本書は曲亭(滝沢)馬琴の筆になる紀行文です。旅は享和2年(1802)の5月 から8月にかけてなされ、馬琴は行く先々の風俗の詳細な観察を残しています。 特に、京阪に関する記述は多く、当時の上方の文化的状況を知るうえでも貴重な 資料となっています。
 電子テキスト化にあたっては、次のような方法を採りました。



壬戌羇旅漫録
                      曲亭馬琴


くれ竹のせまきふしどにねざめをかこちしも。さへの神にや誘れけん。かみかせの伊勢の宮居おかまんと。さみだるゝ頃杖よ笠よと立さはきつゝ。するが路や不二のなかめにうなじたるゝ。とおつあふみに旅やどりして。まだ夏ながら秋葉の山によぢのぼれば。ふる郷人にことつげん。なつかし鳥の啼にさへしのばれ。三河もよし田おか崎や。むらさき麥の杜若あらひながせしさ月をすぐし。山どりの尾はりのくにゝ長き旅ねをなぐさめ。星まつるはじめよりみやこにしばし杖をとゞめて。殘るあつさをかも河にうち流し。ひがし山の夕つく日。あかねさす赤まへだれもにくからねど。なには人にまたるゝ身のこゝろいそく。伏見のよふねゆめにこがせつ。うらきかた葉のあしやすめして。みつのなかめもあかなくに。うすものさむき秋風におとろかれ。たつとしいへば浪まくら。堀江の月の袂をわかつ。ゆふべはうしの角もしや。いせぢにいれはつると弓。たけの都のみやしろをおかみ。山田松ざかのおどり目にめつらしく。津の町のながきよすがらをあかしたる。ひやうたん屋よりはしり出て駒のはづなをはやめつゝ。桑名の宿のはまくりも。あへばにくからぬ友人にとゞめられ。二日雨ふり風ふきて。宮ぶねはきれものなれど。さやへまはりてけがもせず。よに日につぎていそぐ程に。葉月廿日あまりながの日。おのが家路にたどりつきぬ。たびにあそぶこと百日あまり。めに身みゝにきけることまめやかにかいつけみれば。つひにものゝ本となれり。されどさえ拙くおもひたらざれば。おのれめでたしとおもひしことも。人はた見るにたえざるべく。書あつめたるふみの中には、よねあそび何くれとなくたはれたることおほければ。のこしとゞめてわがうまごに見すべきをしへもなし。やがて紙屑籠てふものにおし入れて。ほごかふ翁にあたへんとしけるを。ある人しひてとゞめけるまゝに。しばしふるつゞらの底ふたけとなしぬ。もしかゝること世になくばかのしみといふむしのはらこやすよすがもあらじかし。            著作堂馬琴


旅泊概略
○享和二年壬戌、夏五月九日〈巳ノ刻〉、江戸出立、今夜神奈川泊、〈この處まで京傳子送らる、明朝袂を分つ、〉○十日大磯泊○十一日箱根塔の澤〈今日雨ふる、元湯彌五兵衛を訪ふに、此節川越の城主入湯ましますをもて、塔の澤の湯屋寸地も人を容るゝの席なし、故に酒樓中村屋東五郎が家に逗留す、今夕僕又助江戸より來れり、十二日猶雨ふるを以て逗留す、〉○十三日〈今朝雨少しくふる、晝より晴たり、箱根を越ゆ、〉沼津泊○十四日江尻泊○十五日府中〈駿河人にとめられて、二十日まで逗留す、〉○廿日島田泊〈この節霖雨にして大井川猶あかず、因幡屋何某叮嚀にもてなさる、〉○廿二日金谷泊〈今夕川を越たり、故に僅にして泊る、〉○廿三日掛川泊〈廿五日早朝秋葉へ出立、廿六日の夜又かけ川へ歸る、廿八日まで逗留、〉○廿八日袋井泊〈今日午時掛川を立て、袋井の完醉を訪ふに留守なり、すぐに過るべかりしを、妻女ねんころにとめらるゝを以て、やむことを得ずして一宿す、掛川の雪松氏の所まで送り來り、今夕袂を分てり、掛川に遊る時、廿五日の朝僕又助をばその故郷舞坂の在へやりぬ、故に一兩日獨行す、〉○晦日吉田〈今日僕かへり來れり、これと濱松にてあふ、〉○六月七日岡崎泊〈今朝吉田を出立、御油の外成といふ人にとゞめられしばらく休息、この夕岡崎へ至る、〉○十一日新堀泊〈にひ堀はをか崎より一里半ばかり西の方の在なり〉○十二日名古屋泊〈今朝新堀を立て名古屋に至り、同廿六日まで逗留、この間十四日津島の友を訪ふて津島祭を見る、おなじく十六日午時又名古屋へ歸る、昨日僕又助を江戸へ歸す、是より獨行、供あれば逗留中万事わづらはしきゆゑなり、〉○廿六日宮泊〈今晩名古屋を出立、名古屋の友人大勢送り來る、又宮の雅人一兩輩來會し終夜飲讌す、明朝乘船これと袂をわかつ、〉○廿七日石藥師泊〈今日大に雨ふる、〉○廿八日水口泊〈出水につき、七月朔日まで空しく逗留、〉○七月二日石部泊〈草津大水、道あれて通行なし、故に石部に泊る、〉○三日京都〈今日間道を經て大津に出づ、この間甚難澁、おなじく廿四日まで京にあり、〉○廿四日夜大坂〈今日京を立て伏見より乘船、戌の刻道頓堀へ著岸、〉○八月六日京都〈昨夜大坂を出立、友人舟場まで送らる、夜中大雨、六日の朝伏見に著岸、今日も風雨甚し、先の大水にこりて大津へ出ず、又京へ行て晴をまつ、〉○八日水口泊〈今朝京を出立〉○九日津泊○十日松坂泊○十一日參宮〈今夕松坂までかへりてこゝに泊る、〉○十二日津泊○十三日桑名泊〈十四日雨ふりて舟出ず、桑名人にとゞめられて一兩日逗留す、〉○十六日名古屋〈今朝乘船、佐屋へまはる、桑名の架橋佐屋まで送らる、佐屋の本陣丁寧にもてなさる、故にしばらく逗留、今夜名古屋に至る、〉○十七日赤坂〈今朝名古屋を出立、歸心甚あわたゝし、故に是より一日に十二三里の道をはしる、〉○十八日濱松泊○十九日島田泊○廿日興津泊○廿一日三島泊○廿二日大磯泊○廿三日川崎泊○廿四日江戸〈今朝巳ノ刻品川へ來る、道に僕にあへり、家内の無事を聞て道をいそがず、未ノ刻家に歸る〉
 凡道中百有五日五月九日より八月廿四日に至る。
  逗留の日數
塔の澤二日 府中六日 島田二日 掛川五日半 吉田七日 新堀一日 名古屋〈前後〉十七日 水口三日 石部一日 京都〈前後〉廿四日 大坂十日 伊勢妙見町一日
  都合逗留七十五日半


崖言
一 遊歴中おのが目に珍らしとおもへるもの。悉これをしるす。古人の略傳○墓誌○珍書○風俗○異體○方言○妓院○雜劇○年中行事の異同○名所古迹○古人の墨跡等なり。序に得ず一覽せずといへども、その處を探得たる古墳等はしるせるものなり。
一 岐阜長良川の鵜船。愛宕。高尾。四明山〈石川翁の舊跡〉石山寺。二見。朝隈。三保等は。必見るべき所といへども。或は道遠く。或は山高くして。炎暑にたへず。或は案内の友人當日故障ありて。もだせるもありて遊覽せず。故にしるすことあたはず。遺恨甚し。就中ながら川の鵜。十八樓。四明山を見殘せること、尤うらむべし。
一 南都は歸路必遊覽すべきを。出水に日數おくれて。歸心あわたゞしく。且路あれて獨行の覺束なさに。ゆかでやみぬ。播州高砂。紀州高野。攝州須磨赤石等。僅の道を隔ながらゆかず。是洪水に路次の序を失ふ故なり。西は住吉を限れり。
一 遊歴中人の需に應じて作れる狂文等數稿ありといへども。こゞに載せずして別本とす。見るにわづらはしき故なり。旅中漫戯の詩歌は。その所を得てよみ出せるものこれを載す。是みづから後勘に備ん爲にして。いとをさなきことのみおほかり。
一 此書人に見せん爲にもせず。又みづから長夜の友としもならねど。老後茶話の記臆に。しばらく駄賃帳のしりへにしるせり。机上の鷄肋かゝること猶おほかるべし。


目録
○一條より三十九條までの話は。東海道大磯より大津までのことを記す。名古屋新堀又この中にあり。
○四十條より八十七條に至て。京師の話をしるす。類をもてならべ評するに至ては。大坂の話もこれを混ず。近江も亦この中にあり。
○八十八條より百廿五條に至て。大坂の話をしるす。京の話を雙評すること前のごとし。
○百廿六條より百五十七條にいたりて。伊勢及び歸路の話をしるす。

    巻の上
〔一〕大磯の懷古              〔二〕藐姑峰の雨
〔三〕雨中の不二              〔四〕農男 附龍華寺
〔五〕正雪が墳 附十三佛          〔六〕梅屋勘兵衛が舊趾
〔七〕義元の像               〔八〕駿府二町街
〔九〕宇都の山               〔十〕島田の川留
〔十一〕小夜の中山             〔十二〕紅毛人の墓
〔十三〕來舶人の歌曲            〔十四〕掛川の好事家
〔十五〕秋葉の山              〔十六〕戸守の鍾馗
〔十七〕遠州訛               〔十八〕吉田の花火
〔十九〕吉田のめし盛 附衒妻        〔二十〕岡崎の出女
〔廿一〕吉田岡崎の妓樓           〔廿二〕をか崎の夏芝居
〔廿三〕五綵の山水             〔廿四〕名古屋訛
〔廿五〕名古屋の風俗            〔廿六〕名古屋の評判
〔廿七〕甚目寺の鐘             〔廿八〕繪巻物 附水滸後傳の目録
〔廿九〕名古屋の芝居            〔三十〕名古屋の天王祭
〔三十一〕津島の挑灯船           〔三十二〕藪に香の物
〔三十三〕江州の大水            〔三十四〕粟津の義仲寺
〔三十五〕瀬田蜆              〔三十六〕鏡山
〔三十七〕三上山 附百足山         〔三十八〕三井の古鐘
〔三十九〕奴茶屋              〔四十〕遊女八千代が噂

    巻の中
〔四十一〕光廣卿の寛活           〔四十二〕板倉侯の大量
〔四十三〕六條郭の全盛           〔四十四〕傾城局の券書
〔四十五〕烟花城書畫展觀目録        〔四十六〕遊女吉野が傳 附蟹の盃
〔四十七〕島原の噂             〔四十八〕京師の妓院
〔四十九〕祇園さし紙            〔五十〕嫖客の噂
〔五十一〕きがへの譯            〔五十二〕藝子の枕金
〔五十三〕舞子の評             〔五十四〕三絃筥
〔五十五〕妓の衣服             〔五十六〕妓樓の夜具
〔五十七〕京の女兒風俗           〔五十八〕祇園大樓の噂
〔五十九〕祇園の方言            〔六十〕祇園の哥曲
〔六十一〕御所うら             〔六十二〕つくしわた
〔六十三〕總嫁               〔六十四〕四條の芝居
〔六十五〕京師の評 附風俗の圖説      〔六十六〕太秦の草紙
〔六十七〕旅の盆 附大文字の火       〔六十八〕六道の槇うり
〔六十九〕しらいと             〔七十〕京の盆祭
〔七十一〕内裡の御燈籠           〔七十二〕りうたう太
〔七十三〕せんず萬歳            〔七十四〕京の七夕祭
〔七十五〕地藏まつり            〔七十六〕京師の酒樓
〔七十七〕河原のすゞみ           〔七十八〕京都の節儉
〔七十九〕洛外の古迹 附近江八景      〔八十〕かし家の札
〔八十一〕京市中の喪 附名古屋伏見     〔八十二〕女兒の立小便
〔八十三〕女子のぼうし 附伊勢尾張     〔八十四〕粟田の陶器
〔八十五〕京師の人物            〔八十六〕嘘談の名人
〔八十七〕應擧が臥猪            〔八十八〕八文字屋自笑が噂 附其碩
〔八十九〕奴の小万が傳           〔九十〕近松門左衛門が傳 附墨跡
〔九十一〕西鶴が墓誌            〔九十二〕椀久奉納の手水鉢
〔九十三〕美濃屋三勝が墓          〔九十四〕遊女夕霧が墓
〔九十五〕紙屋治兵衛が噂 附評       〔九十六〕淀屋辰五郎奉納手水鉢の噂
〔九十七〕乞丐女六が墓 附評        〔九十八〕二代目義太夫が墓 附元祖義太夫畧傳

    巻の下
〔九十九〕契冲阿奢梨墓誌          〔百〕家隆卿の碑 附貞柳碑の噂
〔百一〕元和戰死の古墳           〔百二〕紹鴎が墓 附千家の墓のの噂
〔百三〕鬼貫が傳 附評           〔百四〕大坂市中の總評
〔百五〕難波雀の抄書 附西鶴名殘の友    〔百六〕住吉 附難波屋の松小町茶屋
〔百七〕松明の施行             〔百八〕浪華妓院の噂
〔百九ノ上〕太夫天神のかし借り       〔百九ノ下〕伯人の評
〔百十〕俳優作衒              〔百十一〕難波新地
〔百十二〕難波堀江 附堀江さし紙      〔百十三〕大坂妓院の方言
〔百十四〕女子の評             〔百十五〕堀江の藝子
〔百十六〕妓樓混雜劇            〔百十七ノ上〕浪速のめりやす
〔百十七ノ下〕幇間 京もならべ評す     〔百十八〕首信が傳
〔百十九〕吾雀が噂 附幇間亦助が噂     〔百二十〕總嫁
〔百廿一〕とぎやらふ            〔百廿二〕妾奉公人引札の噂
〔百廿三〕京大坂商家の評          〔百廿四〕道頓堀の芝居
〔百廿五〕伏見の夜泊            〔百廿六〕伊勢路の居風爐
〔百廿七〕山田の客舎 附間の山       〔百廿八〕古市の總評
〔百廿九〕古市芝居の噂 附一身田及堤世古の噂〔百三十〕大平が噂
〔百卅一〕坂和田喜六が墨跡         〔百卅二〕道のへの槿
〔百卅三〕其角が自畫自賛の評        〔百卅四〕伊勢の好事家 附人物の評
〔百卅五〕筆捨山              〔百卅六〕桑名の秋雨
〔百卅七〕桑名の歌曲            〔百卅八〕桑名市中の喪
〔百卅九〕一目連              〔百四十〕佐屋廻り
〔百四十一〕名古屋の十五夜         〔百四十二〕藤川の夜行
〔百四十三〕はせをの發句塚         〔百四十四〕からころも
〔百四十五〕かもうり            〔百四十六〕濱松の夜雨
〔百四十七〕東海道の噂           〔百四十八〕薩陀山
〔百四十九〕大井川             〔百五十〕喜瀬川の大水
〔百五十一〕箱根東福寺の釜         〔百五十二〕さいの河原の懷舊
〔百五十三〕平越の富士           〔百五十四〕名馬の足跡
〔百五十五〕大磯の戯咲歌          〔百五十六〕遊行忌の群集
〔百五十七〕歸庵の祝章           〔附録〕旅中自戒十五箇條



壬戌羇旅漫録 巻の上

蓑笠漁隱遺稿
坦庵居士正幹校

〔一〕 大磯の懐古
五月十日大磯の驛に泊る。きのふ用事ありて僕をば品川よりかへし。今朝京傳子〈〔頭註〕京傳名は醒字は酉星、岩瀬氏、通稱を傳藏と云り京橋のほとりに住するをもて自ら京傳と號す、翁と莫逆の友なりしゆゑ神奈川まて送りしならん、京傳は文化丙子九月、五十六歳にてみまかりぬ。〉には神奈川にて別る。こゝろいまだ旅になれず。このゆふべ甚だ寂寥。鴫立澤もむかしの地にならず。虎が石。またよく人のしるところなればしるさず。
  祐成全盛大磯傳。千里高名虎御前。可嘆衣裳群乳鳥。只今有出女如鳶。

〔二〕 藐姑峰(はこね)の雨
十二日のあした。藐姑峯をこゆ。今朝雨ふれり。
  箱根八里上流汗。騎馬越來行路安。却懼昨今皐月雨。明朝大井水漫漫。

〔三〕 雨中の不二
十日の夜より雨ふりて。三島。沼津。原。よし原。岩淵。薩陀山の間。一日も富士を見ず。府中逗留の間も。また士峯を賞するによしなし。
    われに句なし山に不二なし五月雨

〔四〕 農男 附龍華寺 〈〔頭註〕此條は先板蓑笠雨談に出たれば省くべかりしを、翁當日の吟にちなみて圖さへ追加して并せてこれに録するもの也、以下雨談にのせたるものは悉くこれを省きぬ。〉
駿府の人の説に。富士にて四五月のころ。たんだん雪の消えのこりたるが。寶永山の方。凹(なかくぼき)ところに。人の形のことく雪ののこることあり。これを農男と稱す。この殘雪見ゆるとしもあり。また見えざるとしもあり。田子の土人いふ。農男見ゆる年は必ず五穀熟す。
凡士峯の眺望天下第一と稱するもの。駿州有渡郡大野村〈府中ヨリ三里〉龍華寺の本堂より。富士を正面に見る。最絶景なり。清見寺にまされりといふ。連日雨ふりければ。ゆかずしてやみぬ。

〔五〕 正雪の墳 附十三佛
駿府寺町菩提寺墓門右のはたに。由井正雪が墓あり。
又彌勒寺に十三佛あり〈府中より西廿町許〉。今は地名となりて。彌勒の十三佛と喚ぶ。これも正雪が菩提の爲に。宮城野しのぶが建しといふ。土人の説なり。こゝにも正雪が墓あり。尋常の石碑のごとし。〈宮城の信夫は未生の人なり。この女はらからの事うたがふべし。〉

〔六〕 梅屋勘兵衛が舊跡 此条雨談に出たれば省く

〔七〕 義元の畫像
駿州阿部郡。大岩村臨濟寺〈賤機山の向凩の森の近地〉に今川義元の畫像あり。〈束帯持笏〉五月十九日〈義元忌日〉諸人に拜さしむ。此日雨ふりければ予參らず。

〔八〕 駿府二丁街
駿河府中の妓院は二丁町とよびなす。本名は阿部川町なり。神祖御在城の日。免許の遊女町なり。今は大におとろへたり。見世は。よこみせにはる。故に格子の方には障子を建てたり。嫖客暖簾をあげて。ほしいまゝに内に入り。籬のかたより見たてるなり。ゆゑに妓みなまがきの方を正面に居る〈これをヨコミセといふ〉。樓上もせまくまたむさくろし。ざしき持。部屋もちと稱するもの。江戸よし原のにし河岸におとれり。客一人あればその友あとよりゆきてそのざしきに入りて。ほしいまゝにあそぶに妓をまねかず。九ッをかぎりにこの人ゞはかへるなり。これをつけにゆくといふ。妓の詞何しなんし。おいでなんし。などいふ言葉をつかへど。多くは駿河なまりをまじへたれば絶倒すること多し。妓の詞に文といわず手がみといふなり。こんや手がみ一本かゝァずなどいふ。かゝァずは。かくべしといふなり。硯蓋などむさくろし。藝子もあれど。是亦似て非なるものなり。牽頭(たいこもち)は郭中の米屋酒屋のわかいもの。又は郭(くるわ)の門番などの孩子(むすこ)なり。故に酒長〈酒屋の手代〉門忠〈門ばんのむすこ〉などの名あり。この者夜は奉公のいとまあるをもて。幇間をして。酒のみ小遣錢をもとむるの計(はかりごと)をなす。〈幇間は羽織をきず〉言語形態。胡蘆(ものわらい)するに堪たり。甚いやなるものなり。〈二丁町の細見記は安永九年の春よしのや酒樂といふものはじめてえらみて兌行す。そのゝち終に行れず前後一版なり。予一本を得てたづさへかへれり〉

〔九〕 宇都の山
宇都の山の十團子は。豆粒ほどの餌(だんご)を。麻糸もて十づゝつらぬき。五連を一トかけとす。土人の説に。峠に地藏(ぼさつ)のたゝせ給ふ。このみほとけの夢想によりて。十團子を製し小兒に服さしむれば。万病癒ゆといふ〈團子のかたち數珠に擬するにや。その製もまたふるし〉
    旅駕にのれはつふりをうつの山うつゝにもめのあはぬなりけり

〔十〕 島田の川留
連日の雨に大井川往來なければ。岡部より島田の間に。諸侯みちみちて。いとにぎはへり。予は二十日の夕島田に入る。予がしれく因幡屋てふ家も森侯の本陣となりぬ。この家旅店にあらねど。當るものなればかくの如し。よりて因幡屋の向ひ。何がし源六とかいへる商人の家に逗留す。時々の飲食は因幡屋より持來りて饗應しぬ。夜中驛中の繁昌。小人の小うたなど。しばらく江戸に在るが如し。川は十五日より廿二日にいたりてはじめて明ぬ。
    妹がゆふ島田の驛にとめられてかみへゆきゝのとゝかぬぞうき

〔十一〕 小夜の中山
遠州小夜の中山夜泣の石は。日坂より十七八町ばかりひがし。山の往還にあり。無間山は街道より一里半なり。掛川の驛はづれより右のかたにみゆ。こゝよりみればはなはだたかし。
 新坂蕨糯兒育飴。由來傳世夜啼碑。鯨音斷絶無間事。大士方便垂大慈。
子育観音小夜の峠久圓寺にあり。淡ヶ嶽阿波手の神社。無間山観音寺にあり。

〔十二〕 紅毛人の墓 雨談に出たれば省く

〔十三〕 來舶人の歌曲 上に同し

〔十四〕 掛川の好事家
掛川下復町の大塲氏〈通稱大助松風亭と號す〉は。遠州第一の好事家なり。近來名家の書畫をたくはふること數百張。又よく客に待す。所藏の書畫中に。堂上方の寄合書。國學和歌者流の寄合書。儒者詩人書家畫工のより合書等あり。いづれも名家のみをあつめたり。古人の墨跡は猶もとめやすし。僅の扇面へ大家數十人のより合書などは。尤も志をはこぶこと厚からざれば得がたし。その弟を蘭陵といふ。〈通稱忠藏書をよくす〉この人を京江戸大阪伊勢へ出だして書賀をもとめしむ。〈一國逗留半年に及へりとぞ〉およそ三年にしていまだ盡さずといふ。田舎にはめづらしき人物なり。

〔十五〕 秋葉の山
秋葉山は掛川より麓まで九里あり。五十町壹里なり。山中又五十町あり。参詣の道。守驛より兩路あり。一は山越にして甚だ難處なり。一は平地なりといへども川多し。四十八瀬といふ。予ひとつひとつかぞへたるに二十七瀬あり。霖雨の後は五十瀬にもなるといふ。夏日は橋なし。故にこの川をことことく歩わたりにす。又道中食物乏し。いぬゐの旅店いまは大に衰て。麓に數軒の旅店あり。甚綺麗なり。山中にもかゝる旅店あるやとめをおどろかすばかりなり。秋葉山中一町一町にしるしの塚あり。杉の木立宮のつくり。江戸の王子の社邊に似たる所あり。駿州より尾州までは。驛の十字街(つじ)。或は街道みな悉秋葉の常夜燈あり。この社近年もつとも繁昌なり。
    いろはにほへとほつあふみや假名の數四十八瀬も越ていつ京
    夏ながら麥の秋葉も過がてに山路は蝉のしくれ初にき

〔十六〕 戸守の鍾馗
遠州より三州のあひだ。人家の戸守はことことく鍾馗なり。かたはらに山伏某と名をしるしたるもあり〈鍾馗のこと愚按ありこゝに贅せず〉

〔十七〕 遠州訛
遠州より西は。半元服の娘多し。白齒のむすめはたえてなし。ゆくべきをゆかず。くらふべきを。くはずなど。ずの字をそへていふこと。駿州より尾州のあひだみなしかり。就中(なかんづく)遠州人。ずが多し。

〔十八〕 吉田の花火
三州吉田の天王まつりは六月十五日。今夜の花火天下第一と稱す。大筒と稱するもの〈立物ともいふ〉二本。筒の周圍數十尺。たかく櫓を組てこれを居ゆ。その外種々の花火あり〈大筒の資料は例年城主よりこれを出さる〉おのおの棧敷をかまへてこれを見る。又近國よりも見物に來るものあり。鍛冶町のうら通りには杉の木をうゑ。囃子神樂あり。花火は市中にてあげるな。この夜屋上或は簀子の下に。火こぼれかゝりたりとも。火難のうれひなし。是氏神の加護によるといひつたへたり。
牛頭天王の社。神明。八幡。ともに吉田城内にあり。六月十五日天王まつり。前夜十四日花火あり。本町。上傳馬町の兩町にて揚る。高さ十三間。巾三間これを立物といふこれ過て大花火あり。火のうつらぬやうに大釜を覆ひにす。これに火をうつす時は。その火屋上にむらがり下る。見物の人々はぬれ筵をかつぐ。その外町々の花火數百あり。
十五日よし田五ヶの寺院より飾山を出す。至てさとびて古雅なり。十四五の童頼朝に扮て。金の立烏帽子直垂太刀を佩く馬上なり。頼朝の乳母といふものあり。綿帽子緋のはかま馬上これにしたがふ。また十六人の殿原とて。柿の素袍にかけ烏帽子これにしたがふ。城内にて走馬あり。中に重忠と名告るものあり。此左右にあみ笠浴衣を被たるもの二人まんぢうを數百ふくろに入れ。これを笹にゆひつけてこれにしたがふ。かの重忠は騎射笠錦の陣羽織脊に幤をさし領主の棧鋪の何にいたり。馬上にて禮をなして。ふくろのまんぢうを投ぐる。これにあたるを吉事とす。また笹をどりといふあり。大太鼓一人。小太鼓二人同衣裳にぬりかさをいたゞき。覆面し。にしきの陣羽織小手脚當なり。はやしはあみがさゆかたを着しさゝに挑ちんをつけて同音にうたふ。
「天王は何佛にてまします日本一のあら神あらゐはし本鹽見坂名所名所のはなを見さいな」これをくりかへしうたふなり。

〔十九〕 吉田の飯盛 附衒妻
よし田のめし盛。夏は越後ちゞみにおなじ縞の前垂をかけ手に團扇をもちて夜行す。よし田岡崎とも。妓はことごとく伊勢より來たるものなり。ゆゑに妓ばかり伊勢訛りなり。妓席上にて三絃を鳴すに。かむろだちなどうたふことあり絶倒するに堪たり。今切のわたしを經て西は。人物その外江戸にあらず。京にあらず。中國の風姿こゝに於て見るべし。土地の婦人はかならずしも美ならず。商家の衒妻などを見れば。黒暗天女の如し。

〔二十〕 岡崎の出女
をか崎の妓は。齒を染ることならざりしが。近年ゆるされて齒を染るなり。芝居などへも見物にゆくことならざりしが。これも今はゆるされたり。妓の風俗よし田に異なることなし。妓夜行する時は。夏はふるき浴衣冬は布子などをはをりてありくなり。もと絹布を着べきものならぬゆゑかくのごとし。但諸侯の旅舘に參る時のみはれて美服にて夜行す。

〔廿一〕 よし田をか崎の妓樓 附矢矧はし
よし田をか崎四日市などみなめしもりをかりにやり。ことことくよびよせて見たてるなり。客あるものも必ず來る。〈妓を一軒に一人ゆるさる一軒二人ある家あり三人抱ることをゆるさず妓なき旅店は妓ある家より月々資料をおくるといふゆゑに大樓は妓二人ををくなりよし田をかさき一驛の妓百餘人あり〉こんやは都合がわるいといふことをつもりがわるいといふ。よし田岡ざきより西。伊勢の妓樓みなおなじ。京都祇園にては誰さんはなりませぬといふ大坂新町にては。誰さんはあけでござりますといふ。をかざきちようじ屋の八重といふめしもり。少しく顔色美なり。ひょうばん價よりたかし。
矢矧橋長さ二百八間やはぎ川やはぎの里のひがしにあり水源木曾の山溪より落て。末は鷲塚川といふ。西尾にいたりて二流海に入る。矢はぎ男川。とよ川の三大河あるをもて國を三河と名づく。

〔廿二〕 をか崎の夏芝居
をか崎六地藏といふところにて。土用芝居を見たり。よし簀張にして二階棧鋪なし。中山來助その外中芝居の俳優なり。〈九人の外ゆるさず〉客ある妓も客と同席にて見物することあたはず。狂言ははざま合戦と五人切にてありし。萬事不都合絶倒すること多し。

〔廿三〕 五綵の山水
三州新堀〈をか崎より西一里半在〉深見莊兵衛〈木綿問屋豪家なり〉といふ人あり子息は左太郎といふ。狂名を朝倉三笑といへり。この家の納戸の椽側戸のふし穴に。紙を一尺ばかり手前におしあてれば十間ばかり先の泉水草木悉く紙中にうつるその鮮明畫るが如し。五色は五色にうつり天色は天色にうつる。尤いづれもさかさまにうつるなり。予が見しときは。池に杜若あり。竹あり柳あり。庭に小兒の手習草紙ほしてありしが。表紙のもん字年限まであざやかによめたり。雲の追々にあつまり。又ちりゆき。竹やなぎの風に戰ぎ池に漣のたつなど。言語道斷の景色。理外の機關なり。主人こゝろみに庭に小兒を出して見せしむるに。目鼻衣服の模様までよくうつれり。わづか○是ばかりの戸のふし穴より。みの紙一枚の内へ。方十八間の山水。明細にうつること。蘭畫びいどろかゞみといふものに似たり。〈戸をたてこめて内はうすくらうして外より影をとるなり〉また京大宮どほり百姓丹羽又左衛門が納戸のふし穴に紙をさしかざせば。東寺の塔あざやかにうつる。〈これもさかさまにうつるなり〉また信州上の諏訪藥師堂のうらの羽目のふし穴よりも。塔影のうつるといふことはかねて聞しが。いまだ目前に見ず。京と三河の事は予遊歴の序(ついで)まのあたりに見たり。おもふに日ざしの自然としからしむるものなるべし。日中はうつること尤もあざやかなり。世間にかゝることまゝあるべけれども。幸にその方にふし穴なく。または人のつねにいたらぬところなどにて。氣のつかぬなるべし。今按するに輟耕録に〈〔頭註〕南村輟耕録巻ノ十五、平江虎丘閣版上有一竅、當日色晴朗時以掌大白紙承其影、則一寺之形勝、悉於此、見之、但頂反居下耳、此固有象可寓、非幻出者、松江城中有四塔、夏監運家乃在、四塔之東、而小室内却有一塔影、長五寸許、倒懸于西壁之上、不知從何來、然不常有、或時見之焉、是又不可暁也。〉塔影のことあり。又酉陽雜爼にもこれに似たることあり。かゝれば異國にもむかしよりありしことゝ見えたり。

〔廿四〕 名古屋訛
名古屋人は。するといふをせるといふ。「コウおつせる「どうせる「何いはつせるのたぐひなり。また人とはいはず仁といふ「かの仁がきさつせる「よい仁でやなどなり。よい人とはたへていはぬなり。又きんとしたトいふ。りつぱなかたち。又きつとしたといふことにもかよふなり。
    なごやなまり
きんによふのばんね。いかずと。文いこし。おれをたらかしちやうらかし。ひなたは。どこのごつさまと。〈人の家婦ニ間婬スル事他邦ニモアリトイヘドモコノ地最甚シコレ娼家ヲ禁スル故ナルベシ〉どこのどやばでねつふかれ。よんべついづい。こざらずね。ようまちぼけにあはさした。いまいましいが。ひよいとまた。よみぞこなひもあらァずと。じやうねさ。よつぴてくりかへし。やけをおこいて。ねたはひなんし。○又どうでどやけじゃなどゝいふもはらだちのかたちなり

〔廿五〕 名古屋の風俗
名古屋は男女の風俗。もつぱら大坂をまなぶなり。ゑびしりわげ〈男子の髪の風〉おぼこづと。〈女子の髪の風〉などあり人氣の活達なるは江戸にならふなり。吝嗇は京をまなべり。故に江戸の戯作狂文も名古屋まではよく通ずるなり。〈大坂は通ぜずといへどもこれをよろこぶ京の人には一向通ぜず〉名古屋の女子顔色の美なるも。腰は大に太し一人として細腰なるはなし。これ風土によるにや。男子夏は編笠を蒙りて歩行す。日傘をさしたるもあり。但藩中の女子のみ。萬事江戸の風俗に異なることなし。

〔廿六〕 名古屋の評判
名古屋は魚肉に富みたる所なり。魚町七ツ寺などよき酒樓あり。蒲焼屋と稱するもの一種にあらず。種々の料理をもするなり。蒲焼の風味。京江戸にはおとれり。硯蓋にも蒲焼をつむなり。凡劇場の外。三絃停止なり。見世物なども太鼓のみなり。凡酒樓中客二階にあれば。男子出て酌をとる女子は二階へ上らず。國禁の甚しきことこれにてしるべし。名古屋にて針妙と稱するもの。三州あたりの衒妻に同じ。これも今は稀なり。呉服屋は水口屋繁昌なり。煎餅は岡山姿見などいふ家よし。狂言踊衣裳はまく屋。鼓太鼓は春田屋。浮世繪は駒新。唐繪は月峯。紅白粉は鏡屋。造り花は吹田屋。書肆は風月堂永樂屋。貸本は湖月堂。菓子は寳屋。鮎は岐阜より來るをよしとす。狂歌は田鶴丸。誹諧は士朗この外いくらもあるべし。春日遊山の地は。門跡のかけ所。若宮八幡。七ツ寺熱田櫻の天神等なり。〈天神の別當を岳靈院といふ禪宗數品の古瓦をあつめて瓦礫舎といふ風流の莚會はこゝにて興行す〉又夏日納涼の地は廣小路藥師前なり。〈柳の藥師の別當を正傳院といふ瓦礫舎の實弟なり奇石をあつめて多くもてり柳下亭と號すこの兄弟風流の人なり〉數十軒の出茶屋みせ物芝居等ありてはなはだにぎはへり。柳の藥師より廣小路の景色。江戸兩國藥研堀に髣髴たり。納涼の地は琵琶島よしといへとも道遠し故に水邊にあらすといへども廣小路最繁昌せり。

〔廿七〕 甚目寺の鐘 この條も雨談に載たれば省く

〔廿八〕 繪巻物 附水滸後傳目緑
名古屋にて見たりし繪巻物
一 すゝめ松はら   繪巻物一巻   名古屋山崎良民所藏
  勾當の内侍の作といふ、雀の死したるを諸鳥のとむらふなり、いにしへの戯作なるべし、いづれの時の内侍にや詳ならず。〈〔頭註〕雀松原作者勾當内侍事後に伊勢松坂の一友人。小津桂窓云。この勾當内侍はおそらく後土御門院の時四辻季春妹にて。新撰筑波集の作者の内才女なりしが筆なるべし。この前後勾當内侍に才女ありしを聞かずと云り。〉
一 福有のさうし   繪巻物寫一巻  名古屋鈴木甚五左衛門所藏
  京にありし日おなじ雙紙のうつしを見たり橋本氏の所藏なり、今兒童の夜語に花咲ぢゝといふものよくこの福有長者のことに似たり是より出たる話にや。〈〔頭註〕追出、福富のさうしは京にて橋本經亮の所藏を見たりそをうつさせしが京傳子懇望によりおくりあたへたり〉
一 花鳥風月     繪巻物一巻   名古や柳下亭所藏
一 天狗の内裏    繪巻物
  これは先年名古屋の道具屋にありけるよしいづれの旅人かもとめ行きけん次の日問ふにうれたりといひしとぞ名古屋人もをしみあへり。
一 國姓爺後日    義太夫本近松作大字繪入
一 美本繪入三國志演義        柳下亭所藏
  これらはいづれもをかしきものなり予も逗留中珍書といふほどにはあらねど古本をすこし購得たり又名古屋廣小路秤座守随の藏書に水滸後傳十巻あり主人をしみて人に見せず予柳下亭に就てその目録をうつしたり。
○水滸後傳 (以下、目録・巻中の人物に関する記述、略す)
この書倉卒にしてこれをよめり。故にその目録を抄出して後勘に備ふ。水滸後傳もと二本あり。共に今世にまれなり。〈〔頭註〕追書。伊勢松坂の友人殿村佐五平、近ころ京師にて水滸後傳を購得たりといふ、享和中予尾張名古屋の客舎にて、一閲せしかとも、倉卒の際にして多く忘れたり、よりて借覽せまほしきよしをいひつかはしけれは、うけひて郵附し庚寅三月廿一日右の書全四十囘十冊島屋よりとゝけ來る、佐五平は篠齋と號す、松坂の豪富にて、本居宣長の門人、和歌を嗜み又和漢の稗史を好む百十里外に在て書を貸す友は多く得がたし。〉大坂の國瑞の話に。予崎陽にありし日。水滸後傳を得たり。そのころは小説にこゝろなかりければ。價廿目ばかりにかへて人にやりぬ。今おもへばをしむに堪たりといへり。大阪逗留中。書肆に水滸後傳のことをきくに。その名をだにしらぬ書肆多し。江戸にてもたへてこの書をみることなし。
水滸後傳二本あり。一本は四才子傳の評をせし天花翁の作なりといふ。予いまだされを見ず。
馬琴按するに。寛永年間。山田仁左衛門といふもの。暹羅國(しゃむろこく)に渡りて登用せられ。大國あまた領せしことあり。その事。智原五郎八が暹羅記事にくわし。しかれば水滸後傳の作者。粗山田仁左衛門が事を傳へ聞く。李俊がことに撮合せしにや。
仁左衛門が暹羅國より奉納の繪馬。駿府の淺間の社にありしが。近屬本社回祿の時。かの繪馬も焼たり。其寫し神職の家にありといふ。
再按するに。山田仁左衛門が事は。唐山にて水滸後傳の作ありしより少し後なり。かの書に撮合せしにはあらざるなり。余が考別記にあり。今亦贅せず。

〔廿九〕 名古屋の芝居
名古屋の芝居は。橘町と大洲にあり。しばらく中絶して又近年免さる。竹田からくり名代なり俳優は九人の外を免されず。予が見たりし時は藤川八藏。中山一徳。松本よね三。中山文五郎。市川甚之助。〈國藏弟子中芝居たてもの〉等にて釜が淵の狂言なりき。切狂言に。米三が無間の鐘評判尤よし。米三は始終評判よし。八月に至りて兵太郎。歌右衛門。叶。眠獅。〈雛介弟女形なり〉などくだれり。〈はじめ橘町にて興行八月は大洲の芝居なり〉二階棧敷なし。又辨當は椀膳にて運ぶことを禁ず。故に食物を。七寸位の重箱に入れて運ぶなり豪家見物の前には。重箱をつみあげて。見るにわづらはし。又茶菓子などうるものは。悉く十四五の童なり。茶いらんか。菓子いらんかといふ。〈すべて名古屋在津島邊言語甚だ野鄙なり〉
木戸に繪看板なし。板に俳優の名を書つけたると。幟のみなり。名古屋の町人ひいきの俳優へ。あらそふて水引をやる也桃色の木綿に。墨にて進上某丈の文字をぶつ付書にしたる出来合の水引もあり。

〔三十〕 名古屋の天王祭
名古屋天王祭の車樂(だし)は。車二輛を組あはせて上に山を飾る。鉾なし。車は大なる地車なり。大八にはあらず。牛をつけず。大なる綱二筋つけて。數十人これをひく。車樂の欄干はろぬりにして。かな物又立派なり。四方に猩々緋。或は天鵞絨に金絲のぬひものしたるきれをさげて甚だ綺麗なり。上にはいろいろの人形をおく。その人形拍子にあはせてさま/\の機關あり。笛。太鼓。つゞみ。しやんぎりにて拍す。祇園ばやしなり。警固は上下を着ず。袴羽織なり。船鉾は京のうつしなりといふ。白樂天。〈同上〉陵王。布袋。〈から子人形のおどりあり〉壽老人。〈同上〉布袋の車樂は。から子の人形前に立。筆をとりて文字をかくからくりにて。甚だ手際なるものなり。凡車樂七ツばかりもあるべし。十五日の夜試樂。十六日未明より城中へ引こみ。日暮てかへる。車樂に挑灯數十張をつけていとはれやかなり。〈四月十七日東照宮の御祭禮ありその禮嚴重なりと云〉名古屋堀川の向ひは鳶のもの多く居る所なり。此所にてわかきものども。六月天王祭のまへ十一二日頃より。まい夜いろ/\の俄をする。或は大なるはんぎりの桶をおき。そら豆壹升廿八文と書たる札を出し。その側に莚を敷。數十人丸裸になり。尻の方を上にむけ。うつぶけになり居て。そら豆のかたちに似せて。人をわらはせるなり。宵より五ツ過まで。かやうにかゞまりゐる。又は人家數十軒をうちぬき。門毎に大なる桶を横にふせ。底をぬきて目がねの如くし。庇には山川草木をあやしく造りなしてその上に七八人さま/\にいでたちて。あやつり看板の人形のごとく見せる。これも五ツ過までは。身うごかしもせず。さて桶の穴より内を見れば。向ひは隣堺の垣など引はらひ。厠物置も脇へ引て野原のごとくし。曠々たる所に。數十人忠臣藏夜討の體にいでたちてならび居る。のぞきからくりの俄なり。警固のものは上下を着てのこらず庇にならべり。この外毎夜さま/\の俳優(わざをぎ)をなす。晝は崩したる所をつくろひ。夜はくれよりしくみくみにかゝる。その體甚だいそがし。又七月盆中。名古屋の市中。小兒ちひさなる万度を作り。太鼓にてはやしありく。これを梵天と名づく。大人もうちまじりて種々の俳優をなすといふ。〈名古屋の天王祭宵宮に家々饂飩を製すること恒例なり此地うどんはなはだよし〉

〔卅一〕 津島の挑灯船 此條雨談にくはしければ省く

〔卅二〕 藪に香の物 右に同じ

〔卅三〕 江州の大水 附攝河大水の噂
六月三日より雨ふらずして暑気甚し。廿五日にいたりて雨少しふれり。近在みな(あまごひ)す。予はこの時名古屋にありき。廿七日の朝桑名四日市邊。朝四ツ時頃まで雨ふりけるよしなれど。宮はふこしふりぬ。〈宮と島見に一兩年前よりめしもりをおくことをゆるさる。吉田おか崎には似ずいづれも醜婦なり名古屋人これをおかめと渾名せり。妓樓もあれど。旅人はその旅店へもよぶよし。〉廿七日に宮より乘船この夕石藥師泊り。明朝より大雨。廿八日水口に泊る。この夜ます/\大風雨。廿九日の朝横田川〈水口より二里餘〉までいたりしかど。水まして渡しなければ。せひなく晝頃又水口へ引かへせり。餘の旅人は横田川の川端いづみといふ所の建場茶屋へ泊るやうすなれど。予は人足の都合あしければ泊らず。その夜大水。水口田町へは床上四五尺水つく。驛のうら手の田畑一面に水おし來り。見るうち五六人溺死す。予は驛の中程鈴鹿屋といふ旅店にあり。この所は高みにて水難なし。いづみは十二軒ながれたり。もし今日いづはの建場茶屋へ泊りなば。むなしく水中の鬼となるべきを。運つよくして一命をひろひぬ。〈いつみに泊りし旅人七八人みへざるよし土地の人はうらに大竹藪あり、この竹にとりつきてたすかりしといふ。〉これによりて一兩日水口に逗留す。七月三日の晝頃水口をたちて石部に至る。此間所々の堤崩れて田畑をおし崩し。街道は古松倒れ。碌々として足を入るゝの地なし。横田川にて。
    ころんでもたゞはおきじとおもふなり大事の命まづひろひつゝ
    澤蟹のあゆみて渡る横田川あな遠く來ぬふる郷の空
洪水に家を流されたるもの道路に號哭し。或は太鼓をならして人足をかりあつめ。堤を修覆し。水死の骸をたづぬ。みるもの感哀して魂をいためしめずといふことなし。横田川をわたりて二十町ばかりゆくに。牛を牽て田畔より來るものあり。この牛脊の上に泥つきて。腹は細くその聲悲し。その人の云。是はてばといふ所のものなるが。洪水いまだひかずして。牛に飼ふべきものなし。故に石部の在にしる人あれば牛をばしばらく預ん爲に來りしといふ。予この牛を見て。梁の恵王の仁をおもふのみ。程なく石部にゆきてきくに。草津驛洪水にて家流れ人死す。故に昨今往來なしといふ。よりて今日石部に泊る明日徑あることを聞出し。案内をやとふて石部をたつ。草津までの間。堤崩れ家流れて。ます/\駭然たり。草津の驛の入り口には。膳所より役人詰居て。人を通さず。よりて近在へ水見廻にゆく體にもてなし。驛の入口より左りへきれて。田の中を行くこと十五町はかり。水高もゝをひたし。長き竿を杖とし。一歩はたかく一歩はひきく。互いに聲をかけ。からふじてうばが餅の前へ出たり。是よりは陸地なり。問屋より表通りの家八九軒おし流しうら通りは人家多くながれ。四五十人も溺死す。死骸は積て累々たり。これのみならず。森山。彦根。又大水。家流れ人死したりといふ。予か荷を持たる人足も庇にとりつきて。十町ばかり流れたりしが。しれる人の家の二階へ流れつき。すぐに二階に這ひあがりて。一命をたすかりしといふ。阿波侯この時ゑ川に居たまひしが。守山の洪水によりて。胴勢食物乏しく難儀したまひぬとぞ。只囂々として東西この話のみなり。大津も驛の入口はすこし水つきたりと見え。石橋など少しく損してあり。逢坂山は山中に崩へたるよしなれど。街道は山少し崩て一兩日馬を通さず。
    あふさかのせきとめかねつ秋の水
三日の夜。京都木屋町の旅宿へたどりつきてみるに京は水難なしといへども三條五條の外。かり橋はみなおし流し。河原茶店の腰かけ等みな流したれば。涼みもなく寂寥たり。さて五七日は大坂への通路もなく。只攝州河州洪水の風聞まち/\なり。四日の朝角倉家中中森氏の話に云。余きのふ伏見へ水見聞ちまかりしに。伏見豊後橋中書島等はみな二階より船にのりて逃しとぞ。淀の城は塀の屋根少し見ゆ。大坂天満橋天神橋その外橋五ケ所落たりといへど。いまだ通路なければ治定しがたしといへり。今日清水にのぼりて。伏見のかたを眺望するに八わた山崎邊水一面にして只眞白に見ゆ。四五日經てよう/\大坂の通路あり。しめ野堤きれて河内へ水おし入。水損の農民は道頓堀の芝居へいれおかれ。大坂中の豪家或は一町/\に組合て施行を出す。或は米五十俵錢百五十貫文。或は單物五百。繻絆千枚身上の分限によりて差あり。凡攝河の水損百二十餘ケ村なりといふ。十人これを語れば十人大同小異なり。只聞しよりまされるものは大坂の施行のみ。〈宇治邊大洪水宇治はしは落て橋姫の社流れ、興聖寺平等院大に荒れたり、八わた山崎邊は水十八九日ひかず〉
七月十日頃大阪より京へ東の洪水を告來るその文に云。
 六月廿七日八日大風雨忍領熊谷土手二百間許一ケ所切込又一ケ所八十間餘切込夫より東の方幸手栗橋近在方關宿權現堂切込奥州海道中山道今五日迄往來留所々家流れ水死人あり江戸本所北川筋三圍秋葉邊出水往來凡五尺程相州戸塚邊近在方大水六郷川廿八日より二日朝まで留る馬入川廿八日四日まで箱根三枚橋落大井川廿八日より八日巳之刻まで留り鈴鹿山崩れて馬荷通らず廿八日大雨廿九日大風雨辰巳の風つよく八主寺青梅邊甲州海道往來留所々洪水のよし申來候
 又同状に六月廿五日に大雷にて大風雨ふり出し廿八日大風雨大水兩國橋殘り永代橋大橋新大はし落る朔日天氣に候得共上州下總常陸相模邊通路一向無御座江戸本所邊昨日の内段々水まし床上三四尺四五尺も附申候葛西領二郷半領上州桐生邊家流れ千住通奥州海道いまた通路無之相知不申候〈七月五日の註進状〉
 又近在水損の農民は馬喰町の明地へ小屋かけしてこれへ入おかれ上より施行ありしよし〈是は程へて申し來る〉
予は古郷の事覺束なく。又江戸にても道中出水の事を聞及びなば。さぞ案じ悩るならめと。京へ着とそのまゝ状したゝめ引つゞけて三度出しけるが。川留にて速にはとゞかず。よう/\七月十五日に四日出の状とゞきしよし。又江戸より出したる状は。八月三日の朝大坂へとゞきぬ。この間き心痛なか/\筆につくしがたし。さらぬだに旅はものうきものなるに。獨行と云ヒかゝる天變にあひぬれば。只日夜腸を斷のみ行んとするに道なく。かへらんとするにちまたなし。家におさなきものを殘して。長く旅中にあれば。一日も猶三秋のごとし晨に夜に忘るるひまなく。こゝろにかゝらざる時もなし。行脚頭陀は一身のうへの風流なり。それも君につかへて遠行し。或は軍旅にしたがふて。遠征する身にしあらば。思ひかゆべき事もあらん。我只風流の爲に長旅を歴んことそも誰が爲ぞや。世に子と云ものもたざる人は。この情をしりがたし。古人世を金馬門に避て。風流は俗塵中にもあるべし。老いたる親いときなき兒のあらん人あへて山川の遊歴をねがふべからず。すべて遊といふことは。こゝろにかゝる隈もなきを第一の興とす。つねにものおもへば何のたのしみかあらん。子なき人のいふをきけば。遊興歡樂にあるの日は。妻子のことも忘るゝといふ。妻の事は忘れても忘れなん。忘れがたきは子の事なり。美味をくらへば子をおもひ美服をみれば子をおもふ。我人愛情のつねなるべし。
    つまや子は衣服といへと旅ころも遠くきて猶おもふ古さと
    旅ころもほころびにけり古郷のいと戀しさにつまもかさねす
家兄〈〔頭註〕翁の伯兄名は興旨臺右衛門と稱し東岡舎羅文と號す仲兄名は興春初右衛門と稱し克巳亭雞忠と號す〉世にいまそかりし日は。常に往來して風流の夜話にふけりしも。今はみるもの聞もの。かへり來てたれにか語らん。これも旅中袖をうるほすの一つなり。おのれ九歳の春父におくれ。十八歳の夏母なくなりたまひ。十九の秋兄をうしなひ。只家伯なりける人。近きわたりの藩中におはしければ。これを父とも兄ともかしづきて。兄弟そのこのむ所もたがはず。兄は誹諧をこのみて。才器ははるかおのれにまされり。これさへ寛政十年の八月。四十の秋の月を見殘し。黄泉の客となりたまひぬ。殘れるものは妹ふたりのみ。これらは詞かたきとなるべきものにあらず。おのれ元より佛の道にうとしといへども紀の國高野山にまうづべき志かねてありぬるを。この洪水にへだてられて。つひにゆかずなりぬ萬事の殺風景これのみにあらず。

〔卅四〕 粟津の義仲寺
江州粟津義仲寺のはせを塚は。碑の銘なし。義仲の墓ははるか後に建たるものと見ゆ。
    世の秋のさいはひはこの翁かな

〔卅五〕 瀬田蜆
瀬田の蜆汁は。醤油のすまし吸物なり。鹽梅またくらふべからず。

〔卅六〕 鏡山 附源五郎鮒
近江の鏡山は。石部のこなた。平松川邊より右に高く見ゆ。山色班々として白銀の如きものあり。雪の消殘りたるがごとし。
    鏡山うつる日數も旅くしげふた月へたつ東路の家
近江の源五郎鮒は。一説に佐々木家一國の主たりし時錦織源五郎といふ人。漁獵のことを司る。湖水に漁りたる大鮒を。年々京都将軍に獻ず。その漁獵の頭人たるによりて魚の名によび來たれり。

〔卅七〕 三上山 附百足山 雨談にくわしけれは省く

〔卅八〕 三井の古鐘
三井寺の鐘は古くみゆ浮屠の説は信ずるに足らず。辨慶が叡山に引あげたりし時。すれて鐘のいぼがとれたりしといふ跡あり。おもふにこの鐘久しく水中に埋れありしものにて自然とすれ損じたるにやあらむ。又大門のうちに辨慶が陣錡(ぢんがま)といふものあり。凡湖水の眺望三井の山上よし。しかれども志賀越の眼下に見おろすにはおよばず。

〔卅九〕 奴茶屋 雨談にのせたれば省く

〔四十〕 遊女八千代が噂 ○是より京の話をしるす
八の宮〈〔頭註〕直輔親王は、後陽成帝第八ノ皇子、幼くして智恩院に入らせたまひ、元和元年、徳川家康猶子として、同き五年剃髪名を良純と改め給ふ、寛永廿年、甲州天目山に配流せられしとき、「ふるゆきもこの山里はこゝろせよ竹の園生のすゑたわむ世に」万治二年歸洛し給ひ、歸俗して以心庵と號し、北野の住わび給ひ、寛文九年八月御年六十六にして薨し給ふ。〉は。遊女八千代にふかく契りたまへり。日夜をかぎらず放蕩その度に過ぎたれば。その頃の所司代板倉侯。屡諌言すといへども。もちひたまはず。板倉止ことを得ず。若干金を以て八千代を身うけし。これを八の宮に獻じ。しかして後八の宮を配流せらる。則八千代もともに配所に至らしむ。こゝをもて八千代が名。よし野より高し。〈橋本肥後守經亮話〉
 追考。甲州一國は夏ほとゝぎす啼ず。かの國の人の説に。八の宮甲州にましましけるとき。なけばきくきけは都のなつかしき此里すぎよ山ほとゝぎす これより杜鵑なかずといふ。〈家兄羅文の話〉程へて八の宮歸洛したまひぬ。


壬戌羇旅漫録 巻の中

〔四十一〕 光廣卿の寛活 〈〔頭註〕權大納言正二位光廣卿は、准大臣光宣公の男なり、慶長四年藏人頭四位に叙す、和歌を細川幽齋に學んで出群の譽あり、寛永十五年七月薨す、年六十法雲院と号す。〉
烏丸光廣卿の宅は。烏丸中立賣にあり。そのころ牛飼ども。公卿の家に牛を牽ゆき。御用なきやと問ふ。用あればとゞめ。用なければかへす。光廣卿は毎度この牛を雇ふて。花街にかよひたまひぬ。車の上に氈を敷その上に酒肴を設け。自若としてかよひ給ひしとぞ。〈松波播磨守光興話〉江戸にてむかし馬をやとふて。よし原へかよひしことおもひ合されたり。

〔四十二〕 板倉侯の大量 〈板倉周防守重宗は勝重の男なり元和六年父がすゝめによつて京職に補せられ在職三十四年明暦二年十二月卒す年七十。〉
板倉侯所司代の時。すべて公家衆花街へかよひ給はんには夏は下に白かたびら。冬は白無垢を着用あるべし。しからざれば。制度の害になるよし。かたくふれられたり。その頃までは。政もゆるやかに侍り。〈同人話この二條橋本經亮來りてかたれり。〉

〔四十三〕 六條郭の全盛
板倉侯洛中通行の日。攝家の女中乘物にあふ時は。毎時酙酌(しんしゃく)せらる。或日また例の女中乘物に行あひぬ。侯馬をとゞめいづれの北の方にやと問しむ。從者おそれて。是は太夫にて候と答ふ。侯大に怒り。すべて遊里を洛中の中央におく故にかゝることはあるぞとて。上に請ふて。郭を片隅へうつされたり六條のころ遊女の全盛。これにてしるべし。〈橋本經亮話〉

〔四十四〕 傾城局の巻書 此條雨談に載たれば省く

〔四十五〕 烟火城書畫展覽目録 上に同し

〔四十六〕 遊女よし野が傳 附蟹の盃 〈〔頭註〕よし野の傳は雨談に出たれども漏せし所もあれば録しぬ、蟹の盃圖説のこときは雨談に悉しければ就て見るべし。〉
吉野没年は寛永八年。六月廿二日なり。よし野は佐野紹益に請出さる。紹益は灰屋と號す豪富なり。吉野は紹益に先だちて死す。
    都をは花なき里となしにけり吉野を死出の山にうつして   紹益
これその時述懐の歌なり。或人云。吉野が屍を火葬して。紹益みづからこれを喰ひ盡しけり。紹益がよし野に愛着せることかくの如し。是よりして灰屋の家おとろえたりといふ。〈經亮話〉
七月十七日橋本經亮〈〔頭註〕橋本肥後守經亮は香菓園と号す、京師梅の宮祠官なり、皇朝の典故にくわし、文化二乙丑六月五十余歳にて没す、著すところ梅窓筆記二巻世に刊布す。〉とともに。榮庵を訪ふて面會し。吉野が傳を問ふ。榮庵は佐野氏。京都兩替町二條下ル所に住居し。醫を業とす。この榮庵よし野が夫紹益の孫なり。今おとろへて寒家となりぬ。榮庵云。祖父灰屋紹益が家は。智恵ノ小路上立賣にありし。紹益は和歌をたしなみ。蹴鞠茶の湯などせり。尾州紀州の兩公へ召れて度々出けるよし承り傳ふ。吉野没してはるか後。浪華の小堀氏より妻を迎へたり。これにも子なく。七十三歳の時。妾に男子出生す。今の榮庵の父紹圓是なり。紹圓五十餘歳の時榮庵出生す。榮庵も六十歳ばかりに身ゆ。紹圓も鞠をこのみしとぞ。この家によしの川の裂。山中の色紙。〈〔頭註〕畸人傳にある諸侯いかなるついでにか、よし野にまみえ玉ひて、いかにもこれがよろこぶへきものを、あたへばやと案じたまひて、小倉色紙のうちに俊成卿の歌、世の中に道こそなけれといふ歌の四の句、山の中にもと誤り玉ふが、かへりて山中の色紙と云傳へて名物となりたるを贈り給ふ、はたして是は二なくよろこひけるとなり云々。〉蟹の盃あり。いづれも吉野より傳來の器物なり。榮庵にいたりてます/\窮するをもて。よしの截は人にうりあたへぬ。山中の色紙は雲州侯へたてまつり。今家にあるもの蟹の盃のみ。又みし野紹益が書しものいろ/\ありしが。度々の類焼にうしなひ。又は人にのぞまれて今はなしといふ。二代目よし野が文ありしを見せたり。紋所の印は○如此一ツ巴のうちにさくらの花なり。手跡も又見事なり。山中の色紙。廣東の。蟹の盃は。よし野花街にありし日。薩州侯よりたまはりしものなりとぞ。
榮庵又云。紹益が菩提寺は。内野新地立本寺にあり。〈日蓮宗〉この寺そのころは。今出川町にありしがそののち御用地となり。今の地所に引けたりし時。墓も建かへしゝにや詳ならず。石面は紹益と吉野と戒名二行にほりつけてあり。紹益は八十一歳にて没しぬ。
  古繼院紹益  元祿四年十一月十二日  本融院妙供  寛永八年六月廿二日
これをもて考るに。吉野没年は。紹益廿歳の夏なり。しかればよし野紹益が婦となりて程なく。いとわかくて身まかりしものなるべし。うべなり紹益が玉をうしなへるの恨前の歌を吟じてもしるべし。
榮庵に紹益が歌のことを問しに相違なし。紹益は貞徳と友としよかりしとぞ。
畫工成瀬正胤の話に。紹益よし野をうけ出せし時。父に勘當せられ。しばらく下京にすみ家もとめて夫婦住けり。父他へゆきしかへるさ。雨ふり出しければかたはらの家に入りて雨舎りす。うちには爐に釜をかけてあり。主人は留守と見へて女房のいとうるはしきが。こなたへと請じ。うち茶たてゝ出しぬ。その爪はづれ茶の手まへまで所に見なれざるまゝ。いとふしぎに思ひながら立かへりて。次の日しか/\のよし人にかたるに。それこそ子息紹益が妾なれ。その家は紹益のかくれ家なりと告ぐ。父ははじめてさとり得て。その奇遇を感悟し遂に紹益が勘當をゆるし。よし野を引とりめあはせしとぞ。程遠からぬ下京に。その子の忍び居るをもしらざる豪富なりしことしるべしといへり。
友人盧橘は京師の人なり。近會(ちかごろ)よし野が墓を圖しておくれり。
○吉野塚は洛北鷹が峰。日蓮宗檀場學堂の後にあり。
 吉野は京師大佛馬町松田氏といふ浪士の女兒なり元和四戊午の年出生。行年三十六。畸人傳といふものに載たるもこれに同しいまだいづれが是なるをしらず。
又洛の立入氏賀樂老人より告來る。吉野没する時紹益三十歳なり。八年にては二十歳なり。然れば十七八歳にてよし野を購たるか。法名前文の通なり。壇上の三門は吉野建たり。後に燒て改め建たるよし寺僧語れり。榮庵が説は心得ちがひなり云々。〈〔頭註〕追書、解按するに紹益かにきはへ草に載たる轍書記のなか/\に見ぬもろこしの鳥もこしなか/\になき魂ならは云々といふ二歌に異同あれとそをいふものなし考ふへし。〉
 追考。島原の郭は。寛永十八年六條柳の馬場より。今の三筋町へ引けたり。よし野は寛永八年に没す。しかればそのころは猶六條のくるはにて侍り。箕山〈〔頭註〕箕山は通稱を藤本了因と云貞徳門人にて兩巴危言好色大鑑などあらはしたる人なり。〉が色道大鏡に。よし野が傳あるよし。大坂盧橘かたれり。予大坂逗留の日數纔なるをもて。寛文式二巻を閲したるのみ。もし序あらば併せ勘ふべし。

〔四十七〕 島原の噂
島原の郭。今は大におとろへて。曲輪の土屏なども壞れ倒れ。揚屋町の外は。家もちまたも甚だきたなし。太夫の顔色萬事祇園にはおとれり。しかれども人氣の温和古雅なるところは。中/\祇園の及ぶところにあらず。京都の人は島原へゆかず道遠くして往來わづらはしきゆえなり。ゆゑに多くは旅人をも祇園へ誘引す。角屋徳右衛門が坐鋪庭等最よし。この庭の松甚よろし。松のかたちを紙にすり。求むる人あればあたへ侍る。その外露臺などある揚屋もあり。一眼千軒〈〔頭註〕一眼千軒は島原の細見記なり。〉にくはしければ略す。島原にて。太夫をかりて見るという事あり。客ある妓も必ず來る。大かた大坂におなじ。くはしくは大坂の話にしるす。
島原の燈籠七月にあらず。八月初旬よりともすなり。予大坂より又京へ來りしは八月六日なり。昨日より島原に燈籠ありといふ。一兩日大雨。終に一覽せずして京をたちぬ。
島原に鹿子位といふ妓あり。これは江戸よし原のはし女郎におなじ。〈半夜五匁一夜十一匁五分〉

〔四十八〕 京師の妓院
京にて島原の外御免の遊女町は。五條坂。北野。内野なり。五條坂はあこや株と稱す。又近年あらたに免許ありしは祇園。同新地。二條新地。七條河原等なり。その外西石垣。上宮川町。東石垣。下宮川町。古宮川町。六波羅野。御影堂うら。都市町。平居町。一ノ宮町。三ノ宮町。膳所うら。富永町。末よし町。新ばし。なはて。川ばた。先斗町。壬生。五ばん町。七番町。三ツ石町。六間町。寺の前。下ノ森。上七軒。しら女の辻。御靈うら。杉本町。野川町。大文字町。先斗町川ばた。難波町。若竹町。新車屋町。丸田町。檀王うら。等皆私窩(かくしばいぢょ)也。凡洛中半は皆妓院なり。京の節儉なる人氣にて。かく多き遊のそれ/\に世わたりすること。第一のふしぎ也。客は春他國の人三分二。地の人三分一也。秋より冬のうちは。地の人三分二。旅人三分一なりと云。故に秋冬はさみ/\し。

〔四十九〕 祇園さし紙
祇園に。祇園さし紙といふものあり。是は祇園町へはじめていづる。おやま。げい子。ひろめと稱し。のり入のかみを。たてに四ツ許に切り札とし。これへけい子誰。おやま誰。などくはしくしるして。茶や/\へ配る也。茶やの勝手元。或ははしごの上り口に。いくつともなく張りつけてあり。おやまも藝子も。見世とうちとは別なり。見世とは。江戸にていふ見場也。扇九。一力。井筒など茶屋をたれは何屋と定めおくなり。抱のげい子もあり。又じまへのげい子は。別に家ありて住もあれど客あれば必ずその見世へいふてやる。子ども屋は別にあり。是は祇園町中廿七軒に限りて御免なり。これも通して見世といふ。又はじめてつとめに出たるものを。腰元おり。てかけおりといふ。江戸にて何あがりといふが如し。又はみな様御ぞんじ何屋の仲居おり。などゝもかくなり。
本詰とは。本どしま眉毛なし。中詰とは。中どしまなり。〈げい子はとしの長少に拘はらずみなげい子と云〉祇園町のげい子はうつくしく。おやまはおとれり。けい子に勢ありて。おやまの上坐をする。初會の客に盃ことなし。すぐに客のかたはらへ來てすはる。いづれもかくのごとし。

〔五十〕 嫖客の噂
京は女郎といはず。女中といふ。おやまといふことは。目下のひとよりはいはず。げいしやといはずして。げいこといふ。夜ル五ツ或は四ツ時ごろよりゆきて。花いくつと仕切を。相場をきくといふ。花入用とも二割引なり。宿屋より引つけたる旅人は。二わり半引せて。半は宿屋へとる。銀相場は六十三匁通用なれども。地の人は六十五匁にて勘定する。
京は現金の客をきらふとぞ。かけは五節句拂なり。それも身分よろしき方へは。勘定もゆるやかなり。夫ゆへわれしらず遣ひ過ることありといふ。それにても損をすることは稀なるよし。但勘定はよくする所なり。

〔五十一〕 きがへの譯
祇園の客。茶屋へゆきて酒をのまず。期よりおやまをよび直にぬるを。きがへにゆくといふ。期(ご)とは夜九ツなり。期ならずとも。すぐにぬるを。きがへといふ。げい子おやまともにやくそくといふは。晝は朝より暮まで。夜はくれより夜明までかふてやるなり。もの日の仕舞といふことなし。このやくそくをねだられることあり。大坂も又おなじ。

〔五十二〕 藝子の枕金
げい子にまくら金といふことあり。是はげい子の誰に通ぜんとおもふ人。茶屋へゆきてそのことをたのめば。茶屋その名を聞。あの子の相場は何程ならんといふ。相場とは。たとへば顔色すぐれてうつくしく名ある歌妓は。まくら金二十兩。或は三十兩。その次は十兩十五兩。いたつてあしきは五兩三兩なり。三兩より下なるはなし。はじめに件の金をやりて〈たとへば二十兩のまくら金にははじめ十兩わたし通じて後又十兩わたす〉やくそくし。ひそかに茶屋へよびてあふなり。但あふたび/\に花は別にはらふ。これを枕金の相場といふ。仲居或は茶やの娘。舞子も同様なり。

〔五十三〕 舞子の評
舞子は十歳ばかりより十八九までなり。歌曲も雅にして。三絃も煩手ならず。しとやかにたち舞ふさまいとしほらし。むかし白拍子が。朗詠などにあはせて舞ふたりし遺風ありとぞおもはる。

〔五十四〕 三絃筥(しゃみせんばこ)
げい子の三絃筥は。木地の桐の箱なり。風呂鋪〈〔頭註〕追出、桂窓云ふろしきにあらず、覆にて二所にちりめんの紐をつけたるものと聞にき。〉に包む。三絃はいづれもつぎ棹なり。故に箱は四角にて横少し流し。撥袋は撥のかたちしたる盒(かうばこ)の黒ぬりを用ふ。琴はふろしきに包み。皷はしらべをかけて携へ出る。

〔五十五〕 妓の衣服
衣服は。妓は紫の絽の袷帷子。もゝ色の裾うら。すそもやう。或は上布のかたびら。〈しゆばんを着ず〉縞ちりめん等なり。〈うらゑりを半ぶんほど前へ引かへしておく〉帯は赤きが多し。ゆもじは緋ちりめん。○げい子は上布。すきやちゞみ。紫の絽。〈すそもやうもあり〉これも繻半を着ず。帯はねづみ繻子多し。ゆもじはいたじめのちりめん。〈いたしめのゆもじまためづらし〉緋ぢりめんは稀なり。京も大坂も。郭の外は。みな左の手にてつまをとる。これを左りつまといふ。是おか場所のしるしなり。そのつまは高くむねのあたりにてとる。甚派手なり。〈ぎをん町五月晦日より七月十八日までそろひといふを着るこの時帯はひちりめんにぬひなどしたるをしめるこれは暑中汗にてよごるゝゆゑ妓も歌妓もみなひちりめんの帯を用ゆそろひのうちもひじゆすの帯などしたるもまれにあり。〉

〔五十六〕 妓樓の夜具
客のゆかたは茶屋にてかすなり。妓はぶんこに着がへをいれてもち來り。閨中は江戸染のゆかたなどを着る。扇はぬりほねの銀扇。うちわはろぬりのふか草団扇をもつ。郭の揚屋祇園町も。夜具は。郡内縞のうすきふとん一ツなり。〈大坂も又同し〉祇園新地はふと織の蒲團。茶屋によりて木綿夜具をも用ゆ。太夫も伯人も夜具は皆かくのごとし。

〔五十七〕 京の女兒風俗
京の女の風俗。髪はあぶらをすこしつけ鬢を上へかつぎ上げ。髱(つと)を甚ながく出す。わげはひらたく。かつ山はべつたりと前へたふしかけ。島田はしんを入れず。ばらりとして草たばねにす。髱いれは太きはりがねを紙にて巻き。うるしにてぬりたるを、もちゆ。すべて大坂名古屋伊勢いづれもこのたぐひにて。大同小異なり。大坂も水髪なれど。髷へばかり多く油をつける。いせは丸く。名古屋は似て非なるもの多し。京都は地の女も髪の風。妓とかはることなし。これは商人と妓と。うち混じて居る故なり。化粧はいづれもあつげせうなり。櫛は厚き高蒔繪のぬり櫛なり。〈大坂はべつうこが多し〉笄は鼈甲なり。數本さしけるが。今年制禁ありて。三本の外はさゝず。髷結のしぼりばなしのちりめんも今年禁制せらる。よりて紙をもみてちりめんのことく染たる髷結を用ゆ。以前は髪の上。數十金を費せしといふ。
妓は紙入に紙いつぱいの鏡をつけ。白粉をちひさなるあさの袋に入。席上にてたび/\けはいをするなり。げい子は巾着をつけこれを帯のうちへかくし入レおく。この袋の中に化粧道具あり。これも席上にてたび/\臉(かほ)を模す。鏡を懐中すること歌妓も又同じ。

〔五十八〕 祇園大樓の噂
井筒。扇九。一力など。坐鋪廣し。客あれば庭へ打水し。釣燈籠へ火を點す。忠臣藏七段目の道具建の如し。燭臺は木にてろぬりなり。大樓は燭臺四ツ五ツ。蝋燭は六寸ばかりあり。半分たゝざるうちとりかへる。そのたび/\に必客の顔の色が變る。蝋燭一挺八分ヅゝなればなり。すべて茶屋に刀かけいくつもありて。脇差は枕上の床の間へかざりおく。大坂も又かくのごとし。〈大坂しん町あけやはろうそく一挺一匁五分〉是相對死などいふこと。たへてなき故なり。古市は近年油屋騒動このかた。客の脇差を内所へあづかること江戸のごとし。

〔五十九〕 祇園の方言
祇園町の方言に。江戸にてつやをいふ。せじをいふといふことを。あぶらをいふといふ。ふだん來る。じやうぢう來る。などゝいふことを。いつしくにおいでるといふ。まいるを參じる。よいことは。ゑらい。又かいなといふことあり。一人「これはこうこういふわけじゃ 答「かいなァ。さやうかいなを畧せり。これらはしほらし。この外いくらもあるべし。すべて女はなといふことをそへていふ。
  わしがけふな。かみあらふてな。とんとおちんさかい。いま/\しうてな。いろ/\したじやけれどな。おちこぢれたさかい。見ておくれ。かみもいつかうじやわいな。「なんのいな。いつこうようでけたわいな。「ゑらふあぶらをいふてじやはいな。〈又めたかをそろといふこの魚そろひてありくゆゑなり。かくやのこうの物をせんたく香の物。しぎやきをなすびのでんがく。此類多し。〉
大かたかくのごとし。江戸にてはいつこうといふことは。わるきことにのみそへていへど。京にてはよきことにもいつこうよい。いつこうゑらいといふ。又茶屋の嬶をごつさんといふ。江戸吉原にては茶屋の亭主をごつさんといへば。男女のたがひあり。「さかいといふ詞は。ゆゑにといふにおなじ。江戸はからといふ。歌にもふくからにとはよめど。ふくさかいにとはよまず。これらをや。京なまりとはいふべき。
文ははじめてこすにも。旦那様と書く。〈いせは御客様とかく〉書出しはいつでもおそれながら通り句也。げい子の禮文は。おひいきねかひ上候。ばんほども御しらせなどゝ書く。茶屋のかゝよりこすふみは。お禮かた/\が通り句なり。

〔六十〕 祇園の歌曲
今祇園にてもつぱらうたへる小唄を。人のうたひてきかせしまゝにしるす。
    扇手びやうし〈二上りこれは江戸にてうたひししもつまおどりのふしに似たり〉
「鎌くらのサアヨウ/\ヤレかちうの娘か月には九たんのサアヤレ月には九たんのはたをおりますサアヨウ
「そのはたをサアヨウ/\ヤレついてさらしてこうやをたのんでサアヤレこうやをたのんでそめにやりますサアヨウ
「かた先はサアヨウ/\ヤレむめのをりえだ三月さくらのサアヤレ三月さくらのさいたところをサアヨウ
「上まへはサアヨウ/\ヤレしかのやつぶしうさぎのちよんちよとサアヤレうさぎのちよんちよとはねるところをサアヨウ
「下まへはサアヨウ/\ヤレわしとおまへとおまへさんとわしとサアヤレだいてころんでねたるところをサアヨウ
    同手びやうし〈扇はなしこれは三くにぶし也ひとつふたつしるす〉
「おさななじみにわかるゝときはあゆやもろこの水はなれ
「さまは五月の乃ぼりかせうぶかわしはおまへにのぼりざほ
    同扇びやうし〈これは新製にあらず〉
「ほうゑいまつりは見事なことよたれも見にゆきゆきなばどつこい人みなこのよのうさはらしに上戸のおもひはこれなんめりたん/\けいこをひきつれゆきなばおすなさはぐなかたよりゆけすけかさおつとりもつてしとけないのがさんさ見事ゑ
    いたこぶし〈ちかごろ江戸より流行す〉
「孫兵衛ごけ/\/\これをあはせてむまごべいごやヤレ/\
「孫兵衛ごけむまごべいごけ/\これをあはせて十三孫兵衛ごけヤレ/\
「となりのいろりもくろぬりくろいろりこちのゐろりもくろぬりくろゐろりヤレ/\
「となりのちやがまはからかねちやがまこちのちやがまもからかねからちやがまヤレ/\
「なげしにかけたる大なぎなたたれがなぎたぞあてゝみやヤレ/\
「むさし坊べんけい大なぎなたたけも八尺みも八尺ヤレ/\
    むかし/\〈今歌妓かならずこれをうたふ〉
「むかし/\やまのあなたにあつたげな。ぢゞいは山へしばかりに。ばさまは川へせんたくに。るすにすゞめがたなもとの。のりをのこらずくひてしまひ。ばさまはみるよりはらをたて。したきりすゞめでおひはなつ。合 ぢさまかはいや。つえつきのゝじで。のりをくたすゞめどのはこゝらじやござらぬか。チヨツ/\のこへ。やまこへさと/\こへてゆたといの。
「かにどの/\どこへゆかしやるぞいの。さるがしまへおやのかたきをうちにゆき候。おこしのものはなんでござる。これかこりや日本一のきみだんごひとつくだされ御とも申そふ。合 はさみのばけものたんばくり。石うすにはり。このものどもがつきそひて。さるがしまへおしわたり。エイヤアねんのふおやのかたきをうちおふせみなさんいかいおせわといちれいしもとのあなへそいりにける。
これらはみなさはぎなり。めりやすは琴歌に河東を加味したるやうなるものにて甚雅なり。大坂尤よし。京は大坂をまなべり。又江戸の大こく舞のふしにて。もん句は殘らず島原のことに直してうたふなり。江戸の長うたは音聲うつらず。聞にくし。

〔六十一〕 御所うら
京にて見世付ある妓樓は。縄手。二條新地。北野。内野。御所うら等なり。これらいづれも見世をはる。いづれも賤妓にして。見せはうちつけ格子疊わづかに三四疊を敷くべし。二條新地尤多し。御所裏はむかし御所の下主女。夜行して色をうりしよし。今はかゝることはなしといふ。〈五條坂等も見せ付あり〉

〔六十二〕 つくしわた
先斗町につくしわたと稱する私窩あり。わたぼうしとも名づく。むかしわたぼうしやよりこの妓を出せしといふ。今猶先斗町の北角に綿帽子屋あり。此綿帽子は旅宿へもまねく。又かし坐鋪へ一月雇にもするなり。價いやしき醜婦ながら。その名は雅にきこゆ。すべて旅人逗留中。一ケ月に金二分を費せば。一月雇の妾あり。この者飲食に給仕し。又縫刺のことをなし。夜は枕席をすゝむといふ。是は素人なり。この地尤荒淫なり。太夫天神の外は帯なし。これ衣服をいとふゆゑなり。太夫天神のみちりめんのしごき〈しんあり〉をしめる。大坂又かくのごとし。

〔六十三〕 總嫁
總嫁は二條より七條までのかはらへいづる。河原にむしろかこひしてこゝにて夜合す。〈河原の水なき所に石を高くしそのうへにむしろかこひ「三尺ニ一間」をするなりひるはとりくずして又夜は小屋をかける總嫁は川ばたにたゝずみ居て往來の人をひく〉

〔六十四〕 四條の芝居
京にて芝居初日の前日には。小路/\へ太皷を廻すこと江戸の角力の如し。太皷は大太皷にあらずてん/\から/\となるものなり。〈芝居はしまれば朝やぐらにてこの太皷を打〉
太皷の先に棹に紙をはりつけ。役わりを書しるしてこれを荷ひありく。そのかたち圖のごとし。
四條の芝居二軒〈江戸木挽町の芝居ほどもあるべし〉看板は江戸の人形芝居のごとく尤も綺麗なり。芝居のうちに厠あり。花道は眞すぐにつけてつきあたりに切幕あり。又舞臺の左の方にも切まくありて役者こゝよりも出入す。切落のうへに簀の子の天井なし。切落は土間なり。大入なればこの所も棧敷並になる。上下の棧鋪は江戸よりも廣く。一ト側九間にすぎず。棧鋪の向ふづらくり形等ありて江戸よりは立派なり。棧鋪の柱には桐の聨をかける。是は祇園のげい子おやまよりおくりし物なり。
幕は横布なり。水引は四方に張てあり。二階さじきの上にも水引あり。花道は十五六年以前までは土にて築あげなりしよし。今は江戸のことく板にてはれり。辨當は如此ろぬりのべんとうばこへ入れこれへ椀をそへて持て來る。茶くわし番附等うるものは皆十四五歳の童なり。雨天の日は茶屋の下女草履を持來て客にわたしおき。大切りに又下駄を持て迎ひに來る。又客の貧富によらず一幕/\に下女來りて用をたす。芝居のうちに厠はあり。見物のもの外へ出るにおよばず。又鬪諍の愁もなし。棧鋪にはかくことき挑灯を棧敷のおもての方のまん中へ晝よりかけておくなり。これは朝棧敷がわたれば直にその茶屋/\よりかけるとみへたり。凡芝居の辨當に燒飯握りめしはなし。京も大坂も雜劇と妓院と打混じて居るゆゑ芝居の仕出しも多くは祇園の茶屋より仕出す。芝居茶屋といふもの別になし。初日より四五日までのうち。げい子おやま等あらそふて見物す。一日もはやく見るものを全盛とする故に當分は棧敷のうち悉げい子おやま多し。妓は必ず客をねだる。歌妓は十人廿人講をむすびて自分にて見るもあれど是も多くは客をねだるなり。すべて舞臺のしかけと役者の衣服は江戸より立派なり。その外は替ることなし。予京にありし時七月廿四日より四條北の芝居はじまる。團藏。嵐吉。〈嵐吉三郎なりこのもの當時のたてものにて上手也〉淺尾工左衛門。嵐三五郎。嵐猪三郎。〈嵐吉兄〉市川團三郎。〈前髪をとれり〉淺尾國五郎。尾上新七。〈鯉三郎子〉澤村國太郎。〈甚老年〉中村金藏。芳澤いろは。〈女形たてもの〉市川團之助。〈團藏子女がた〉等にて繪本太閤記の狂言なり。切狂言に伏見〈〔頭註〕追書、伏見にあらず高槻喧嘩をとり組たる狂言なり、この狂言を高槻騒動と云也。〉の喧嘩をとりくみし新狂言三幕にて。嵐吉三郎足輕里見伊助の役評判尤よし大入なり。予は八月七日大坂より歸りがけに見物す。京大坂とも芝居はじまる以前先づ板に役者の名を書つけてこれを木戸に出す。江戸のあやつり芝居のごとし。是は一ト芝居/\に役者入かはるゆゑなり。近年京も四條二軒の芝居一所には出來ず。うつてがへに興行す。或は京のあたり狂言を役者道具建ともに大坂へもちゆきて又興行することあり。〈大坂にても又かくのごとし〉すべて近年三都とも芝居少しくおとろへたることこれにてしるべし。役者は多く大坂に住居す。いづれも家作よろしく見ゆ。この外いなば藥師。御靈邊所々に小芝居あれど。大坂の中ノ芝居には及ばず。葭簀張多し。

〔六十五〕 京師の評 附風俗の圖説
夫皇城の豊饒なる三條橋上より頭をめぐらして四方をのぞみ見れば。緑山高く聳て尖がらず。加茂川長く流れて水きよらかなり。人物亦柔和にして。路をゆくもの爭論せず。家にあるもの人を罵らず。上國の風俗事々物々に自然に備はる。予江戸に生れて三十六年。今年はじめて。京師に遊で。暫時俗腸をあらひぬ。
京によきもの三ツ。女子。加茂川の水。寺社。あしきもの三ツ。人氣の吝嗇。料理。舟便。たしなきもの五ツ。魚類。物もらひ。よきせんじ茶。よきたばこ。實ある妓女。
京にては雨天も合羽を着ず。合羽を着れば人必遠行するとおもへり。これ雨横にふらずまつ直に降るゆゑなり。ぼてへふりの商人甲掛脚半をつけ。帯を後にてしめる。「はじかみや/\。「なんばんや/\〈とうがらしや〉などよびあるく。これもしほらし。車は牛にひかす。人引くことあれば。一人先にすゝみ繩を輪にして。肩にさし入レこれをひく後より押すもの又聲をたてず〈名古屋いせ又かくのごとし〉雨中傘をさして駕をかつぐものあり。予伏見より京に入る時雨ふれり。予が荷を持し人足傘をさせり。凡八九貫目の兩がけをかつぎながら。傘をさして三里の道をゆくこと、江戸人のめにはめづらし。京の輕子は甲から脚半をつけ。帯をしめ。三尺手拭をしめる。侠者も額をぬかず。月代の毛を長くせず。身に花繍しるもの一人もなし。〈大坂は髪結などにほりものしたるものあり〉せつた直しは笊を持ず箱なり。或は一人二ツの箱を擔ひ一人なほし/\とよびあるくものあり。大坂も又かくのごとし。男子の羽織二尺に過ぎず〈大坂は羽折のさがり袖とすりはらひなり、〉夏は白張の日傘をさす。菅笠はかぶらず。醫師は總髪。畫工は髪なきもの多し。
    髪は海老尻髷。〈ねをゆるくして、はけのあひだをすかす、ゑびの尻をまげたるがことし、きんかん元結二ツかけてねをゆふ、このかみのふう、もと大坂より流行す、京はかみゆひいづれも下手なり大阪におよばず。
又醫師の總髪は髷なし。かづら下地のことくす。女子は他行にかならず帽子をかぶる。衣服その外女子は赤きをよしとす。

〔六十六〕 太秦の草紙
太秦の草紙は。室町家の時の戯作春畫なり。原本は今出川相國寺にありといふ。そのうつし一巻。橋本經亮かたより。もとめよとておこしたりけるが。文面首尾せざりければかへすとてよめる。
    太秦のこなたにかけし紙屋(カイ)川のはしたものこそうらみなりけれ
 返し 君ならで誰かかふへき木にもあらす草にもあらぬはしたものをは  經亮

〔六十七〕 旅の盆 附大文字の火
文月の便りさへ。遠き故郷のことおもひながら。魂まつる頃。なを京にありし。十三日の夕つかた。
    旅の盆こゝろに神の來る夜かな
おなじゆうべ。東山えさそはれ侍り。道よりにけかへりてもふしつかはしける。
    故郷の名にあふ山の東さへものおもふ夜はねられされけり
 かへし草枕旅にしあれはなきたもゆるし給はんいさゆきてねよ      經亮
    つまや子に見せまほしきは殊更に都のちまた里の名ところ     解
    水鳥のかもの川へに旅ねしてかつきもあへぬころもすゝしき
    旅にしてうれしきものは故郷の妹か玉つさへたてなき友
七月十四日の夕よめる
    あすのよはことつけやらん故郷のあつまのそらを出る月影
十五日の朝ほらけによみし
    入る月に妹かむかひて旅の空にわかめさめぬるころと思はん
十六日大文字の火を見てよめる
    子をおもふやみのかたにそてらすなるひかしの山のもしのほかけは
 狂哥 かく斗火をともす山の大の字は點のうたれぬながめなりけり
おなしをりに船かたの火
    ほの/\とあかしをともす夕くれに山かくれなき船をしそおもふ
畑橘洲子〈法印醫學院畑柳安男通稱柳泰好詩文〉の話に。東山大文字の火は。
延徳元年七月十六日。将軍義輝追悼の爲はじめてこれをなす。これ冥土光明の故なり。義輝前年正月十六日に薨す。故に今年初てこのことあり。大文字の筆畫は茲船庵の筆也。そのこと今出川相國寺の傳記にくわし。世に弘法の筆。或は横川の筆と云ものみな誤なり。相國寺日件録にある所のものは抄書せるにやこの事みへず。今現に相國寺庫藏中の日件録にはこのことありといへり。甚だ珍説なり。予先年著述せし俳諧歳時記には横川和尚の筆としるしぬ。今に至りて遺恨すくなからざりしに。よく日又橘洲子より文通のつひでに。大文字火の事茲船庵は存し違いにて御座候。相國寺小補軒横川和尚へ足利将軍命ぜられしなり。小補軒當時荒廢。遺趾而己也 下略 かく申參りたれば。世間普通の説にてめづらしからず。大に興をうしなひぬ。〈大文字火は十六日夕方より同時に火を點す、誠に一時の壮観なり、はじめに妙法の火、次に左り文字次に大文字なり、十六日晝より雨ふり黄昏に雨やみぬ、しかれども今夕大文字は火をともさず、十七日の夕火を點ぜり、その餘はみな十六日にてありし。晝より薪をつみをき、夕がた一時に火を點ず、當時は農民の山まつりなり、火を點すればみなあらそふて山を下る、もし久しく山にあるものはかならず病むといふ、陰鬼のおのづから集るにや〉
凡精靈のむかひ火おくり火はみな加茂川え出て麻がらに火を點ず。その宗旨によりて日限の遲速あり。盆中家/\に挑灯燈籠を出すこと江戸の如し。東山諸寺の高燈籠は星の如くしかり。

〔六十八〕 六道の槇うり
七月九日六波羅及六道の槇うり。江戸人にはめづらし。槇は高野槇にてかくのことし。參詣の人必ず一枝づゝ買ふて持佛の花いけへさす。江戸のことく盆の草市といふものはなし。

〔六十九〕 しらいと
七月十日清水の四方六千日いとにぎはへり。此邊すべてしらいと餅を賣る。これは挽餅にて白と黄あり。形かくのことくねぢれり。音羽の瀧のしら糸のとある。謠曲よりなづけたるや。

〔七十〕 京の盆祭
京にても盆まつりといふことあれど。江戸のことくにはあらず。魂棚も机やうのものを設け甚だ麁畧なり。さゝげものもろく/\せぬ様子に見ゆ。十三日にぼたもちをこしらへる家あり。それも稀なり。盆中囉齋弱法師(らうさいよろほうし)のたぐひすべて物もらひ來らず。但六齋念佛は大勢ありくなり。〈六齋念佛は洛外の農民等太皷をならし、大人小兒打ましりあやしき唱哥をうたひ、市中をありく、すげ笠などわざとやぶれたるをきたるもあり、〉京にて女兒の盆おとりといふことあるよしきゝぬ。今年近國洪水ゆゑにや沙汰なし。街道の女兒五六歳より十一二歳まで大ぜい手を引あひ。源氏目録の長うたなどうたひてあるくこと。江戸の盆々うたのごとし。是小町おどりなり。
すべて京は五節句なども。中人以下市中にいたりては。式といふて膳部を設けることはなし。正月も市中松かざりをせず。餅はつけども。元日只一日汁雑煮をいはひ。鏡餅は江戸の廿四文備へほどのすはり只一ツとるよし。萬事の費をいとふこと儉節に過たりといふべし。

〔七十一〕 内裡の御燈籠
七月十五日禁裡の御燈籠を拜見にまいれり。この日は諸人ゆるされて禁中へまいるなり。清涼殿の廂に御燈籠をならべて前後警固の役人付そひて一二間こなたより拜さしむ。この日は紫宸殿の御門もひらきてあり。〈是南門なり、炎上後別に南門なしといふ〉諸人うちを拜して賽錢を投るものあり。日の御門〈諸人はこゝよりうちへいる〉の外に茶店あり。檜垣の茶屋と號す。又公家門の前の茶店も檜垣と稱す。こゝは江城の下馬先のごとし。茶店は甚むさくろしけれど。その名はおのづから雅なり。御燈籠はいろ/\の人形造り花などくさ/\あり。下の臺は四角なる燈籠にて白きかみをはり。上に赤と青との紙をつけ。是を四方にさげたり。火は下にともすなり。燈籠にはおの/\下ケ札して。親王家攝家の名をしるし。又女中方とあるもあり。いづれもさゝけものとみゆ。翌十六日それ/\へ下さるゝとなり。〈東西の本願寺も今日とうろうを諸人に見せしむ〉日の御門この日八ツ時ごろにひらき。七ツごろに閉る。七ツ過ては拜見をゆるされず。七月十七日橋本肥後守經亮より消息して。禁裏御所御燈籠の造り花〈きくなり〉四五本おくりこされたり。誠に一度叡覽をへたる品なれば。おそれ尊むべし。京の町にてもよく/\所縁あるものならねば拜受することあたはずとてみなうらやみけり。京の俗の説に。これを家におけば賊入らずといふ。

〔七十二〕 りうたう太 雨談に出たれば省く

〔七十三〕 せんず萬歳 これも同し

〔七十四〕 京の七夕祭
京にて七夕の星の手向には。ちひさき鬼燈挑灯をいくつともなく笹のうらへつけ。小童六日の夕かたこれを長き竿のうらに結びつけ。その手迹の師の家の前にもちゆき。暮て加茂川えもち出これを流す。三條五條の橋の邊へは流すことを禁ず。故に二條四條の河原え數十人件の挑灯をともしつれたるありさま。さながら星の飛こふごとし。短冊え哥を書て笹へつくることもあれど。いづれも挑灯を附ざるはなし。又は七月二日三日ごろより家のまへに燈籠を出し。これに獻二星などの字をかごもじにかき。上に小なる挑灯を十四五つけて出したるもあり。そのかたち。(図)
二星を祭るの挑灯。七日の夜ながさずして。六日にながすものは。京の風俗なり。すべて京は五節供の諸拂等。晝の内にかたづけ。とりに來らざるかけは持ゆきて勘定し。當日夕方は俗事のこらず片付て。夫より遊ぶなり。歳暮も當るものは廿四五日。まづしきものは廿七八日までに悉く家事をいとなみ。正月のことなど大かた設おきて。大晦日は閑暇にして。今夜祇園けづり掛の神事などへまいるよし。是土地せまく事少きゆゑに萬事手廻しよし。これにならひて。七夕の挑灯も六日にながして。七日は朝より遊ふこと。小童のわざくれことも。おのづから手まはしよきことかくのごとし。

〔七十五〕 地藏まつり
七月廿二日より廿四日にいたり。京の町々地藏祭あり。一町一組家主年寄の家に幕を張り。地藏(ぼさつ)を安置し。いろ/\の備へ物をかざり。前には燈明挑灯を出し。家の前には手すりをつけ。佛像の前に通夜して酒もりあそべり。〈活花、花扇かけその外器物をあつめて種々の品をつくり、家毎に飾りをく町もあり、〉年中町内のいひ合せもこの日にするといふ。そのありさま江戸の天王まつりの假宮の如し。伏見邊大坂にいたりてまたこれにおなじ。

〔七十六〕 京地の酒樓
噌々〈〔頭註〕噌々堂名は謙字は貞吉、池大雅堂の門人にして、書を能し、又畫をもなして、頗る風流の人なりといふ、〉が家は今猶東山にあり。今の主人も茶など嗜むよし。門柱の聨は片竹を以てつくり。我酒妙々天下妙。伊丹雙白價不渝。の數箇字をしるしたり。その他のものは板面泯滅してよめず。こゝにてこんにやくの田樂名物なり。麸もよし。噌々が時はこんにやく一種なりけるよし。今はこのめば他の料理もするなり。○祇園の梶子が茶店今は跡なし。○大雅堂は。東山雙林寺中長喜庵の向ひにあり。是は七八年前に建し所なりとぞ。料理をして鬻ぐ。瓦には大雅堂の三字を篆して。家の作りも甚だ俗なれば。案に相違して人に問ふに。むかしの大雅堂は祇園のかたはらにありしが類焼せり。今のあるじは哥妓なるよし。空しく大雅堂の名をおかすといふ。いかさま家作二階等の物數寄。その俗なること丸山の料理茶屋におとれり。
○丸山の料理茶屋のあるじは。法師にて肉食妻帯なり。いづれも何阿彌と稱す。座敷庭奇麗なり。料理もよし。浮瀬はおとろへて僅に一軒あり。大坂の浮瀬は猶繁昌せり。
○生洲は高瀬川をまへにあてたれば。夏はすゞし。柏屋松源などはやる。柏屋は先斗町にも出店あり。松源近年客多し。こゝにて鰻鱧。あらひ鯉名物といふ。魚類は若狹より來る鹽小鯛鹽あはび。近江よりもてくる鯉鮒。大坂より來る魚類。なつは多く腐敗す。鰻鱧は若狹より來るもの多し。しかれども油つよく。江戸前にはおとれり。鮎鮠は加茂川にてとるもの疲て骨こはし。鮠はよし。若狹の燒鮎よしといへども。岐阜ながら川の年魚などくふたる所の口にては中/\味なし。鯉のこくせうも白味噌なり。赤味噌はなし。白味噌といふもの鹽氣うすく甘ッたるくしてくらふへからず。田樂へもこの白味噌をつけるゆゑ江戸人の口には食ひがたし。鰻鱧は大平などへもる。小串は燒て玉子とぢにもせり。大魚の燒物は必片身なり。皿の下になる方の身はそきてとり。外の料理につかふこと大坂も又かくのごとし。京は魚類に乏しき土地なればさもあるべし。大坂にて片身の濱燒なと出すこといかにぞや。是おのづから費をはぶく人氣のしからしむるもの歟。京にて味よきもの。麸。湯波。芋。水菜。うどんのみ。その餘は江戸人の口にあはず。
○祇園豆腐は。眞崎の田樂に及ず。南禪寺豆腐は。江戸のあわ雪にもおとれり。しかれども店上廣くして。いく間にもしきり。その奇麗なることは江戸の及ぶところにあらず。すべて京の茶店は。四方一間位づゝにしきり。左右にすたれをさげたり〈名古屋の七ツ寺の酒店もこれをまなべり、〉
○祇園に孔雀茶屋あり。もろ/\の名鳥多し。〈名古やの若宮八幡前近年孔雀茶屋を出せり、〉
○大佛餅は。江戸の羽二重もちに似て餡をうちにつゝめり。味ひ甚た佳なり。ういろうちまきといふものは。黒砂糖製にて。よからず。その外安ものは。挽米のやきもちなり。上菓子はよしといへども價大に尊し。

〔七十七〕 河原のすゞみ
納涼は四條二條の河原よし。四條には義太夫或は見せもの等いろ/\あり。二條河原には大弓楊弓見せ物もあれど四條尤にぎはへり。しかれども河原は晝の炎暑に石やけて。ほてりいまださめず。流れに水みちて。人すくなければ。かへりて二條四條にまされり。〈糺にも茶屋酒店等川に床几を出し、種々の料理をひさぐ、四條二條は茶店のみなり、納涼の人辨當をもち來りて、河原にてひらく、すべて京師の人は遊山にかならず辨當をもちゆくなり。貧しきものは竹の皮に握りめしをつゝみてもちゆき、店物はくらはず、只店上のものをくらふものは、旅客と祇園の嫖客のみ、ゆゑに物みな價尊し、茶店の茶いづれもわるし、すべて一人三四錢の茶代をつくなふゆゑなり、清水智恩院邊の茶店は、素湯に香煎なり○糺のすゝみは晝なり、夜は茶店なし、是道遠き故なるべし、〉

〔七十八〕 京都の節儉
京にて客ありて振舞をするには。丸山。生洲。或は祇園二軒茶屋。南禪寺の酒店などに。一人に價何匁と定め。家内せましと稱して。その酒店え伴ひ行。是別段に客をもてなすの儀にあらず。家にて調理すれば。萬事に費あり。その上やゝもすれば器物をうち破るの愁ひあり。故にかくのごとくす。京の人の狡なること是にて知るべし。

〔七十九〕 洛外の古迹 附近江八幡
七月七日。むらさきの。上賀茂。北野へまいれり。北野にて。
    思ふことかみにうつしてねきまつる松の葉の筆梅か枝の軸
歸路千本にて。雷したゝかなりて。夕たちぬれば。つぶぬれにぬれてかへりぬ。
○下賀茂柊明神には。柊の木多し。志願成就の人は必ずこの社頭え柊をたてまつる。たとへ餘の木をもてきて植るいへども。程なく化して柊となる。予七月八日賀茂に遊びけるに請ふて。もつこくの半柊に化したるを一枝手折てかへりぬ。その外南天つゝじの柊に化したるもありしが。或は枯れ或はのこらず柊に化したる故手折らず。かゝる神木をいたづらに折らんこと。おそれなきにしもあらねど。携へかへりてその奇瑞を人に見せなば。遠きあづま人もいよ/\信をまさんことうたがひなければ。此よしを神につげ奉りてこれを手折れり。
    手折とも神やゆるさん久かたのひらきかさしてかへるあつさに
○七月九日宇治へゆきけり。今日上醍醐。下醍醐邊。稻荷山。ふじの森。深草。東福寺。黄檗など。道がら一見す。八幡山崎邊洪水にていまだ道甚あれたり。宇治橋は三段に切れて落。通圓が茶店は床上四五尺も水つきしと見ゆ。興聖寺。平等院。洪水おし入て。路難儀なり。離宮は高き故水難なし。橋姫の宮は流れて跡なし。
○和泉式部が稻荷山にて古歌をずしたりといふもみぢは山上七八町おくの谷間にあり。古木なり。地理を思ふに田中の社のかへるさとあれば。昔の木にはあらざるべし。
○七月十一日嵐山に遊び侍り。渡月橋も近日の洪水におちて。川上七八町まはりて渡し舟あり。大井川の石。及び紙屋川の石など。すこし拾ふてかへりぬ。秋暑にたえざれば。終に佳品を得ず。〈この邊の石細長くして文鎮となすべき物あり、〉
○嵯峨にてうれしきもの。廣澤の池とあらし山なり。廣澤は佳景なり。嵐山は絶景にて侍る。
○さがの落柿舎〈〔頭註〕落柿舎は、俳人去來が住し草庵なり、この人名は兼時といふ、長崎の人向井元升が二男にして、若かりしより、洛に住し芭蕉翁の風流を學ひて、俳諧に名あり、寳永元年九月没すといふ、〉は。二尊院より四五町間道藪の中にあり。土人もしらず。今はもる人もなくて。その地主も農民の得となる。座敷二疊勝手一疊甚だくづれたり。
    柿の樹や月はかりもの秋の庵
○見てうれしきもの。八瀬大原の黒木うり。鞍馬のつるめそ。大原女のさかさ脚半は。むかふすねの方にて脚半をあはせはくなり。女の牛馬を牽てゆきゝするさま。まためづらし。
○見ておどろかれぬるものは。東西の門跡なり。奇麗莊觀言語道斷。誠に美盡して世界の金銀もこゝにあつまるかとうたかはる。しかれども黄檗の雅にしてさびたるにはおとれり。
○見て尊きもの。禁中はさらにも云ず。上下加茂の社。公卿の參内。
○見てやさしきもの。かつぎ着たる女。
○見てすゞしきもの。たゞすの御洗井。かも川の流れ。
○虫きくには。眞葛か原よし。嵯峨は野々宮邊尤よけれど道遠ければわづらはし。
○河鹿はあらし山の麓大堰川にてなくよし。いまた時候はやければ聞にえゆかず。
○鳥部山は。今もあはれなり。此邊袖乞多し。御廟野もいとさみし。東西の大谷甚立派なり。
○しる谷越は。いつも山水山路に流れ出て名の如し。
○妙心寺の松は甚だよし。四方え枝もうつこと十四五間しかれどもから崎の松におよばず。
○鹿苑寺の金閣は甚だ古雅なり。義滿の像生るが如く威あり。よき石あまたあり。瀧はわろし。〈金閣拜見の者、一人より十人まては銀二匁なりこれを寺僧に投ずれば、則庭の門をひらく、東山銀閣寺もまたかくのごとし、〉
○智恩院の傘は今猶骨ばかりになりて。本堂の右の方の軒下にあり。
○大佛の鐘も大けれど。智恩院のかねまされり。かたちひらたくて。雅ならず鐘の響よきは祇園是第一なり。
○大佛の燒跡。その大さを見んこと。柱のかなものと礎と佛の臺坐のみ。耳塚を見ては昔をおどろき。太閤の廟を見ては昔をしのばれ侍る。この邊町家のうしろにある繼信忠信が塔。苔むしていとあはれなり。
○三十三間堂の觀音。諺のことく數多し。
○高臺寺の萩は。大坂より歸路京に來りし時見たり。
○近年京にてはやり神は。赤山明神と。深砂大王なり。赤山は叡山の麓きらゝ越の丑寅三四町にあり。深砂は上醍醐にあり。此神去年開帳已來のはやり神なりといふ。神體鬼形畫幅なり。是三十番神のその一なりといふ。祇園のおやまげい子奉納の挑灯あまたあり。
○七月十二日小倉山に遊べり。楓もいまだ青みがちにてありき。一木ふた木梢の少し色つきたるをやう/\手をりて笠につけたりしに。道にておとしてうしなひぬ。
すべて京都の神社古迹等は古人もこれを抄出し。又近ごろ都名所圖會といふものに圖説くはしければこゝにしるさず。只おのれがこゝろによしとおもふことのみ。少しく書付おくのみ。
○近江の三上山は出來のわるき小富士なり。(図)〈かくのことし〉比良はかたち(図)かくのことし。叡山愛宕尤もたかく見ゆ。
○七月廿一日未明に木屋町の旅宿を出て。から崎の松見にゆきけり。吉田の神社を道すがら拜し。白川越にかゝり。峠にて湖水を眺望す。〈白川の山中所々にて石をきり出す、世にいふ白川石これなり、〉
    八景やとほく見るほと秋のいろ
凡そ湖水はこれまで予がめにふる所の佳景なり。就中白川の峠よりこれをのぞみ見れば。左に若州の諸壑遙にそびへ。むかふに伊勢近江の山々波濤のごとく。足下にから崎を見おろし。左に三井大津粟津石山等見ゆ。矢走片田の邊。晴れたる日はかすかに浮御堂も見るべし。畫くとも筆に及びがたく。述るとも詞に盡すことあたはず。湖は浪しづかにして席を布るがごとく。船は帆をあげて一葉水に浮ぶがことし。山水の奇絶こゝに於てむなしく口を閉づ。
○から崎の松は北より南にさす枝凡三十間ばかり。東より西にいたり廿間餘。みきは三かゝへにあまり。木の丈け高からず。まん丸に茂生す。是亦天下の名木。實に一奇觀といふべし。
〈傳に云、から崎の松かさたりしを、明智光秀植かへたりし時、わか外にたれかうへけん一つ松こゝろしてふけ志賀のうら風、その後これも枯れしかば長嘯子またうへらる、これも又かれて、今の松は大坂加番の諸侯の某氏うへられし所なりといふ、松のめぐりの岸に石垣をしていと嚴重なり、近年松枝しだいに垂茂するを以て石垣をつき出すこと度々なりといふ、是みな公儀御入用にて修理し給ふ、松の前西に辛崎明神の社あり、小社なり、或人の云、前の説こと/\く非なり、から崎の松は已に四百年におよぶか、そのこと叡山の記録にありといふ、いかさま木たちのさま百年來のものにはあらず、傳記なを考ふべし、〉
坂本山王え詣るに便りよけれど。秋暑甚しく歩行にたへず。から崎より遙かに山王の宮居を拜し。舟にのりて三井寺へ參る。これより石山へ二リ半あり。終にゆかずして京えかへりぬ。

〔八十〕 かし家の札
京にてはかし家の札は。必ず子供にかゝせて。札を横に戸へはりつけをく。かくすればその家はやくふさがるといふ。何ゆゑなることをしらず。(図)かくのごとし。

〔八十一〕 京市中の喪 附名古屋伏見
京にては。店上に黒き暖簾をかける。江戸にて簾をかける類ながら。黒は喪服の色なれば簾にまされり。〈忌中の札なし、無地の暖簾をかくれば、人かならず喪あることをしつて、みたりにいらず、〉名古屋にて市中の葬禮に棺槨を禁ず。駕に白布をはるなり。伏見にては棺甚立派なり。棺を擔ふ者に至るまで。悉く裃を着す。四方に紙の天蓋幡等をたて。上下を着たるものこれを捧て持あるき。鉦太皷を鳴らし。法師兩三人棺の先にたちてこれを導く。身分よろしきものならずともかくのことし。是土地の風俗なるべし。
○伏見の桃山にて。名のしれぬきのこ見て行山路かな

〔八十二〕 女兒の立小便
京の家々厠の前に小便擔桶ありて。女もそれへ小便する。故に。富家の女房も小便は悉く立て居てするなり。但良賤とも紙を用ず。妓女ばかりふところかみをもちて便所えゆくなり。〈月々六齋ほとづゝこの小便桶をくみに來るなり、〉或は供二三人つれたる女。道はたの小便たごへ立ながら尻の方をむけて小便をするに耻るいろなく笑ふ人なし。

〔八十三〕 女子のぼうし 附伊勢尾張
京大坂伊勢にて。女子他へ出るには。かならず帽子をおく。尤帽子かたち少しつゝかはれり。〈圖は前に出ず〉京大坂の綿帽子は結ばず。そのさまくらけの化物のごとし。名古屋は綿をかぶり腮の所にて結ぶ。いよ/\見ぐるし。京にて三十以上の女は淺黄帽子四十以上は藤色の帽子。老女は紫或は黒。是京の風俗なり。凡女子の帽子をつけることいにしへの遺風なり。見ぐるしといへども。江戸の女子の素面にて他行するにはまされり。

〔八十四〕 粟田の陶器
京都の陶は。粟田口よろし。清水はおとれり。白川橋に松風亭といふ店あり。大坂蒹葭堂このみのこんろきうす等を製す。又一軒旭峰といふ店あり。宇治の通圓が店にてひささく茶碗を製す。この二軒器物をかしきもの多し。

〔八十五〕 京師の人物
京にて今の人物は皆川文藏と上田餘齋のみ。〈餘齋は浪花の人也京に隠居す〉しかれども文藏は徳行ならさるよし聞ゆ。秋成は世をいとふて人とまじはらず。蘆庵は古人となりぬ。畫は月溪と雅樂介のみ。蘆庵應擧尤もをしむべし。
凡京師の文人。見誠甚だ高上。情才に過たり。文學の事京師の外みな村學と稱す。しかれども是と説話するに。三ツのうち二ツは甘心しがたきこと多し。夫都會の人氣おのづからみなかくのごとしといへども。京師尤も甚し。文人多くは風狂放蕩。是またこの地の一癖のみ。〈京の人に滑稽なし、自笑其磧と、近年銅脈のみ、むべなるかなはせおも、蕎麦と俳諧は、京の地にあはずといへり、〉
○京にありし日。へだゝることありて人のもとへよみてつかはしける。
    ちきりおきしそのことの葉もあたしのやかれゆく人のふみもかよはし
○今上方にて人口に膾炙する歌。
  みのゝくに熊坂物見の松かれたりけれはよめる          秋成
風さはくみとりのはやし根をたちて戸さゝぬ御代にあをはかの宿
  おなしこゝろを                        杏花園
くまさかの物見の松もかれにけり何いたつらにとしをぬすまん
  韓信か市人のまたをくゝるかたかけるに             秋成
末つひに海となるへき谷水もしはしはくゝる松の下かけ
この歌蘆庵なりともいへり。未詳。〈蒿溪云、この歌は、伏見中書島の隠士學舟の哥にて、しはし木の葉のしたくゝなりといふ下の句を蘆庵が添削したるなり、〉
○本居宣長。三夕の中定家卿の歌を難して云。見わたせは花ももみちもなかりけりといふまでは。海邊のこころなかりければ腰折なり。もし見わたせば花ももみちもなに波津とし給はゞなきをなにはとかけて浦とつゞき。海邊のこゝろ上の句にふくませて抜群ならんといへり。これら今いひもてつたへて賞しぬ。

〔八十六〕 嘘譚の名人
齋藤文次〈元御所官人日向介四條高倉に住す、〉といふ人。虚談をもてよく人をわらはしむ。去年七月高槻の町にて。色情の遺恨をはらさんため。盆おとりとて群集せし夜。七十人ばかり人をあやめたることのあり。そのころ京にて此話まち/\なり。文次友人のもとへゆきてかたりて云く。高槻に通家(エンジャ)あり。きのふゆきて喧嘩のことをきくもの。僅に三人なりと。是實説なりといふ。人おもへらく七十人はあまりに多し。この話のみ文次實を得たりと。明日高槻より人來る。則喧嘩のことをきくに。疵つくものじつに七十人。衆絶倒す。
文次嘗て友人を訪ふて云。時初春にして世上詩歌管絃の會初あり。僕も又啌のつき初をすべし。來る十一日午前よりおの/\打つれて。拙家へ來臨し給ふべしとかたく約してかへりぬ。友人おもへらく。文次虚談の會初には何をいふやらん。聞ずんばあらしと。本日各打つれてその家にいたりて案内をこふに妻はしり出て云。文次は今朝より他行と。衆絶倒す。〈西村定雅話、文次今猶高倉にあり、〉

〔八十七〕 應擧か臥猪 此條雨談に出たれは省く
〔同〕   京の浮世繪 附澤庵畫賛
祇園にセイビといふ畫工あり。おやま藝子の似かほを畫くこれをうれり。妓及戯子(ヤクシャ)の似かほを錦繪にして多くすり出すこと近年の新製なり。しかれども江戸のにしきゑに及バず。
○予が旅宿せし泉屋麥雨が妻。歌妓の圖を畫く賛を乞ひければ
〈自注にいはく、花とはあげ代なり、四寸ばかりのせんかう一本たてゝ、花一ツとす、晝夜にて花三十、朝六ツより暮六ツまで花十二なり、夜も又おなじ、〉
○京をたちける時
    もろともにかもの川へに凉とる都の手ふりわするなよ君    經亮
 かへし噂してそしらるゝともあすよりははなひるたひに君を思はん  解
○京にて見たりし澤庵和尚遊女の賛
  佛は法をうり。祖師は佛をうり。末世の僧は祖師をうる。汝は五尺の身を賣て。一切衆生煩悩をすくふ。色界是空。空界是色。柳はみとり。花はくれなゐ
    水の面のよな/\かよふ月なれはこゝろもとめす影も殘らす
是はよく人のしる所なれと。しはらくこゝにしるしおきぬ。

〔同〕 淀の洪水 撞木町の噂
七月廿四日京を發し。午時伏見より船に乘りて大阪へ下る。泉屋麥雨同行。今夜五ツ半時頃大阪へ着岸。この間所々洪水の跡を見て駭然たり。淀八幡邊所々の堤崩れて。今専ら杭をふり土を運びて普請す。淀の城の塀は屋根際にまて水つきたりと身ゆ。淀ばしは柱二本ながれて橋桁二所まで落こみぬ。水車は流れてその跡僅に殘る。高槻の城又かくのごとしといふ。枚方より二里ばかりあなた點野仁知の間堤大に切れて水突流し。南。平野村にいたり。東。駒ガ嶺の麓に及び。西。城際にいたり。北。澱河に連り。一面湖となりぬ。點野は既に河内に屬す。この邊川高く陸卑し故に水勢退くことなく。今に至りて濁水丈餘。はじめ水至る時。樓屋梁を没し。樹木梢を洗ふ。村民丘陵に登り。或は隄防に集る。
四方悉く怒波。兒女號哭の聲天に遍し。民屋水面に泛ひ。その中尚燈し火熒々たるもあり。亦老幼五六人大木に攀その根抜て流るゝ者あり。こゝに於て官命あり。舟人をしてこれを拯(すくは)しむ。しかれども水勢暴漲。舟至りがたき者あり。官京橋の側に數十間の假屋を作り。又道頓堀の雜劇〈五ケ所あり一は當時その破損を修理してあり〉中に流氓(やとなしひやくせう)を入おかる。氓集るもの四千人。則倉を發してこれに資給し給ふ。浪華の富商も又貯財を出してこれに施行す。大小一ならず。大阪八軒家邊水床に及び。天滿天神橋その余の小橋損するもの三ツなり。二十日ばかりにして水やうやく減ず。氓故地にかへる。しかれども決口(きれくち)より水入て田地濁水中にあり。或は砂礫畊すべからす。點野より西數十町堤に竹を柱とし藁を屋根とし。僅に雨露をふせぐもの數百人。伏見大阪の客船往來するものあれば。十三四歳の童。小舟に棹さし來り。桶をふねの中へ投入て錢を乞ふ。旅客泫然として袖を濕し。則錢をその桶にいれてこれを流す。乞食の舟下流にありてこれをとる。かくのごときもの一夕數十艘あり。
○凡伏見より淀まで。河水決口に入るを以て流れず。或は砂礫一所にあつまりて洲となる。こゝを以て舟自由ならず。淀より枚方の間。木津の水おちあふて急流日頃に倍せり。點野より八軒家に至りて。水又淺く流れず。故に舟人河中に入て舟を押す。旅人もちからあるものは。共に河中に入てこれをたすく。
○枚方の河中にて酒色をうる船は。餅くらはんか酒くらはんかといふ。しかれども今は大に罵らず。この邊すべて言語尤も野鄙なり。
○伏見橦木町の妓樓。今は大におとろへて。郭はむなしく菜園となれり。吾妻屋とかいへる妓樓只一軒のこれり。是さへいにしへのさまにはあらざめれど。僅にその遺跡を見るのみ。〈橦木町の妓樓にて、赤穂義士のふみを墨本にして出すよし聞ぬるまゝに人にたづねぬるに今はかゝることを聞ずといふ、橦木町かくまでおとろへたればその妓樓も今はいづち行けん伏見にしる人なければくはしくたづねとめずしてすぎぬ〉

〔八十八〕 八文字屋自笑か噂 附其碩 〈これより大阪の話をしるす〉
八文字屋自笑は。不文の俗人にてありしが。そのころ京都に南嶺といふ人ありて。いろ/\の戯作をあらはし。自笑作として出板しけり。自笑といふ名も。この南嶺がつけてやりしなり。外にまた一人作者あり。その名をわすれたり。〈其碩か〉この作もまた自笑作としるして出せり。故に自笑作とあるもの。實に自笑が作るはあらず。自笑は戯作など出來る人にあらず。そのころは八文じ屋繁昌して業用尤もせはし。只射利の俗人なり。かゝる例をおふて俳優の評判記等。今も猶自笑作としるせり。ふ文の俗人にして高名なること此人の幸なり。〈橋本經亮のはなし〉
大阪の蘆橘は元京の人なり。かの人の話にいはく。其碩は京都大佛もちの元祖なり。この餅世に賞翫せられて家富けり。其碩才學ありて。よく戯作をあらはし。これを自笑にあたへ。自笑作として出板しけるに。その本大に世に行はれ。自笑利を射ることしば/\なり。其碩も密に後悔し。且名利をもとむるこゝろやありけん。のちには自笑其碩兩作のおもむきにして出板しけるが。その後故ありて自笑其碩確執に及びぬ。よつて其碩その子に江島屋市郎右衛門〈其碩實名〉の名をゆづり。これに書林をさせて。其碩が自作の草紙を多くほりしに。甚不幸の人にて。其碩一作として出せし本は更にうれず大に損をしたり。はじめ自笑が代作は。この其碩がしたりしことは相違なし。又南嶺といひし人は。國學にくはしき人にて。其碩などが及ぶところにあらず。この南嶺も老後に戯作をして。自笑が作とし出せしが是はわづかの間なり。又自笑も少しく才あり。戯作のできぬといふ人にはあぱず。其碩と絶交して後は。自笑がみづから書しもあれど大かたは諸方の合力にて高名なりし人なり。〈此説おもしろし、しかれども南嶺は其碩などが及ぶところにあらずといふ説は、うけがたし、今も南嶺作としるせし草紙たまさかに見ることあれど、中々其碩が右にいづるものにあらず、この説のごとくならば、其碩は一個の戯作家也、大坂にて其磧の没年等しる人なし、京の大佛餅その迹といへども、これも今は株を他人にゆづりしにや、京にてきかざりし 〔頭註〕再按するに、南嶺は多田兵部、後に桂秋齋と改名せし、ゑせ國學者の事なるべし、〉
八文字屋自笑は藤原姓にて安藤氏なり。自笑は京二條寺町本覺寺に葬れり。今の八左衛門に至りて四代なり。〈自笑は延享二年丑十一月十一日に没す、年八十餘〉先年京都にて類燒して後。今の八左衛門は大阪心齋橋筋安堂寺町に住て。かすかなるくらしにみゆ。予かの家にたづねて行て。自笑が傳記等をたづぬるに。別にいひ傳へたることもなしといふ。當時の役者評判記は八左衛門自作なり。江戸の巻は本町の大橋氏えらめり。元祖自笑が説。近ごろ江戸の蔦のから丸が高名になりし趣とよく似たり。〈元祖自笑、その子瑞笑、是よりまた自笑と稱するものにて作文なし、今の八左衛門は年五十有餘に見ゆ是又戯作などできる人物にあらず、しかれども當時の役者評判は自作にすといふ、宜なるかな近年評判記のおとろへたることを、これらをみておもふに、元祖自笑が説よく符合せり、〉

〔八十九〕 奴の小万が傳
奴の小まんは。本名をゆきといへり三好氏。今尼となりて正慶と號し。難波村に隠居す。大阪長堀木津屋といふ豪家のむすめなり。今長堀銅吹處いづみやの隣に大なる明屋敷あり。此所正慶〈小まん〉が家なりしといふ。難波人の話にゆき十七八歳の時より。みづから誓ふて嫁せず。夫をむかへず。そのころの世話に。ゆきまことに男をきらふにはあらず。是は故ありておのれがおもふ男にそはれぬ故に。男きらひなりといひしとぞ。ゆき侠氣ありて。又書をよみ手迹をよくす。つねに大阪中を往來するに顔に墨をぬりそのうへに白粉を施し。異形のかたちに扮てありきしと也。〈是その男子にまみへざるこゝろざしをしめすなり〉ゆゑにそのあざ一日は頬にあり。又一日は額にあり。こゝをもて人やつこ/\と呼べり。程經て京都堂上家の被官浪人し大阪に來りてありしを扶助し。これを男めかけにして難波新地の邊に住しめをき。折/\かよひてたのしめり。後かの男義にたがふことありければ。ゆき怒りて忽追出し是より又ふたゝび男になれず。そのころ悪黨無頼の某とふいもの法をおかすことあり。このもの大阪にかくれ居といへども。そのありかをしらず。こゝに柳里恭〈柳澤權太夫〉ひそかにゆきをかたらふて。かの悪黨をさがさしむ。ゆき程なくかの悪黨をとらへて官府に出せり。かゝることより芝居狂言に。奴の小まんとて作りしなり。秋成が書るものにゆきがみそか男を。柳里恭なりと記せしは。是非なりといへり。
 按するに。柳里恭の事年代相當せず。これは元祿年間大阪に奴の小まんといふ女侠あり。それを混じていふなるべし。正慶は享保七年にうまれ。享和二年に至て七十四歳とぞ。
八月二日予難波村にたづね行く正慶尼を訪ふ。〈正慶尼は奴の小まんの法名〉この日蘆橘同道。則同村の醫師鎌田氏に就て謁を請ふ。正慶木津に家ありしが。居をしめては人の往來わづらはしとて。その家を木津の菩提所に寄附し。難波村に來り人の家に寓居すといへども。つねにその所をさためず。鎌田氏人をはしらせしばらくにしてたづねあひぬ。みづからいふ年七十四と。顔色既に老衰すといへども。猶いにしへの餘波身ゆ。歩行動搖いまだすこやかなり。一體世をいとふこころあるをもて。人書をのぞめとも猥に書ず。予對話して扇面を乞しに。こゝろよくうけひきて。詩一篇と連歌の發句とを書り。手迹甚だ美事なり。
    金城春色映丹霞   活氣和風到萬家
    潰笑宴然樓上興   捲簾先見園中花
                       早春   三好氏婆
                               正慶草
     又
    月落ちて松かせ寒き野寺かな      丁女丁
                         正慶
詩も正慶草とあれば自作とみゆ。言語おのづから侠氣ありてみづからいふ老婆が忌きらふもの酒客と猫なりと。好事のものたま/\これを愛す。前年蒹葭堂みづからの用墨のかたにこの正慶に畫しめ。蒹葭堂みづからこれに題書す。蒹葭堂形の墨とていまなを大阪にあり正慶は畫もできるなり。しかれども畫はいよ/\人のもとめに應ぜず。大坂の人もその名をよばず只奴の小まんとのみよべり。〈按ずるに奴の小まんといふ女侠元祿の頃にあり、それに似たれば正慶が綽号とするなるべし、〉

〔九十〕 近松門左衛門が傳 附墨跡
近松門左衛門は。越前の産とも又三州の産ともいへり。今の並木正三が戯材録に云。肥前近松寺の僧の話に云。近松門左衛門は。元肥前唐津近松禪寺の小僧なり。小澗と號す。積學に依て住僧となり。義門と改む。徒弟あまたありしが。所詮一寺の主となりては。衆生化度の利益うすしと大悟し。遂に行脚に出ぬ。そのころの肉縁の舎弟。岡本一抱子といふ儒醫。京にありければこれに寄宿し。還俗して堂上家に奉公し。有職の事も大かた記憶せり。後浪人して京都浄瑠理芝居宇治加賀椽井上播磨椽岡本久彌角太夫杯の浄瑠理狂言を著述せしが。そのうち竹本義太夫にたのまれ。出世景清といふ新戯文(ぜうるり)を書り。是レ近松が義太夫本戯作はじめなり。是よりして數十部の作あり。すべて近松が作は。勸善懲悪をむねとし。衆生化度の方便を戯文中にこめたり。是近松還俗の日發願のおもむきによるかといへり。義太夫が作者となりて近松氏を名乘ること。近松寺にありしいにしへをわすれざる微意にや。文中採要愚云。この説によれば。かの三井寺門前近松寺破戒の僧のうちなりといふ説はたがへるにや。二代め義太夫が墓は千日寺にあり。則國字を以て略傳をしるせり。文中に元祖義太夫が傳も少しのせたり。〈末に出す〉元祖義太夫が墓はしる人もなし。予正三を訪ふて近松が墓所を問ふに正三もしらず。久々智の廣濟寺の過去帳に戒名あるよしをかたれり。よて正三が耳底簿をかりてこれをうつす。久々智は神崎の隣村なり。
 久々智廣濟寺過去帳
  阿耨院穆矣日一具足居士
    享保九年甲辰十一月廿二日
阿耨院の法號は近松みづからつけおきし也そは辭世の詠草中に見ゆ
○大阪金屋ばし銅吹所熊野屋彦九郎所藏近松門左衛門辭世の詠草〈紙中竪一尺許、横二尺許、手迹は御家流の如くみゆ、文字は肉筆の通りにこれをうつせり〉
  甲冑の家に生れて武林をはなれ三槐九卿に咫尺しつかへて寸爵なく市中にさまよひて商賣しらす隠に似て隠にあらす賢に似て賢ならす世のまよひもの神釋儒道和歌有職弓馬郢曲哥舞滑稽まて事しりかほに一生をいひちらし今はの際のいふへき眞の一大事半言もなき倒惑至愚の甚しき心に心の恥おもへはあふなき我世經に氣良し
 それよ辭世さてもそのゝち數々に殘す櫻のはなしにほはゝ
  近松門左衛門杉森信盛
   號平安堂巣林子
 阿耨院穆矣日一具足居士
又同人所藏美人の賛〈紙中竪二尺餘横一尺許畫は土佐畫のことくみゆ〉
   樂天か意中の美人と夢の無つ言僧正遍昭の詠中の戀は繪にかける女とりかたにはとれかこ禮か
                                作麼生
   ものいはすわらはぬ代にりん氣なく衣裳表具にものこのみせす
                      平安堂近松七十一歳 狂讃焉
これも文字は肉筆のことし。近松が肉筆は大阪中に只この二幅のみなりといへり。

〔九十一〕 西鶴が墓誌
西鶴が墓は。大坂八町目寺町誓願寺本堂西のうら手南向にあり。〈三側目中程〉七月晦日蘆橘と同道にて古墓をたづぬ。はからず西鶴が墓に謁す。寺僧もこれをしらざりし様子なり。花筒に花あり。寺の男に何ものが手向たると問ふに。無縁の墓へは寺より折/\花をたつるといふ。(図)團水は西鶴が信友なり。西鶴没して後。團水京より來り。七年その舊廬を守れり。そのこと西鶴名殘の友といふ草紙の序に見へたり。
 追考 難波鶴に云。西鶴は井原氏。庵は鑓屋町にあり。

〔九十二〕 椀久奉納の手水鉢
椀久が奉納の手水鉢は。大坂東門跡かけしよ書院の庭にあり。所縁あらざるものは見がたし。大坂の人もしらさるもの多かりしに去年杏花翁はじめて見出さる。これよりして人多くこれをしりぬ。今書院普請最中なり。庭あれて手水鉢叢の中にあり。則ちこれを擦るに石面あらいしなれば墨つかず。もんじおぼろけなり。もつともうらむべし。
椀久が家は。京橋筋〈一説に大手筋〉にありしといふ。今その迹不詳。泉屋雨柳の話に。椀久が墓は大坂八丁目寺町實相寺本堂東南の方にあり。〈墓誌〉宗達之墓〈かくのことし〉
延寶年中に没しぬ。墓の傍に松ありといふ。予このことを大坂出立の朝きゝぬ。ゆゑに實相寺にたづねゆきてうつし來ることを得ず。尤うらみとす。〈椀久はもと伊勢の人なり彼地にも椀久が墓ありと云〉
 追考曲三味線に云。〈巻之三六張目〉墨羽織の兩脇に翼ありて足は馬のことくなる人々駕より出て一列に並居し中に少し勿體めきたる人は天和年中に女護の島え渡りしと聞へし一代男世之助と見へたり右は此津に名をのこせし椀久むかしの姿そのまゝむしやくしや天窓に立島の布子丸くけのひとへ帯革巾着のあきから懷に伊勢天目吸口なしのきせるとろめんの沓足袋細緒の奈良ざうりかはらぬものは扇車の紋所今とても智恵のなささふ顔して坐せり〈下略〉これにて椀久が紋所しれたり。○元日金歳越といふ義太夫に。椀久とひやうたんかしくと玉屋庄七が事を混合して作れり又小歌につくりし椀久物狂ひは。ひやうたんかしくが事なり。

〔九十三〕 美濃屋三勝が墓 此條并に夕霧が墓の事雨談にくわしければ省きぬ

〔九十四〕 遊女夕霧が墓

〔九十五〕 紙屋治兵衛が噂
紙屋治兵衛が墓は。大坂網島大長寺にあり。近日の大水に。この大長寺决口にあたり。墓所混亂して。或はおし流し或は崩たり。故に紙屋治兵衛が墓は見にゆかずしてやみぬ。治兵衛が家は今猶連續して大坂にありといふ。〈大坂今橋に、今猶紙屋治兵衛といふ紙問屋あり、豪家なり、世に今橋のねぢがねやしきといふ、〉

〔九十六〕 淀屋辰五郎奉納の手水鉢の噂
淀屋辰五郎が奉納の手水鉢。天滿天神の華表(トリヰ)の傍にあるよし雨柳の話なり。予天滿へ參りし日はこの事をしらず。大坂出立の日に聞ぬ。故に終にうつく來らず。椀久が墓と辰五郎が奉納の手水鉢を見ざること。旅中の遺恨なり。この手水鉢のことその後大坂木津屋政五郎に消息して穿鑿せしに。絶てなしといへり。木津屋は天滿の人にて。神人としたしく交れば聞もらせしにはあるべからず。

〔九十七〕 乞丐女六が墓 附評
千日寺の前往來のかたはらには。種々の墓あり。河豚をくらひて死したる四人のものゝ墓は。下に石にて大なる河豚のかたちを彫刻し。その上に棹石を建て。四人の戒名をしるしたり。これらは一時の戲に似たれど。後人口腹を貪るのいましめにもなるべし。或は博徒の墓などに獅子を刻し。上に棹石を建てたる大造なる墓あり。その外異形の墓あること江戸の囘向院の如し。 大坂は一體石に富みたる所なるゆゑ。石碑いづれも立派なり。
○同所に乞食女六といふものゝ墓あり。寳暦年中のことなり。此六といふ乞食は。頗る見識あるものにて奇人なりしとぞ。死後大坂の侠者あはれみて墓を建てやりしなり。その墓敷石二壇にて中壇に戒名あり。上には石にて六がかたちを刻し。めんつうをもち酒樽のうへに立てり。胸より上は欠て見へす。この六臨終に偈を殘したるよし。一體心願ありて風狂人となれり。甚だ奇人なりけるよし。大坂の人かたれり。安達が原の浄瑠理本に。六といふ乞食女酒をのむことあり。この六が事を書しものゝよし。六生涯さけをこのめり。

〔九十八〕 二代目義太夫が墓 附元祖義太夫畧傳
同所法善寺に竹本義太夫が墓あり。これははじめ政太夫といふ二代目の義太夫なり。元祖義太夫が墓はその所を失す。二代目義太夫〈〔頭註〕再考 二代目義太夫は延享元年七月廿五日没す、甲子は則延享元年あり〉は寛延三年庚午九月没す。この墓三囘忌に建る所なり。
石碑〈〔頭註〕又按に、義太夫節傳記によりて思ふに二代目義太夫が亡骸は當時天王寺の西門邊ニ葬り、其後法善寺へも右の碑を建たるなるべし〉の三方に片假名にて畧傳をしるせり。長ければうつし來らずその文中に元祖義太夫が傳を少しのせたり。
○元祖義太夫は。天王寺傍村の人。名は博教。存は五郎兵衛道喜ト号ス。浄瑠理の音曲を。井上播磨椽。清水の徳屋利兵衛。京の宇治加賀に受ケ。その後一個の工夫を以て。はじめて一家の音曲をひらく。世に義太夫節と号す。〈これより末に二代目義太夫が傳あり〉
文中元祖義太夫が没年なし。をしいかな。この墓の南の方に。並木正三が墓あり。碑面に〈南無參寳〉正三之墓とあた。これも高名の墓也。


壬戌羇旅漫録 巻の下

〔九十九〕 契冲阿奢梨墓誌 〈〔頭註〕契冲字は空心、姓は下川氏、父名は元全善兵衛と稱す、攝州尼崎城主青山幸利に仕ふ、寛永庚辰契冲尼崎に生る、元祿十四年、正月寂す年六十二、年山紀聞巻尾に契冲行實あり、〉
契冲師の墓は。大坂餌さし町圓珠庵にあり。碑面に。
 圓珠庵契冲阿奢梨之墓とのみありて。年月畧傳等なし。傍らに碑ありて。是は後に水戸の安藤爲章の建し所なり。傳記大かた年山紀聞にしるす所に同し。故にうつく來らず。

〔百〕 家隆卿の碑 附貞柳碑の噂
 家隆卿の碑は。大阪新清水のかたはら。田の畔少し高き所に松あり。その下にあり。近年安井の門主建たまふ所なり。
同所新清水の下に。鯛屋貞柳〈〔頭註〕貞柳は大阪の人、油煙齋と號す、八幡山の信海の門人にて俳諧狂歌に名高し、享保十九年八月十五日没す年八十一、〉の碑あり。これも二十五囘忌のとき門人のたてしものなり。いづれも後人の作ゆゑめづらしからずよりてうつく來らず。

〔百一〕 元和戰死の古墳
七月晦日生玉明神。高津の社に詣す。夫より一心寺にいたり。本多忠朝朝臣〈〔頭註〕出雲守忠朝は、忠勝が二男なり、元和元年大坂夏陣に、從者二十餘人と天王寺口に向ひて戰死す、年三十四、〉の墓に謁す。墓の三方に從者討死のもの十三四輩の墓あり。外は板にて構ひて猥に人を入れず。この寺に元和討死の石塔あまたあり。茶臼山の御陣跡。一心寺のかたはらにあり。小松おひしげれり。

〔百二〕 紹鴎が墓 附千家の墓のの噂〈〔頭註〕紹鴎は堺の人、姓源氏、武田信光の後なり、たねまきて同じ武田の末なればあれてぞ今は野となりにける、と詠じ自ら氏を武野と改む、禪に參し、和歌を好み、茶を嗜む、一閑居士と號す、永禄元年五十三にて没す、茶道を利休に傳ふと云、〉
泉州堺。南周寺に紹鴎の墓あり。鑰(かぎ)代百錢を寺僧に與ふれば則墓に謁せしむ。詣人墓前にむかへば。土中おのづから茶をたつる聲ありといふ。是は墓の後に凹(なかくぼ)なる所ありて。それへ自然と風の吹入るゝなり。この寺に利休をはじめ千家代々の墓あり。

〔百三〕 鬼貫が傳 附評 此條蓑笠雨談に載たれば省く。

〔百四〕 大坂市中の總評
大坂は眉毛なき女も。髪は多く嶋田なり。又嶋田にあらざるものは。かた髷兩わげなり。かつ山はまれなり。〈髪の圖前に見えたり、〉
○大坂の市中茶店なし。褐する人は途中茶にこまるなり。夜行するにもいこふべき茶店なきゆゑ。格別草臥るなり。川筋は船を岸に繋ぎおき。こゝにて酒肴を鬻ぐ。京の河原。涼にはおとれり。夜店は大かた提灯を出す。京はかけ行燈なり。
○七月廿八日。大坂御城の大手先を徘徊し。天滿天神に謁す。近日の大水に天滿橋天神ばし落て。難波橋より往來す。
○同日坐摩の社に詣す。社地に見せ物芝居茶店等あり。
○天王寺は大門のみ殘りて。一圓焼土のみ殘れり。天王寺の傍新清水より。遙かに西海を眺望すれば。左にかつらき山。金剛山。二丈が嶽。むかふに聳。淡路島山はるかに見ゆるなり。
○男子の髪の風は。ゑびじり髷多し。〈圖は前に見えたり〉羽織は京よりも短し。
○新町橋の大サは。江戸のおやぢ橋ほどもあるべし。この橋の上。半分は商人にて或は房藥をうる見せ。或は煮つけ肴水菓子のたぐひをうるもの。おの/\やたい見せを出し。橋の上を眞半分にして。一ツは商人のやたいにてふさげ。往來甚だ混雜すれども。惡言をいふものもなく口論もなし。〈大坂の市人、つねに風爐に釜などかけ、或は簫などふきて、万事高上に見することこの地の一風なり、〉
○順慶町の夜店こそめさむるわざなれ。暮より四ツ時までは十町餘兩側みな商人なり。故にかひ物には夜出る人多し。
○京も大坂も夜ルは。莚の上に古き手道具すべていろ/\の古器等を出し。ちいさき行燈を横にして。前へうつむけ火を點す。夜中にかゝる見せいくらもあれど。喧嘩爭論なきゆゑに。賊の愁もなきにや。これを夜見せといふ。〈京は大和橋邊夜見世多し、〉
○新町の格子先にて古物見せをならべ。妓樓の見せ先にて櫛かんざしなどいろ/\の商人出ること。江戸人にはめづらし。
○大坂は食物の外。店うりといふことすくなし。故に商人の店など晝も障子をたてゝおく店多し。みなおろし商ひ多き故なり。
○雪踏をうるものは穢多にて。橋詰/\に祗店あり。素人の店に雪踏なし。皮のつかざる女のうら附草履と。下駄足駄をうる見せは所々にあり。〈京もこれに同じ、〉
○堂島の朝市。これ又勢ひありてめさまし。
○一體大坂はちまたせまく俗地にて。見べき所もなし。京の市中に木戸なし。大坂は一町/\に木戸ありて。木戸の柱にふだをうちつけ。是へ町名をしるしおく。橋/\にも札ありてはしの名をしるしたり。〈橋に名をしるすことはふるし、木戸に町名をしるすことは近ごろのことなりといふ、〉
○大坂にてしかるべき神社は。座摩。生玉。天滿。高津。等なり。天王と稻荷は所々にあり。稻荷も又神社しかるべくみゆるもの多し。只天王寺と住よしのみ懐古の地なり。それも天王寺は去年の火災に礎のみ殘れり。
○大坂にてよきもの三ツ。良賈(オホアキヒト) 海魚 石塔 あきしもの三ツ 飮水(カモ) 鰻(ウナギ) 料理。
うなぎは小串のみにて。京の若狹うなぎにおとれり。大庄といふ店。鰻をうることおびたゞしかりしよし。今年故ありて店をしまひぬ。その外料理店數軒あれど江戸人の口にはあはず。うかむ瀬も鹽梅名ほどは高からず。
○大坂の市中犬猫すくなし。是は穢多主なき犬猫をつれゆき。皮を剥ゆゑなり。犬子をうめば一兩月たちて穢多これをつれゆく。老犬は穢多をしりてこれをみれば大に吼かゝりて。屠兒の手にのらず。故に小犬のうちつれゆくなり。主ある犬は捕ことをゆるさず。京にも犬猫すくなけれど大坂はいよ/\すくなし只夜行に犬糞のおそれなきのみ第一の好景なり。〈大坂の穢多村は江戸淺草の新町よりも大なり、家作りいづれも立派に見ゆ、しかれども左右の棟をひとしくすることあたはず、一方は一尺くらゐづゝみぢかし、凡十三間、川にかゝり居る大船つねに八九艘、これみな穢多村交易の商船なりといふ、〉
○大坂の人氣は。京都四分江戸六分なり。儉なることは京を學び。活なることは江戸にならふ。しかれども實氣あることは。京にまされり。一體人氣のよく一致するところなり。これは土地のせまきゆゑなるべし。
○大坂は今人物なし。蒹葭堂一人のみ。是もこの春古人となりぬ。玉山が畫は書肆のみ珍重して。雅人はこれを譏れり。又祖仙は猿の寫生をよくす。その外畫工などいくらもあれど京に及ばず。盧橘〈〔頭註〕追書、盧橘が著述、度々書肆に損をさせたれば、後には絶て行れず、京にうつり住み、又大坂口縄坂にて賣卜せしが、文化辛未、ゆくへしれずなりぬといふ、〉といふ人は。筆耕と戯作をして。家内五人を養ふ。是も筆耕に作者をかねて渡世にする人。大坂に盧橘壹人なり。この人予逗留中大に深切にもてなさる。戯作のみをもて妻子を養ふこと。廣き江戸にさへなければ。大坂は書肆の富る地なることこれにてしるべし。
○大坂は賣藥店多し。首より上の妙藥。腰より下の妙藥などいふ招牌(かんばん)を出しをく見世いくらもあり。
○大坂は時を太皷にてうつなり。所によりて夜の五ツは五ツ半頃にうつなり。是は御城の太皷を聞て段々にうつ故。遠き町は次第に時がおくれるなり。新町は夜九ツよりうつ。是は大太皷なり。江戸吉原にてひけ四ツといふを。新町にては太皷まで。太皷より後などゝいふ。但し新町の九ツは世間の八ツなり。
○天王寺の地中に。雁金文七が奉納の繪馬〈八しま合戰の圖、〉あるよし聞しゆゑ人にたづぬるに。去年天王寺の燒失の時紛失して今はなしといふ。盧橘が話に。實は文七が奉納の繪馬にあらず。名前別にて餘人の奉納せしものなりといへり。

〔百五〕 難波雀の抜書 附西鶴名殘の友
難波雀〈延寶七已未陽月下旬吉備国水雲子著小本一冊〉俳諧師所付の部に
一天滿碁盤屋町 西山梅花翁   一鎗屋町 井原西鶴
 歌學者の部に 一江戸堀 下川邊長流
又屋敷名代の部に 一細川越中守殿 名代 天野屋利兵衛
甚だ珍書なり。大坂にて見たり。予も名古屋にて。諸買物三合集覽といふ小本を得たり。元祿五年の版なり。そのおもむき灘波雀に似たり。
○西鶴没後。信友團水京師より來り。七年その庵を守る。西鶴名殘の友〈合本五冊〉西鶴草稿のまゝ出板す。その事團水が序文に見ゆ。俳諧師の傳をおかしく書たるものなり。田宮氏所藏なりしを予におくらる。
○長堀銅吹所いづみや所望即席
    又たくひよにあらかねの吹革もてふくてふ富貴を家に傳へよ
〔百六〕 住吉 附難波屋の松小町茶屋
八月三日夜前より雨ふりけるが晝よりやみぬ。いざ住よしへ詣んとて。書肆大野木氏やかた船を用意して〈大坂にてやかた船と稱するもの江戸のやかたぶねにことなり、〉予をいざなひ。心齋橋より乘出して。住吉明神へ參詣ス。はるかに住吉の濱より見れば。武庫山右に遠く聳へ。淡路島むかふにかすみ。一の谷などはるかに見ゆ。岸の姫松は数千年千とせの緑をあらはし。四社の御神上久(カミサビ)て尊く。社前のそり橋。角柱の石の鳥居。同石の舞臺。誕生石。その外攝社を巡拜す。淺澤の杜若。車かへしの櫻。はなはなけれどその跡をたづぬ。御田の稻は青みていまだ花をむすばず。神宮寺奥の天神悉く拜し畢て。酒樓伊丹屋に酒食をとゝなふ。
    よの中を何かうらみん難波かたこゝ住よしの岸にあそへは
此邊に竹本住太夫が出しといふ家。伊丹屋の二三軒手前にあり。夫より難波屋の松見にゆきけり。社より西の方三町ばかりにあり。茶店の庭木なり。つくり木ながら。四方二十軒ばかりまんまるに笠の如く茂生ス。木の高サ一丈といへど。見れば五六尺あるごとくひきくみゆ。へりに至りては三尺。或は二尺餘はなれたる所あり。こゝにてあづき餅をうり。又松のかたちを紙にすりてうるなり。
○とゝやせんべいは。江戸にていふふきよせなり。〈かるやきの猶あはきものなり、〉此邊ころ/\やといふ見せにて。このせんべいと竹馬とをうる。本家のとゝやは堺にあり。
○社前の西北の角に。小町茶屋といふあり。尋常の茶店なり。この茶店にかぎり。長き柄のうへに茶碗をのせて茶を出す也。
    小町茶屋誰がうらみより秋の雨
歸路も船なりければ。天下茶屋へはゆかず。この日ふりみ降らすみして日くれぬ。あはたゞしく舟にのり。ながれに沂(サカノボ)れば船おそし。左右の岸邊に鈴むしのすだく聲/\聞ながら。こがれゆくも。又一佳興なり。前だれ島にて伽やらふの船にあひぬ。〈前内裏島なるを、俗は前だれ島といふ、伽やらふは舟まんぢうなり、土地の人はぴんしよといふ、〉
その夜九ツごろに。船心齋橋につきぬ。この日船中秋暑をわすれ。いと興ありて覺ぬ。

〔百七〕 松明の施行
大坂はつねに河水を飮水とする所なるに。近日近江の大水に河水濁りて飮むにたへず。故に大坂のもの今道村増井の清水。その外天王寺邊の井戸の水を汲みにゆくもの。夕方より引もきらず今道邊の人家の前に。夜は大挑灯を出し田の畔には松明をともし。夜中水を汲ものゝ助けとす。すべて大坂の氣がさなる所にて。まけじたましひの商買等。大水にて落たる小橋は。官府へねがふて。自身一個の入用にて。假橋をかけ。無錢と書し挑灯など出しおく。かやうのこと何によらず。人々きそひてなすことあり。

〔百八〕 浪華妓院の噂
大坂の妓樓は。新町と。島の内。曾根崎。よろしく見ゆ。島の内は見せ付なし。新町は見せ付あり。太夫天神は見せをはらず。鹿子位(カコヰ)と稱するものはみな見せをはる。〈天神にも見せ天神とて、見せをはるものあれど、是は下品なり、〉見せの格子も麁末にて。間口三四間にすぎず。妓も十人よりは多からず。見せをはる妓は。ちひさき蒲團を敷て居る。又すこし腰かけをして。居せいを高く見せるものもあり。衣類は絽のもやうが多し。帯はひちりめんのしごきなり。店先に老婆。或は了鬟(コメロ)つき居て客の袖をひく。天神のある見せは。天神見せとて別なり。
○凡揚屋の廣く奇麗なること大坂にしくものなし。揚屋は九軒に限る。その餘は茶屋と呼屋なり。みをつくし〈〔頭註〕澪標は大坂新町の細見記なり、寛政十年再版す、〉にくわしければこゝに略せり。〈新町は三方に出口ありて從來ゆきぬけなり、〉

〔百九ノ上〕 太夫天神のかし借り
太夫天神は夏も小袖なり。帯は(図)如此横に結ぶなり。つまは右の方へきりゝと廻してとるなり。新町にて太夫天神をかりて見るといふことあり。〈京も島原又おなじ〉揚屋よりかりにやれば。客ある妓も必來る。太夫には引舟女郎のつきてくるもあり。天神には禿の十二三ばかりなるが。麁服のまゝにて。おの/\一人に一人ヅゝ付そひ來る。客は席の正面に坐す。末社は左右に列す。扨赤前垂の仲居のこゝろきゝたるもの一人。盃臺に盃をのせ。坐しきの入口から一二間あなたにひかへ居る。又その向ふに一人硯と紙をもちてひかへ居る。〈是は太夫天神の名をしるすなり〉さて太夫にても天神にても。おの/\坐敷の障子の外に彳(たゝず)む時。かの禿誰さんかへと妓の名をよぶ。その時仲居かしておくれといふ。〈いづれも一調子聲たかし〉時に太夫しと/\と立出。盃臺の前にたち。〈臺につきあたるほどなり〉うちかけの中程を。右の方帯の結目の下へかいこみ居りながら。左りの裾を折て左りの方へ一尺ばかり寄てはすにすはる。この時仲居かの盃臺を太夫の前へつとおしつけ何屋の誰さんと高聲によぶなり。その時太夫しとやかに盃をとりあげ。客の方を見て。持たる盃をばつたりと臺の上えおく。仲居その盃臺を一尺ばかりつと客の方へおしやり。又高聲に誰さんと妓の名をよび。臺をもとの所へおく時。太夫つとたちてかへる。その所作至ツてしとやかなるものなり。何人にても所作みな同じ。天神もまたかくのごとし。但太夫と天神と一所にはかりず。天神をかりてみる時は天神ばかりなり。扨かりたる太夫一旦のこらず歸りて後。書留たる名前を見て。よぶべき太夫を名ざしてやれば。客あるものは來らず。客なければ程なく來るなり。
○太夫天神は夏も小袖うちかけなり。繻子或は綾などの縫あるうちかけ二ツ三ツ着て出る。帯は金襴天鵞絨おの/\差(しな)あり。天神は江戸吉原の坐敷もち位のものなり。中には縮緬の襠(ウチカケ)したるもあり。又顔色も一様にはあらず。呼びむかへて坐敷に來れば。直に客のうしろに坐す。床に入るまで了鬟(カムロ)付そひ居て。或はあふぎ或はたばこをつけ。左右の用事を悉なす。〈江戸の妓は客のむかふへすはれどこの里の妓は客のうしろへすはる、ゆゑに席上にて顔色をみることなし〉扨〇〇に入れば。件の衣服を着かへ。越後ちゞみ。或はちりめんの單物など。夏の衣服になりて臥す。凡〇〇しごきの帯をしめて寝るもの。太夫と天神のみ。〈しごきは淺黄ちりめんしんあり〉その餘伯人といへども〇〇〇なし。賤妓は。〇〇にして臥す。是衣服をいとふ故なり。いと興さめておぼふ。
〔百九ノ下〕 伯人の評
島の内の伯人は。太夫ほどにはあらねど頗美なり。衣服はすきやちゞみなどなり。繻半を着ず。帯は妓も歌妓も黒天鵞絨が多し。大かた京の祇園に似たり。
○島の内の伯人。道頓堀の茶屋などに來りて客と臥し。翌朝歸るには。必むかひの駕來てこの駕にのりて歸る。是は朝開(アサケ)には寝起のまゝ歸る姿を人に見せじとて。いづれも駕にのるといふ。或は私窠(カクシバイヂョ)ゆゑ公をはゝかるともいへり。その道僅三四町の間を。妓の駕にのりて歸ること又めづらし。京にてもかゝることはなし。
○道頓堀の茶屋にも高卑ありて。大樓へは島の内の妓もよび。小樓へは坂町の妓をよぶなり。但し小樓へは島の内の妓を呼れぬといふにはあらねど大かたはかくのごとし。是客の尊卑による故にや。

〔百十〕 俳優作衒(ゲンヲナス)
大坂にては役者もげい子おやまを抱おき。これを他の茶屋え預けおき。その花を得て活計とするもの多し。兵太郎などいふ役者は。とみのといふ妓をかゝへおき。坂町へ出しおくなり。しれるものは兵太郎が抱の富野と名ざしてやるとぞ。是芝居と妓樓と軒をならべ居る故なるべし。

〔百十一〕 難波新地
難波新地は。左右六筋の街(チマタ)悉ク妓樓なり。數百軒あるべし。夜はかけ行燈を軒に出し。甚だにぎはへり。大かた京の二條新地に似たり。いづれも賤妓なり。

〔百十二〕 難波堀江 附堀江さし紙
難波ほり江の妓樓は。坂町に似て新地にはおとれり。〈町には見せ付あり〉さし紙は。いづれも京の祇園のごとし。但圈點山がたはなし。(図)
○新町は一わり引。揚屋はろうそく一挺壹匁五分その餘は二わり引なり。大かた京におなじ。
○島の内。曾根崎。難波堀江。難波新地。坂町。せうまん。尼寺。等おの/\高下あれと。おもむきは大かたおなじ。但し新町の外。みな私窠なり。

〔百十三〕 大坂妓院の方言
妓の言語は。京も大坂も大同小異なり。大坂は言語すこし京よりさつぱりとしたる方なり。なといふことゝ。いつこうといふことを京ほどはいはず。「來たことを。おでましなされた。「すこしを。ちつくり。「客のかへる時に。妓ようおこしなされました。などいふは京と異なり。又江戸にて。「武左といふを。大坂にてはもさといふ。「廓の牽頭を判官といふ。略してぐわんとばかりもいふ。「おか場所の牽頭を辨慶といふ。「女のかたより情をよせて男をひくを。おき錢ンといふ。「きづを。ろくどゝいふ。「あないちを。あなうちといふ。「人の妻を。ごつさんといふ。この外いくらもあるべし。大かた京に似たる言語おほし。

〔百十四〕 女子の評
京も大坂も女は丸顔多し。京は痩かたちにて。大坂は少し骨ぶとなり。顔色の美惡にいたりては。京まされり。

〔百十五〕 堀江の藝子
ほりえは元げい子のよき所なりといふ。今はしからず。三絃箱のかたちその外大かた京のごとし。但大坂にてはろぬりの三絃箱もあり。堀江のげい子。三絃箱のうらに歌しるしてよといひければ。
    音にきく君が名こその瀧つせにひくや三筋のいとゝおもしろ

〔百十六〕 妓樓混雜劇
大坂にて芝居と妓樓と打混じたる所は。道頓堀と。難波堀江と。北の新地なり。この内道頓堀尤にぎはへり。

〔百十七ノ上〕 浪速のめりやす
大坂にて歌妓など。もつぱらうたふうたを。めりやすといふ。京にてもこれをうたへど大坂に及ず。節は江戸の河東に琴歌をまじへたるようなるものにて。煩手にあらず節甚だゆるやかなり。秋雨〈秋雨のをりしもわきてうれしきは、ぬれいろそふる萩の花、遠くうつねのからころも、つまこふ鹿の一こゑ、ふろもなごりの後いりに、ことさらにはのしづけさ〉大かたこのてにはにて。章も雅なり。折/\新めりやすのひろめあり。尾州三州にてはこれを大坂うたと稱す。又三十一もじの哥に。節をつけてうたふこともあり。すべて一篇ならざるものをはうたといふ。又別にさはぎうたあり。是は曲も煩手なり。しかれども江戸のさはきには似ず。

〔百十七ノ下〕 幇間 京もならべ評す
京も大坂も幇間(タイコモチ)は。一席するに堪ざるものなり。幇間は羽織を着ず。島の内の幇間に。音八といふものあり。これは狂文發句など少しくできるなり。又新町に亦助といふ幇間あり。畫をよくす。その外は無藝大食。甚だいやなるものなり。〈京の牽頭は、四條河原などに、網をはりゐて客を引くなり、かくせざればたへて客なしといふ、牽頭の出る見せは牽頭ばかりなり、祇園はべして牽頭もちおこなはれず、また男げいしやといふものなし皆悉く幇間なり。〉

〔百十八〕 首信が傳
大坂島の内に信という藝子あり。人渾名して首のぶといふ。いふこゝろは顔色絶麗。その首艶美なるを以てなり。今婦人の品定に首がよい首がわるいといふも。こののぶよりはじまれりとぞ。行年四拾餘歳。〈大坂雨柳の話に、のぶ寶暦十一巳年にうまれ、今享和二壬戌にいたりて、四十三歳なりといふ、〉しかれども猶二十五六歳に見ゆ。實に人妖なり。その朝開(あさけ)に。紅粉をほどこさゞる顔色却て美なり。父は御所櫻長兵衛といひし角力とりにて。後角力年寄になれり。のぶ安永のはじめげい子となりて京祇園にあり。全盛類なし。富豪の人これが爲に金錢を投うつこと夥し。こゝに豪富三井氏みそかにのぶに懸想して。數万金を費せり。〈世にはのぶに十万兩の金を費せしといふ、〉こゝに於て。三井の親戚及主管(ばんとう)等大に驚き。忽主人を伊勢松坂の店に蟄居せしめ。年中の雜費。僅百金を限りてこれを合力し。親戚悉ク義絶す。この時のぶは京にとゞまるべかりしを。自おもへらく。富る日は樂を共にし。その窮するに至りて。離別せんは義にあらずと。強て松坂に至り。情郎に給仕すること十三年なり。のぶよくつかへ。且まつ坂にある間。本居の弟子となり。をり/\源氏など聞。また機織ることを學び得たり。或日主管等商議して。密にのぶにいへらく。そこの實情十三年の苦勞。餘の婦人の及ぶ所にあらず。しかれども其許のこゝにあらん限りは。諸親の憤り解ケず。主人ふたゝび世をひろくすることあたはず。しかれども主人はそこの深情にひかれ。寵おとろふるの日なければ。みづから放ちやることあたはず。もし主君をおもふ實情あらば。みづから請ふて京え歸れといふ。のぶ主君の爲に敢て爭はず。遂に京に歸らんことを請ふ。諸親密によろこび。種々の手道具等をあたへ。路費を用意して京にかへらしむ。のぶ京に歸りて手道具を賣り拂ひ。七十餘金を以て櫛笄等をとゝのへ。別に衣服を製して。ふたゝび。祇園に出て歌妓をなすに。全盛むかしにまされり。そのゝち俳優嵐雛助。〈後嵐小六と改む、江戸にて死したる雛助が父なり、〉密にのぶに通じて情好尤厚し。世上評判只この一事にあり。こゝに角力とり五七輩〈御所櫻が弟子なり〉商議して。御所櫻が家に到りていへらく。ほのかにきく師の女(ムスメ)雛助が妾となれりと。師いかなれば女を俳優の妾となし。利欲の爲に身をけがさしめ給ふぞ。もし如此ならば吾儕(ワガトモガラ)師弟の約をかへすべしといふ。御所櫻これを聞て大に迷惑し。この事をのぶにかたりて離別せよといふ。のぶ又これを雛助に告ぐ。雛助云。角力と俳優と尊卑何程かおとれる。渠みづから浪人をたつるものといへども。元錢をとりて人のみものとなるにいたりては共におなじ。又俳優もむかしは禁裏にめされ。公儀の上覽をへたることあれば。由緒を論ずるにいたりて更に高下なし。吾も又身にかへてものぶをかへさじといふ。こゝに於て爭論止ず。のぶおもへらく。究竟家父角力中にあればこそ。かゝるよからぬことも出來ぬ。殊に父年老たり。隱居せしめんにはとて。京にてしかるべき家をもとめ。ゆたかに老を養はしむ。爰におゐて御所櫻角力を辭して隱居す。よつてあらそひ頓に解ぬ。その後雛助病死して。のぶ寡(ヤモメ)となれり。歌妓をなすこと元のごとし。程經て俳優文七〈吉男〉におもはれ。遂に文七が妻となる。いく程なく文七病にかゝりて危く治療しるしなし。のぶ夫の爲に立願して。みづから髪をきりて讃岐國金毘羅え參詣す。のぶいまだ歸らず。文七家に病死す。〈その頃浪花人の諺に、家に千金をつむとも首になるることなかれ、もし産を破らざれば、必命を落す〉是より後のぶ又ふたゝび嫁せず。大坂島の内に出て歌妓をなす。今に全盛なり。のぶすこし和哥をよみ。又俳諧の連哥を嗜めり。予大坂に遊びし日。一夕道頓堀の竹亭にのぶと會す。のぶ來りて席に着と。そのまゝ予が名を呼て言語舊知の如し。餘の歌妓幇間等先え來れるものも。いまだ予をしらざるものあり。のぶ問はずしてはやくその名を知るあやしむべし。席上の嫖客のぶに發句をもとむ。のぶ再三辭して後。
    わらはれて夜をひた啼やきり/\す
かくしたゝめて出しぬ。手跡も又拙からず。のぶ予に扇面を請ふこといと深切なり。則チ狂文一篇と狂歌一首をしるしてとらせぬ。諸客興に入て。席中の哥妓幇間みな即興の發句を作る。又予に文をこひ歌を請ふもの多し。四更にしてはじめてやむ。
    ひらく手のおくやゆかしき女郎花        哥妓 ふき
    聞たまへ鶴井かめゐも千々の秋         同  しけ
    一ふしに虫の音しんとふけにける        牽頭 音八
この外席上の嫖客。雨窓。國瑞。盧橘など即興の發句あり略す。

〔百十九〕 吾雀が噂 附幇間亦助が噂
大坂新町ひやうたん町の茶屋。松雄屋伊右衛門は。吾雀と號し俳諧をよくせり。手迹も亦拙からず。元トは醫家の子にて後に幇間をなしけるが。近ごろなりいでゝ茶屋となりぬ。〈茶やは揚屋につぐものなり、〉吾雀妓院中の人に似ず。至極識見あるものなり。予一夕盧橘にいざなはれて吾雀を訪ふ。主人大によろこびて長夜の飮をなす。予に歌をこひければ。
    なにはかたなに波雀に宿かしてねよけなるへし里の川竹
又同所に亦助といふ牽頭あり。元トは加賀の人なるよし。この亦助畫をよくす。吾雀よびむかへて予に謁せしめ。席畫をなさしむ。亦助席上に筆をとる筆意甚だ妙なり。予に賛をこふ。吾雀も又これに賛す。この亦助至極柔和にして。幇間のごとくならず。みづから足齋衛之と號す。但文事はなき人と見ゆ。亦助みづから新町橋のもとに侠者(ヲトコダテ)のたゞずみ居るかたを畫て。予に讃をこひければ。
    ちよとそこへ橋詰までは來てたもれ雲の出入の秋の月影
芋の畫に   煮しめてはしほみつ玉や皿の芋
太夫の畫に  おもくおくころもの裾も夜寒かな
すゝきの畫に 化ものゝはなしは消て野分哉
大坂の妓院中。この者二人と。南ののぶと。音八のみ。少しく風流ありてみゆ。京にてかゝる徒に風流あるものを見ざりし。

〔百二十〕 總嫁
總嫁は。今道村の田のくろに出るものは。紅粉をほどこさず。さながら素人のごとくみゆ。いづれも醜婦なり。しかれども病疲の者にはあらず。又西横堀の材木のかげに出るものは。いづれもよそほひて美なるものあり。かしく六三がくびれし所。かの材木のある所なりと。ある夜夜行のかへりに。友人指さしてかたれり。〈大坂の惣嫁は小屋なし大かた江戸のごとし〉

〔百廿一〕 とぎやらふ
大坂にて舟まんぢうを伽やらふといふ。土地の俗はぴんしよとよびなせり。毎夜船を前だれ島。その外元船のかゝり居るあたりにこぎありき。伽やらふとよぶなり。則チ元船へよび入れて船頭のあそびものとなすとぞ。とぎやらふとは。閨の伽をやるべしといふの義なり。元船の舟人これをよび入れて見る時。かのぴんしよ立膝をし。前をあらはにして客に客に見せしむ。是その陰中瘡毒なきをしめすの意なりといふ。予これを聞て暫時噴飯す。

〔百廿二〕 妾奉公人引札の噂
大坂にて先年。めかけ奉公人の引札をせしものありと聞し故。これを大坂の人にたづぬるに。その砌官より御しかりを請て。そのことやみぬ。わづかの間なれば。今はその引札をもちたるものもなしといへり。かやうのものを後に見れば。何となくをかしきものなり。

〔百廿三〕 京大坂商家の評
京も大坂も。妓樓の夜具は甚麁末なり。太夫天神伯人といへども。郡内縞の蒲團一ツに過ぎず。是夜具はみなその茶屋より出す故なり。〈伊勢古市邊またかくの如し〉大坂は京ほど遊歴の旅客なし。しかれども街頭悉ク妓樓にて。又悉ク繁昌す。大坂は一體金銀ゆづうよき地にて。商家の小厮(こもの)といへども。自分のはたらきを以て商ひの利を得ることあり。晝は業用にゆだんなく寸暇あるものなし。夜は五ツより後。商家の主從みな徒然なた。ゆゑに一日の辛勞を忘れんために。妓樓に至りて酒もり遊べり。商家の奉公人も。自分一個の商ひにて得たる所の金錢を費し。敢て主人の財をかすめるにあらざれば。主人も強てこれをいましめず。ゆゑに妓樓おのづから繁昌なり。京はしからず。呉服物など商ふものこと/\く女なり。これを牙婆(スアイ)といふ。この牙婆反物をせおひて旅舘え來り商ひをなす。女子は反物をとり扱ふにも。手先和らかにして反物損することなく。言語しとやかにして。價を論ずるに至りても一個の才覺なく。萬事主人の意をうけてこれをうる故。却て客の買ふべからざるものも賣ることあり。又金銀をとり扱ふにおよんで私すくなし。男子は出商ひをするもの必ず私多し。是れ十字街頭悉ク妓樓ある故なり。こゝをもて。出商ひをなすものは悉く女子なり。京と大坂の商家。こゝろを用ゆるの才覺。大小あることかくの如し。

〔百廿四〕 道頓堀の芝居
大坂は洪水後にして。芝居いまだはじまらず。道頓堀の大芝居は間口京の芝居よりもひろし。その中芝居なども。大芝居のごときものあり。あやつりと中芝居は興行せり。八月初旬にいたりて。道頓堀角の芝居に看板あがる。淺尾爲十郎。藤川八藏。大谷友右衛門。中山一徳。友吉などみえたり。八月十五日ころ初日ならんといへり。
○道頓堀の芝居にては。江戸にて川こしと稱するものみな茶やの下女なり。見物の人と見れば走りよりて。コレ一ト幕見さんせんかといふて袖をひく。
○すべて上方の芝居は。幕の間の太皷に半鐘をまぜてうつなり。口上いひは幕際より三尺ばかり外。花道へ出て役割をよみ上ル。尤ものろく聞にくし。口上をはりても幕はしばらく明ケず。この間大に拍子ぬけのしたるものなり。
○大坂はわけて棧敷の高料なる所にて。あたり芝居に至りては増しといふことあり。たとへば二貫二百文の棧敷へ。四貫文の増をかけて。都合六貫二百文とる。京にも増しあれども大坂程にはあらず。その餘は京も大坂もかはることなし。妓と雜劇と食物は。江戸尤下直なり。
○大坂の中芝居の役者に限りて。返詞をするにハイ/\といふ故に素人にてもハイ/\と返詞をするものを。小芝居出といふて笑ふなり。
○遊女の短尺。すべての書物に。紋所の印をおすこと尊子八千代はしめてこれをなせしよし。箕山が大鏡に見ゆ。

〔百廿五〕 伏見の夜泊
八月五日七ツころ大坂を出立。船にて伏見へ登る。今日浪花の友人盧橘、國瑞、薺坊、さゝ山和尚、雨窓、蜀人、大野木等、送行の盃をかたむく。今夜風雨淀にて。
    舟子等かむねかきあはす簑のうへにふりそゝく雨の綱手くるしも
六日朝五ツころに船伏見に着キぬ。今朝ます/\大風雨。六月の洪水にこりて大津へ出テず。直に京にゆきて晴をまつ。八日に京を立て水口に泊る。今日大津邊所々洪水の跡を見て駭然たり。
○八月六日の大風雨に伏見より大坂の間又々出水。近日築直せし堤をおし流し。八軒屋邊六月廿九日の水よりも水高きこと一倍すといふ。〈この日大阪の小橋三ツばかりおちたり。〉よりて五六日大坂へ舟往來なし。予は幸に五日に大坂をたちける故路次の愁なし。此節石藥師庄野の間また/\大水。はし落て五七日往來なし。予は關より伊勢街道を經て。九日の夜津に泊る。津に兵丹屋といふ旅宿あり。參宮の旅人津にとまるものはかならずこの兵丹屋に來るゆゑに甚だ繁昌せり。

〔百廿六〕 伊勢路の居風爐 是より伊勢及歸路の話をしるす
伊勢路の居風爐は大かた戸棚なり。そのかたち圖のことし。上ははふがたなくして箱の如きものあり。

〔百廿七〕 山田の客舎 附間の山
十日に山田妙見町小倉屋甚右衛門てふ旅店に宿る。この地の友人佳木〈通稱山原七左衛門〉
來りていと深切にもてなさる。久老ぬしを訪に。信州遊歴の留守にてあはず。月仙老人は訪ふべかりしが。これも歸路のいそがるゝまゝ見へずしてやみぬ。されど人にことづけて畫の事たのみつかはせり。
櫛田川にて
    さしてゆく櫛田の川邊一筋におくれはせしなかみの都路
○十一日參宮 わけ入るやたけの都の竹の春〈〔頭註〕追書、たけの都は神都の事にあらず、これはいまだ考へたらずしてあやまりしなり、〉
    めうかあらせたま/\參る神垣に富貴と申すもはゝかりのこと
○歸路のいそがるゝまゝに。二見あさまへはゆかずしてやみぬ。
    重箱のふた見のうらにゆかてかへるあつまの家そほたし也ける
○間の山にて
    うたひめの手ふりあはれにひくいともかしこき世々にあひの山本
間の山の片かげにあやしき小屋がけして。木綿のふり袖にもやうあるものなど着て。かほはげるばかりに粧ひたる乞女三絃を鳴らし錢を乞ふ。されどその三絃の曲節もいとさはがしきものにて。今江戸の芝居にてする相の山の章歌には似ず。老婆は小屋の前にて草履を作りこれを賣る。〈參宮には雪踏をゆるさず、故に旅人おほくはこれをかふてはけり〉又七八歳の兒女は。さゝらをすりて錢をもとむ。〈一尺ばかりの木にきざをつけ、これをさゝらにてする。左右の手を前え出し、首をふり腰をかゞめハア/\といふてさゝらをならす、舞ふにあらずおどるにあらず、いとふつゝかなるさまなり、〉その外の乞女は。手に笊をもちて往來の旅人につき。日々の活計をなす者多し。〈間の山の乞兒、木綿の袖なし羽織を着、簓をすりてはやすもの、殿中ぢやはりひぢじやといふてはやす、殿中は袖なし羽織のことなり、是古語なるよし、或人いへり、〉

〔百廿八〕 古市の總評
古市はいづれも大樓なり。見せは暖簾二重にかけてあり。軒はつねののうれんの如し。奥行一間の土間ありて。そのあがり口に又長暖簾をかける。見せの隅にちひさき曲突(クド)にから茶かま一ツかけてあり。是は茶店の名目なればなり。
○古市にて客あれば。家内のおやま殘らず出て次第よくならぶ。大かた十五六人廿人ばかりなり。扨盃出て酒もりはしまれば。衆妓酒の相手になり。一人毎に客に盃をさすその内二人三絃を鳴らし衆妓同音にうたふその内にて客の目にとまりし妓を定むれば。その妓つとたちて客の傍に居る。衆妓は猶席にありて興を添ふ。このうち追々客あれば妓五六人わかれてその客をもてなす。閨房に入るの時にいたりて衆妓はしめて散ず。それまではほしいまゝに貪り食ふてあそぶなり。
○古市もいまは伊勢おんど大におとろへて。大坂哥或は江戸のめりやす潮來ぶし似て非なるものをうたふ。佳木てふおとこ聲たへにおんどをうたひ聞せたり。妓はかへりてこれにおよばず。妓もいせのようだの一トおどりといふことをうたへどおんどにはあらず。音頭のみぞ長くこの地にあらまほしけれ。その餘の哥はなくもがなとぞおもはる。
○妓は京大坂より野鄙なり。髪は鬂(ビン)も髱(ツト)もみぢかく。四方丸し。〈圖は前に見えたり〉島田の髷のうしろと髱(タボ)と引付くなり。前髪は京風の如くきりて前へたてる。衣服は絞り縮緬の單物。或は絽縮の帷子。帯は蒲繻子ねづみ繻子等なり。中々祇園島の内などに及ばず。繩手坂町の妓に對すべし。
○言語は京談に似ていせ訛りなり。
「やけるといふを。〈世話にいふやきもち也〉にえるわいなんし。「來たことを「來たはんし。「下されといふを。ちやちやもつて來てくだん。そこたてくだん。などといふ。くだんせといふべきを。せの字は言中(コエノウチ)にふくみていふゆゑ。くだんといふがごとし。すべて京大坂いせの女子は茶を必ず茶々とかさねていふつねのことなり。
○古市にて地並といふは。一夕方金一顆なり。旅人は廿四匁。〈是金壹分貳朱にあたる、いせにはがきといふものあり。則紙札なり。壹匁札六十四枚を以て小判壹兩に換ふ、ゆゑに六十四匁にて壹兩なり、名古屋はこれを米札といふ、〉夜食は床に入りて後夜半頃に出だす。菓子は坐付に出すなり。〈地並は席上行燈にて燭臺なし、その外の食物等蔓事畧せり〉
○古市。松坂。四日市。桑名までの妓樓の硯ぶたいづれも圖の如し。飯鉢の臺の長きが如し。
○初會の客も後朝には了鬟蒔繪の文箱をもち來り客に呈す。文はのり入に櫻などいろずりにしたるたてふみなり。京大坂とも妓の文は尋常の半切なるに。伊勢ばかり古風のこりて竪文なるもをかし。扨客逗留すれば。了鬟始終付そひ居て必ス樓上にいざなふ。もしゆかざれば妓みづから迎ひに來る。その手段いとまめやかなり。
○伊勢の妓樓しかるべきもの。第一古市。第二松坂。第三一身田(イシンデン)。第四四日市。第五津。第六神戸。第七桑名なり。この内桑名少しおとれり。桑名の美濃屋といふ樓少しく趣あり。凡此七ヶ所の妓つねに交代す。年中その月によりてその地に盛衰あり。故に時々交代して久しく一所に居ず。〈吉田をか崎又此内にあり〉よりて此七ヶ所の妓その趣みな相似たり。

〔百廿九〕 古市芝居の噂 附一身田及堤世古の噂
古市に芝居二軒あり。春と秋興行す。近年春一度興行すといふ。一身田も至極繁昌なる地にてこゝにも芝居あり。八月初旬大坂より片岡仁左衛門などくだりて芝居ありといへり。
○古市の外山田に賤妓あり。夜はかけ行燈をともし甚だにぎはへり。
○山田にては横町を世古といふ。今も大世古堤世古などいふ名目あり。
○津より山田まで九里の間。食物悉ク麁菜なり。宮川のあなた堤世古の松坂屋三右衛門てふ酒店の料理すこしくよし。ゆゑに店上客たゆることなし。〈松坂より雲出の邊、吹矢からくりある店多し明星のところてん夏月は湯製のものなし、此心太湯製を以て珍重す〉

〔百三十〕 大平が噂
八月十二日松坂の大平を訪ふ。〈通稱本居三四右衛門〉この大平は元豆腐屋なりしが。國學にこゝろをよせ。宣長翁の弟子となりてその志厚かりしかば。宣長養子としたり。宣長の跡といふは此大平のみなりといふ。年四十ばかりに見ゆ。至極人品よき人なり。
    さやけさの一夜に千夜の秋の月ひとよに千夜の影やこもれる  大平
    女郎花さゝのゝ露にわけぬれて戀する人の袖とかこたん    大平
このうたを書ておくらる。跡の哥よろしく聞ゆ。

〔百卅一〕 坂和田喜六が墨跡 〈〔頭註〕追書、この書、後に古筆鑒定に佐川田昌俊にあらず、龍安寺偏易和尚黙々これなり、京の大倉好齋の鑒定にも、江戸の古筆隠居了意にも見せしに皆右の如くに云りと、桂窓の話なり此書、松坂人長井嘉左衛門の珍藏なるが、右の鑒定にて珍藏の疵になりしといふ、又これ同人のはなしなり、〉
松坂の長井元申は。醫師にて書をよくす。名は字は申之。一申と號す。とかく申好キの人なり。この人好古の癖ありて。多く古書畫を愛す。所藏に坂和田喜六が唐紙一枚にしるしたる三行ものあり。
手跡は大師様の如くみゆ。黙々翁は喜六が表號なり。

〔百卅二〕 道のへの槿
松坂の殿村三五平は。蕉門の杉風か後なりといふ。こゝにはせを墨迹多し。その内に。
    道のへの槿は馬にくはれけり
件のかけものあり。諸集は道端とあり。道のへは先按にて後に道端と一直せしものか。
又同人所藏のかけ物に。許六が俳諧三聖の圖にはせをの賛あり。〈三聖は宗祇宗鑑守武〉前書長文にてあり。〈以上長井元申話〉予歸路をいそぎし故に一見せずしてみやぬ。〈〔頭註〕追書、當時は予いまだ殿村主人と面識ならざりし折也〉
 追考。後に聞くに殿村氏は杉風が子孫にあらず。二三代已前の主人俳諧を好みしかば。はせを以下の墨跡を藏丸弃しけれど。今はあらずとぞ。かゝれば傳聞のあやまり知るべし。

〔百卅三〕 其角が自畫自賛の評
長井元申所藏其角が自畫自賛あり。唐紙横もの。かくのことし。發句は畫へかけて書付たり。其角の名は薯子といひしにや。按するに薯はいもなり。其角畫は下手なれば。みづから芋と卑下せしなるべし。今も下手をいもといふことあり。元祿以前の洒落なるべし。

〔百卅四〕 伊勢の好事家 附人物の評
勢州追分内日泉村に。岩清水龜六といふ人あり。こゝに謝肇淛が唐紙一枚に書し三行ものあるよし聞ぬれば。歸路に龜六を訪ふに留守にて見えず。龜六も頗好事なり。
○四日市に伊達源三郎といふ人あり。至極の好事家なり。その弟馬曹も試作俳諧など嗜めり。八月三日兩子を訪ふに馬曹は當春没し。伊達は留守にてあはず。
○津も伊豫町八幡邊に訪ふべき人あまたありしが。歸路の急がるゝまゝに訪はず。凡遊歴の客の道をいそぐは。槌を以て箱を洗ふが如く。空しく手足を費して栓なきことぞおほかる。
○三州吉田の濱名屋勘七はみづから扇亭と號す。所藏の扇面數千本あり。これを一覽するに一日にして猶盡さず。
○伊勢にて人物は。本居宣長。韓天壽。田必器。月仙。久老なり。此内久老はその名いまだ發せず。宣長は伊勢のみに限らず實に大家なり。〈宣長當春物故ス〉しかれどもみな古人となりぬ。今殘るもの月仙と久老のみ。

〔百卅五〕 筆捨山
去る八日に大津より乘船して矢走に着きぬ。しかれどもむなしく船底に潜み居て。湖水を賞するによしなし。九日の朝鈴鹿山を過て坂の下に出る。山中に狩野古法眼が筆捨山といふあり。山は高からず石山にて小松生しげれり。武州金澤にも狩野の筆捨松といふあり。又紀州にも同名の松あり。いにしへは畫家もいと拙かりしにや。うつしかたきといふ山にもあらずかし。〈後人山水に名をまふけることこれらは却つて雅ならず覺ゆ〉
    すてられて山にもなくかふてつむし

〔百卅六〕 桑名の秋雨
八月十三日津をたちて。未明に上野へ過る。
    狂句  秋の雲雁は上野か朝ほらけ
今夕桑名に泊る。ますけ〈丹羽善九右衛門〉長成〈米屋佐介〉などいふ人いと深切にもてなさる。十四日雨ふりて船出ざりければ逗留。〈遊歴中古書をたづぬるに珍書はたへてなしいせにて津の山形屋といふ書肆に元祿已前の草紙類にすこしくおかしきものありしゆゑもとめ得たりもしかの地に兩三日も逗留せば珍書も得べきをわづか一日にして出立しけるまゝくはしくさぐりもとむるに及ばず、遺恨甚し、〉伊勢路は松坂。津。山田邊廿年來の豊作といふ。但川付の田地は少しく水損あれど是は僅なり。八月六日の風雨に早稻を倒しぬ。これも愁ふべきにあらずといふ。只神戸領。桑名領。町家川邊大水。田地悉ク變して河原となれり。

〔百卅七〕 桑名の歌曲
桑名邊にて大坂のめりやすをうたふ。しかれども風調少しく異なり。又さゝものといふものあり。これは歌淨瑠璃なり。此さゝものに。あれ鼠。田にし。などいふ章歌あり。

〔百卅八〕 桑名市中の喪
桑名にて喪ある家には。軒にむしろをかける。江戸にて簾をかけるごとし。大店は莚二枚。小店は一枚なり。則暖簾をさけたる如くす。土人の云。この事天武天皇行幸の時の遺風なりと。

〔百卅九〕 一目連
桑名より三里ばかり西北に多度といふ所あり。多度大神宮たゝせたまふ。相殿に一目連〈〔頭註〕一目連は天目一箇命、又天麻比止都稱命、天津比古稱の御子なり〉といふ神おはします。宮殿に扉なし翠簾のみなり。神體は太刀一ふりと幣のみなりといふ。この神甚奇瑞をあらはし。折々遊行し給ふことありとて。里人専ら信心す。〈多度太神宮は桑名より乾の方三里許にあり、祭る神は天津比古稱命なり〉

〔百四十〕 佐屋廻り
十五日も雨ふりて宮へ舟出ず。ぜひなく小舟に棹さゝせて佐屋へ廻る。
    朝顏や今朝は見てたつ雨の宿      馬琴
    待宵もわかるゝ今朝となりにけり    工十
      腹に飪(ニバナ)のしみる秋寒   馬琴
    暮るゝまで朝かほ見せよ秋の雨     工十
      杖やすませてくれ竹の春      馬琴
桑名の俳諧師はおしなべて美濃風と稱す。しかれども支考が風調にもあらず。田舎の俳諧は頑にて佛者の他宗をまじへざる如し。この日架橋といふ人。船にて佐屋まで送れり。船中の吟。
    すゝむ杖もひかしに曠やけふの月
      やたてにうけることの葉の露
○佐屋本陣所望の短冊。
    宮舟はきれものしやとてつかの間もさやへまはれはあふなけはなし

〔百四十一〕 名古屋の十五夜
十五日は雨ふりぬ。十六日名古屋三藏樓にて。
    名月や蚘虫(ハラノムシ)なく竹まくら
    おやと子かさらに百里を隔居てひとつ月見る芋の名月

〔百四十二〕 藤川の夜行
八月十七日藤川より赤坂え過るに。日くれて並木の虫の音いとおもしろし。月の出る頃なから空はくもりて道更にくらし。
    かけくらき月も並木の松むしにいそく驛路の鈴虫の聲

〔百四十三〕 はせをの發句塚
藤川の驛西より入口南のかたに。今年新にはせをの發句塚を立たり。
    こゝも三河むらさき麥のかきつはた   はせを
東海道京までのうち。驛の街頭にはせをの發句塚あるは。こゝと興津のみなり。〈又杖つき坂にもあり〉

〔百四十四〕 からころも 〈〔頭註〕唐衣橘洲は小島源之助と稱し、醉竹庵と号す田安府の小十人なりしといふ〉
橘洲老人。七月十八日に身まかりしよし。名古屋にて聞キぬ。
    からころもしでうつ旅の夜はなみだ

〔百四十五〕 かもうり
山城より伊勢遠江邊の冬瓜はかたちほそなかく(図)かくの如し。丸きもあれどまれなり。かたち甚だ大ならず。とうなすといふもの箱根より西になし。みな東埔塞(カボチヤ)なり。味ひ尤淡薄にしてくらひがたし。京にてはかぼちやをゆで。青のりをふりかけて酒の口とりなどに出ダす。いよ/\くらふべからず。

〔百四十六〕 濱松の夜雨
八月十八日濱松に宿す。この夜雨いたくふりぬ。明日大井川越んことおぼつかなし。
    ふり流す雨にも物を思ふかな大井川原に水やまさると

〔百四十七〕 東海道の噂
東海道小田原までは。人氣家造り等悉く江戸をまなぶ。刻たばこなどうる店は江戸の如く障子にたばこの葉を畫けり。箱根を越えて風俗少しくかはれども猶江戸にちかし。遠州路までは女の髪の風も江戸をまなび。言語も一風ありといへども東國訛りなり。今切の渡しを隔て三河路に入れば大に一變す。たばこの看板など京地の如く。(図)かやうの木札をさげおく。尾州にいたりて又一變す。宮七里の海上を隔て又復一變す。大坂より西はいまだ見ず。江戸より東北猶いかならんかし。〈京より伊勢までの燧石はその色大に黒し、水戸より出る石のことく潔白なるものさらになし、京の婦女江戸の燧石を見れば大にあやしむ、〉

〔百四十八〕 薩陀山
八月廿日興津に宿す。すゝき島よりはた打邊まで一里の松原を過るに。三保が崎を右に見てゆく/\驛に入りぬ。
    このあたりもみちめつらし沖津鯛
同廿一日未明に薩陀山を越るに雨少しふりて風景を損す。やゝ明わたりて少し雲のきれたる方を見れば。富士の裾半ばあらはれ出たるもうれし。道のほとり夫婦とおぼしき順禮ぶす/\とこゞといひなから跡より來れり。
    摺鉢の不二からさつた山の神夫婦喧嘩のあしはすり小木

〔百四十九〕 大井川
去ぬる十九日の夕かた大井川を越たりしに十五日の雨に川しばらくつかへてきのふ十八日に渡しはじめけるといふ。この日も折々雨ふりければ水高く流れけはしく。川ごしの乳のあたりまでひたしぬ。過し五月廿二日にこの川を越たりし日もかくのことし。あたへは川ごしひとりに九十四文のそくなりけり。連臺てふものにのり。かつがれながらこゆるに。めくるめきていとこゝろくるしかりき。
    大井川これそ地獄のさかひめも錢はあみだの蓮臺てこす

〔百五十〕 喜瀬川の大水
去ル十五日雨いたくふりて。次の朝五ツ半頃駿豆の堺なる喜瀬川の橋ながれたり。この橋は過し六月廿九日の大水にながれ。七月十八日にはじめて假橋のわたり初せしに。八月十六日の朝水俄に漲り出てかの假橋をおし流し。水は向ふの竹藪をはらへりと茶店の老翁ものがたれり。予は廿一日にこゝに來ぬるに。川幅わづか廿間に足らぬ川を連臺にてこしぬ。かゝることはいとめづらしきことなり。三島の東新町川の橋箱根三枚橋その外みな同時に落て五七日百姓わたしあり。悉く連臺ごしなり。十五日には予桑名にありしが。桑名名古屋の間川々は何のさゝはりなくて越たり。わづか四五十里を隔て天地風雨の變化かくのごとし。

〔百五十一〕 箱根東福寺の釜
八月廿二日はこね山を越ゆ。この日三島をたちて大磯に至る。山路をかけて十二里の道なり。箱根權現へ詣んと道よりかけぬけたるに。社までは程遠くて。供の人足におくれんことの心うければ。二の鳥居より遙拜す。一の鳥居の左りの方に釜二ツあり。文永五年に造る所にして東福寺浴室の釜なり。別當法橋位隆實とあり。一ツの釜には年號なし。銘は釜のふちに鑄付たり。あはたゞしきまゝにうつし來らず。

〔百五十二〕 さいの河原の懷舊
さいの河原にて。
    はこね山やまにもさいの川太郎そのいたゝきのさらに水うみ
心のとゝまりぬるものは。さいの河原五體の地藏堂なり。このかみのふたりのむすめ。せい、つた、又三歳にて世を早ふせられし兄吉次郎、荒之助、の事など何となく思ひ出られて。しばしたゞずみおれば。おさなきものゝ來りて。權現え案内申さんそくたべといとかしましくいふにぞ。錢五六文なげあたふれば。むらがりてひろひゆくもにくからずあはれにおかしかりしか。

〔百五十三〕 平越の富士
五月西遊の日。連日雨天にて一日もこの山を見ず。八月歸路に到りて。駿州岩淵より原よし原のあひだ。終に全形の不二を見ざるをうらみとす。廿二日はこねを越るの朝一のやまのたひらよりさいの河原まで三里ばかりの間不二を左りに見て登る。この日快晴。只山腰に一帯の白雲ありて畫る如くしかり。山上に旭日映じて高興言外。暫時行客の足をとゞめたり。

〔百五十四〕 名馬の足跡 此條雨談に出たれば省く

〔百五十五〕 大磯の戯咲歌
五月十日大磯に宿せり。八月廿二日歸路にいたりて又こゝに宿す。
    大磯や虎が雨ふる頃に來て鴫たつ澤の秋にかへれり

〔百五十六〕 遊行忌の群集
八月廿三日大磯をたちて河崎に泊る。今日藤澤遊行寺開山忌にて。遠近の村夫村婦參詣おびたゞし。寺内に角力あるよしいひしが。晝より雨ふり出しければ。參詣の老若みなぬれながら家にかへる。
    遊行忌やこのゆふべよりちる柳

〔百五十七〕 歸庵の祝章
廿三日川崎に旅寝するに。家路もすでに遠からねば。さすがに秋の夜のあくるをまちわびたり。
    さみしさや江戸に隣て秋一夜
あくれば廿四日。はやく江戸に入りぬ。家居すでにちかづけば。四たりの子ともら袖にとりつき門にはしり出てよろこびあへり。凡百餘日の旅行。家内のもの一日も病ず。予もまた旅中いよ/\すこやかなり。〈〔頭註〕翁は會田氏を娶とりて一男三女ありき、長女名はさき此時九才、次女いふ七才、男鎭五郎、後に名は興繼宗伯と稱す五才、季女くわ三才、季女は即ち幹等が生母なり〉
    風もひかすむしけもなくて田舎より江戸へみいりの秋そめてたき
右五月九日江戸を立て。八月廿四日江戸に歸る。日數百有五日遊歴の國。武藏。相模。伊豆。駿河。遠江。三河。尾張。伊勢。近江。山城。河内。攝津。都合十二ヶ國也。

     享和二壬戌年八月廿四日筆同十一月朔日校合畢
                    曲亭  瀧澤解戯記

附録
一旅にてにくむべきもの
 ○貪りてあくことしらぬ舟人
 ○ひとり旅と聞てけしきばむ宿引
 ○名所を過る日の風雨
一旅にてこゝろうべき事
 ○錢をおしみてみづから川をわたす事
   〈川越の賃錢甚高料といへども、是は病者の藥禮とおなじことたるべし、病癒て藥代をつくのふは、無益のことく思ふ人欲の常なれど命を全ふせしをおもへば、金錢も何かおしむべき、川越の賃も又かくのごとし、只命とりつがへのちん錢とおもひて、をしむことなかるべし、ちかごろはこねの三枚ばしにてわづか十六文の錢を惜みて、ある武士の供足輕忽チ命をうしなひけるよし、はこね山中の人かたれりこは八月十八九日の事のよし、〉
 ○川留に退屈して密に留メ川を越ゆべからず
 ○近みちをはかりて猥に船に乘るべからず
   〈これは陸地にて往來なるべきを、欲にまよひ海上のちか道をはしり難風にあふて一命を失ふ人往々あり、旅中尤もつゝしむべきなり〉
 ○連なき旅は夜をおかして早く出立べからず
   〈朝は早く出て夕ははやくとまるべし、朝早ければ道もはかのゆくものなり、朝おそきは半日の損なり〉
 ○水をのむべからず。菌すべて珍らしき食物を食ふべからず
 ○旅中は悉く敵地とこゝろへ少しも油斷すべからず
   〈おもてに勇氣を見せて、うちは柔和たるべし、夜はすべての物をまめやかにとりしらべ枕元によせおくべし、いかにすゝむるともめしもりをかうべからず第一怠慢を生じ、第二瘡毒のおそれあり、怠慢を生ずれば、路用などうせる事ありつゝしむべし〉
 ○あしき草鞋ははやくぬきかゆべし
   〈わらじは價をおしまず、ずいぶんよきわらじをはくべし、草鞋は旅人の甲冑也、わらじあしく足いためば、明日一歩もはこびがたし〉
 ○晝の食事は一二杯つゝ食ひ。空服にならばいく度も少しづゝ食ふべし。大食をすれば道をゆきかたし。
 ○小休の時。オンアトミソハカ/\と三べんづゝ唱へてその席をたつべし。かくすれば物をわすれず
   〈しかれども宿問屋こみ合、人足は荷をかつぎてかけ出すにおくれじと、こゝろあはてたるときは、そのオンアトミソハカさへわするゝものなり予も百日の旅中にきせる二本手拭一すぢ笠一かいをうしなひぬ、道はひたすら早からんことをおもはず、たゞおこたらじとゆくべしかくすればおのづからはやし〉
 ○夏の旅は馬に乘べからず
   〈夏の馬は蠅にくるしむゆゑおのづからあらし、乘人も必睡眠をもよふすものなり、故に夏馬にのれば落る人多し〉
 ○草臥て馬に乘るは大なる損なり。馬にも駕にも朝のうち乘べし。朝は價も安し。晝より後泊りの驛程ちかければ。足のはこびもおのづからはかどりてすゝむものなり。しかれども朝のうち足をやすませおかざれば。草臥格別にしてよく日ものゝ用にたちがたし。出立より五六日めにしてはじめてあしのさたまるものぞかし。〈馬につめて、乘れば疝氣を生ず、これ乘馬と異にして鞍上不穏ゆゑなり〉

この記世にはゝるべきすぢなきにしもあらねばひめて窓外に出すことなし。さるを近會(チカゴロ)書肆何がしが強て請によりて。この内數條を拔萃して三冊とし。蓑笠雨談と名づけて刊行す。已下はなほ人の見る事を許さず。後もまたかくてあるべし。わが子ども等。板せんと乞ふものありとも許すことなかれ。
 正幹曰。こはわが翁の遊歴の道すがら。かりそめに物せられたる筆記にて。もとより鷄肋のやうなきたぐひなれど。そが中には。當時(ソノカミ)風俗の美惡(ヨシアシ)。人物の批評(サタ)など。何くれとなくかいつけたれば。世に憚ることありとて。板行をば許さざりし。翁の用心(コゝロモチ)ヰもまたたふとむべし。しかはあれど。物換り時移り。文明の御代にしあれば今はた憚るべきことにはあらざるべし。かくて文字を校訂し。世にも示さばやと思ふ折しも。書肆畏三堂のあるじ。こを梓にせんと乞ふにまかせ。やがて三巻の冊子とはなしぬ。さればとて。かくはかなき筆のすさひを。世にもの/\しうせんとにはあらず。たゞ予が姻族のものにわかち。翁を慕へる人にも見せんとの。心しらひよりせしことなれば。翁の素志にたがへりなど。世の誚を得ることあるも。そはいさゝか辭せざるところなり。

羇旅漫録終


入力:西岡勝彦 w-hill@jfast1.net