸にても文化年間、中村座の秋狂言に、曲亭のよみ本稚枝鳩の復讐の所を狂言にして、瀬川仙女が烈女の五人殺しをせし事あり。此後又顔見世狂言に剿盗異録の木曽の棧道/カケハシ/の所を狂言にせし事あり。この後又中村座にて、春狂言の二番目に、京傳子の滑稽、曲亭子の筆意、八百屋お七物語といふ名題の狂言を興行したり。(此狂言作者は、二代目如皐也)此後又曲亭の姥櫻女清玄といふ冊子の趣を歌舞伎狂言に翻案したり。岩井半四郎が女清玄時好にかなひて看官群聚、三十日に及べり。(此狂言作者は、鶴屋南北也)こは葺屋町市村座の春狂言なりき。
 此後文政中、木挽町なる河原崎座にても、亦天保のはじめの頃、市村座にても、半四郎が女清玄にて、同じ狂言をしたり。又中村歌右衛門が江戸に來りて、中村座に久しくありし頃、(文化年間)南柯の夢を翻案したる狂言繁昌したり。其儘狂言に作る事を耻て、或は人の姓名を同じくせず、或は別の世界に取易ゆるなどすなるに、江戸の俗客婦女子は、讀本を見ぬも多かれば、其狂言の憑る所を知らずして、新奇なりと思ふなるべし。
 大坂にては、俳優嵐吉三郎、時々曲亭の讀本を唱歎すと聞えしが、文化十三年丙子の春狂言に、道頓堀中の芝居にて、園の雪の趣を狂言にとり組て、二月上旬より開塲の聞へあり。其狂言の名題は、園の雪戀の組題是也。看官の評判も多からで、九十日ばかり興行せしほどに、嵐吉三郎病着によりて、しばらく中絶したりとぞ。後の事をしらず。青砥藤綱摸綾案をも大坂にては、歌舞伎狂言にしけり。此等の事は、亦下にいふべし。
 文化五年曲亭亦弓張月續編六卷、俊寛僧都島物語(前後二編)八卷、旬殿實々記(前後二編)十卷、松染情史秋七草六卷を綴る。實々記弓張月と共に、亦抜萃と稱へらる。此年弓張月拾遺五卷、夢想兵衛胡蝶物語前編五卷をつゞる。胡蝶物語も、亦太く行はる。今に至るまで、年々其古板を摺出す事、他本に勝れりといふ。(初は大黒屋惣兵衛板也。惣兵衛没して後平林庄五郎、其板を購ひて、今平林の養嗣文次郎の藏板になれり)
 明年(甲午)又胡蝶物語後編四卷、昔語質屋庫五卷、常夏草紙五卷、武者合竹馬靮/タツナ/二卷、(繪本也、北馬畫)弓張月餘編六卷を綴る。(本編にて團圓也。初め是を殘編といふ。殘字穩當ならざるをもて、餘編と改めんと欲せしに印行の後なりければ、板元平林竟に果さず。曲亭是を遺憾とす。是等の書皆行はる。質屋庫は大坂の河内屋太助が板也。今に至て衰へす。年々摺出すといふ。
 又明年(辛未)占夢南柯後記(前後二編)八卷、青砥藤綱摸綾案前編五卷を綴る。南柯後記は、南柯の夢の板元榎本平吉が好に儘/マカ/せて、此作編あり。作者の本意に、あらすといへとも、看官の喝釆、又前板に劣らすといふ。
 明年(壬申)又摸綾案の後編五卷、絲櫻春蝶奇縁(前後二編)八卷を綴る。并行はる。
 明年(癸酉)皿々郷談六卷を綴る。
 文化十一年、(甲戌)南總里見八犬傳第一輯五卷、朝夷巡島記五卷を綴る。この二書、編を累るに及て太く行はる。此年の秋八月、大坂道頓堀中の芝居にて、青砥藤綱摸綾案を摸擬したる歌舞伎狂言を興行す。狂言の名題は、定結納爪櫛/カミカケテチカヒノツマクシ/といふ。狂言作者は奈河晴助也。(此狂言かひ屋善吉に嵐吉三郎、孝女お六叶珉子也)
 其明年(十二年乙亥)春正月、大坂の書賈河内屋太助、この歌舞伎狂言の根本(江戸にていふ正本なり)を繪入して印行す。(前編四卷、後編三卷)京攝の間にては、摸綾案と共に頗行はれたりといふ。曲亭のよみ本、新奇彊/カギ/りなしと稱す。京攝の間にても流行常に此のことし。
 丙子年、又笑傳第二輯、巡島記第二編、各五卷を綴る。此書の世評いよ/\高かり。
 文政元年(戊寅)巡島記第三編五卷、八犬傳第三輯五卷を綴る。又知音の評書犬夷記(横本)二卷を校閲して、共に刊行せり。
 庚辰年、又巡島記第四編五卷、八犬傳第四輯五卷を綴る。辛巳年、巡島記五編五卷、壬午の年、八犬傳第五輯六卷を綴る。此後三四年、合卷冊子の諸板元、其需繁多なる故に、しばらく讀本を作らす。
 丙戌年巡島記第六編五卷、八犬傳第六輯六冊を綴る。朝夷巡島記は、大坂の書賈河内屋太助板也。其子に本店を讓り與へて、其身は二男と共に別宅して、太一郎と改名しけり。後の太助が所爲、すへて曲亭の意に愜はず。この故に杜絶して、七編以下其需に應せず。數年を歴て、江戸京橋なる新書林中村屋幸藏と云者、巡島記第七編以下を續刻せまく欲して、浪花に赴き、此義を後の河内屋太助と謀るに、其利を多く分たんといふより、河太遂に許諾すといふ。幸藏江戸に返來て、よしを曲亭に告て、第七編の稿本を乞ふ事頻り也。(こは天保二三年のこと也)一旦其需に應すといへとも、幸藏が心術、亦曲亭の意にかなはず。幸藏も亦曲亭速に筆を把らざるを恨みて、稍疎遠になりぬ。巡島記の第七編、久しく續出さずなりぬるは、かゝる故あれは也。
 又里見八犬傳は、文化八九年の頃、曲亭この新硯を發/ヒラ/くに及て、これを弓張月の板元平林庄五郎に取らして、鏤/ホ/らせんと思ひしに、平林七旬に及ふをもて、長編の讀本、結局まて刊行心もとなしとて、これを書賈山崎平八に讓りけり。既にして、平八は料らす、八犬傳を刊行してより、年々に贏餘少なからずといへとも猶飽く事を知らす。漫に他事に耽りて本錢を失ひ、遂に産を破るに及て、第一輯より五輯迄の刻板を、書賈美濃屋甚三郎に賣りけり。美濃甚既に八犬傳の株板を購得て、第六輯を刊刻せまく欲し、山崎平八を介として、是を曲亭に請ぬ。曲亭やうやく諾/ウケガ/ひて、本年八犬傳六輯を綴る。明年美濃屋甚三郎印行して、其利尠からすといふ。
 十一年(丁亥)大坂屋半藏の需に應して、松浦作用姫石魂録の後編七卷をつゝる。文政の初の頃、半藏石魂録前編の古板を、購得て、後編を刊行せまく欲し、既に二十許年に及ひて、いたく流行に後れしものなれは、作者の心にあらす。此故に久しく稿を創めざりしに、半藏なほこりずまに乞ふ事年を累て已まざりけれは、曲亭竟に黙止しがたくて、續編を綴て全本となしたる也。刊行に及ひて、勢ひ八犬傳に及ぶべくもあらざれと、是亦隨て行れたりといふ。此年又八犬傳第七輯を綴る。しかるに、當時の板元美濃屋甚三郎は、浮薄の徒にて、言行共に前約に違ふ事多かり。明年八犬傳第七輯上帙四卷、劂人成るを告ると雖、作者に校訂を請はすして、恣に發販しけり。曲亭此よしを傳聞て、且怒る事甚たし。美濃甚怕/オソ/れて、丁子屋平兵衛をもて、罪を請ふに怠状を以てす。曲亭漸く許容しけり。初に美濃屋甚三郎が、八犬傳第五輯まての刻板を購得しは、其身の有財をもてせしにあらず。多く借財したるなれば、購得たる刻板は其折財主に曲物にしたりけれは、古板を摺出す事あたはす。大凡京攝江戸の貸本屋等、初輯より五輯迄を買まく欲するもの多かれとも、これを得るによしなかりしを、丁子屋平兵衛、美濃甚に代りて權/カリ/に其板をうけ出して、毎輯百五十部摺刷製本して、欲せしものに賣りなしたり。しかのみならす、甚三郎が八犬傳第七輯の上帙四卷を、發賣しぬる新製本の本錢/モトテ/に竭たりとて、下帙三卷の板を、そがまゝ財主に質し、故に、又下三卷を摺出すこと能はずと聞へしかは、丁平又其板をうけ出して、製本發兌し、第八輯より以下の板株を美濃甚より買求めて、自分の株にしたりける。これにより、七輯は丁平の資/タスケ/を得て發販する事を得たるものから、七輯迄はなほ甚三郎が株なれは、丁平そが利を分ち與へて、八輯以下はこの例ならずといふ證書を取て、治定しけり。此頃、又美濃甚は、第六輯七輯の板をも、曲物にしたりしを、丁平得まく欲せしかとも、其價思ふに倍して、いと貴かりけれは、ちから及はず、黙止したり。
 爾後天保二年に至りて、大坂の書賈河内屋長兵衛が、八犬傳第七輯まての刻板を、皆買取らんとて、媒介をもて、美濃甚と商量既に整ひて、一百六十金をもて購得たり。そを船積にして大坂へとりよせなは、風波の禍料りがたしとて、飛脚問屋へ是を委ね、陸荷にして取寄けれは、脚賃も二十餘金を費せしといふ。かゝれは、七輯まての古板の價二百兩に近かり。かゝる事は前未聞也とて、書賈等は駭嘆したりけるに、古借も亦多かりけれは、賣主の入たるは、五六金に過ずとそいふなる。
 此書の印行、いまだ大團圓に至らずして、板元の書賈を易るもの、すべて四人、其株板竟に大坂の書賈の手に落しより、江戸の花を失ひぬとて、嘆息せしものもありけり。實に此八犬傳は、流行未曾有なりけれは、三四輯まて刊行の頃よりして、狂歌の摺物にも、多くこれを摸擬し、錦繪にも八犬士の綉像を摸刻して、四方に鬻くまでに至れり。是等も前未聞といふべし。さはれ前の板元山崎平八が、他事に耽りて、本錢を失ひ、續刻遲滯しぬる折に、看官これをまちわひて、發販を書賈等に問へは、なほ詳ならずとて、作者の宿所に尋きて、そを問者の折々ありけり。巡島記も第七編の出るや否と、問來るものあり。文化の季の頃より、江戸四日市なる、常床の軍書よみ、朝夷巡島記を講しけるに聽者日毎に多かりけり。よりて思ふに、巡島記は世評八犬傳にくらぶれは、二の町に似たれとも、當時の流行想像すへし。
 又文化十年癸酉の秋大坂にて、絲櫻春蝶奇縁の趣を、淨瑠璃に作りて、人形座にて興行しけり。其淨瑠璃の名題を姉若草妹初音本町絲屋娘といふ。佐川藤太佐川荻丸吉田新吾合作と印行の正本に見へたり。此淨瑠璃は、九月八日を開塲の初日にしたり。初段より大切まて、大抵春蝶奇縁の趣をかへずして作れり。但小石川の段のみ螟蛉曲/ハメモノ/にて、本町盲の小石川の段をそが儘に用ひたり。これらは當塲の淨瑠璃太夫の好みに從ひたるものか。此事は癸酉の年の條下に收むべかりしを、忘れたれば、こゝに録す。文化年間浪花にて、曲亭の讀本を淨るりに作りしもの三種、そは稚枝鳩、弓張月、春蝶奇縁是也。他の作者には、京傳といへどもある事なし。こも亦後の話柄とすべし。
 文政中は、合卷冊子、傾城水滸傳太く行はるゝに隨て、合卷の作編を求る書賈等、年々に多かりければ、よみ本綴るに遑なかりしならん。十一年(戊子)近世説美少年録第一集五卷を綴る。明年(己丑)又近世説美少年録第二集五卷を綴る。并大坂屋半藏板也。其書いまだ發兌に及ばず、庚寅の春正月、半藏身故/ミマカ/り、半藏の弟丁子屋平兵衛代りて是を發販せり。是より丁平の藏板になりぬ。
 十三年(庚寅)美少年録、開卷驚奇侠客傳第一集各五卷を綴る。明年の春刊行に及て并に行はる。侠客傳尤佳妙と稱せらる。(美少年録第三集は、庚寅の年より稿を創めて、辛卯の年に至て、稿を脱ぬ。この故に、發販は此年の冬になりぬ。因て壬辰の新板と稱す。
 天保二年、(辛卯)八犬傳第八輯上套五冊を綴る。
 三年(壬辰)八犬傳第八集下套五冊、侠客傳第二集五卷を作る。明年の春、發販に及で并に太く行はる。曲亭の讀本數千種、新奇尠からずと雖、就中弓張月、南柯夢、八犬傳を三大奇書と稱せらる。侠客傳又これに亞で、續出すを待つもの一日三秋の如しといふめり。文政以來、讀本の流行既に衰へしより、他作は出るも稀なるに、曲亭の一作のみ、今に至て盛にして、年に月に看官に待るゝこと右の如し。
 四年(癸巳)侠客傳第三集五卷を綴る。この稿本三四月の頃、成就したるに、畫工國貞が出像遲滯の故に、甲午の春正月五日發兌す。又侠客傳第四集五卷を綴る。こは癸巳の冬十月下旬、全本書畫の板下は、工を竣ずといへ共、板元(大坂河茂)の好みに儘して、甲午の冬發販すべしといふ。
 五年(甲午)八犬傳第九輯を綴る。この餘、水滸畫傳第一輯、水滸畧傳第一集、美少年録第四輯、侠客傳第五集、漸次に稿成るに及て、刊行の聞えあり。又判官太郎白狐傳といふ讀本腹稿あり。又四谷の書賈中村勝五郎が需に應じて、武者繪本初集二卷(北溪畫書名未詳)を綴るといふ。是よりの後、又年々の新作多からん。そは此書の後集に録すべし。
 曲亭の著述、國字稗史にあらさるもの亦多かり。そは必姓名を署す。しからさるも別號を以てす。宜なり曲亭の戯墨を愛玩して、曲亭を知らさるものは、稱するに曲亭を以てす。甚しきに至りては、馬琴先生と稱するもあり。笑ふへし。又曲亭の戯墨を看て、曲亭の外に曲亭ある事を知るものは、必稱するに馬琴と曲亭とをもてせずして、必別號をもてす。いかにとなれは、其馬琴と曲亭とは、戯のうへの稱號也。譬へは、平賀鳩溪の風來山人と號し、福内鬼外と稱し、太田南畝の四方山人、又寢惚先生と號せしが如し。これらは、一時の戯號なれは、鳩溪南畝を知るものは、其戯號を以て相稱せす。かゝれは曲亭の著述も、戯墨と倶にこゝに収めん事は、作者の本意にあらずといへとも、こも亦記者の鶏肋なれは、併せて録する者左の如し。
 寛政十一年、(己未)書賈鶴屋喜右衛門の需に應して、國盡女文章一卷(中間形本也。文は作者の自筆を刻す。并に鼇頭の畫は北尾重政の筆也)を綴る。童蒙の讀誦に便りすへき俗書也。作者の本意にあらすといへとも、已ことを得す、この撰あり。(下に録する花鳥文章も、亦この類なり)
 十二年(庚申)俳諧歳時記(横本二卷)を編輯す。尾州名護屋の書賈永樂屋東四郎、大坂の書賈河内屋太助と合刻也。(後に、河太一箇の板となれり)この書、俳諧者流欣て懷寶とすといふ。今に至て衰へす。江戸の書賈にも多くあり。
 享和二年の冬、覊旅漫録三卷(寫本)を綴る。戯墨の記行也。明年(癸亥)蓑笠雨談(三卷)を編述す。去年遊歴中の隨筆也。(蔦屋重三郎板也。後に大坂河内屋太助が藏板となれり)
 文化二年、(乙丑)書賈中川新七の需に應して、女筆花鳥文章を綴る。(中川新七と、近江屋新八合刻、新七其稿本を携へて、京都へ還る。其後の事を知らす)
 六年(己巳)燕石雜誌(六卷)を編述す。隨筆也。(大坂河内屋太助板也)當時合卷冊子讀本流行して、曲亭に新編を乞ふ書賈、年に月に多し。この冗紛中、雜志の撰あり。こゝをもて、思ひ謬てること尠からすといふ。しかれとも、この書久しく行はれて、今なほ年毎に摺刷して、江戸の書賈へもおこすことたへずといふ。
 八年辛未の秋、金毘羅利生記一冊を綴る。英平吉の需に應する也。此年又烹雜の記二卷を編撰す。書賈柏屋半藏の需に應する也。(半藏没後、此板下谷池の端なる、貸本屋が購得たりと聞にき。然共再刷したるや否やをしらす。此書と燕石雜志は大本なり)
 十二年、(乙亥)豐後國國崎郡兩子寺大縁記(一卷)を編述す。本寺の住持の需に應して、此撰あり。寫本也。
 十四年(丁丑)玄同放言(三冊大本なり。鶴屋喜右衛門板)を編述す。著す所皆行はれさるものなし。
 文政二年(己卯)玄同放言(人部)三冊を續き出しぬ。明年發行に及て、板元鶴屋喜右衛門欣はすして云。このたびの放言の續、評判佳ならずと。竟にこれを作者に告く。作者笑て云。憂ることなかれ。吾著編實に妙ならず。古人の得失を論するが如きは、吾も亦後悔する事多かり。然共一兩人褒貶は、たのむに足らす。吾書賣れすは、已ぬへし。幸にして賣るゝこと多からは、譏るもの亦何とかいはん。しばらく待ねと慰めしに、この書發行の年、五百部賣れたり。是よりして、前後二編共に、年毎に或は百或は五十部、摺らずといふ事なし。こゝに於て、板元鶴喜欣て、且作者に謝して云。近頃骨董集は衰へて、一部も得意の注文なし。放言は今に至て、年々に摺出す。先生の前言、果して違はさりきといへり。然るに、この板、己丑の春三月、江戸大火の折、物に紛れて、過半亡失したりといふ。後に索出せしか、其後の事を知らす。此年の冬、仙臺の才女工藤眞葛の媼の需に應して、獨考編(二卷)を選述す。寫本なり。秘して今に賣售せすといふ。
 十一年(戊子)書賈西村屋與八に乞れて、雅俗要文(中間形本、紙數一百十餘頁)を綴る。この書大抵刊刻すといへとも、浪花の書賈に、類板の障りありとて、いまだ發販に及はず。
 天保二年、(辛卯)同好の借書に報んとて、水滸後傳國字評(一卷)を編述す。寫本也。
 三年(壬辰)又本朝水滸傳前編の總評(一卷)を綴る。
 四年(癸巳)羅貫中が三遂平妖國字評(一卷)續西遊記國字評一卷を綴る。これらは、一時の戯墨にて、皆同好の友の爲になすといへとも、讀本の類にあらす。且寫本にて、是を見るもの稀なれは、併てこゝに記載す。
 是より先、文政十二年(戊子)屋代輪池翁の需に應して、近世流行商人盡狂歌合繪詞一卷を綴る。寫本也。この餘、秘筺に籠めて、人の看る事を許さゝる稿本なほありといふ。たづぬへし。今よりして後、これらの著作あらは、そは亦後集に録すへし。
 曲亭の作讀本、その板燬に係りて、烏有となりしは、勸善常世物語五卷の内二卷、此板文化丙寅春三月の火に燒亡す。文政に至りて、越前屋長二郎、(爲永春水)其闕を補刻して再刷す。その板二三人に傳へて、今は丁子屋平兵衛藏弆すといふ。三國一夜物語五卷、こも亦その板、文化丙寅の火にて烏有となりぬ。文政中、越前屋長二郎、又恣に其出像を新にし、文を増減して、再刻を大坂屋茂吉に委ねたり。茂吉そを刊刻するに及て、曲亭是を聞て、其作者に告ずして、再刻を恣にしぬるを咎めしかは、鶴屋喜右衛門西村屋與八等、茂吉長二郎が爲に曲亭に陪話て、刊刻成るの後、校訂を乞ふて免許を受んと云。またいくばくならず、大坂屋茂吉(京橋の頭りなる書賈也)身まがりけれは、其再刻今に成就せす。こは馬琴の幸なるへし。旬殿實々記(前後二編)十卷、皿々郷談六卷、絲櫻春蝶奇縁(前後)八卷、常夏草紙五卷、これ等の板、文化己丑の春三月の火に燒て烏有となりぬ。此中實々記は、序目の板三四枚殘りしを、京橋の書賈中村屋幸藏購得て、そが板株にしたり。然共再刻せされは、舊本今は稀也といふ。又よみ本ならぬ物にも、傾城水滸傳初編、摺本を以て再刻せしかは彫刻の手に謬るも多かり。さはれ臭草紙の磨滅再板は前未聞也。又化競丑三の鏡は、その板燒たるにあらねとも、板元蔦屋重三郎が久しく摺出さゝるほとに、過半亡失したるを、越前屋長二郎、又其まゝに購求め、恣に補刻して、販きたれとも、古板なれは、多くは賣ざりしならん。この餘、南柯夢の如き、板元零落して、古板浪花の書賈に賣たるも、幾程かあらん。その板、江戸になしといへとも、幸に俗惡の補刻に遇はず、摺て折々江戸へもおこせは、なか/\に長久なるへし。
 曲亭は、弱壯の時より、讀書と文墨の外に、他の樂みなし。半白に至らは必戯作を擯斥せんと思ひて、其頃諸板元に辭しけれとも、かにかくと、うち歎きて、乞はるゝことの□□□今に至れるなるへし。文化年間、よみ本の盛りに行はれし頃は、日毎に朝とく起て机に向ひ、三たひの餐も、机邊を去らすしてたうべ、夜は譙樓/オシロ/の九鼓を聞て、筆硯を収め家内のものを睡らしめ、その身はいまだ枕に就かす。是より又讀書して、曉に達すること多かり。知らさるものは、名利に殉するならんと思ふめれと、曲亭の意はしからず。一旦編述をたのまれて、その刊刻に及ふ折、約束を違へて稿し果さゝれは、發兌のいたく後るゝことあり。その板元の不便いうべうもあらす。この故に産を破るに至るものあり。彼山東をそらたのめして、後悔そこに建つよしなかりし住吉屋政五郎のことき是也。吾はこの義を思ふを以て、既に潤筆を受るときは、約束を違へる事なし。又乞ふもの多くして、速にその需に應しがたき板元には、強らるゝといへとも、已前に潤筆を受す。其潤筆を受されは、催促幾年を經るとも、其書賈に毫も損なし。用心かくの如くなれとも生憎/アヤニク/に乞強られて年毎に脱/マヌカ/れがたきもの、合卷の臭草紙讀本と共に、編述十餘に及ふをもて、夜を日に繼て勉めされは、明春の發販に後れんことを怕/オソ/るゝのみ。是義を旨と骨を折もの也といへり。
 當時かゝる勢ひなりけれは、知るも知らぬも、駭歎して、江戸に戯作多かれとも、曲亭の如く、潤筆を多く得るものはあらじ。今は幾百金の財主になりたらんなと云しを、曲亭聞てうち笑て、他人は只その入を計て、出るを思はぬ者也。蕞爾/セツシ/たる彫蟲蠅頭の微利、焉/イツクン/そ銅臭の隊/ムレ/に入ることを得んや。昔より今に至る迄、文人墨客はさら也。其細工をもて、名人と稱せられたるも、一人として富をなしたるを聞かす。貨殖は商人の上にこそあれ、顏氏家訓にいはずや。子に遺すこと、萬金一藝にしかず。兒孫は兒孫の福あり。只教を嚴にして、家より罪人出る事なくは、幸なるへしといへり。こゝを以て、餘りあれは親戚舊識のまどしきを賑/ニキ/はし、或ときは、祖先の墳墓を再立し、常に其身の衣服を薄くして、書籍購ふのみ。文政より今に至ては、年毎に得る處の潤筆、文化中の半に過されとも、さはれ凍も餓もせす、なほ六七口の家眷を養ふに足れりとす。素より節儉を旨として、驕奢を好まされはなるべし。
 文化年間、曲亭日夜編述の筆を駐/トヽ/めす。夜半より又讀書して、曉に至らされは、枕に就ざりしこと、年を累ねし故にや、仰臥せまく欲すれは、家の内走馬燈の如くうち遶り、或は反覆する如くに覺へしかば、必横に臥さゝれは睡ることを得さりけり。一日多紀劉先生(前安長法眼)このよしを聞て、諫て云。胆は將軍の官、謀慮出づと素問に見へたり。足下茲に禀/ウケ/たること、人に勝れしかは、勉てさる技/ワサ/に年をかさねても、疲勞を覺へざるならん。然共自ら愛して、すこしく弛めよ。九石の弓も、彎くこと久しくして、弛るときなくば、必折れん。足下は九石の力をたのむもの也。吾足下の爲に、おそらくは、竟に折るゝことあらば、其れ誰が咎めぞやといはれしを、曲亭深く感佩して、將息せまく欲せしほどに、文化の季の頃より、讀本の新編漸々に衰へて、そを板せんと乞ふ書賈も、過半減じたり。なれど曲亭の編述を乞ふ者は、なほ絶ざりしを、固く辭みて、已前より潤筆を受ず。合卷の冊子は、舊識の板元へ、一人に一種の外は、作るべからず。新に乞ふ書賈ありとも、その需に應ずる事なかるべし。又讀本は、年毎に二種二十卷の外作るべからずと定めけり。
 是よりの後、いかばかり、火速の編述刻本の校合脱/マヌカ/れがたきものありても、夜は必二更を限りとして枕に就ざる事なし。張弛補益して養生を旨とせしことも、亦年を累ねたれば、仰臥して瞑眩せずなりぬ。さはれ屏居四十年に及ぶをもて、近頃は腰痛の患ひあり。運歩不便なるに、勉めて歩行せんは要なしとて、杖を門外に曳くこといよ/\稀になりたり。只机に倚り筆を把る技/ワサ/のみ、少壯の折に異ならず。物を視ること眼鏡の資/タス/けにあらざれば、不便なれども、眼鏡を用れば極密の細書といへども思ひのまゝにせざることなし。眼疾は少壯の折より、今に至る迄、一たびも患たることなしといへりし。
 曲亭少壯より、口痛の患ひあり。文化年間、日夜著編にいとまなかりし頃は、日毎に齲/ムシバ/の爲に苦しめられざることなし。然/サル/もなほ勉て箍/タガ/して机上をはなるゝことなかりき。その折には頤/オトガヒ/に塊いで來て、食餌不便の折は粥を啜るのみなりき。年三十二三の頃より齒牙脱落すること、年に或は一枚或二枚失はざる事なし。かくて五十七八歳の頃に、上下の齒一ひらもなくなりたり。聲の洩るゝと物をたうべるに不便なれば、總義齒/ソウイレハ/と云ふ物を用ひしより、ものいふ聲もゝれず、堅きものも食ふに、少壯の時に異るなし。齒の一つもなくなりしより、又口痛の患ひなし。頤に塊のいで來ることもあらずなりぬ。曲亭これを欣びて、吾齒の都てなくなりしより、身後の苦樂を悟りたり。この身も竟にあらずならば、今口痛を忘れたる如くにこそあらめといゝけり。
 近ごろ浪花の市に、五島一彦(名は恵迪)といふ儒醫あり。播磨の人。赤水子と號すといふ。文化七年、其漢文集一卷を印行して、赤水餘稿といふ。そが中に馬琴論一編あり。曲亭を誹謗せし事尤甚し。初曲亭はこの書あることを知らす。文政二年の秋、京の人角鹿比豆流これを曲亭に告て、爲に解嘲篇を作らんといへり。曲亭則その書を坊賈に渉獵/アサ/るにある事なし。辛じて兩國橋西の書賈山田佐助の店に一本あるを購得て披閲せしに、角鹿のいふ所の如し。曲亭笑て云。是腐儒の偏見、何そいふにしも足らんや。吾素より他と恨みなし。然るに其嘲噱忌憚らさる事かくの如し。もし爭ひを好む者にあらずは、吾名號の噪しきを妬むなるへし。この赤水餘稿の如きは、只その徒弟の謄寫にかへんとて刊行せしものか。廣く世に行はるべくもあらす。そを今さらに文をもて嘲りを解く時は、賣れざるの書を廣るに似たり。縱その書に吾を誚/ソシ/りて、謂業非兩三世之弊也、辠莫斯爲鉅、安所託遁辭乎、今亦老而不死、聖人復起、必與夫原壤爲二賊矣といふとも、其編述の諸冊子は、皆官許を乞ふて刊行せる者なり。其書に罪するよしあらは、いかてか免許せられんや。私論人を譏るか爲にみつから法度を蔑如するは、罪を釀することを知らさるもの也。然りとて吾も素より戯墨もて旦暮に給するを好技なりとおもふにあらねと、性僻にして斗米に腰を折/カヽ/めんことを願はず。又往を送り來を迎ふる商賈の所爲を要せず。かゝれは意に織り筆に耕す毎に、只勸懲を旨として蒙昧を醒さんと欲するにより、世の愚婦の吾編述の稗史によりて仁義忠信孝悌廉耻の八行を得たりとて、そを徳として欣を告るものはあれとも、吾稗史を見て賊となり、或は奸淫の資/タス/けにせしといふものあることを聞かす。かゝれは名教に裨益なしといへとも、小補なくはあるへからす。憶ふに今江戸に戯作者多かるに、只吾をのみ咎めしは、文學あるをもてならん。しかれはなほ辨すべき事、かにかくと多かれとも、その書を印行せしを知らずして、既に十年の久きを歴たり。そを今更に辨せんや。已ねやみねと推禁/トヽ/めて、解嘲の文を綴ることを許さゝりき。
 當時報角鹿生書の畧に云。足下看赤水餘稿有馬琴論請爲余爲解嘲篇、交遊之情義、寔可喜也、然如彼腐儒偏見、安足掛齒哉、意者彼罵無怨人、欲賣己之文者也、亦惡知余之志、文化七年印發彼書時、余方四十四歳矣、論曰、今亦老而不死、其推量不當、有若此者、殆絶倒、又哀其次子必賀文曰、娼婦取汝貌以惜之、彼以其子愛惜於娼婦爲榮、其學術之陋可知也、非如/タトヒ/雖云誅我以賊、吾豈以隋玉彈雀之爲哉、惜之于度外耳、亦勿費筆墨焉。 是より角鹿生解嘲の篇を作らす。果して曲亭の料れる如く、彼赤水餘稿の印本あるを知るもの稀也。曲亭の識見卓/タカ/しとせんか、抑怯したりといはんか、夜行の狗吠は怒るも要なし。身を傷られすは亦可なり。文化年間、儒者蒲生秀實、曲亭のする所を見て賛して云。戯墨を賣て旦暮に給すれとも、その權己にあり。財を受て敢て謝せす。亦手實を出す事なし。世に遊ふものかくのこときは幾稀なり。
 凡三四十年來遠近となく、生風流の者、曲亭の名號を聞知りて、面謁を請ふこと多かれとも、其紹介なき者は幾度來訪せしも、辭して敢て面せす。常にいふ。いにしへのよく隱れたる者は、人に名を聞くことを許して、人に面を見ることを許さす。我を見まく欲するものは、兩國橋頭なる觀せものとかいふものを見て、家にかへりて話柄にせんと思ふに異らさるへし。村學者流はさら也。俗客も亦高名家に對面せしとて、郷黨に誇るものあり。我其塲に登らずとても觀世物にひとしくせられんやと咳/ツブヤ/きけり。かゝれとも其紹介あるものは雅俗を擇はす對面すまいて同好の友の爲には勞を厭ふことなし。とにもかくにもひがものなるへし。
 曲亭に數號あり。雕窩といひ、玄同といひ、齋といひ、蓑笠といひ、著作堂といひ、愚山人といひ、信天翁といひ、狂齋といひ、半閑といひ、雷水と云ふ。そが中に玄同は古人に同號あり。愚山は今人にあれとも、なほ東涯徂來の唐山人にあるを嫌ざるがことくなるへし。又蓑笠翁と稱するをもて、李笠翁の風流文釆を仰慕するならんと思ふ者あれとも、さにあらす。こは夫木集なるかくれ蓑笠の歌によりて、蓑笠隱居と稱するとぞ。曲亭の云。吾に數號あるは後世吾が虚名を奪ひ冒すものありとも、一を取て足らす、二三を取て餘りあらん爲也とて、自笑したりき。交遊の間は、著作堂をもて稱す。知音ならぬは曲亭を稱呼とし、其餘はなへて馬琴と呼ふのみ。その稱呼にだも雅俗あるを知るもの稀なり。彼一彦が如きものすらあり。誰か曲亭を知れりといふや、嗚乎。


近世物之本江戸作者部類卷第二終


入力:西岡 勝彦 w-hill@jfast1.net 2001.3.22