------------------------------------------------------------------ 注意〉泉鏡花はルビを好んだ作家です。その作品の漢字にはほとんどすべ てといっていいほどルビが振られていて、紙面に独特の視覚的効果を与え ているのですが、ここではルビはほとんど無視してしまいました。理由は、 テキスト形式では括弧にでも入れて処理するよりなく、邪魔なばかりで本 来の効果は期待できないのと、なにより面倒だったからです。ただ、読み 方がごく特殊な漢字にだけは〈 〉内にルビを残すようにしています。こ のテキストを利用される方は、その点ご承知おきください。 ------------------------------------------------------------------ 親子そば三人客                              泉 鏡花 一 「花まきを一つ、」と誂えて、縞の羽織の片手を懐に、右手〈めて〉で焼落しの、最 う灰になつた大火鉢をぐい、と引寄せながら、帳場格子を後にして整然〈ちゃん〉と 坐つた、角帶に金鎖を見せた客があつた。彼是十二時に近い頃、雨上りの春寒い晩で ある。 「まきを一、」と媚かしい聲で通したが、やがて十能に眞赤なのを堆く、紅の襷がけ、 圓く白い二の腕あたり惜氣もなう、效々しく、土間を蓮葉にカラ/\と突かけ下駄で 持つて來て、鐵火箸〈かなひばし〉を柄長に取つて火鉢にざツくり。 面長で色白な、些と柄は大いが、六か七と見えてあどけない風、結綿の髷がよく似 合ひ、あらい絣の前垂して、立働きに繕はず、衣紋の亂れたのも初々しい。嬌態〈し な〉もなく眞直に立つて、火を入れるのを見て、 「おゝ、有難う、」と忙〈いそがは〉しく兩手を翳した、客は此の節一寸々々〈ちょ い/\〉來て見知越なので、帳場に坐つて居た、女房〈かみさん〉が愛想をいふ。 「飛んだお寒さでございますねえ。」 「寒いツて何うも、」 「妙なお天氣でございます。」 「然やうさ、」といひかけて、火鉢の縁に頬杖した、客はフト心付いたやうに、自分 と斜向〈はすかひ〉に、其は入口の、一間破れた障子を背〈せな〉。上框に腰をかけ た、左足を土間一杯に踏伸し、銅色〈あかゞねいろ〉の艷々と、然も痩せた片足を前 はだけにぐいと折つて踵で臍を壓するばかり、斜に肩を落して、前のめり、坐睡する と見ゆるやう、左利の拇指と、人差を割つたのに、薄手の猪口を挟んで、肘を鍵形 〈なり〉にしやツちこばらせ、貧乏搖ぎといふ、總身をゆすぶツては俯向いたまゝ、 猪口を鼻の頭で押つけるやうにして酒を嗅いで居る親仁があつた。これを見て、目を 返して、いま引返さうとする娘が、襟脚の雪のやうに鬢の浮いた、撫肩の、雙子もし なよく、すらりとした後姿〈うしろつき〉を、 「あゝ、姉さん、」 「はい、」とあでやかに振返る。 「一合正宗をつけておくれ。」 「お君や、熱くしてお上げ申しな。」 「はい、はい、」 母親と、客へ二ツ返事で、お君といふ娘、向をかへると手を上へ、一寸爪立つたが、 眞暗な棚の、貼札を正面にならんでゐる、罎の中から一本拔いて、直ぐ下の板の間へ、 無造作に十能を差置いて、小刻に、やがて、煤けた柱で劃つたやう、磨硝子を嵌めた る如き、湯氣のむら/\として、洋燈〈ランプ〉の朦朧とある中へ見えなくなる。 彼處〈かしこ〉に父親が居て、其のかゝりで、 「かけ一上〈あがり〉、」と口早也。 「あいよ。」 直ぐに娘は盆を据ゑて、片手を振りながら、臺所の曇つたやうな中仕切の敷居を跨 いで、結綿に結んだ手柄の色、鮮麗〈あざやか〉に露れたが、此の註文は別に一人。 入口に極近く、障子に肩の觸れるばかり、悄れた状〈さま〉して、羽織も着ないで、 頬被をして居たらしい、なえた手拭を項〈うなじ〉に絡いて、身を窄めて居た壯佼 〈わかいもの〉で、顏を灯に背けたから、年紀〈とし〉の頃よく分らず。 「お待遠樣、」 と出したのを、默つて請取つて、腰のあたりへ引着けたまゝ茫乎〈ぼんやり〉。 「おや/\おや!」 帳場から、 「父上!〈おとつさん〉」 「何うしたの、」と娘もばた/\、何につけても忙しい、壹岐殿坂下のおやこ蕎麥と 看板に記して、夫婦と娘ばかり、男も使はず、近所の出前は親仁が受持つて、留守の 内は板前を母親が預る、娘が給仕の共稼ぎ。 店も座敷も八畳の上り口の此の間一ツ、積んだ蒸籠を床飾にして、客は五人だとぎ ツしり立込む程、内端な商賣、勿論こゝが親子三人の閨にもなる。 二 けれども加減をよく食べさせて、種ものゝ種を惜まず、トンと腕を鳴した、打方の 緊〈しまり〉の好さ。かい撫のもりかけ屋に澤山〈たんと〉類がないと、土方、日雇 取、大工、仕事師、造兵のお職人などが味ひ覺えて、透の無い繁昌に、めツきり仕出 し、未だ出來上りはしないが、つい月はじめから、金方なしに二階の普請にかゝつた 位。 亭主が懸聲の大さに、女房も帳場を立つた。 「何の、今お燗を上げようとすると、壜がお前〈めえ〉、ポカと斜ツかけに破〈い〉 ツたらうぢやないか。雫も殘らず、釜の中へ打ちまけよ。ほら、芬々して居ら、湯の 中で暢氣なものだ、人の氣も知らねえ奴さ。」 「希有だねえ。」 「父上、ひゞが入ツてたんでせう。」 「それにしても湯は恁う温いんだからな。」 「まあ、何しろかはりをおつけよ、早くおしよ。」といつておいて、女房は帳場に直 つた。 「相濟みません。」 「御一所でなくツて不可ませんが、何うぞ召上りまし、お待遠樣でございました。」 と娘が誂を土間から其へ。 火鉢を一寸押遣つて、 「可いとも。」 「おう、娘さん、」と此の時、又嘗の猪口をひツたり盆に置いたが、糊で附着〈くツ つ〉けたやうに未練らしく指も放さず、杉の丸箸が松葉に散つて、丼の蓋は桐一葉、 親仁は苦々しい眉の顰んだ、然もトロンコの顏を上げて呼びかけた。 「お銚子?」と派手な聲、既に四本ばかり並んだり。 「いンや、澤山だ。」と強く首を掉つて、がツくりとうつむき、斜に股のあたりへつ いた手を、膝頭へのめらせて、一ツ肩を搖つた。 「待ちねえ、待つてくんねえ。」 一調子ドス聲を高らかに、 「待つてくんねえよ、」と内懐へ手を入れたが、ふツ/\と向うざまに息を吹いて、 しばらくして、 「えゝと、恁うだに因つて、」と、よろけ縞の唐棧の羽織の兩方の袖口を引いて、左 右に二ツ三ツ扱くと、襟を返して、うしろへ脱ぎ、腋の下を潛らして、中央を掴んで ずるりと前へ引いて曖をした。 「おう、何だぜ、」といひさま細い赤大名〈あかだい〉の雙子の、寐皺は寄つたが、 未だ新しい、艷のある袷に、三尺をしめた姿で、土間へツイと立上つて、 「都合があるからね。おい、これを預けて行かあ、ねえ、おい、」と二足三足。 親仁が寄せて來るので、娘は鈴のやうな目をみはつて襷がけの其のあらはな手で、 前垂の端を取つたまゝ思はず退る。 「都合があるからね、濟みませんがね。」 「あゝ、もうし、」女房は帳場の中で片膝立てた。 「眞個〈ほんたう〉に濟まねえ、ウイヽ、濟みませんでごぜえす、ごぜえすが濟みま せんでごぜえすが、ごぜえすがね。」 ほツと呼吸〈いき〉して、 「私〈わツち〉あね、三崎町だ、三崎町のね、おい、藤助ツてもんです。此の何だ、 町内の頭に聞いて見ねえ、知ツてら、懇意です、直に何すら、ねえ、おい。」 「お次手でよろしう、」と夫婦ほとんど一所に聲をかけたが、亭主姿は見えず、女房 は一寸面を背けた。 娘はぢツと見て居るのである。 「お次手でよろしう、何、お次手で、」と藤助ぐツたりと尻を下し、 「可かあねえ、よくねえです。憚んながら、濟むもんかい。そんなことをして濟むと 思ひますかい。えゝ、濟むめえ、相濟むめえが、ヤイ、何うだ、姉や、」 突かゝりさうな劒幕に、帳場から、 「何の貴客〈あなた〉……お君や、」 此方へ、と目くばせする、母親の顏を見て微笑んで、 「可いわねえ、母樣。」 三 「可かありませんてことさ、フム、」と打棄つたやう、海鼠に首があらば此の形さ。 客は其の容子と彳〈たたず〉んだ娘の顏を上下に打視め、 「突然だが、お前さん、お金子〈かね〉なら何うかしようぢやあないか、何も御縁さ、」 帳場に捻向いて、早や手を懐中へ、 「おかみさん、私が立かへて置きませう。」 「まあ、旦那、」 「滅相な、」と調子はづれに、向うから燗の出來た一壜を、亭主は不作法に引掴んで のツこり出て來た。布子に、これも襷がけ。半股引を穿いた、およそ五段目の定九郎 が、山賊頭巾で、揚幕を出た頃の蕎麦屋の風と見て可也矣。 繕ふ處更になく、 「へい、」と客の前へ突出して置いて、娘に並んで、藤助の傍に寄り、手はかけぬが、 肩の上へ、掌を開いて腰を屈め、 「えゝ、もし、心持を惡くなさらねえで、一ツ勘定を踏んでおくんなさるわけにやあ 行くめえかね。」 「何を、」 「いゝえさ、腹をお立てなさらねえで、何うでございませう。御都合はまゝあること なり潔白に然うやつて形を置いて行つて遣らうとおつしやる、其のお心は讀めました、 讀めましたが相談でさ、唯〈たツ〉た今ソレ壜が破れて酒がこぼれたでがす、内の奴 も希有なこツたといひまさ。 此處で、私も心持が惡くツてなりません、吉左右だとは誰が考へても思へますまい、 いや、詰まらないことでもあると氣になりますわ。 處を一ツ勘定を踏んで下さりや、はゝあ、今夜これだけの損のゆく、其の前兆であ つたにして、さて、さらりと事濟み、何うでございませう。え、もし、」 「馬鹿に、馬鹿にしやがんない、誰だと思ふ、誰だと思ふ藤助だ。恁う、藤助を誰だ と思ふ、」深く憤つた風もないが、だらしもなう縺れかかる。 ト白けて皆が默りの折から、ぞろオリ/\と高い音、此の時まで伸して居た、件の 影のやうな壯佼が、思ひ出したやうに啜つたのである。 「御主人、ともかくもまあ、其の事は氣にしないが可い、壊れた分は私が買つた分に して、代を拂ひませう、別に。で、私が買つたものとすりや、お前さんが心持を惡く するにも當るまい。何うです、」 「飛んだことをおつしやる、勿體ない。」 「そして何しようぢやあないか、一つ其の方のも立かへて上げようぢやあないか。」 忽ち大音聲、 「誰だと思ふ、藤助だ、鐚〈びた〉なしの藤じるし、」と半から極低聲、と聞くと急 に開き直つて、細い目を見据ゑながら、 「恁う/\、内の亭も、餘所の旦〈だん〉も、可い加減にしろい。勘定を踏んでくれ の、立かへるのと好なことをいはあ、藤助だ、さあ、藤助だ。恁うなりや、さあ、手 前ン處の太打が鼻緒に化けても踏まねえよ。情婦〈いろ〉が富鬮に當つてもかけらだ つて達引かせねえ。天が二杯よ、一、二、三、四い、銚子が、五本だ。取つといてく ンねえ、斷つて預かつてくれ、え、おい、斷つてのこツた、」 「でもさ、」 「眞個にお次手で可うござんす。」 「かみさん、おかみさん、おい、かみさんや、女の癖に無勘定なことをいふない。恁 う、聞きねえ。女房は家のかためなりけりさ、聞きねえ、女房は家のめツかちよ、な あ。お前さんは兩目明かだ、しかも佳い年増だ、佳い年増で居て、見ず知らずの野郎 を達引いて濟むかい。 はゝあ、さては、お前密男をしてやあがるな。」 「ほゝほゝ、」 先刻から他愛なく、莞爾々々して酔どれの状を見ながら、餘念もなう、其の管を聞 いて居た、お君は兩親が、今のあまりの雜言に齊しく色を變へたにもかゝはらず、お よそ堪らないと言つたやうに、 「まあ、松助にそツくりだよ。嬉しいねえ、」と擦寄つたが、いきなり唐棧の羽織を 請け取つて、手にのせると、肱のあたりがヒヤリとした。 「おゝ、冷い、雨にあつたの、母樣預つて置きませう。」 「へい、お値段を此處で、」といつて、件の壯佼はフイと立つてがらりと戸をあけた。 立てかけてあつた、番傘がはずみで、ばツさり。見向きもしないで、影が消えたやう にポンと出た。 「誰だ、おねだんを此處へなんて言ふなあ、誰だい、へん、己が名は藤助でえ。」 「藤助、」 「や、」 「本名皮剥の庄兵衞、」 「…………、」 「御用だ!」 「ウム、」 「神妙にしろ、」 「おゝ、先刻蕎麦屋で背後に居た、」 「夜中に羽織を取りに行つて、戸をあけさせて押込まうと、強盗品玉の材〈たね〉は 上ツたぞ、覺悟しろ、唯だ一人だが、鐵三郎だ。」 「旦那、まあ、御覽なせえ、」とビクともせず、内懐から、取出して、片手業で紙包、 開いて掌に据ゑたのを、眞砂町の原の角あたりから、一筋の赤い虹の如く、暗を貫く 瓦斯燈の灯に、唯見れば美しい半襟であつた。 「馬鹿といや、まア馬鹿でごぜえすがね、あんまり娘の罪の無さ。短刀〈ドス〉で威 したら、蟲がかぶらう、俳優だと思つて嬉しがるか、どツちにしても仕事は出來ねえ と、狙つた的をフイにして、土産を持つて、寐ねえうちに、これからね、羽織を取り に引返す處でさ。 旦那、たヾ此のまんぢやあ不可え、私も庄兵衞だ、唯今一立廻やツつけやすぜ、天 命なら仕方がねえ、お前さんの手柄になせえ。 しかし旦那、お職掌だから御無理はねえがね、考えて御覽じろ、私が病めつけたツ て、たかヾ金子だ、働きや譯なしさ。も一人居た野郎なざア、いやに見せびらかしや がつて、あいら、娘を狙びまさ、疵ものにされた日にや、取返しがつくものぢやねえ。 可哀相に私のやうな惡黨せえ、涙が出るやうな可愛らしいものを、慰まうといふ善 人が世の中にや澤山ありまさ、そいつらにも些と氣を配つて、庇つて遣つておくんね え。 はて、何處へ、持つてく土産だらう、」と水を飮んだより一層醒めた、酒の名も知 らぬらしい、苦み走つて引しまつた、頬のあたりに微笑を含んで、其の半襟を帶のあ たりへ突込む、と思ふと、鐵三郎は颯と退いた。 冷龍一躍、三寸ばかり閃いて、疾く手にかゝつた捕繩は、端短にプツリと切れた。 「お前さんは未だ少いや。」 トタンに衝と寄る、背後へ飛んで、下富阪の暗の底へ、淵に隠れるやうに下りた。 行方知れず、上野の鐘。                             (明治三十五年十月) 底本:昭和28年河出書房発行 現代文豪名作全集 泉鏡花集 入力:西岡 勝彦 w-hill@mx6.nisiq.net