------------------------------------------------------------------ ●底本は総ルビですが、テキスト化にあたっては大部分を省略しました。 ただし、読みにくいと思われる漢字、特殊な読み方をさせる漢字について は、原則的に最初に現れたものにのみ〈 〉内にルビを付しています。 ●JIS X 0208漢字コードに含まれていない文字は〓で表示し、読み仮名を 付しています。 ------------------------------------------------------------------    五大力                              泉 鏡花 一  洲崎の廓の遠灯〈とほあかり〉は、大空に幽に消えたが、兩側の町家の屋根は、横 縦を通る川筋の松の梢を、ほんのりと宿しつゝ、甍の霜に色冷たく、星が針のやうに 晃然〈きらり〉とする……  月夜には浮かれ烏よ、此の凄じい星の光には、塒〈ねぐら〉を射られてばた/\と 溢れても落ちよう……鎖した門の堅いのが、引裂けた昆布かと見えて、寒さに蓬々 〈おどろ/\〉しい、樹立の下なる八幡宮。  其の奧には、柳の折れた渡船〈わたし〉がある筈、千鳥の路も絶え/゛\か、…… 橋に蹴躓いたやうに鳴く聲も、其のまゝ氷る辻占である。 「あゝ、寒い。」  と車の上で白い呼吸〈いき〉。樹から落ちた其の烏のやうに、黒い外套の袖を窘 〈すく〉めて乘つて、現々〈うと/\〉と睡つて居たのが、いま宮の前を越した處で、 車が不意に留つたので、はつと冷い觀世紙捻〈くわんぜより〉で、鼻を突かれた體に 目を覺ました、我家の門〈かど〉だと思つたらう。 「早いなあ、最う來たかい。」  車夫〈わかいしゆ〉は、燻りも霜に冴えた茶飯屋の行燈〈あんどう〉の白い影に、 ひしやげた帽子の茶な奴を見せて、ト艪を突いた形に、威勢よく楫を張つたまゝ振向 いて、 「へい……八幡を通つたばかりなんですが、一寸、蝋燭を買ひますんで、」  肱で一ツ極め直して、 「おい、一挺だ、出してくんねえ。」 「こりや、お寒いに、御苦勞樣でございます。」  と古風な世辭を云ふ、大縞の寢々子を着た親仁。拔け湯の如く店を這ふ、蒸氣〈い きれ〉の中から、指を錢のやうな恰好で、一挺痩せた所を握つて渡した。 「旦那、小〈こまつか〉いのの、お持合せは?」  燃えさしの香を芬とさせて、……廓から點けて出た、其ばかりは景氣らしいのに、 新しく繼ぎたして、きりゝと看板の名どころを見せて持直したは可かつたが、見得に 衣嚢〈どんぶり〉を探らうともしないで、爾〈しか〉く――小いのは――と出た所は、 はじめから若いもの錢〈もん〉なし也。  客の方も、一言のもとに極めて潔いものであつた。 「無い……」  と云つて、腰をがツくりと落した樣子で、 「ぢや、お釣錢〈つり〉をと云ふだらう。……勿論、それも無い。荒物屋で貸さない か。」 「へい、否〈いゝえ〉。」と車夫、あやふや。 「外套を着て居るぜ、外套を、」  と疊みかけて、 「質〈かた〉に置いて行くが何うだい、荒物屋、貸さないか。」と其の癖、腕をぐい と上げて袖を合はせる。 「醉つて在〈い〉らつしやら、旦那、茶めし屋でさ、」 「あゝ、茶めし屋か。」  と乘出して、熟〈じつ〉と視ながら、 「丁ど可い、一杯引掛けてと云ふ所だけれど、懷中にないのを饒舌〈しやべ〉ツ了 〈ちま〉ツた、ちよつ、」と舌打で、破軍を仰ぐ。 「決してお貸し申さない事はございません、はゝゝ、」  と洞穴〈ほらあな〉の白い蝙蝠の、ふわ/\な笑聲。 「尤もね、蝋燭の質に外套ぢや、ダボ鯊で鯨を釣るんだ、何しろ脱がうよ。」        二 「串戲〈じようだん〉ぢやありません。」  酒がさせるか、發奮〈はずみ〉に掛つて、實際脱ぎさうなを、車夫が見ると、帽子 の下を横拳で、引擦つて、 「出掛けに――お氣を着け申しなよ――と、へい、(喜の字)の婆さんに頼まれて來 ましたんで、……洒落にも鎧を剥がせるなんて、そんなお前さん、べらぼうな。」  と唾をしたのを踵で蹈み、 「おゝ、小父〈とつ〉さん、蝋燭代も持たねえツて、不用心過ぎたがね、實はね、お い、些とばかり何だ、其の、手慰みを遣つて、からツけつで居た所を、大急ぎで仕事 に出たもんだから、まだあつたと思ふ奴さへ、じり/\流込んで、此の始末だ。…… 堪忍しねえ。私〈あつし〉の顏で、と云つたつて、賣れもしねえ顏〈つら〉をぎツく りと遣るやうで小恥かしいがね……曲りなりにも立てて貸して貰はう。私あね、松て ツて、二丁目の濱定が部屋のもんだ、間違えはねえ。」  と赫と熱さうな氣焔を吐いたが、銀張の出入りでなし、おてらし一挺の挨拶なれば、 其處等の枯蘆の根に消えた蟲が鳴くやうで尚ほ寂しい。  茶飯屋の隱居――と云ふ風――が又ぼやけた笑ひで、 「はゝはゝゝ、幾干〈いくら〉がものだね。若い衆さん、顔もよく知つて居ますよ。 心配をしなすつちや此方が恨みだ。酷い寒〈かん〉じだね、一杯引掛けておいでなさ いまし。」  と早や硝子杯〈コツプ〉一個〈ひとつ〉。  火を通して、茶色な所を、ほつと突出す。  松はものをも言はず、引手繰つて、 「ほう、成田の御利益だ、活返らあ、ゴク、」と煽る。 「此を見て堪りますか、醉覺の空腹〈ぺこ〉です。うしろ向きの遊女〈おいらん〉を 買つた歸途で、寒威骨髓に徹し助からん。……何うせ、掛賣〈かけ〉なら、私が被る。 五臟六腑へお互に熱いものを浸渡らせて行かうぢやないか。若い衆、おりよう。」  と云ふ。……言腰〈ことばごし〉にも力が入つて、楫はばたりと着く。  ドンと出たが、蹌踉〈よろ/\〉もの。 「危い、旦那、」 「大丈夫……貸すかい。」と暖簾を拂ふ、湯氣に白けた優しい顏。袖に霜は置きなが ら、白無垢ではないらしい。が、洲崎街道の茶飯屋には山の手過ぎた二十七八。  突支棒〈つツかひぼう〉に、松が傍に押並んで、 「達引いて上げてくんねえ、御都合がおあんなさるんだ。喜の字のお客なんだぜ。」  これでもと言はないばかりに、……客人權現照されて、思はず暖簾の肩を後へ引く。 「古〈ひさし〉い引手茶屋でございますよ、新内の上手い婆〈かみ〉さんで、」  と酒を注ぎながら、じろりと視て、 「御仁體でいらつしやる。」 「此は手酷い。」  茶飯屋は口早に、 「否、如何な大盡長者でも廓の金には詰るがならひ、と淨瑠璃にもございます、…… もし、其處が苦界さね。」  松は仰山な思入れで、 「眞個〈まつたく〉だなあ……」 「いや、恐入ります。」  と目を外らして、若い客は行燈のちらしを讀む…… 「茶飯、燗酒、小皿盛か……おでんもあるね、……やあ、梅川……」 「おいらんは、へ、へ、御同苗でございますかね。」 「旦那、こりや、御馳走樣です。」と、松は一串引掴む。 「御馳走はするが……あゝ、いゝ燗だ、」  とほつと呼吸して、 「名は違ふよ、何と云ふか。尤も顏を見れば、似て居るかもしれないが、」  と附かぬ事を、沈んで云つた。        三  が、投げた調子で、 「處が全然〈まるつきり〉うしろ向きだから、眉〈まみえ〉の寸法も分らない、實に 變だつた。」と半ば透いた燗酒の、底が寂しさうに差俯向く。  松はおでんを横啣へで、 「可加減な事を云つて在らつしやる。背後〈うしろ〉を向いたツ切なんて、そんな事 が、お前さん。」 「其もね、」  尚ほ、自分で確めたさうに傾きながら、 「例のおひけと云ふのに成つて、其のあとが、うしろ向きなら、勤番並と來て不思議 はない。……それから通例の三日月ね……宵にちらり、」  と目もちらり。 「其だつて、顏は見せます。三日月が二日月だつて、月の裏ばかり見たものは天文臺 にも恐らくなからう。それが、しまひまで向うむきさ。襟の掛つた、ずんどの友染に、 たぼと鬢が附着いて、鼈甲羅宇を突支棒にしたと云ふ、變なものを見て來たんだから 察して貰ひたいな。  ……尤も對手を變だと云ふ、此方も少し何うかして居さうで無理もないが、」  硝子杯を擧げた、袖の下を兩方透して、 「私も大分變だらう。」  茶飯屋は、客の胸を差覗いて、 「何か遺失品〈おとしもの〉でもなさりましたか。」と實體な顏して訊く。  客の形は、實際遺失たか、掏られたかと思ふ、げつそり胸の痩せたものであつた。 「眞個〈ほんとう〉だ。」  と松も氣の着いた顏色〈かほつき〉で、 「現々なすつててお前さん、途中で懷中〈かみいれ〉でもお遺失しなさりやしません かい。……よく、お檢べなさいまし、底へ辷つちや居ないんですか。召ものの裏が柔 かだと、なあ、爺〈とつ〉さん。」 「然うだとも。」と、もつさり又覗く。 「體裁の可い事を……蝋燭〈おてらし〉代も持たない處で、気休めの世辭は難有いが ね、紙入を遺失したぐらゐだつたり、袂を探して、有るか無いか見られるやうなもの だつたら、こんな變な氣に成りやしない。……酷い寒さだ。」  とぶるツとして、 「大變なものを遺失して居るんだ。」と眦〈めじり〉が上つて、眉が顰むと、一度ほ つと出た色が又醒めて、切なさうに口を結ぶ。 「お遺失しなすつた。」 「旦那、何でございます。」  また、顏の色が惡かつたのである。  睡氣を取つて棄てたさうに、右の目を引擦つて、 「慌てるな/\、ツて……云ふ方が、此の通り狼狽へて居るんだけれども……遺失し たのは今夜ぢやない。……去年霜月だ……あゝ、」と悄然〈しよんぼり〉する。 「然うですかい。」  松は踞んで、土の上に煙管を拂いた。煙も立たずカチリと鳴つた。路はカラ/\と 凍てたらしい。すぐに突込み、しやつきりと立つて、 「ぢや、まあ……何ですが、私〈わつし〉あ喜の字から頼まれて來てますから、知ら ねえ中にも、途中三界、御難儀があつちや成らねえ、分りませんまでも曳いて來た路 を搜しに戻らうかと思ひましたぜ。」 「餘程〈よつぽど〉お大切〈だいじ〉なものでございますか。去年にしろ、まあ、何 しろ……ねえ……何をおなくなしなさいました。伺つても、お互に、なあ、車夫さん、 分りもしまいけれどもよ。」        四 「……品〈もの〉と云ふのは、定紋附黒塗の箱へ、眞綿を敷いて、古金襴の嚢に包ん だ……大切な道具なんだよ。  ――(御承知もありませうが、不思議な言傳へがあります、これは寶もの。途中お 氣を着け下さいまし……分けて此の邊は川筋です。河岸を御通行の事、間違ひがあつ ては取返しが着きません、何分何うぞ。)――と恐しく念を入れて、私に手渡し爲た のが、此の何、冬木に住まつてる繪師〈えかき〉でね、……懇意づく――其寶の持主 の、……私には母方の叔父に當る、駿河臺の苦蟲から借りて居たのを――便宜で、託 けて返さうと云ふんだ。  頼むものに事を缺いた……  死んだか、活きたか、音信の知れない、昔のひとが可懷しさに、ばかの目刺の名物 を仕入れに來た半間な面で、山の手から電車に積まれて。えつちら、おつちら、…… 枯蘆の空へ、白い太陽〈ひ〉の出た深川を、(それ、千鳥だよ、)と功勞經た雀に小 馬鹿にして飛ばれながら、ぶら/\歩行〈ある〉いて居た私に、又、そんな大事なも のを持たせて返すつて云ふがあるもんか。」  ともの云ひも突放して、……下駄の片足、露店御法度の大道火鉢、化けさうなのに 蹈掛けた。……客は此の時、松も一所に、帆木綿の薄汚れた茶飯屋の圍の中、狹い縁 臺に御無心で居たのである。  ト侠な松と、もじや/\の頭が、前後に立つて、殊勝にも附合ふ風情は、御近所な れば恐多いが、かの二體の御前立が、やれ/\不便や、と半ばは愍〈あはれ〉み、困 つた男だ、と半ばは持餘して體を引立てようにもしつこし*しつこし傍点 のない、 村芝居の文覺のくだを卷くのを聞役の光景〈ありさま〉である。 「たゞし今だから、然うは云ふものの、誰も途中で出合ひ頭に、――これは何方へ、 ――と聲を掛けられて、影法師を探すんです、――と云ふものもないからね、―― (柄にはありませんが、深川の方へ越さうかと思つて、安値い、家〈うち〉を探しに、) と云つたもんです。  繪師とは、川端で出逢つたんでね。――(御覽なさい、湯の歸途、直き其處が住居 〈すまひ〉です。お立寄り、是非。)と云つて、私を家へ連込んだ。其家〈そこ〉へ 行つたのは、はじめてさ。先づ何はなくつても、で淡泊〈あつさ〉りと一杯出した。  御意は可〈よし〉で飮んだもんです。  やがて、其の寶の箱を恭しく持出して、(其の代りお探しに成ります家は、皆で尋 ねて、早速お知せ申しませう。何しろ御緩り、これよ、お熱いのを、)と細君を呼ん だがね。  既に託けものまで持出した後で、お熱いのでもござんすまい、大きに御馳走樣、― ―斷つて歸ると成ると、お俥を、と云ふ……  叔父に借りた大事な品を、其の甥に持たせて返す……此のお俥は、決して口前〈く ちさき〉ばかりではなかつたらうけれども、今度は此方で寸法が狂ふんです。  故々〈わざ/\〉出て來た深川で、これからと云ふ處を車で突返されて詰りますか。 ……惡く又乘つて出て、黒江町ぐらゐの所で、車だけ返さうものなら、立所に洲崎へ ぐれた*ぐれた傍点 と見當が着いて、一門の沙汰に成る。  頼むやうにして斷つた。車は血の道に障る、と云つてね。」 「措きやがれ。」  と、人知れず自棄に呟いたのは、其處に、茶飯屋の前に乘棄てられた、矢輻〈やぼ ね〉が硝子〈ビイドロ〉のやうに透通るまで、冷渡つた俥である。乾びた木の葉でも 飛んで乘れ、發奮に勝手に駈出しさうな、霜に堪へざる状〈さま〉があつた。        五  腰で動いて、手を伸ばした、客は又酒で、 「……すると、繪師が、(そんなにお厭なら、お車は差上げますまい。途中電車まで 提灯をお持ちなさいまし)――は何うだ。人を……如何に地理に暗ければと云つて、 提灯とは推參だね、……然も何時だと思ひます。」  と、ふと心着いたらしく、 「いや、時間と言へば、」  窮屈らしく、坊やの巾着と云つた手附で、外套の下へ突込んだが、 「ふゝ……今夜の軍用金に成つた癖に、」  と情なさうに笑つて、 「爺さん、まだ……構はないかい。」  松が引取つて、 「御緩りなさいまし。」 「此からの娑婆でございます、……あの、通り、一時〈ひときり〉途絶えましたのが、 それ冴返つて參りました。」  と不動堂の方へ目を遣る、と廣袖(ねんねこ)の袖で横撫一つ。  爰〈こゝ〉に。聞ゆる鈴の音……橋も川も飛ぶかと思ふ、虚空に響いて、  ――懺悔々々――  と笛を吹くやう。  ――六根清淨――  と太鼓を打込む……霜を刻むや、氣競へる聲々。懺悔の鏨を水に刺して、清淨の掛 矢を擧げつつ、心の影を明星の輝く光に、白く浮彫にして、響く。  ――懺悔々々――  ――六根清淨――  ――懺悔々々――  と熟と聞いて、 「懺悔どころか、迷足りない、……六根大不淨と來て居るからね、深川の横町を行く ものが、尾花屋とでも書いてありやしまいし、第一……繪師の提灯を持つは癪だらう。 褌と提灯はぶら下げた事はありませんさ、其處を出たんだ。  丁ど五時頃、尤も提灯には早過ぎたが、冬至前は四時に最う戸外〈おもて〉だつて 薄暗い。……處へ、其家を出ると間もなく、颯と一降掛りました。  おゝ、雨だ、深川小春で、ほか/\するにも、些と、暖か過ぎた日だつけが、お誂 への時雨に成つた。が、其の二三日降續いて、晝頃お天氣に成つたばかり、蔭溶けは して居るし……歩行くと日中汗が出たくらゐだもの、傘は持たないが外套なしの足駄 穿で居たんだから、氣の強さと云つたらない。……  がら/\と……鳴つて、背後で格子戸が開いたと思ふと、惡くお屋敷風に、襟なし で白粉を塗つた、右の繪師が許の飯炊が、傘を持つて駈出した。私に貸さうと云ふ腹 さ。  來やがつた、誰が借りて遣るもんか、とくだらない我慢だね。何故か性が合はない で、不斷蟲の好かない繪師でね、……其の癖、實を云ふと右の繪師〈せんせい〉も、 のがれない中の縁續きなんだがね。  一番すつぽかしを食はして遣らう。人生到る所青山で、深川何處にでも出格子あり、 時雨には廂を借るに限るんだ、と行合はせた角が米屋の、其の暖簾を潛るやうにして、 ふいと路地裏へ入つたもんです。  馬鹿だね。  蛇目を一本、腕相撲と云ふ袖で包〈かゝ〉へて、番傘を向う下りに、件のお三どん は、かた/\と通つて行く、……つい目の前だ、けれども、最う暗いもの。  やがて、其のなりで、じよな/\と引返して、一度見返りながら、無駄に歸つた。  状あ見やがれさ。  けれどもね、路地に潛んだはお誂への出格子だのに、仇な横櫛でも懷手で覗く事か、 經師屋の土用干見るやうに、づらりと乾したのが、嬰兒〈あかんぼ〉のおしめだらう、 何うです。」  と落すやうに硝子杯を置いて、 「深川〈とち〉も人氣が惡く成りやしないかい。」        六 「いや、串戲ぢやない、」  と手巾〈ハンケチ〉で唇をぐい、と拭いて、 「不了簡も行留り……枯れても柳で、偶〈ふ〉としたら、……故とながらも、恁うし た雨宿りが縁と成つて、此の路地で出會〈でつくは〉すのが、昔馴染……」  ふと、星の光を、客は紙帳めいた中から透かして覗いた。 「私の名は、小彌太と云ふんだ。其の婦はね、此の行燈のと同一〈おんなじ〉だよ… …爺さん、――此の梅川には、何か所説〈いはれ〉は無いのかい。」  親仁も、ちび/\と嘗めて居て、 「何〈なあに〉、お前さん。所説ツたつて、くだらない事なんで、いづれ其處等〈そ こいら〉の小屋掛芝居でございませうが、何とか云ふ俳優〈やくしや〉のしました、 道行の其のな、忠兵衞の親仁にそつくりだつて、婦の子が騷ぎますものでね、……へ ゝ、騷いだ處で、爺が爺に肖たのぢや一向に榮えません。  其でも思ひつき、と申した處で、忠左衞門では茶飯屋には成りませんから、一つ姉 樣の方にいたしましたよ。はい、では、お馴染の名は、梅川で、」 「いゝ遊女に聞えますね、聞いたばかりで、ちら/\しますぜ。」  と松が云つた。 「行燈だらう、」 「へい、」 「梅の花が散るやうぢやないか。」 「氷つた水道の上へですか。」 「ちら/\、ちら/\と、其の花片〈はなびら〉へ、寒參詣〈かんまゐり〉の、あの 鈴の音が打撞〈ぶつか〉るやうだ。  寒いなあ。」  と肩を窘めて、 「たてつけよう/\。一杯赫と煽つた時は、其のちら/\が、ほつと成つて、薄紅梅 に見えるけれども、凄い星が紫がかつて、颯と褪せて蒼く成つて、忽ち霜に覺めて了 ふ。」  ――懺悔々々――  ――六根清淨―― 「あゝ、滿々〈なみ/\〉と最一つおくれ。……しかし、同じ場所へ行つた歸りに、 今ふつと車が留つたらう、はつと思つて目が覺めると、此の茶飯屋に、其の人の名が あるのは不思議ぢやないか。しかも蝋燭を買はうと云ふんだ。  いつか其の婦と別れ際に、あゝ、あれは、おでん屋だつた、矢張り夜あかしの大道 店へ、ばつたりと車が留まつて、車夫が蝋燭を買つたつけ。 (細いのがありますわ。)  と後に居た其の婦が、紙入に手を掛けた。」 「旦那、旦那、串戲ぢやねえ。」  と松は大聲で言つた。  小彌太は吃驚〈びつくり〉して、 「惚話〈のろけ〉ぢやない。」 「否、薄氣味が惡いんでさあね。」 「もし、それは何處でございます、矢張りこの土地で?」と親仁も氣に成つたか、き よろ/\と〓〈みまは〉す。 「いや、ずつと遠い、神田の明神の坂上だ、其の晩切、長の別れと成つたがね。」 「そして、其の方は何うしましたえ。」 「其が行方が知れないのさ。」 「處で搜しに來らしつたんだ。」 「搜すと云つても、東京中、……待てよ、行方が知れないのだから日本中かなあ。山 だか川だか谷の中だか分らない。が、たゞ其婦の居た近所だから、同じ月を見るにし ても、此の深川が可懷しいんだよ。  たゞし、それは此方の内證で、大事な品ものを託けるのに、出格子へ雨宿りして、 ふつと顏を見合はせるのが、例の……と、そんな了簡で居る奴を見立てる奴があるも のかね……  それ、茫乎〈ぼんやり〉立つた……可いかね。おしめで弱つたなんぞと馬鹿を云ふ ……其の手に、風呂敷に包んだ奴を、ぶらさげて居るんぢやないか。  狙をつければ、鳶だつて攫ひます。」  と斷念めたやうに言つた。 「ぢやあ、掻攫ひにお盗〈や〉られなすつたんで?」 「否〈いや〉、」 「お遺失しなさいましたかね。」 「否……さあ、其からなんだよ。」        七  時に、暮方の軒が沈んで、瓦は浮上つたやうに見えたのに、家並の屋根はずツぷり と重く成つた……雨はすぐに留みさうもなかつたのである。  傘を持つて追つて來た繪師の使を、拗氣にはぐらかした小彌太は、能樂界に名だた る宿老、新海孫六兵衞の甥に當る。  其處に託かつた一包は、名門の三世五代、家に傳はる古今の神品。傳へ聞く、都よ り便船して下しし時、船とともに湖水に沈んで年經たのが、おのづから竹生島の御堂 の縁〈きは〉に浮出でつとて、(龍神がへし)と世に聞えたのを、宿縁によつて相傳 した、銘を(浮草小町)と云ふ其美女の、宛然〈さながら〉生首の如き、なきざう* なきざう傍点 の面である。 「何を大袈裟な。」  で、醉つたればものとも思はず、輕さは輕し、空辨當にぶらりと振つて、高足駄で 其の路地を出た。が、面を打つて快いで濟まされるやうな雨ではないので、通りがか り間近な所、低い軒に、切干大根を紅殼で染めたやうな、くな/\の端緒〈はなを〉 を吊下〈ぶらさ〉げた、暗い下駄屋の店を見着けて入つた。 「番傘を一本、古いので構ひません。」  亭主が其時朦朧として、仕事をして居て、 「齒入れはいたしますが、番傘の古着はございませんので。」  と希有〈けぶ〉な顏して、まじ/\と云つた。 「いや、新しいのなら尚ほ結構。」  小彌太は、はじめから遠慮したのである。軒の端緒で、縁があらうと思つたばかり。 店の樣子が新らしい傘〈からかさ〉など賣りさうにも見えなかつた。元來、ありあは せたから入つたものの、醉心地の此の場合、雨具を買ふに、煙草屋、荒物屋を何ぞ擇 ばむ、古寺だと尚ほ面白かつた。……  處が案外、齒入屋にも小僧が居る……片隅から、ちよろ/\と鼠の如く現はれて、 柱に攀上るやうにして、天井の傘をはづす音、ばさり、ごそり、雨はじと/\と降る。 「涸れて居ります事はお請合で。御覽下さいまし。……電燈〈でんき〉が來ないな、 電燈が來ないな。」  と叱言〈こゞと〉らしく小僧は云ひ/\、ふツ/\と膝を吹いたが、古下駄に赤め の入齒を、鐵槌でコトンと敲く。  其の齒入を、待つてて取つて歸らうとするのであらう、と小彌太は思つた。……店 から一坪土間を切つた、敷居の外に、〓〈しぶき〉を除けて此方〈こなた〉は彳〈た たず〉む。  亭主は土間の向うに、箱火鉢で大胡坐。ト其の火鉢の縁に、お召の袖ぐるみ、肱を 包んで、袖口をひつたり合はせて、弱々として凭懸つて、胸を壓して、寂しく肩を落 したなり、白々とある頸〈うなじ〉を斜ツかひに、横向の、はら/\と亂れた櫛卷の うしろ向。框に腰を掛けた、しなやかな裳〈もすそ〉は、正面に此方へ見せたが、裏 は曇つた黄昏の片褄を引上げた。雨を潛つて來たらしい、しな/\と、細く搦んだ緋 縮緬、雪の素足に淺葱の緒、雪駄か知らず、ぐツちよりと濡れたのを片足、膝で組ん で、爪先を上へ、輕〈かろ〉く重ねるやうにして居たのがあつた。  其の髮は濃し、若からう。  齒入を待つ……と見て取る目に、小彌太は、其の、それしやが猫板に突伏した時の、 もの思はし氣な、曲〈くね〉つた脊筋、胸さきにも似ず、褄はづれ、捌いた裾の、心 易くすら/\として、秋の水の流るゝ風情に、濡れた淺葱の其の端緒さへ目に着いた のに、眉の端俤さへ、俤は少しも見えず。  たゞ艷々と、黒髮の、動かば颯と丈に亂るゝが如きをのみ見て取つた。        八  買ひたての傘をみりゝと開くと、濁つた雲に手許が明るい。……黒かめ橋が雨の中 に煙を離れて、目には遠いが、つい其處で……ガラ/\と電車が響く、人通りが繁く 成る、と物足りない。……何やら土地に離れるのが可惜い氣がしたので、小彌太は故 と空地のやうな入口の廣い、向うすぼまりに奧深く見える、横町へ逆に入つた。  が、一廻りして、偶と思ひも掛けない處へ出た。  然まで道幅は狹くない。が兩側とも軒並の家は一軒も見えぬ。一町内押廻したかと 思ふ、……何か大問屋らしいのの裏塀が、眞黒に見渡す限りづツと續く。其の中に、 土藏がづしりと挾まつた。……一方は、折から鼠も居さうにない、寂〈しん〉とした 大な物置、幾棟ともなく建連なつて、屋根を打つ雨の音の聞えないのさへ、うら寂し い。地〈つち〉の長廊下を遙々〈ぶら/\〉と渡る心地で、恰も火の見櫓を横にして、 其の中を潛るかと思つた。  雨はびしよ/\、びしよ/\と、土藏も、小屋も、ものに區別のない世の中は、心 細いまで同じ音。……  こゝへ入ると、ばつたりと穴へ落ちたか、と日が暮れた。  所々、雨の中へ、霧がかゝつた状に見えるのは、汐のさした薄明りで、……其物置 の背後は、心覺えに違はなければ、高橋通り、扇橋をかけて、八幡の裏を、二十間堀 の流なのである。  二ツ三ツと、物置の間に隙間のある、其處を通れば水が見えた。降續いたのに、又 宵の雨。水溜に搗〈か〉てて加へて、だぶ/\と汐がさす。底光りする濁つた水が、 三日月もかけず、柳の影を、華奢な骸骨のやうに映しながら、びしや/\と溢れかゝ つて、其が足駄まで陰に響く。  かと思ふと、眞暗に成る。……ト又前途〈ゆくて〉へ其の水あかり。一筋毎に前な のが薄く成つて、果は森か、山か、何か突當りさうに、むら/\と濡曇つて、魔もの の如く虚空を遮る。……時雨に鐘があらば、其の中から聞えよう。  ゆるく、沈んで、ごろ/\と行くは地車……川向うから遙〈かすか〉に響けば、娑 婆を離れて居るのではない。  物置、五ツ、……二度ばかり、其の水を見て過ぎた時、雨脚が又一時〈ひとしきり〉、 ざつと頸筋へ降りかゝつたと思ふと、直き背後で、 「堀さん、」  と、小さい聲して呼びかけたものがある。一度で聞えた。が、餘り思ひも附かない ので、默つて歩行いた。 「堀さんぢやありませんか、違ひましたかねえ。」  と媚かしく、馴々しく遠慮なげに云ふと、其の婦は、斜にやゝ退つた物置の方へ氣 勢〈けはひ〉がして、殆ど肩を並べるまで近づいたらしかつたが、頻りに暗さがまし たのである。 「は、」  と云ふ聲は咽喉を引いて、婦に手繰らるゝやうで、出る足もはたと留まつたか、と 思ふ。けれども、對手が立留まりはしないから、一所に歩行いて居るらしい。…… 「堀です、私は。お前さんは?」と云つた。小彌太は繪師の女中に、半時の中に此處 でめぐり合つたのかと、ふと然うも思つたが。 「しばらくですこと、まあ、」 「えゝ、」と茫乎、不意打に氣を拔かれた體に成つて、それでも、先刻の女中でない だけは、其の、もの云ひで確に成ると…… 「誰方、貴方は?」 「眞個に、しばらくでしたわねえ。」  と身に染みるほど傍へ……と思へば、はら/\と小彌太の手に雫が掛る、傘と傘が 觸つたらしく、ばさりと當つて柄が重い。        九  傘が衝〈つ〉と離れて開いた。 「お可懷しい事、」  と云ふ。立留つて、眤〈じつ〉と瞶〈みつ〉めたらしく、其の時に、小彌太も我知 らず歩が留まつたのである。 「失禮ですが、薩張お見外れ申して了つて、」  其の癖、見外れると云ふ姿さへ、目には留まらず、しつとり濡れた氣のするばかり で、我が片袖の黒白〈あやめ〉も分らぬ。 「然う……」と一寸言を切ると、降り亂れて、冷い風が、二人の間を、さら/\と拔 けた。 「隨分ですわね。」  雨が寂しく、中を繋いで、 「でも、貴方はお達者で、」 「何、一向詰らないんですよ……眞個に誰方です、實際、失禮のやうだけれども。」 「全く、お分りなさいませんの。」 「まるで、見當が着かないねえ。」  と些〈ちよつ〉と碎けて。……小彌太は然うした中にも、あれか、これか、と知つ ただけの婦に梭〈をさ〉を投げて、幻の絲に、宵闇の面影を雨の綾に織るのであつた。 「御尤ですわ、ぢや可うござんす。」 「可かありません、聞かして下さい。」 「構はないんですよ。」 「否、聞かして下さい。一寸手懸りでも、でないと、」 「でないと、何うして?……」 「何うしてつて事もないけれども。」 「氣味が惡い?」 「何、詰らない。」 「歩行きませうよ、貴方寂しいわ。……あゝ、少し小降りに成りました。でも、まあ、 眞暗だこと。貴方、誰も見て居ないから、お傘の中へ、」  小彌太は婦の言ふこと毎に、我を忘れて一ツづゝ領いた。と心着いた時、ざつと云 ふ……婦が傘をすぼめた音。  縞の羽織に、すら/\と衣摺れの手應へして、我が爪尖が仄白い。  びた/\……と又歩行き出す。  一寸、無言の間に、小彌太は、前途〈むかう〉に未〈ま〉だ消殘る其の地を這つた 水明りが、一筋、路を横に擴がつた、……其處を的〈あて〉に、顏を、姿を、と思つ た。が、いざうれ、それと窺ふと、物置の一ツ其の隙間が、水嵩高く、どんよりと、 雨も川も小さな湖ほどに見えた。其の水面に、人の無い、大きな船が茫と浮んで、だ ぶん、天〈そら〉さまに舳が搖れた拍子に、川波がどつと搖れて、足駄を掬つて、ざ ぶりと流れた。驚く途端に、顏容〈かほかたち〉さへ、婦の片袖も何も見えぬ。 「出水なんですか。」  と夢のやうな心で聞いた。 「否、汐時は何時も恁うなんですよ、それに降續きますから、」 「お宅は御近所、」 「あんな事を云つて、」  と微かに微笑んだらしいので。 「まあ、云つたつて可いでせう……此の邊に居るんですか。」 「えゝ、然うなんです。」 「一體何處なんです、此處は?」 「まあ、――今日は何方へ行らしつて、」  と一層また馴々しい。 「何處つて當なしに散歩〈ぶらつ〉いたんだがね。」 「だつて深川なんでせう。」 「まさか、」  と云つて笑つたが、 「そりや私だつて知つてるけれど、妙な處へ醉興に紛込んで、まるで見當が着かない んですよ。」 「あら、御存じぢやありませんか、大問屋の、あの、油藏の中ですわ。」  小彌太は何故か、ぎよつとして、油の名に負ふ、其の地獄の途を辷るのかと思つた のである。        十  さあ今のを聞くと、折から小雨に成つた、それも、ぐしよ濡れの路も、藏、物置か ら滲出した一面の油のやうで、歩行くのに、つるりと出さうで、妙に又足駄の浮足、 踏み心の覺束なさ。暗さも暗い。それさへ艷をもつて、べつたりと雲から油の滴〈た〉 るゝが如し。  小彌太は縋りたく成つた、――手探りに密〈そつ〉と探すと、袂の端も指に觸らぬ。 離れて歩行けば、ひた/\と附添つて、自分の足許が亂れて辿々〈たど/\〉しいの かとも思ふが、別に濡れて行く跫音が、近々と裳に搦むまで入違ひに交つて聞える。  身體は兎に角、いつか心では、婦の姿を、暗夜〈やみ〉に花あるたよりにして居た。  が、其の、心も宙に餘り便なささうなのを、悟つた樣子で、 「些とも、貴方、御心配なさいますやうな、をかしな場所〈ところ〉ではありません わ。……つい、何時〈いつか〉も此處をお通りなすつたぢやありませんか。」 「何時?……何時ね。」 「花の霞む春の日に、」 「花の霞む春の日に?……」 「えゝ、直き其處の辨天樣へお詣〈まゐり〉なすつて、お歸りがけに、此の裏路を通 つたぢやありませんか、私よく見て知つて居ますわ……」  と云ふ、何故か沈んだ言〈ものいひ〉であつた。 「でもね、晝間でしたから、うつかり聲なんぞ掛けては、お惡からうと思つて、默つ て、密とお見送り申しましたの。些ともお變りなさらないわねえ、羨しい事。  まだ、お分りなさらないの、何うしたの?」  と姉が弟に言ふやうに、 「あの、取着きの土藏の前に、河岸の柳も霞んだ中に、お納戸色の石〈こく〉もちの 紋着を着て、白い脚絆を穿いた、きれいな坊さんの、目の見えぬ、色の白い飴屋さん が一人、ね、小兒を對手に、悄然〈しよんぼり〉立つて居ました……貴方がたは餘り お見掛けなさらない樣子でしたから、そりや屹と覺えて在らつしやるよ……分つたで せう、」  と云つたが、帶を撓めて、背後向きに指す氣勢で、 「彼處〈あすこ〉よ、貴方、いま入らつしつた、曲角の。」  小彌太も引込まれて、振返つた。唯〈と〉見ると、婦の聲に色ある状に、突當りの 長廊下、灯のない繪襖の黒いやうな中に、青く、色白く、其の飴屋の幻影〈まぼろし〉。  と同時に、颯と、雨に墨流しの彩して、瀧縞お召も、淺葱の端緒も、目に透通るま で歴然〈あり/\〉と、其の櫛卷の毛筋も、且つ油に艷やかに瞳に映つた。  が、顏はあはれ、白い頸を、肩で捩ぢるばかり邪慳に引背けて居たのである。 「ぢや、御近所の方だね。」 「分つて?貴方?」 「齒入屋に居なすつたんだ……」 「長い間、ねえ。」 「えゝ、?」 「あの裏に居ましたわ、三年越、」 「三年越、」 「もうね、それは情ない病氣を患らひ通しで、見る影もないんですよ。」  と背けた顏を俯向けて、眉も蔽ふ、と隱しながら、肩を抱くやうに頬へ片袖、胸で 撓〈た〉めた腕のしなひに袖口の指の白さを、幽かに細々と彩る緋紅。  片手に提げて男を除けた、傘の紙の蝶々が、ちら/\と、素足を誘うて路を移る。        十一 「で、何、今ぢや病氣は可いんですか。」  對手が凋んだ、わすれ草に、露を置くやうに優しく聞いたが、葉末に留めて見るば かりも、其の花の名は分らぬのであつた。 「えゝ、何ですか、自分にも分りません……でも、貴方が御機嫌よくつて、私、眞個 に嬉しいんですよ。」 「から、一向詰らないんだよ、役雜〈やくざ〉でね、相變らず……」 「お祖母さんは何うなさいました。」  もしや、トふと心着きさうだつたのが、此で又悉〈みんな〉無に成つた、小彌太が 其の祖母の事を心掛けらるゝのに恁うした婦の心當りは些ともない。雖然〈けれども〉、 聞くとともに可懷さが身に沁みて、前〈さき〉の世の從姉妹かと思ふやう…… 「最う五年前に亡くなりました。」 「まあ、ねえ、そりや貴方お寂しいでせうねえ……そして叔父さんは?」  呀!駿河臺まで知つて居る。 「幸兵衞は相變らず……叱言ばかり言つて居ます、」  と云ふ事は投遣りながら、這〈こ〉の孫六の噂をされた時、さすがに心着いた浮草 小町は、確に預つて胸にあつた。それは雨降りの荷に成るため、包んだなりで、風呂 敷の端を帶に結んで、ぶらぶらと提げては居たが。 「それでも此の頃は、前〈ぜん〉のやうに御酒もおいしくめしあがらないで、澤山 〈たんと〉お元氣ぢやなささうですねえ、不可ませんねえ。」 「何うして御存じだい。」 「蔭ながら……あの……風の便りに……」 「失禮だけれど、」  と聲までが改まつて、 「誰方です。」  前に又一筋、水明りが遙に映〈さ〉した。……板塀の影も筏のやうな、其處も物置 の隙間で。 「可いんですよ、」 「可かアありません!何うも樣子が、見忘れては濟まない方だけれども、つい思ひ出 せません。後生だから、あやまりますから、聞かしてくれませんか、一寸誰方だね。」 「可厭〈いや〉さ、私は、」 「意地の惡い事を言はないで、」と前の薄明りを手繰るやうに一歩二歩〈ひとあしふ たあし〉。 「顏を見せないんだもの。」 「見せても可いこと?」 「…………」 「大變な顏だつたら何うなさいます。」  と、さつと傘を開きながら、小彌太の袖から袂を離した。彌〈いや〉が上に顏を包 むと氣取つたが、婦が翳した其の傘に、〓〈しぶき〉するまで篠を束ねた大降であつ た。――  ――と語つた時、梅川の行燈に褪せて、渠〈かれ〉の顏は白けて居た。  時に再び、燗酒に手を掛けた、が握拳のまゝ偶と留めて、 「其の以前……弗〈ふツ〉つり行かなく成つてから、半年あまり立つて、よそごころ に茶屋まで行つて。其の喜の字の婆さんから――其の女は最う廓に居ない。出たので も落籍〈ひか〉されたのでもない、病氣のために、内證で證文を捲いた次第で、養生 とも寮とも言はず、親方が年季を投出すくらゐだから、大抵容體は察しても知れます ――と話をされた事がある。  肺病かと聞くと、いや、不思議な病氣、身體が絲のやうに痩せて、額が拔上つて、 頬がげつそり。そして、希有な事には、兩方の目の球が、ぷく/\と膨れて、まつげ ぐるみ、瞼が赤く翻〈かへ〉つて、ぶらりと出る。……胸も腹も動悸はたゞ波を打つ ばかり、で、わな/\わな/\十本の指がひとりでに震へる。」  と小彌太の指もぶる/\と震へる。  車夫が、食ひかけた茶飯を手に据ゑ、茶碗に素直〈まつすぐ〉に箸を握つて、うつ かりと成つたのが、蓮の飯〈いひ〉のやうに見えた。  親仁は握拳を組んだなりで、ぐしや/\と踞んで聞く。        十二 「矢張り、血の道が内攻したんだと言ふ――疝氣の蟲は目が三つで、酢の中を泳ぐつ て、……永代むかうの世間へ出ると、日比谷の方角が分らない、大昔の新姐だもの。 目の出張る疾があるものか……婆さん、何を云ふ、と思つたが、何しろ、其の婦の大 病な事はよく知れた……けれども、人間淺間しい事には、眞實よりか外聞が先に立つ て、秋の末に籠から掃出された蟲の殼を、掃溜の中へ行つて探さうとは思はない。  茶屋でも教へなければ、無理に行先を尋ねて廻らうともしないで居たが、年が經つ ほど、妙に思出して、夢を見る度に可懷しさが増〈まさ〉るから、同じ的なしに歩行 くのにも、此の土地を、と其日もほツついたわけなんだから、思ひがけない婦に、今 云つたやうに、話しかけられれば、すぐに其か知らと思つても可い道理だね、まあ、 云つて見れば……  けれども、齒入屋で見たのが先〈せん〉にあつたらう。あゝ見馴れない婦が、と思 つた。……其の姿が附いて廻つて、……其の實暗くつて見えないのに――何うしても、 丈〈せ〉、恰好、衣服の色合、縞柄まで、其の婦らしいから、第一年紀〈とし〉が違 ふ、……七年前と思ふほど、實際よりは餘程ふけて居よう、と考へるのに、水々と若 いんだから。  てんで思ひもつかなかつた。  が、(大變な顏だつたら何うします)――とそれ、婦が云つたね。」 「へい。」 「然うで、」  と二人が一所に。 「氣にも爲ないで忘れて居た、あの、目球のぶら下る病氣と云ふのを、脊骨を撲られ るほど思出すと、(あゝ、おいらんか、)と言はうとしたがね、世の中に忘れた人を 言當てるのに、又此のくらゐ、不躾な言葉つたらありますまい。 (變つたつて可いぢやないか、そりや年を取れば……)  と大に甘つたるく成つて、九分まで、其だと氣がつくと、今まで見えて居た齒入屋 で見覺えた姿が、弗と消え。  さあ、其のかはりに成る顏も形もの、同時〈いつしよ〉に茫として……自分の覺え にある姿が、繪のやうに空へは顯れないと同じに、急に見えなく成つた。  ふと聲もしないから暗中〈くらやみ〉へ探りをいれたが、右の覺束ない足許で、婦 に寄掛るやうにして歩行いて居たんだから、然う成ると立竦みで、 (今は何うして居るえ?つた處で、餘計な事だらうね……まあ、何處に居るんだね… …) (あ、)  と急に……そんな暗闇で、名も知らぬ鳥が啼くやうな聲だつた、思出した、と云つ た風で、 (……私は來過ぐしました。ぢや失禮しますわ。)  此の邊に世話でもされて居るんだらう、と半分拗ね氣で、 (あゝ、然うかい。) (氣まづく思つちや可厭ですよ、直き其處が明るく成ります……人に見られては工合 が惡うござんすからね、隨分、貴方。) (難有う。) (では……)  さら/\と雨の音が、別れて行く傘をあと戻りに送り返すと思ふと、何處へ曲つた か、其切。  と、ぽかんと立つて居る自分ばかりが、薄ぼんやりと目に見えた。  丁ど、物置の間の處で、四邊〈あたり〉は深川の水ばかりだ。  忽ち、何だよ、……山路に踏迷つたものが谿河を見着け出したやうに、物置の横を 突切つた……早く河岸へ出たくつて、ぢやば/\と行く……背戸へも水が着いたかと 思つた……大地の石がひとりで歩行く。……」        十三 「呀!此奴が化けたんだ。」  不意の高調子に聞くものをぎよつとさせた。小彌太は齒が痛むやうに片頬を打つて、 引傾〈ひつかたが〉りながら、苦笑して、 「……私は聲を出して獨で怒鳴つたよ。……眞個〈まつたく〉、話すと馬鹿々々しく 聞えるだらうけれども、婦が急に居なくなつて、妙に氣が拔けて、胸が空洞〈うつろ〉 で、水岸へ駈出す足許へ、ぢやばりと其の石のやうに、動いて行くものを、何だと思 ふね。  近い話は、……割下水の掘井戸で、俎を辷らかして庖丁を落した、其奴をね、井戸 の上から、黒奴〈くろんぼ〉の皿屋敷と云ふ風に引吊したまゝ覗かせて、いま落した、 汝〈てめえ〉を斬刻むための刃ものだが、拾つて出れば命を助ける、と云つて、ドブ リと突込むと、ぶる/\と暗號〈あひづ〉をするらしく、細引が一度堅く成つて、件 の出刃庖丁を、人を呑んだ大な口へ、ぎくりと横啣へにして上つたと云ふ……因縁づ きの……鼈なんだよ。  蒼海漫々として、乙姫だと、蓑龜と云ふ處を、深川で、遊女で、鼈です。  小馬鹿にして居る。  それ、一杯にさした汐と雨水で、物置の間までびちや/\と、浪だらう、蛤鍋屋 〈はまなべや〉のお職が駈落ちをする形で、……可い氣に成つて川から出て、陸〈を か〉遊びをして居た奴が、私の駈出したのに驚いて遁げるらしい、しめて遣れ。  何のみち託りものを屆けに、歸りがけ叔父の内へ寄らねば成らない。  叔父と云へば例の如く、晩飯の膳の上へ、徳利をづらりと並べて、湯豆腐の箸休め に雲丹の横嘗めと遣つて居よう。 「處へ、情婦〈いろ〉もなし、錢もなし、空腹〈すきばら〉、女郎の幽靈……」  と、慌てた目で左右を見て、 「ねえ、何年ぶりかで、其處で逢つて、暗がりで口を利いた、其切、仔細も素性も分 らなく成つて了つたが、其の時はまさか然うとは思はなかつたけれども、日が經つと 今ぢや何だか幽靈ででもあつたやうで、話しても悚然〈ぞつ〉とするがね、……私の 話しただけの樣子で、君たちは何う思ふ。」  茶飯屋は、大道行火に噛着いたなりで、 「世間押しごとは申されぬ、如何樣、然やうな事もございましよ、南無阿彌陀佛、南 無阿彌陀佛。」 「可厭だ……氣が早いな親仁さん、富岡門前の夜商人がお念佛を唱へちやはじまらね えぢやねえか。折角の茶めしが針に成つて、咽喉へは通らねえ。又熱燗で掻込むだ、 いぢけねえで、燗〈つ〉けてくんねえ。へい、それから、旦那、」 「まあ、幽靈さ。ね、空腹で幽靈に逢つた。……此の面で、(へい、今晩は、)とか 何とか云つて、其の、酒ぼてりの、赫と電燈の明い、叔父貴の前へ出たが可い。  圓髷の従姉〈いとこ〉が困つた顏で酌をして居る前で、上目で睨んで、口を曲げて、」  と小彌太は額を壓へて、 「天窓から、馬鹿野郎、とおいでなさる。 (其の、馬鹿野郎の深川土産。)  で、鼈を出します。  いや、串戲ぢやない、因果が報つた難産の嬰兒が取着いた、と云ふ形に、鼈が、膳 のふちへ手を掛けて、ぬつと首を突張って、湯どうふを、じろりと睨む。  と従姉が前掛の膝を立てて、細腰で、きやあと反る……苦蟲忽ち酒にむせる。二番 手の鉢ものごしらへに臺所に控へた叔母御が、女中ぐるみ、重なつて慌てて出て來る。  遣るべしだと、瞬く間に非望〈むほん〉を起した。」        十四 「今思ふと、何でも、心氣惑亂、氣も顛倒して居たらしい。……お十夜まゐりが、賽 錢を拾ふ形で、殆ど這つたよ。  眞俯向けに、其の鼈の、甲羅に仇光りが薄く射して、人魂の泳ぐやうな奴を、すぢ り、もぢり、おつと、おつと、おつと/\、……やあ、畜生め。で、追廻はして、占 めたと壓へた。逆にぐい、と齒向つた首を逃げて、慌てて、つかまへ直すと、水を離 れて、鼈はぶらりと下る。  さげて立つた。先づ可しと、……此奴が傍で見ると恰も魅〈つま〉まれた形ぢやな いかね。處を、當人大得意です。  さて持參に及ぶんだがね、此から先電車のお世話に成るのに、……澄ました顏ぢや 持てますまい。袂も變だし、其處で、氣が着いたのは帶に結へて居た風呂敷だ。箱に は打紐が掛つて居るから、それなり附け直しても可し、露出〈むきだし〉で持つたつ て構はない、傘〈からかさ〉は何時の昔、何處へ投出したんだか、鼈の立廻りで行方 〈ゆきがた〉知れず……でもそんな事はお構ひない。  でね、風呂敷を取らうとすると、一向他愛なく飜然〈ひらり〉と空だよ。驚いたの 何の……何うです、兵子帶が解けて下つたやうに、大事な御本尊の影も形も無からう ぢやないか。  アツと云つて、聲を出して嘘では無い、二三度ぐる/\と廻つた。薄明るいのは水 ばかり、道も自分も眞暗です。  さあ、いまの婦に奪られたか、と思ふと……又ね、其の水の上へ、一面に雨上りの 霧がかゝつて、向う土手を所々小さな浮島に見せて、空まで果しがないやうな。何處 か、其の川の眞中あたりを、白いものがむく/\と持上げられて、其のまはりへ、薄 赤い〓〈しぶき〉がかゝる風に、岸の火影がさら/\と靄越しに映りながら、ふら /\と流れて行く。……  箱は何うした。 (あゝ。)  あれが綿に包んだ浮草小町だ、と突流された心地で、伸上つて、昵と見ると、泡の やうにむらむらと散つて分れる……蘆の穂の散殘つたのであらうと思へば、……又、 まばらに、すく/\と斜に出て、鰻が眞直に生えた形に、枯蘆の莖が見える……  ……鼈どころですか。」  と小彌太は、忙しさうに吸かけの卷莨を拂きながら、饒舌つた。 「死神が憑いたぞ、此は。……いまの白いのを、流れた面だなんぞと思つて、うつか り慌て踏出さうものなら、すぐに、頭の上まで沈む、……傘をさした先刻〈さつき〉 のが裳〈すそ〉を倒にして緋縮緬で立つて居るんだ……と急に手足ごと震へました。  枯蘆も疎らに搖れる。  ト眉を撫でて、スツと鼻のさきを掠めるやうに、一角〈ウニコオル〉の牙かと思ふ、 大な船の尖つた舳先が、つい其處へ、霧を綻ばして、すらりと出たんです。  汐は高し、岸に立つて見れば、其の舷〈ふなばた〉が、水を抽〈ぬ〉いて見上げる やうでね、霧に映つて、影が、手を伸ばすと屆きさうだ……で、其の實どんよりとし た川筋の眞中に浮いて朦朧とあるが、城の壁かと思ふらん、で見えたのは眞新しい五 大力です。  棹を使ふのか、艪の音がない。  が、隅田さがりに高橋へ入つて來たと見える。  其の船底から、水が湧いて、霧へふら/\と溢れたやうな、大な魚の背と思ふ、重 く沈んだ、鉛のやうな小船が一艘、二艘、三艘、と續いた。」        十五 「見る間に、小舟の數が増して、霧に浸んで七八艘にも成つたらう……苫を掛けない から、今しがたの雨に濡れしよびれた所爲〈せい〉か、皆、船の中にこびりついて、 海鼠か、古綿が乘つてるやうだつた。  が、漕ぐ、と云ふより、船は皆尾鰭で魚の泳ぐ形――水の底に都があるなら、此は 鮒、鯰と云ふ長屋の連中だね。  此の眷屬を從へた風で、舳〈みよし〉も舷も矗乎〈すつく〉と聳えて、鷹揚に位を 見せて、汐を悠々と乘りしづめて靄を拂つて靜に渡る……其の新しい五大力です。  舳を後に、船の進む方へ背〈せな〉を向けて、雛が袖口を合はせたやうに肩を細く、 すらりとした半身が、舷の上に一人。何處ともない水光に、横顏の靄ながら、ほんの りと白く見えた、結上げた黒髮は、品の可い圓髷らしい……  汐の滿ちる川面一面、雨に開いて、岸に立つたものの下駄を浸す。時に湖のやうな 川筋に、絡つた人の姿は唯其一つ。……で、影の如く露れた、媚かしい、新造の五大 力の、船神の姿かと見える。 (南無阿彌陀佛……)  また、(南無阿彌陀佛、)  向うでも、(南無阿彌陀佛、)  鉛色の小船の中の、爺婆と云つたやうなが、つぶ/\と靄に泡を立てて、其の海鼠、 古綿の形で唱へる。……  あゝ、眞似をしても可厭な心持だ。」  と小彌太は頭〈かぶり〉を振つて言つた。 「陰氣だね。」 「南無阿彌陀〈なむまいだ〉、」  と、つい引入れられたさうで、茶飯屋も、むず/\と唱へて、 「川施餓鬼でございませうで、晩方などは滅入つたもので、……供養に亡者が浮ぶ… …と申します、其のもし、亡者が大川面へ浮出したやうに見えますので、惡くします と、三途河〈さんづがは〉の渡場を見たいな事があるものでございます。」 「然うかも知れないね……實に堪らなく薄氣味が惡かつた。  其處へね、千鳥が啼いたかと聞く、寂しい、可哀〈あはれ〉な、而して情の浸渡る 聲で、 (あら、あら、)  と水に響いた。 (あら、)と、うら悲しく最一度聞えたと思ふと……舳先に居た、其の姿が、陽炎の 縺れるやうに、舷へ掛けて、背も袖も亂れて、水を倒に覗いたんです。」 (あゝ、私の手が、あれ私の手が、取れて落ちたよ……まあ、まあ、をかしい、ほゝ ほゝ、)  と笑ふんだ。」 「はあ、」と親仁は呼吸を引いた。 「見て居て、あつと思ふとね、 (おゝ、左の手も、あれ、あれえ……)  と身震した樣子で、 (足が、……足が、まあ、左の脚も、取れちやつた……おや變だ、水に浮いて、水に 浮いて、) (南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛。)  と唱へるのが、其のね、婦人が聲を立てると同時に、一調子高々と成る、一言毎に 張上げる、脈を打つて嵩にかゝる。  中にうら少〈わか〉い娘らしい念佛が交つた。  其の中にも、甲走つて、小兒の唱へるのが、そりや凄かつた、爺さん、」  と小彌太は少時〈しばらく〉唇を結んで居た。 「消えるものか、紛れるもんか、婦人の其の透る聲が。 (あら、お乳も二つ、あら、あら、流れて行く、別々に、身體がほぐれるよ、あれ、 拾つて頂戴、取つて下さいな、ねえ。)  と舷に縋り着いた。」        十六 「背後から、一人、船の中で緊乎〈しつかり〉抱いた。……島田に結つた若いのらし い、小肥りに肥つて居たつけ。  ……其は何を云ふか低聲〈こごゑ〉で聞えなかつたが。 (何うしよう、何うしよう。えゝ!御覽なね。それ其處へ、其處へ流れるのは私ぢや ないか。手も足もお乳も、胸も……一寸、顏をお見よ、私ではなくつて?……それ、 あら、私だよ。何うせう、何うせう、何うせう、早く取らないでは!……)  と自分の身體を、自分飛込んで抱くつもりか、忙〈あせ〉つて拂ふと、拂はれた、 島田髷が傍へ刎ねられたと一所に、〓々〈なよ/\〉として、颯と長く倒に舷にかゝ つたのを、や、落ちたと見ると、脱棄てたらしいコオトなんだ。  と二ツに分れて、姿がすつと五大力に立つたがね。  忽ち、笑ふ聲して、 (ほゝゝゝ、お月樣だつて、落〈おつこ〉ちるぢやないか。)  と空を仰ぐ……ト眉のあたりへ蒼白い影が射した。  髮の黒いのが光るやうで、鼈甲の櫛が照々する……  黒のらしい、紋着の羽織が細りと靡いて、投遣りな褄は、船板塀に山茶花が咲く… …  手首の眞白なのもすつきり見えた……  あゝ、船の中空に、蒔繪を研出したやうな月が、……と見れば、居まはりの藏、物 置も濡色が黒く颯と照つて、ばら/\とある枯柳も、其處此處にすら/\と光つた、 土手を、ちらりと小提灯が一つ通る。  屋根と屋根とかさなり掛つて星を鏤〈ちりば〉めた蒼空遙に、靄を破る鐵〈くろが ね〉の天の柱かと見る工場の煙突さへ、月の面へぼつと吐く……短かな煙の白いのが、 船の婦の立姿、まるで、白粉の刷毛に見えた。 (だまされたやうなお天氣ぢやね。) (時雨は恁うでござりますよ。)  と直き足許の岸を、小船の中で饒舌つて通つた。  フトそれに、私は氣を取られたものらしい。成程、銀〈しろがね〉の月が、と紺青 に半輪の象嵌したのを、裏透くばかり視めるうちに、五大力は艫を見せた。  婦人〈をんな〉は又舷に俯向いて熟と水を見て居た。  が、むら/\と大勢取卷いた影がある。  棹を取つたは、三人で。  さあ、其からの早い事。それ、あれと見る内に、早や、遙かに、小さい、眞先の小 船近くへ。  其處に橋があると見た、欄干から煙つて、朦として、むら/\と又一面の靄に成る、 と寂寞〈ひつそり〉する。  か、しないのに、ざあ――とまだ人までは降らぬ、中空の雨の音です。  忽ち、どしや降だ。  人間、生命あるばかり。  黒江町で、別に私を待つて居て木乃伊〈みいら〉にも成らなかつた電車に駈込む、 と、乘合がじろ/\見ます。ぐつちよりです。  鼈の土産どころか、傘も疾にない。自棄〈やけ〉に風呂敷は打棄〈うつちや〉つて 了つた、手ぶらの足駄さ。  永代を通る時、別に飛込む氣もなしに電車から覗くと、……川蒸氣の煙が蒼く見え る、冴々とした月夜ぢやないか。  當分叔父の家へは寄附かなかつた。  日が經つてね、其の面もかぶらない、面を、苦蟲の叔父の前へ持つて行くとね。 (流すな、……馬鹿野郎、差當り一寸困るから。)  と手酌でぐびり/\遣る。  誰も居ない處で、口を曲げて、然う言つたのは、ね、私が質へ入れた、と云ふ當推 量なんです。  冬木町の繪師からは、既に私に託けて返した、と沙汰をしたらう……」        十七 「他人ぢやない、まげてが嫡々の甥で、當家重代の小町の面だ。……一寸紙入の底へ 入れて、水引の掛つた……叔母へ内證の謝儀づつみ五ツや七ツでは、間に合はないと 思つたらしい。  一度も義理あひのお葬式〈とむらひ〉に羽織袴を借りた奴を、早速返しに持つて行 くと、馬鹿野郎、叔父に借りた羽織袴を、疊んで無事に持つて來る、べらぼうがある ものか。葬式は何處だ、何、谷中だ、なぜ歸途がけに、根岸邊の質の流へ沈めに掛け て、仲の町へ浮ばねえ。しらふで、生白い面をして、へい、お袴を――當節の若いも のは其だから話せねえ、と飮んでた機嫌でまくし掛けた事さへある。  それ、文句は言ひません。慈悲は宏大で、工面が出來たら、叔父が自分でうけて遣 らう、が、流すな……と此處で、掛けがへのない品だけに念を入れたんです。  ――流すな――は弱つた!……  小町は浮草の根を絶えて、其の晩疾うに流れて居る。  が、始末にをへない、其のまんま、しり込みをして、でも、熟と叔父の顔を見返つ て、潛門をちよろりと遁げた切、鼬の小彌太と成つたんだね……  いや、非常に御無沙汰をいたしました。」  と、大分醉が出た、……川端の時雨のあたり、立續けに煽つたから。  ふら/\として、 「何うも、相濟みません。……  けれども、芝居ぢやあるまいし、茶入や、一軸が紛失したつて、日本……いや深川 中武者修行をするにや當るまい、道中で情婦〈いろ〉でも出來ると云ふなら知らぬ事。 第一、十萬石の小倉の色紙、とか何とかなら、苦勞するにも張合はあるが、能役者の 重代、出目作と來た日には、臺辭〈せりふ〉には成らないんです……  と高を括つた。あの繪師に貸すくらゐなら、私にや下すつても可いわけだと。  後で聞くと大變です、既に、それだけ大切なものを借りて置いて返すと云ふのに、 たとひ親身にもしろ、物ほしからぶら下つたやうに、日向の深川へ、足駄ばきで、山 の手から出て來たものを、出あひがしらに捉へて、託ける奴も呑氣過ぎると怨んだら ――何うです、當人の繪師が其の面を持つて出ると、思ひがけない故障があつたり、 急に大雨が降つたり、一度なんぞは、飛乘らうとして電車で怪我をして引返した事も あるさうだ。  ぢや、言つてくれるが可いぢやないか。  と言ふ、……それも、恁う成らないうちは、聞いたつて、眞個〈ほんと〉にしたか、 何うかね、すべて心得違ひをして居たんだ。  幕があくんだ。さあ……私の侘住居へ、車夫が手紙を持つて駈着けた。お家流さね ……御殿女中、若葉どののお古だから。で、叔母の、はしり書で、叔父さんが病氣ゆ ゑ一寸……とある。  面よりか、實は此の方が面くらつた。  醫師〈いしや〉が、車で歸る所へ飛込んだんです。  恁う見えて、慌てもんだから、がたんびしんと駈上つて、せい/\云つて茶の間に 入ると向うの臺所口から、人を凡て安直に扱ひやがる、長年もののお三どのが、部厚 な顏を柱がくしで、頬を搖つてニヤ/\と、此方の慌しいのを見て笑ふ。  先づ、生命に別條はなささうだ、と此で一息吐〈つ〉いたつけ。叔母が長火鉢の前 に、ぐつたりと俯向いて、まはり近所のが二三人、來合はせて居る處。  其の日、能樂堂で、三番目の熊野を勤めて、人が車を、車を、と云ふものを、何を、 で老人、天氣は可し、尤も杖の味はまだ知らない、薄目を仰向けに、夕日で醉うた顏 をして、日和下駄をかた/\、信玄袋を提げて、中古な、袖外套で一人で歸つた。九 段坂の下口〈おりぐち〉で、横倒れに……ステンとまゐつた、と云ふんだがね。」  茶飯屋はぎよつとする、此も老たり。 「はあ、其は、お危い。」        十八 「何でも横倒れに成つたらしい。左の頬邊〈ほつぺた〉から、額を擦剥いて、片腕へ 怪我をした。……車で歸つて來た時は半面血だらけで、家中が氣を打つたが、醫師が 來て手當てをすると、然したる事でもないと言ふ。……怪我は案ずるには及ばないが、 何しろ年配だし、一寸でも人事不省に成つたんだから、氣を着けなければならないと 注意をしたツて。  叔父は、其の轉んだ當座、氣が遠く成つたらしい。  車もね、自分で雇つたのでは勿論ない。坂上の交番だらう、巡査も駈着けて、しん せつに世話をされたが、それよりか、矢張り手車で通りすがりに、綺麗な若い女が、 飛下りて、抱起して、身體を擦つて、其が拵へてくれたんださうでね。 (天人が天降つて、お助け下された。)と負惜みのやうに洒落らしく叔父が言ふのも、 血みどろの、泥まぶれで、身體がぶる/\と震へて、上框を這ふのだから譫言に聞え て心細い。  熱もある。  で、氷嚢の手當をして、今は昏々〈うと/\〉して眠つて居る。……  と云ふ處へ、私が飛込んだんだ。――  家は駿河臺だのに――錦町だ、今川小路だ、と仰有るんで、方々まごつきました。 お大事に、と送つて來た辻車の若衆も憂慮〈きづかひ〉さうに案じて歸る。町所の分 別が亂れるやうでは、と叔母御は涙ぐんで居るんです、無理はないね。  妙に、する/\と九段上が砥の上へ油を敷いたやうで、足が、辷つて、前へ出て、 留めても留まらぬ。變だ、と思ふ……あの、坂の下口が、雲を踏外した心地で、あつ とも言はず打倒れた――怪我をしたのは自分の所爲ぢやないぞ、――と豫て一人歩行 きは危ない、危ない、と老人扱ひにされるのを嫌つて、故と日和下駄をからつかせて 負けない氣の我が折れて、小兒が言譯をするやうな愚癡らしい事を、べそを掻き/\ ――  婆々どの心配を掛けて濟まん、と言ふ心持の、あの、氣の折れ方が情ない。身體が 弱つた證據だつてね、叔母御が言ふのも道理です。  が、そんな口を利いたくらゐ、歸つた當座は、一時、正氣のやうだつけ。少時して、 又茫と成つて寢た……其のまんま、すや/\と鼾を掻いて居るんださうだ。  胸どき/\で、其の容體を聞く處へ、五人七人、袴、羽織をさら/\と遣つて、各 々〈めい/\〉羽二重の紋着の、紋ほどは年紀の違はぬ……男振も揃つた血氣盛り。 いづれも淺草藏前の大師匠取立てで賣出し花形のお役者連が、粒を揃へて見舞に來た、 皆能樂堂を濟ました歸りで。 (飛んだ事ですね。) (御容體は如何ですか。)と言ふ。  續いて、どや/\と弟子中の紳士連、婦人客、で、八疊充滿〈いつぱい〉綺羅星で す。 (驚きました……先生は?) (先生は、)と訊くんです。  玄關上り口は、コオトと外套で造りものの山のやうだつたよ。  其の蔭に、遙か末座へさがつて、遠慮らしく小さく坐つた、無地ものの綿入に、黒 地の羽織で、服裝〈なり〉も薄ぼけて、寒さうなが、肩つき胸つきの端然〈きちん〉 とした、爺樣が一人。釣船矢右衞門と言ふんです、八十五に成る、御狂言が、鼠色の 毛絲の襟卷を取つて、しやんと手を支へて、 (えい、御新造、)  と叔母を呼んで、おつとりとした面長な顏を上げて、 (さて、若旦那は、何うなされた。)と言つた。……大酒の上へ、よい/\染みて、 手足が震へて、とぼ/\歩行く。既に、九段坂で轉んで舁〈かつぎ〉込まれて、人事 不省と云ふ叔父貴を呼んで――  若旦那――此の人にばかりは何時も聞く言〈ことば〉だけれども、此時は此の一言 で胸が迫つた、私は思はず泣いたんだ。」――        十九 「……私は蒼く成つたよ。 (面は何うした?……)  怪我の時、入齒も損じた、もく/\と窪んだ頬で、唇をゆがめて、精を張つても漸 つと聞取れる呂律の怪しいのが、切れぎれに、仰向けに寢たまゝ然う云つて、熟と私 を見た目を、懶さうに最う塞ぐと、困つた野郎が心掛りな恩愛の涙が瞼を流れる…… 水洟と一所でね。  身に染めば、それも尊い。ほろ/\と露が溢れるやうです。  それを、白い手で從姉が拭くんだ、頬から鼻の下をね……其處へ、縦横に血の滲ん だ擦剥傷が傷々しく見えるぢやないか。  ――此はね、怪我をした後、二三日經つて、――其でも正氣には成つた處へ、見舞 に顏を見せた私に向つてはじめて云つた言葉だつた。 (面は何うしたよ。)  尤も傍に居たのは其の從姉ばかり……  ……氷嚢は除けて居た。高枕で、掻巻を深々と掛けて、顏ばかり出した、其の色艷 も沈んだ叔父の顏が、活きた名作の面のやうに見えたと思ふと、腸へヒヤ/\と染み て、はじめて、浮草小町の尊さが分つた。あゝ、其の面も目を開かう、目を塞がう、 瞼も濡らさう、口も利くだらうと、……ぎり/\頭を突刺される。  言語道斷、深川で流して居ます……  が、口へは出ない。又出せるわけでない。  唯少時して、 (紙入を、紙入を。)  で、從姉に用箪笥から出させてね、 (足りなくば、縫と相談せい。)  と言ひながら、薄笑を片頬に、其の疵の痕を動かして、 (一生懸命の、あの、浮草は俺の情婦よ。)  と向うむきに成つたもんです。  從姉と顏を見合はせた。 (質、質になんぞ入れるものか、すぐに。)と云つて、天井から飛び出しさうに、し かし裾から消えたやうに、最う耐らなく成つて遁げて出た。  ――其の三日目が、今夜の此、此の私だよ。……方がへしの附かない身體と思つて おくれ。  自分の影法師を落したやうに、此の二三日ふら/\と成つて、足も上の空で川筋を ふらつくがね。轉倒した所爲と見える……恁うして思ふと、餘り取留めのない事だけ れども、幽靈だか妾〈かこひもの〉だか、あの晩逢つた遊女が、以前〈もと〉居た、 はじめて私が顏を見た洲崎の樓〈うち〉のね、婦の部屋の床の柱に、ふと、其の浮草 の面が正面を向いて、薄蒼く、俯目で掛つて居さうで我慢が出來ない。  何を馬鹿な!  臺灣から歸つたやうな顏をして、先刻お互に年も忘れた、喜の字の婆さんの内へ飛 込んで、久しぶりで提灯〈かんばん〉を點けたがね。  昔の藝者だ、半纏を斜ツかひに、突袖で、出た所は、野暮では無い。雖然、客が此 の方で、其の婆さんだから、縁日商人が歸りがけに、道連れに成つた辻占賣と云ふ形 です。  大時計の霜を空に見て、廣い階子段を上つた。……取着きの八角火鉢へ膝を支いた うちも、尻はむず/\する。 (遊女に註文がある。) (あゝ、あゝ、よく仰有つた、感心に捌けましたねえ。)  と俯向いて、覗いて提灯を、フツと消して、莞爾〈につこり〉、……婆さんは顏を 見ます。」        二十 「此方は其處どころぢやない。 (註文は、)  と云ふなり、遣手部屋の前を、廊下すた/\、ばらりと並んだ重ね草履に突掛りさ うな權幕でね、(此の部屋の遊女を買はしておくれ。)と障子の前に立つたのが、昔 馴染の部屋なんです。すぐにも入つて、上の間の床柱を、と思ふけれど、さすがに其 までは遠慮して控へたつけ。  此方を向いて、肩を落して、片手懷に、半纏の袖を投げて、婆さんは遣手部屋の前 に立つて居て、莞爾々々來て、 (さあ/\、丁ど可ござんす、すぐお座敷へ。) (御免なさい。)  で、開けて入ると、ちらりと見えた。白地に紺だと思ふ、あらい棒縞の寢ン寢子を 着て、長火鉢の正面に頬杖で居たつけが、島田を見せて、長羅宇〈ながぎせる〉をキ ツと支いて、脊筋を捻ぢるやうに向うを向いたのを……チラリと見たまゝ、突如〈い きなり〉床柱を視めたが、あらう筈なし、と云ふうちに何にも無い。  はつ、」  と嘆息して、俯向いて、 「却つて、前の遊女が、朝寒のしら/\あけに、麻の葉絞りの白地の浴衣の裾を敷い て、伊達卷の寢亂姿で、早や小さく成つた、朝顏の花を、蔓ながら、其處の掛花活へ、 やせぎすな胸を搦むやうにして活けて、 (目をお覺しなさいな。)  と言つたのを、目に見るばかり思出す……  杯の間〈あひ〉に、内證で聞くと、其の遊女最う亡く成つたと言ふ……」  親仁は踞〈つくば〉つたなり、ぶる/\と頭〈かぶり〉を振つて、 「南無阿彌陀佛〈なんまいだぶ〉、南無阿彌陀佛。」 「私も、ハツと思つたよ。 (矢張り何時か聞いた病氣でかい?) (えゝ、そりや病氣が原因〈もと〉には違ひありませんが……然うやつてね、兩眼の ぶら下つたのを苦に病んで、可哀相に身を投げてさ。)  と喜の字が言ふんだ。 (えゝ、)とも驚かうぢやないか。何處で、と聞くと、――いづれ大川であらうけれ ど、死骸の上つたのは、ずつと下で、八幡樣のうらの渡場の所だつて、……」 「南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛、」 「婆さんが、私の顏色を憂慮つて、 (否、おいらんには内證のものがござんした。しかしね、顏がそんなに成つたので、 其の人には棄てられます……親と云つても、九尺二間に割世帶の中〈うち〉へ引取ら れて居ましたが、一頃病氣が、中なほりをした時分、店〈うち〉へ毎日のやうに精々 〈せつせ〉來て、貴方に逢はせろ/\つて申します。餘り、いぢらしいから、一層、 お逢はせ申さうか、と私も思つて、(ぢや逢はせようかい、)と云や、(否、治りま してから、こんな顏をして、まあ私。)ツて、上衣の禿げた紺の筒服〈つゝツぽ〉の 腰切なのに、お召の前掛ばかり、綺麗なのを〆めて居て、其の前掛で顏を隱すかと思 ふと、――小彌太さん、おいらんは居ない/\、ばあ、……とニヤリと出します。其 の目が二ツ蝸牛〈まひ/\つぶろ〉のやうにぶらりと出て居ませう。尤も、氣もをか しかつたものと見えます。そんなこんなで取のぼせて、ついねえ、お前さん。)  何しろ、其の、――ばあ――で目球がぶくり……  おゝ、寒い。」  と小彌太はぶる/\と胴を震はす。 「南無阿彌陀佛〈なむあみだぶつ〉、南無阿彌陀佛。」 「……些とも醉はない。が、引掛け/\飮むうちに、耳許で打つ小妓〈こども〉の太 鼓を、責太鼓のやうに聞いて、少時正體がなくなつた。 (目をお覺しなさいな。)  ………。はつと思つて、起返つた、かれ、これ、……先刻……一時過ぎ――」        二十一 「喜の字の婆さんは、……私の樣子が心配だつたものと見えて。醉倒れた間も傍に居 て、藝者を對手に爪彈で新内の道行なんか聞かして居たよ。  ぎよつとするまで、其の――目をお覺し――の聲で、刎起きると、未練らしいが又 視めに、床柱に何の影の無いにつけても、最うそんな所には居堪まりません。  然うかつて、當分、飛行機の中へでも投上げなけりや、納りの着かない身體だ。ま ゝよ……途中で車が轉覆つて、大川へでも飛込め、とすぐに――首尾だとさへ一言云 へば、婆さんは昔から何とも云はない――歸り支度に、長火鉢の前へ寄ると、婦です ……  例の向うむきのまゝで、一服吸つけて、肩なぞへにづツと出した。と拂いて、然や うならと廊下へ出た。ばた/\と送つたが、何と階子段を下りるにも、矢張り顏を背 けて居る。  此が、同じ形で、式臺に、草履を高く、部屋着の小紋の紋着で、すつくりと立つた のを、――茶屋へも歸らず、すぐに車をつけてもらつた――蹴込の上で、も一度見た。  ふと何だ……それまでは、狂人だと思つたらう、其で顏を見せないのだと極めて居 たのに……あゝ、あの、其の遊女の顏が浮草の面なのぢやないかと思つた。 (あ、)とて下りようとした時さ。 (若い衆、お氣をつけ申しな……頼んだよ。)  と婆さんが云つたので、其れなりに……氷を破るやうに門を出た、――までは覺え て居る。――が、此處へ來て、不意に留まつた。  がくり、と成つて、氣が着いた、先刻もです。…… (目をお覺しなさいな。)  と宙で聞えたと思ふ……此店〈ここ〉の行燈の薄白いのが、途端に面のやうに見え たくらゐ、……梅川と云ふ名ぢやないか。 (おいらん、返しとくれよ、返しとくれよ。)  と何故か、昔のやうに駄々を捏ねて見たく成つてね、濟まないけれども。……爺さ ん……其の婦を前に置いた氣に成つて、頼むやうに、強請〈ねだ〉るやうに、縋るや うに、まあ、先刻から饒舌つたよ。  品ものが面だけに、串戲らしく聞えようけれども、眞個に、こんなのが、面くらつ たと云ふんだらうね。……串戲ぢやあない。  其處らの棟の鬼瓦でも、霜を被つて白けりや、噛りつきたいほどなんだ。」  と、戲らしく言ひながら、得堪へぬ状して、ふと外を覗いた。小彌太の夢のやうな 顏は、霜に更けて、行燈と二つ白かつた。  ト熟と的所〈あてど〉なしに四邊を〓〈みまわ〉す……瞳は酒に朦朧としたらしか つた。が、不意に縁臺を離れて立つ、と二ツ三ツ蹌踉〈よろめ〉いて、慌しげに、 「茶飯屋、」  と聲高に呼掛けた。 「面は、面は、……行燈の中にありやしないか。」  圍の布〈きれ〉を、小彌太は引絞つて出ようとする。  一方から、火鉢に踞つて居た親仁が、むつくと出て、ひよこ/\と廻り状に、屋臺 の前なる、其の梅川の行燈を覗き込むや、フツと吹く……とぼツと車の泥障〈あふり〉 に映つて消える。  小彌太の衝〈つツ〉と出る端〈はな〉を、其のまゝ壓戻す體に、圍の中へ、逆に戻 つて、 「何か、角長な人魂に見えて、尚ほお心持が變に成ります。早や、何事も迷ひの種で ございます。……先づ/\、お落着きなさつて、凡て御分別は、夜があけてから、お 太陽樣〈てんとうさま〉と又、御相談が可うございますよ。」  と、染々言つた。  つく/゛\視て、 「眞個、貴方樣、何うかなされてでございます、お鎭りなさりまし。」        二十二  小彌太は唯腕を拱いた。が、且つ頷いたのであつた。 「……成程、分別はお太陽樣と相談か。あゝ、其の氣で先づ生のびるかな。……爺さ ん、だが何だか樣子が、お前さんは、あの、行燈の名の人と、引かゝりかと思ふ、そ んな氣がして成らないよ。」 「えへゝ、そんな事も、矢張りお太陽樣に照らしてから御覽じるが可うございます… …」 「あゝ、分つた。何だか醉切れない酒が、又腹の底から、きつぱりと醒めた。今の言 で、夜があけたやうだ。あゝ、日の出が待遠しい氣に成つた。御意見は實に難有い。 が、察しておくれ。……此ばつかりが氣に成るから、恁う言ふ中にも、それ、然うや つたお前さんの顏も、矢張、一個の、ものを言ふ、活きた面に見えてならない。」  と瞻〈みまも〉られて、親爺は、もそ/\と、兩手で額から鼻柱を引擦つて押撫で る。  小彌太は正氣づいたらしく、はじめて笑つて、 「睡さうだね、いや濟まん事をした。……おい、若い衆、……にも氣の毒だ。」  と言ふ。車夫は、空にした、茶飯の茶碗を、ト巾着附に腰の邊で。くるりと向うむ きに、其處が板塀の小溝越に、足を投げて、突張りながら、殺さば殺せ覺悟の體。首 を長く、がくりと成つて、先刻から鼾を掻く。其の響きで、茶碗に投げた竹箸が、魔 の魅〈さ〉した狐狗狸と云ふ形で、ひよいひよい。茶飯屋が肩をたゝいて、 「串戲ではない、これ、若い衆、」 「おツ、」と云ふと、小溝へ突込まれたやうに驚いて目を開いた。が、縁臺の腰を辷 らし、ずるりと溝石に膝を支いて、 「辨天、辨天、辨天、」と早口で、上調子に突走らす。  さては寢惚けた、と親爺が、我が顏を指でさし、 「辨天町ぢやない、仕事先だよ、若衆何うしたものだね。」 「お、おや/\此處か、私〈わつし〉あ最う旦那を乘せて曳出したつもりだつけ。」 「むゝ、の、最う出掛けるとおつしやるんだ。」 「氣の毒だね。」と小彌太は外套の襟を立てる。 「えゝ、あゝ、驚いた。何ね、爺〈とつ〉さん、辨天だつて、廓の事を云つたんぢや ない、辨天樣の事なんだ、辨天樣の。」と、まだきよとつく。 「夢を見なさつたかい。」 「ゆめかね、はあ、それにしても、まざ/\と、あれ、直き其處だ。此處を出て、つ い、お不動樣の一寸手前まで駈けたと思ふと、寒參詣〈かんまゐり〉が羽を鳴らして、 お前〈めえ〉、宙を飛んで、五人八人、九人一組、ちり、ちりゝんと、あれ、それ、」  と伸上つて、 「あの音だ。が、路の兩方へ、ばら/\と散つて、踞んで、土下座をする徒〈てあひ〉 もあつてね。……辨天樣がお通りだ、お通りだ――ツてひそ/\言はあ。……やあ、 路を切つちや成るめえと、ぐいと楫棒を壓へた、と思つた拍子に、お前が肩をたゝい たぜ。夢とは知らねえから、風説〈うはさ〉のね、それ、」 「おう。」  と、土地子は頷き合つた。 「お通りつて、誰方だね。」 「もし、高い聲では、勿體なうございますが、冬木の辨天樣でございます。眞夜中に は、其の、時たま、此の邊まで御歩行〈おひろひ〉なされます事がございますので。」 「あの、御堂の?」 「へい……喃〈なあ〉、若い衆、」 「そりや、土地で知らねえものはねえんです。」  言ふ間もあらせず。  ちり/\ちりん、りんーと、上下に音が亂れて、霰が鳴るか。と鈴が響くや、ひた /\と上の空らしい、跫音を潛めたのが、煙の影かと立掛つて、ばら/\と二人づゝ、 屋臺の兩方から、中へ潛つた。 「辨天樣のお通りだよ……」 「拜め、」 「内證で、勿體ねえ。」  唯見ると、向う側の土塀にも、路を開いた寒參詣、白衣〈びやくえ〉を透す星の數 は、水垢離の玉散るばかり、明星恰も月に似たり。        二十三  夜も恁う更けると、晃めく星は灯よりも明るい。消した梅川が薄青く、紙も透通る ばかりに成つて、寒參詣が手ン手に、袖へ、足許へ引着けて、呼吸を凝らして潛まり 返つた弓張提灯の白い影が、輝く明星に冴渡る、大路の霜よりは暗かつた。  蓮歩〈れんぽ〉の音よ、遠くから、からんと鳴つて、玉の近づくが如く響いたが― ―地獄を遁げて星に〓〓〈さまよ〉ふ蘇生〈よみがへ〉つて幽靈めく――寒參詣の侠 〈きほひ〉どもを、路の兩側に踞まらせて、前後〈あとさき〉遠く犬も鳴かぬ、冷た く白々〈しろ/゛\〉とある地〈つち〉に、白銀の絲の響を傳へて、氣勢が近づく。  兩側の棟が沈んで、裳に近く、輿に參る。……其の上を、渡るが如く、すら/\と、 此の梅川の店の前を、汐見橋の方へ、向つて行く時、親仁が控へる袖を拂つて、小彌 太は其でも乘棄てた車を楯に、半ば氣怯〈きおく〉れしながら密と覗いた。  駒下駄が、つらりと照つた。  捌く褄に颯と燃えつゝ、炎の氷つた紅が靡くと、霜の色が淡〈うす〉く搖れかゝつ て、掻消すばかり、弱腰に、帶の錦の雲もないのに、裳は重いまでずらりとした。  打見るも麗〈あで〉なる女性〈によしやう〉。  明星の空の簪や、一輪蒼く、うしろ状に、黒髮の艷に沈んで、頸を白く、……やゝ 俯向けに袖を引合はせして胸をば抱いたのが、行過ぎる端に、ふと見えた、其の面影。 「面……だ!」  と小彌太は呼吸が發奮んだ。…… 「面。」―― 「やあ、旦那、」 「もし、」  と左右から留めるのを、爪立足に、空蝉の殼を脱く如く、すつと拂つた。  不意に車のベルが、リリンと何に觸れたか鳴出したので、思はず一度立淀んだやう だつたが、肩を聳かして横ざまに、衝と行燈を離れて出た。  すつ/\と、一所に、左右から入亂れ、寄合はせて、白衣の影に弓張提灯の淺葱な すまで、星の下に重つた、寒參詣を背後にして、小彌太は唯一人其の女性の後へ。  女性は唯一人前〈さき〉へ進む。  胸を抱いて袖を合はせて、打傾いたまゝ、見返りもしないで行く。  忍寄つた間近に聞く、からんと響く駒下駄には、浮世に通ふ聲はしたが、氣高く飾 つた明星の光は、斜めに插したと見ゆるまで、其の黒髮に照据〈てりすわ〉つて、そ よとも觸〈ふ〉らば鏘然として、地にも落つべく鬢に輝く。  小彌太は氣怯れのみせられたのである。  汐見橋が瑪瑙の白きが如く、女性を迎へて塵をも据ゑぬ。  が、渡らずに、ふいと河岸へ切れて、角家の低い軒の瓦斯燈に、胸はづれを幽かに 映しながら、上から下りるやうに曲つて、霜の横町へ、すつと入る時、女性は身動き もしなかつた。  樟腦の中へ入つたやうに、木の新しい薫がする、暗い門〈かど〉は、矢狹間〈やざ ま〉に似て、城の如き一帶の材木河岸。  深川の水の黒さ。  唯、底あかりが、對岸の屋並を射て、立續く藏、物置、霜に尖つた屋根と屋根は、 鋭くペン尖〈さき〉で描いたる、星の住居のやうであつた。  姿が掻消えさうに思はれたので、つか/\と寄つて、小彌太は我を忘れて言つた。 「面だ!……面だ。」 「あら、見着かつた。」  と言つた聲は、また思ひがけず、婀娜に、情を含んで、男に投げたものであつた。        二十四  小彌太が驚く間もなかつた。 「あツ、」  と、……女性は、地〈ぢ〉の底まで沈む、失望したらしい歎息〈ためいき〉すると、 袖なりに肱を曲げて、立揃へた材木のすく/\と並んだ上へ、背向〈うしろむ〉きに 顏を隱して、トンと身體を投掛けた。音さへ、谺するまで、寂然〈ひつそり〉する。 「あゝ、面だ……矢張り面だ。」と小彌太は、近くへも寄り得ないで、呼吸を切つて、 呟くのであつた。 「面ぢやありません、面ぢやありません。しかし、」  と其のまゝ、袖の中で云つた。其の袖を、しなやかに衝と擧げて、然うして顏を蔽 ふと、亂れた振を透通つて、慄然〈ぞつと〉する雪の膚〈はだえ〉。……扱帶〈しご き〉のなりで、しどけない、寢衣の褄も亂れて居る。  小彌太は偶と差屈〈さしかゞ〉んで、其の足許に目を着けたが、夜の小路の響にも 知れた。――素足の霜に水を搦めて、淺葱の端緒ではあるまじいが、……裳が落ちて、 隱れて見えぬ。 「失禮ですが、貴女、失禮ですが、」 「違ひます、」  と判然〈はつきり〉云ふ。 「違ひませう、違ひませう。が……一寸伺ふんです、貴女はもしか、去年の暮、月夜 に時雨の降つた時、油藏……」  と聲が戰く。 「否、否、」  と頭〈かぶり〉を掉〈ふ〉る、其の鬢が頸に搖れた。 「ぢや、あの、石置場の處を、五大力に乘つて、通つた事はありませんか。」 「否、面ぢやないの、此の美しいのは、此の美しいのは私の顏です。」  と、袖を拂ふと、音もなく、スツとはづれた、小彌太は其の顏がそげたと思つた。 ……女性も亦、殆ど首が拔けたらしく、くな/\と成つて、萎えたる衣〈きぬ〉のみ 崩るゝやうに、ばつたりと腰を落す、……と丁ど横はつて居た角二尺ばかりの材木に 支へられて、褄を投遣りに、僅に扱帶で留まつたのである。 「面ではないのよ。私の顏なの。美しいでせう、ねえ、美しいでせう。」  と言不。左手〈ゆんで〉に取つて、肩なぞへに袖の筋柔かに、小彌太に向けて翳し て見せた。……時に蝋の如く色沈んで、空しき瞳を恍惚〈うつとり〉、眉ばかり、ほ んのり浮く。頬のあたり薄りと玉の雫の血が通つて、死顏ながら莞爾した、白齒もち ら/\と〓〈らふ〉闌けた、得も言はれぬ唇に、濃い紅の紅の色が、霜に颯と薄く冴 え、もの凄いまで美しい。知らぬ昔の小町の首を女性が、其の衣紋も等閑〈なほざり〉 な袖口開けて、面を取つて、差向けた時、手首白く、二の腕透いて伸びたので、恰も、 白鷺の長き頸に、其の青褪めた美女、活きたる首を、みだれ髮で繋いで掛けた風情で あつた。……  見紛ふ方なき浮草小町の面である。  されば、天の簪の、明星の如く、夜行く人の黒髮を照らすと見たのは、名工の鑿の 光が、細工に籠つた燐火〈おにび〉であつた。蒼い影は、時に、女性の鬢を辷つて、 手にした面の其の黛を、どんより照らして、雲の如き下髮〈さげがみ〉の描ける額を 宙に映す。……  あれは萍の名に負ふよ、材木の影は筏を流して、小彌太の地につかず立つ足許も、 水に漾ふ心地であつた。  も一つの顔は袖がくれ。  で、小彌太が又何か言はうとした時、仇氣〈あどけ〉なく、頭を掉つて、 「お乳のやうに、お乳のやうに、兩方の目の突出た、瞼のまくれて赤いのは、私ぢや ない、私ぢやない。」 「え、」 「……居ない居ない、おいらんは居ない居ない、おほゝゝゝ。」  何處で笑つたか、袖の中から、怪い聲が水に響く……        二十五  ――其は、月岡霞、と云ふ……人に知られた女優であつた。――  叔父上よ…… 「ふむ、」  と小庭の日當りを、障子に嵌めた硝子越に、茶の綿入羽織の背に受けたにも係らず、 蔭に向いた目を眩しさうに、半眼に閉ぢながら、 「ハイカラのお狂言師と云つた、當世流行のものだな。」  と世に疎い言を、弱つた聲して、掠れ/\に言ふ。……老いたる孫六は、其ばかり か、見舞の人々をも、件の小庭の彼方なる、茶の室つゞきの座敷に殘して、家にさへ 疎く、大儀さうに置炬燵に膝を入れて、其でも、端然として、……膝に縞毛布〈しま げつと〉を捲きながら、繃帶の手を、胸の處へ、迷つた體にトボンと置きつゝ。……  高臺と一家〈いつけ〉で言ふ……襖で仕劃つた、細長い一室〈ひとま〉は、催しの 時の特別室。上段の席で、襖の外は一段下から、人數四五百を容るゝ、廣い棧敷、― ―正面に舞臺がある。  其處へ、世を避けたと云つた體で、小彌太と差向ひに悄然〈しよんぼり〉と叔父は 寂しく居た。  元氣はなくても、恁うして起直つて言を交はすのが、小彌太には不思議なくらゐ、 孫六の容體は又思ひの外、見直したのであつた。  此の日、四五日ぶりで、はじめて叔父の家を訪れた小彌太は、門近く成つて、わや /\と人聲が響いたのを聞くと、驚破〈すはや〉と胸を打つほど、憂慮つて居たので あるから。  しかし、駿河臺の裏小路の日中の戸外〈おもて〉へ、其の人聲の、力強く、漲るが 如くに響いたも道理。座敷に集つた見舞の連中、いづれも能樂界屈竟な若手の面々。 で、卓子臺を二個〈ふたつ〉繋いで、四人づらりと紋着を揃へて、ビイルの瓶やら銚 子やら。……病人で取込みの所、肴らしいものも無かつたけれども、二種三種〈ふた いろみいろ〉。で、……珍らしく髮を結たてのお縫が、茶の間にお燗番と云ふのを勤 めて、叔母は臺所を指圖して居るらしい。  其の人々が、膝突合はて、肩を寄合つて取卷いた卓子臺の片端に、一人ぐつたりと 手を支いて、それでも些と飮〈まゐ〉つたか、耳朶を赤くして、釣船矢右衞門……控 へてござる。  此處へ、……小彌太は勢よく入つたのであつたが。  顏は合はす、が、仕事が違つて、然まで心易くはないので、つい通りの挨拶する、 とすぐに茶の室へ、と思つたが、お縫と並ぶのを見せがましいので、間をおいた、古 代八角時計の今でも掛る、柱の根へ座を寄せた。  腰も落着かず、叔父の容體を訊くと、 「お宜しいです。」 「祝杯を擧げて居ます。」 「此の通り。」  と猪口を片手に銚子を添へて、衝と兩手を擧げたのさへある。  小彌太は、はじめて吻と息を吐いた。  然も、時雨の水に流れたのが、降〈お〉りかはつて、銀河から霜と一所に降りたや うに、思ひも掛けず手に戻つた、當家秘藏の龍神がへし、浮草小町、今や此時、此に あり。  其を叔父の手に納めに來た――(深川の昨夜の今日で、)――面は、頸に掛けて、 堅乎〈しつか〉と内懷に守護して居た。  お縫に、聲を掛けようとした時、件の高臺で、ト一ツ拍つて、間拍子を外づして遣 り直したかと思ふ、冴えない手の音がホトンと鳴る。 「あい、」  と立つて、お縫が通廊下をばた/\と行つた。が、少時すると、其の肩へ片手をの せ、繃帶の手をもそりと垂れて、眩しい目つきを半眠りに、もの珍らしさうに我家の 天井を仰いで見ながら、足を摺ずらして、よぢ/\と孫六老體が顯れた。  怪我してから、茶の室へ出たのは、六日目の其の日が、初めてであつたと言ふ……        二十六 「やあ、若旦那、」  と矢右衞門が、會釋より前に伸上つた。が、片膝支いて白足袋の踵で極つて、ぴた りとした腰形〈こしつき〉は、八十五でまだ尾を見せぬ、孫六に十年〈とを〉の古コ ンクワイ。  お縫に漸つと坐らせられた、孫六は座に着いて、瞼をまじ/\と、一座を見て、そ れから、……ほうけた鼓草〈たんぽぽ〉とある頭〈つむり〉を下げたが、胸に入れた 繃帶の手の甲へ、痩せた頤の附着いた状は、見る目も窪むまで衰へたものであつた。 「これは、誰方も、難有い。」  叔母も出て、嬉々〈いそ/\〉して、叔父、甥の中へ、膳が一個。別に据ゑられた 頃には、若手の氣焔は、當るべからず。こゝに墓から出た状の、病人を祝するために、 彌が上に壯に成つた。 「大先生、然うお元氣がなくつちや不可ませんな、――毎度難有い――なんて見舞を お喜びなさるやうぢや心細い。」 「不斷の調子で、や、並んだ獸は散切かい。大森鬘で可し、島田髷で顯れろ、と、あ の御勇氣でなくつては、」 「第一、若いのを傍にお置きなさらないから、餘計に年をお取んなさる。」 「お縫樣がおいでぢやがの。」  と、時に矢右衞門が口を入れた。 「君だつて、」  と可恐く、若いものに扱つて、 「内々探して居るんぢやないか、」 「經師屋の方が本職でせう。」 「これは、如何な事、」  と爺樣は疊んだ手拭で口を拭いて、其のまゝ默つた。 「えゝ、先生、先生がお好きな越後上布に緋縮緬、色白と云ふのを何うなすつたんで す。」 「お待ち/\、寒だと云ふのに、越後上布を何うするんだい。」  一人〈いちにん〉傍より、 「結構です、長襦袢一枚だと思へば大抵同一〈おんなじ〉でせう……雪の降る晩なん ぞと來た日にや、へツ、」  と頬邊を叩く。 「理だな。」  と、はじめて口を利いた孫六は、猪口一ツ取らうとしては、ぶる/\震へる指を、 其れなり引込めて、まだ飮まず、目を瞑〈ねむ〉る。 「でせう、帷子に緋縮緬なら。何でも構ひません、是非介抱人にねえ。」 「大先生、此の人は、それで、お下りを頂戴と申すんでございます。」 「馬鹿、汝〈おまへ〉ではあるまいし。」 「否、事實です、近頃八方塞りで、」 「塞りでもね、しかし、それは違ひます、此の人は専ら、年増を……」 「止せ、止せ、」  と二の腕を掴んで、ぐいと引く、と引かれたのが、小さな聲で、 「此處へ觸らせるんぢや、談判が屆くツてね。」 「眞個か、」 「此奴當つて見る氣だな、大先生、此の人は?」 「止せ!」と又腕をぐいと、掴んで引く。 「其處だ、……其處を喰着いた。」 「畜生め。」と故々端の方から、一人づいと立つて出て、右の(其處だ)の背中を撲 〈どや〉す。  ワツと笑ふ。  いや、壯なる事かな。……  此の間に矢右衞門狐は、つるり、と海鼠腸をして遣つた。唇を嘗め/\、何か寂し さうに爺樣がいはゆる――若旦那の姿を見る、と見らるゝ七十五の若旦那は、お縫が 一寸敷いて置く、膝の手巾の上へ水洟をぼた/\落す……其の癖、片手にづかりと折 つた、懷紙をたしなむのを見て、小彌太は胸を抱いたのであつた。        二十七  話頭〈はなし〉が一轉した時、小彌太は、じりゝと其の四天王に膝を向けた。 「何うしたんです、」 「えゝ、實はお縫さんも困つて在らつしやるんで……ねえ。」  お縫は默つて頷いた。 「霧島皐月と云ふ、それ、評判の女優ですよ……」  こゝにも一人、月岡霞、――と小彌太は人々の顏を視た。 「其が?……」 「此の間九段坂で、大先生がお怪我をなすつた時、車を飛ばして通り掛つて、……お 勦〈いたは〉り申して、下駄まで拾つて、お世話をした、其の美人なんです。……」 「皆が評判でした、あの日、能樂堂へ來て居て、其の歸途だつたさうですよ。」 「直ぐに、翌日から毎日のやうに、お宅へお見舞に來るんですがね、先生が、よく禮 を云へ、とおつしやるばかりで、叔母さんと、お縫さんに、玄關で立切らせて、何う してもお逢ひなさいません。」 「先方〈さき〉はね、豫てお目に掛りたいと存じて居りました、此を御縁に――なん のつて、品ものは持込みますしね。昨日なんざ、叔母さんもお縫さんも困つ了つたつ て、私と此の人とで斷つたんですがね。」  一人口を入れて、 「病院へ押掛ける、金色夜叉の滿枝つて所ですな。」 「全くだよ、お前さん。」  と膝に手を組んで叔母が其の時…… 「何うしてお逢ひなさらないのかね、氣の毒で困るんでございますがね。」  孫六は、じろりと見たばかり。 「先生は、實際手近な所、あれを、お引附けなんか、洒落れてるんだけれどもな。」 「いや、……洒落れてるより妙藥なんだよ。」 「そんな藥があるんなら、私も九段で轉びたい。」 「小彌太さん、」  と從姉が呼んで、 「今日は丁ど可いから、貴下が取次いで下さいな。」 「叔父さん、」  と杯を置いた時、……打傾いて聞いて居た矢右衞門も、向うから若旦那の顏を覗い た。 「何うしてお逢ひなさいません。」  二つばかり掠れた咳して、 「兎角大儀でな。」  と云つて、元來が凛然として聳えた肩を、ズツと落して、膝の上へ、ぶる/\と手 を辷らした。ト同時に、ほうけた頭を下げて、 「いや、誰方も、――此處へ別嬪が來ると困る……」  口々に、お大事に、お大事に、先生、お大事に。 「若旦那、高臺へお引取りか、」  と矢右衞門は、なごり惜さうに、又伸上つて言つた。 「棚の達磨とします、いや、くすぶつたものさね。」  と若旦那、頬をがつくりと苦笑した。 「腰拔けを頼むぞ、やあ、えい。」  で、お縫の背に縋つて立つたが、 「一寸、此方へ……」  と其の時、何氣なく小彌太に聲を掛けた。甥は、飛立つばかりに思つたらう……氣 を急くばかり、恁る席へは持出して所謂〈いはれ〉の言へる、……其の面ではなかつ たから。 「御緩り……後で、女優でも論じませう。」  と立上ると、仕出來〈しでか〉した我が過失〈あやまち〉ながら、こゝに償ふべき 懷中の浮草小町に、廊下を傳ふ中庭越、小彌太は何か嬉々した。  ――さて、差向ひに成つたのである―― 「お前〈めえ〉のもお狂言師か。」  と病氣も交つた卷舌で、便なささうに煙管を取つた。 「俺の方も女役者だとよ、兩花道は尋常〈たゞ〉ごとでない、どつちか一個は化もの だらう。」        二十八 「はてな、――居ない、居ない、ばあ――は可厭だ。で、顏を見せると、目の球がぶ らりと出たか、――ふん。」  と若い時の一人旅、一本差の、のめり笠。道中合羽を吹煽つ、箱根の暴風雨〈あら し〉の夜路して、賽の河原に、ひら/\と白いものの動くを見たより、可恐い事を覺 えぬと云ふのが、此の時、陰に籠つた顏して、 「何とか云つたな、名は?」 「女郎のですか。」 「おいらんと言へ、俺の前だとて遠慮はない、可哀相に……」  と眦の、尚ほ其の上へ皺を刻んだ。が、浮草が返つたためか、思ひの外に呂律も亂 れず、 「茶飯行燈、それは覺えた。……今の其の面を被つて居たと云ふは?」 「月岡霞――と云ふんです。」 「は、化ものにも名があるか、」  と又世に疎いものを言ふ…… 「叔父さん確乎〈しつかり〉なさい。」  と小彌太は笑つたが、 「おい/\、」……と鼻をかんだのを見る、と翁寂びたのがうら寂しく、引入れられ て色を沈めた。 「化ものぢやありません。其の婦は氣が違つて居るんです、――世間體は、たゞ病氣 のために、久しく芝居の方も休んでる事に成つて。――  尤も豫て病身な所から、深川の木場の可恐く娑婆氣な、年紀の少〈わか〉い材木問 屋が、不斷、色氣離れた……と云ふのに詮索は要りません、……大贔屓な處から、そ れ/\へ運びを附けて、木場の其の自宅の何です、數寄を凝らした離座敷と云つた所 で、養生をさせました。湯治場廻りも飽いたと云ふので――  其の座敷が、肱掛窓の欄干から、すぐに水で、襲ね蒲團で、釣も出來れば、蘆の月 も汲めるんです。  自由がきいた我儘もあるんでせう。ぶら/\疾病〈やまひ〉、どつと寢て居るつて 程ではないので、月夜なんぞ、川筋をぶら/\歩行く。……容色〈きりやう〉は固 〈もと〉より、評判な姿の好い、身體に品のある婦なんですから、水を隔てたり、橋 の彼方此方〈あちこち〉で見たものが、辨天樣の御影を拜んだ、お姿をあり/\と… …分けて界隈の婦たちが眞面目に風説をしたんださうです。  彼處の辨天樣は、よくお立出でに成る、高い塗下駄をめした、それが、晃々〈きら /\〉と光つて、からころと音がして、あの、池の向うから拜まれると、昔から言ふ さうですね。」 「言ふとよ、」と孫六は目で頷く。 「貴女を辨天樣だつて申します、否、眞個の御堂の中の……かなんか、傍のものが言 ふので、つい、自分でも許す容色だもんですから、好事〈ものずき〉に、歩行くのを、 夜分、池の周圍ばかりにして、月夜には……暗夜〈やみよ〉だと故々鐵燈籠を女中に 持たせて、それに殊更に褄下ばかり低い所を照させて、からん、ころんと……別誂へ の高木履に、晃々蒔繪を蒔かせて、しまひには白無垢で、片化粧なんかしたんですつ て。」 「事を好んだな。はな、」 「怪しからんぢやありませんか。」 「いや、然まででもあるまい。」  とむず/\と顏を掉つて、 「婦が、辨財天にあやかる……學者を眞似るより殊勝〈しほら〉しからう。容色自慢 も、美しければ歌を詠むより頼母しい。」  と又早や世に後れた事を言つた。が、小彌太は――仔細あつて、恁う言はれるのに 便を得た。其處で、合せかゞみで、 「眞個〈まつたく〉です、叔父さん。」 「けれども、惡くすると、八朔の傾城めくな。」        二十九 「處で――又其の遊女なんです。叔父さん……此は冬木の辨天樣へ、……茶斷鹽断… …と云つた處で、茶も鹽も勝手には成らなかつた落魄〈おちぶ〉れやうでありませう が、……斷食と云ふ一念で、毎晩日參をしたさうです。――其の目の球の赤剥げにぶ ら下る、骨と皮ばかりで、下腹の膨らむ、難病の願掛けに、――  ――此が一夜〈あるよ〉、霞と御堂で出逢ひました。」 「は、はあ、容易ならぬ。」  と煙管の頬に煙を留める。 「半狂亂です、裾に縋つて、伏拜むと、女優霞が、役者だけに心得て、すつかり女神 になり澄まして、(治して遣る。)と言つたんですつて。……  勿論、花が、其の色、其の香を、他と競ふやうに、殆ど、自分の職として、美しく なければ成らない美しさに、美しいのはほこつても、人の醜いのを嘲つたり、弄〈な ぶ〉つたりする婦ではないつて言ひます、霞は……  霞も、實際、豫て聞いて、聞くだけでも慄然する、居まはりでも風説の高い、おい らんあがりの、其の難病は知つて居たさうですから、眞個、あゝ氣の毒だ、可哀だと 思つて、……辨天樣と思ふもの……少時でも氣の易まるやう、慰むやうに……と其の つもりで言つた事ださうですが、――人間、あはれむのは可い、氣の毒がるのは可い、 けれども憐まれたり、氣の毒がられたりするくらゐ、そんな情ない事はありますまい。」 「むゝ、……」と孫六は深い息。 「……知れずに濟めば無事でした、けれども其が知れたんです。  其まで、たとへやうのない屈託をして、生命がけの心願しただけ、さあ、夢でも現 でも、現在、治して遣らうと告げられたので、甦つたやうに成つて、非常に喜んで居 たさうです……  處へ、嘘だと分つたでせう。辨天樣は霞と聞いて、それが人も知つた美しいのだ、 と云ふだけに、えゝ口惜しい、口惜しいと、難病の遊女は赫と逆上せました。固より 心痛のために、氣も上ずつて居たつて言ひます……石置場へ沈みました。  と二三日、死骸が上らなかつたつて言ふ事です。  霞は湯上りの膚へ、櫻の影で、我ながら、姿も心も世に類なく、ほんのりして、其 の肱掛窓から、春の暮を視めて居ました。  秋のやうに、水が澄切つた日だつたさうです。  鰻でも水の上を渡ると思ふ……黒い筋がスーツと浮いて、急ぐやうに近寄つたんで す。  最う、欄干の下、二三間さきから水死人だと知れました。  直立つて言ひませう、あの形で、兩手をぴつたりと兩傍へ、腰の左右へきしツと着 けた……浮いてるのは、其の頭〈かみ〉の髮〈け〉の解れたので、がつくり、叩頭 〈おじぎ〉をするやうに俯向いた。が、すつと、水の中に立つて居ます。  肩が、水面へすれ/\で、紺の筒袖の尻切なのを一枚着て、帶が無い。……重石 〈おもし〉をつけたやうに裾をひた/\と卷いた切が蒼味がかつて、透通つて、眞白 な胸が、乳もふつくりと、脈を打つか、蒼い筋。  それは、活きてる時も、まつたく色の白い婦でした。」  と、フト默つた。  庭越の座敷には、折から、火の燃えるが如き笑聲。襖の外は、何處とも言はず、枯 野の草、空棧敷が、凩を吹上げると、舞臺の屋の棟をかけて、ぎしり、みしりと鳴る。  小彌太は炬燵へ擦寄つて、 「其が其の寒いやうな水に透いて、半身が見えたと言ふんです。が、腰、裾は、矢張 り見えて居て、そして、何れだけ長いんだか、づツと水底まで屆いて、まだ、其の下 へする/\と曲りもせずに、眞直になつて限りがない。……」        三十 「其が、急ぐやうに、スーと流れて來たんでせう。ですから、遁げる間もない。あ、 あ、と霞が。  欄干の下を通ると見ると、水草の根が切れたやうに、底から、ぼろ/\と靜かな水 銀の泡が立つて、ぶくりと仰向に成つた顏が、其の赤めくれの、どろんと目球がぶら 下つて、――私は話すのも氣の毒です――一目見るうちに、何うしたんだか、手は手、 足は足と一ツづゝに岐れて、首も離れた、乳のついた、腹ばかりが、先へ立つて、ず る/\引ずつて流れて行く。  大概なものでも、――叔父さん、其を、何と……袖へ花片が散つて掛つたのも、其 のまゝにしようか、拂はうか、と一時苦勞をする女。土左衞門の、そんな顏を見て、 氣に爲ないで居られますか。何うしよう、何うしよう、あんな顏に成つたらどうしよ う、と其ばかりを苦に病んで、寢ても忘れられなかつた果は、――霞は氣が違つて了 ひました。……  自分では、霞は、……それですから、目の球が兩方、頬邊の上まで下つて、額が拔 上つて、腹ばかり膨んで、身體は骨と皮ばかりと、狂つた心で、然う固く信じて居ま す。  ――ですから昨夜、夜中に、深川の河岸の材木の中で、私が其面を見着けました時、 ――貴方は、大事な面を剥〈ぬ〉がせて、目のぶら下つたのを見たいのですか、ばあ ――」 「氣取るなよ。」 「――ばあ――と袖から顏を出された時は、思はず、膝が、がくんと成つて、」 「腰を拔いたか。」 「え、」 「時々拔く……」と苦笑。 「其の癖、其の美しさつたらなかつたんです……私は死んだ婦の事ばかり氣にして居 たもんですから。……  寒參詣が後からついて來た、と思つたのは、然うぢやありません。霞を探しに出た 材木問屋の男どもで、弓張提灯で、同じく照して、其の少い主人も居ました。  茶飯屋の親仁も憂慮つて、其處へ見に來てくれました。――もやひ身上で、死んだ 遊女と實は同居して居たんですつて――梅川の行燈は、供養のために、玉菊を弔ふほ どな意氣組の燈籠のつもりだ、と恁う云ふんです。  此方は、面を取戻す……其の話が入組むので、材木屋の主人も、斷つて、と云ふ。 昨夜は木場の其の霞の座敷で泊りました。可厭な事には、病人が、何時誰に聞くつて 事なしに、死んだ婦の、不斷、饒舌つたり、言つたりした事を覺えて、同一やうに、 遣るんですつて。辻褄の合はない、續きのない、蒼空へ、颯と雨が降るやうに――小 彌太さん――と呼ぶ事がありましてね、其處に居るやうです。えゝ、腹の中に、天井 裏に、屋の棟に……  此方も惱み拔いて、夜が明けたと、思ふと、がつかりして、埒くちはありません。 正午〈ひる〉まで寢て、それから此方へ參つたんです。  歸る時分には、霞は、すや/\と寢て居ました。――  何でも、流れて來た死骸を見ると、途端に半鐘を打つて摺るやうに、胸へドン/\ と責めて來た、激しい動悸が、其つ切、今以つて鎭まらないんださうです。  霞は又、豫て氣にする處から、遊女の其の目のぶら下る病氣つてのを、――止せば 可に、醫師にも熟〈よ〉く聞き/\すると、はじめは心臟病ででもあるかと思ふ、激 しい動悸で、其の動悸で、血も肉もふるひ落して、腦の奧から、トン/\と、恁う日 に増し前の方へ目の球を突出すやうに成るんだ、……と其を知つて居たもんですから、 鎭まらない動悸を氣にして、目を突出す、目を突出すつて泣いたんですつてね。  成程、今以て、鎭まらない。美しさは尚増したつて云ふのに、動悸ばかりは、寢て 居る時も、手の先へ傳つて、指が横刻みにぶる/\。」  あゝ、惡い事を云つた……        三十一  頷くのが病氣らしく、顏がふら/\と横に搖れて、 「はあ、手がぶる/\……」  と釣込まれた體に、孫六は着膨れた折目の正しい、無地の一樂の袖を衝と開いて肱 を張る、ト衣紋に屹と添ふ手練の位。舞扇を手に恁う指さば、月も花も誘ふべし、龍 宮の浪も卷くべく、鬼神の影も宿さむを、何事ぞ、袖口に手はすくんで、指はぶる /\と肩から震へた。  熟と其の袖を流眄〈しりめ〉に掛けて、 「何だ、此方は、よい/\か。」  とハタと、檜笠取つて、擲つ如く、炬燵に落すと、――丁ど掛蒲團に懷紙折敷いて、 金襴の袋のまゝに据ゑてあつた、浮草小町を、わな/\と取つて、引寄せて、膝に置 く時、フト心着いたやうに、はじめて繃帶の左手〈ゆんで〉を下ろして、膝を組んで、 掻抱くが如く差俯向いた。 「手も震へるか、氣の毒だな。」 「それで居て、寢て居るうちに、其の面をかぶるんです。――面は、矢張り私が遺失 したか、奪られたかしました晩、月の時雨に、冬木渡で、霞が目敏く見着けたんです。  ――船に居たのは霞でした。  季子の劍、と材木屋の主人は、額を押へて言ひました。豫て五大力の新造へ、自分 の座敷から、欄干を飜然と乘つて、大川へ遊びに出たい、と霞は始終望んださうで。 人の榮耀〈ええう〉と云ふものは、水を廊下に爲たいらしい、驕つたものは、昔から よく、遊山船を造るんです。處が、出來上つたのに、當人の氣が違つたのは遺憾〈の こりをし〉い。切めては、と云ふので、其の船を漕出して、隅田川から、川施餓鬼を しながら戻つたのが、あの……其の晩でしたつて――  叔父さん、此の面をなくしたんでは、私は腹を切らうと思ひました。」 「嘘を吐け、」と、又苦笑する。 「拾つて被つてる婦〈ひと〉が居るんですもの、霞の氣違ひ、飛んだ目に逢はせまし た。」 「落したのはお前の癖に、」  と優しい顏して、 「別嬪は、拾つてくれた恩人だ。いや、何にしても、無事に戻つて俺は嬉しい。」と 錦のまゝ、兩手に翳して押頂く。  小彌太は、此を見て猶豫〈ためら〉つた。 「叔父さん、」  と呼んで、又出直して、 「……それで、實は……、其の事に付いて、少しお願ひがあるんですが、何ですか、 叔父さんは、女役者はお嫌ひですか。」 「お尋ねで恐入る……女は好きだよ。」と口を歪めて、皮肉な鼻の前、フヽン。 「否、ですが、女役者は、」 「御念に及ばん。若い時も狂言師に惚れたのがある、……妙な事を何で訊く。」 「けれども、九段で介抱したのが、毎日のやうに見舞に來るのに、叔父さんは、お逢 ひなさらないと……彼方で、今も、」  此を聞くと、ぶる/\と膝を拍つて、胸で息して、 「同じ藝人、疎略には決して思はん、技の熟未熟は其の仁の修行次第。役者だと云つ て婦と云つて、遠ざけるでは、毛頭ない、が、小彌太、」  呼んで、顏を見て、目を閉じた。 「孫六は年紀を取つた。女は分けて、對手の男の顏を見る。……舞臺に立てば、姫も 御前も參られよ、ぢやが、此の、よぼ/\の皺面が、」  と骨ある拳を確乎〈しつか〉と握り、 「炬燵の臭氣〈にほひ〉で逢うて見ろ。老ゆれば孫にも侮らるゝ……修驗の法師や、 羅漢でない。能役者とて藝人だ。やれ、薄汚い爺ぢや、と婦一人にも思はれては、流 儀の恥辱、俺の名折れよ。……なみの娘は然うも見まい、藝人だけに心外でな。」  と羞づるが如く面を伏せた。        三十二 「然ればと云つて、見舞とある、遁げ切りには成るまいか。處で、まだ得起ずと寢て 居る時から、此の面をお前に急いだ。  面を着けて、面を被つて逢はうと思ふ。尤も、面は外にも多い。同じ浮草の模寫 〈うつし〉と云ふのも、二つ三つは心得て家にあるが、中にも第一の名品を選んだは、 先方が藝人ゆゑに、其の藝に對する禮儀だ。  西石垣〈さいせき〉のお花を狙ふ坊主ではなけれども、謠講中のお布施をくすねて、 柳橋へ獺で出た……化ものとでも言はれう事か、粹な年増がお爺樣、若い妓〈こ〉に 御隱居樣、と言はれてな、最う弗〈ふツつ〉りと其つ切、白粉の香を知らぬ事、それ から丁ど、やがて十年……  女役者に面で逢ふ、眞晝の花に頬被よ。月夜に蓑だな、山田守る僧都とこそは成つ たもの。  小彌太、お前の母親〈おふくろ〉は、若くつて死んだつけ。」とぽた/\と、あゝ、 水洟。  小彌太は思はず、ほろりとした。 「時に、其の頼みと云ふのは何だな……」  と打解けた體ながら、張つた氣の緩んだとも見える、胸を緩りと炬燵に凭れる。 「えゝ、ですが、何ですか、今のお話で、思ふやうに口が利けなく成りました……最 う申すまいかと存じます。」 「言つて見ろ、遠慮は無い。はあ、何か、――それにつけて、とあつたつけな……面 の事かな小彌太、」 「はい。」 「何か、此の面が欲しいとでも言ふか、其の別嬪が。」 「否、材木屋の主人が手を支いて頼むんです。霞は固より、昨夜も今日も離しますも んですか。寢て居る所を、そつと外すと、アツと言つて刎起きる、手足を傍で押へま した。見て居ると、活きながら顏の皮を切離すより殘酷なんです。  最う、面が手に入つてからは、自分の顏がもとの通りに治つたと思ふかして、美し いでせう、美しいでせう――と嬉々して、同一氣が違つて居ても、然して不斷とかは りがなく、嬉しさうに活きて居るのが、せめてもの心遣りだと、傍のものが皆言ふん です。」 「むゝ、寢ても小町、覺めても浮草、面を離さぬ手も震ふか。」  と衝と引いたる片袖は、最明寺殿を麾〈さしまね〉く、佐野のわたりの趣あり。雪 もちら/\と袂が搖添ふ。 「不足なく寄る年なみよ、天道が刻んだ皺さへ、罪なきに天の網かと情ない。察し遣 る……其の別嬪、餘りに最惜〈いとし〉い。……  が、小彌太、お前もちよんきなだ。」  と、調子が碎けてニヤリとして、 「婦ゆゑには性根を亂いて、けちな非望〈むほん〉の連判状に、針で血判を仕兼ねぬ 野郎だ。」 「えゝ、」 「何か、娑婆氣な、其の材木問屋など、木場の鹿ヶ谷へ集つて、寶生別家の重寶を奪 ひ取り、穿違へた所作事に、其の婦に着せて出して、喝乎〈やんや〉と世を騷がす企 みではないか。」 「否、叔父さん、其がです、藝の方で、心願掛ける、守本尊にでもしたいと云ふと、 またもお願ひをする勇氣があるんですけれど、霞のは唯、美しく成りたい、と其ばか り、顏を氣にして氣が違つた、心得違ひで。」 「慌てるな、突走るな、其だから、お前は、ちよんきなだ。」  美しいのは女の藝だ、姿だ、徳だ、位だ、それが智慧だ、且以つて道だよ。  あゝ……其の死んだ遊女と言ひ、實に察しる。美しいがために活きて、醜きが故に 亡びる。身を投げた、氣が違ふ、可哀ぢやな、眞〈しん〉以ていぢらしい、あゝ。」  とべそを掻いたる口つき。        三十三 「いや、鬼神に横道なしと言ふ、心ばかりも、其の婦が美しく成つた、と思へば、死 んだ遊女の功徳にも成らう。  面は惜まぬ。」 「叔父上。……」 「が小彌太聞け、浮草小町は俺が家に傳へたが、此は一人私すべきものでない。流儀 の寶ぢや。人間淺間しい我利々々の身贔屓には、同宿ならばお前さな。けれども、小 謠の一つも成らぬ、切めてはお縫が、」  と老の目に、堪へあへず、掌をひたと當てて、 「舞も鼓も見眞似、聞く眞似、人並には心得たが、此は婦だ。凡て家に藝を傳ふるに、 女子が中を繼ぐと跡が絶える……又慌てるな、女役者を言ふのではない。  すれば、あれ、あれを聞け……騷ぎよ……な。……あの中には、橋辨慶の稽古の時、 大薙刀を飜然と使うて、足踏をしたと思へ。……何か怪しき臭のする繃帶の切を落し て、〓〈どう〉と成つた鬼若な、京へ行けば一見茶屋で、羽織を脱いだ由良之助よ。 かつぽれの大家も交つて……豪傑儕〈がうけつばら〉がいや、其が頼母しい。  都育ちが揃つたわ。身代の首澤山、一人を見立てて讓るべき諏訪法性の、お前と云 ふ狐めが綾なして、ちよろりと姫君に拔れては、我が私に成り過ぎて、第一本家藏前 の大師匠にも相濟まぬ。  斷つて讓られん。が、容色のために、もの狂ふ、殊勝さもいぢらしい、はて、」  と活きたる面の如く、と寂とした。  座敷の方も寂然する。 「思着いた小彌太、明日にも、其の人をこれへ呼べ。」 「霞を。」 「いづれ附添も來ようが、其は別に控へさせて、別嬪だけ舞臺へ連れろ。こゝに、小 面、泣藏、美女の面が數ある。浮草小町の模寫もある。四天王の面々に、老いたれど も獨武者よ、俺ともに五人な、同じ面を並べて見せるわ、一念なれば見分けが着かう。 其の中から、其の女に此の名品を選ばせろ、見事見分けたれば……確〈しか〉と讓ら う。  よし又、ものを見損じて、今出來の面に手を掛ければ、其以て尚ほ仔細ない。當人 の心さへ濟めば重疊ぢや。むゝ!……」  と又ハタと手を拍つたが、辷ると他愛なく膝に支いて、 「善は急げ、翌日と云へ。」――  向う座敷は大陽氣で、 「鶉舞を見さいな/\。」と一人が囃す。 「唯今の肴に、鶉一羽射んとて、小弓に小矢を取添へ、彼處や此處と探いた。」と、 矢右衞門の聲である。 「鶉舞を見さいな/\。」 「さればこそ鶉が、五萬ばかり下りたぞ。多き鳥の事なれば、うそも些と交つた。」 「鶉舞を見さいな/\。」 「興がつた鶉で、一羽も騷がぬは、弓の下手と思ふか。唐土〈もろこし〉の養由は、 雲井の雁を射落す、我が朝の頼政は、鵺と云へる化ものを、矢の下に射伏せた。」 「鶉舞を見さいな/\。」 「其ほどにはなくとも、射て呉れうぞ鶉と、一の矢を番へて、よつ引き〓〈へう〉と 放せば、一の矢は外づれた。」 「鶉舞を見さいな/\。」 「二の矢でしてのけう。二の矢もひよろ/\。靜まれ、童〈わらんべ〉。そのやうに 笑ふな。三の矢で射て取つて、羽を拔いて取らせうぞ。」 「鶉舞を見さいな/\。」 「三の矢もこそ/\、これほどの鶉に、弓も矢も無用な、一度に手取りにしてくれう。」  哄と笑ふ。…… 「手塚の太郎と引組んで、討死々々。」  と屋根廊下を棧敷の續きへ、生年八十有三の矢右衞門、若い聲を擧げて大人氣ない、 大分過ごされた、てら/\の兀頭を、高臺へむくりと顯す。 「御老人、見物は何うだね。」  太郎冠者、やゝあつて、威儀を正し、膝にしやんと手をつき、 「御上覽以來のお催し、一段でござる。」  ――其の上覽の時や如何に。何時の催しにも、恁ばかりと思ふ、森嚴なる威儀を正 して、黒小袖、勝色小袖、十の袂、袴の色々、五ツの綾、黛同じ上〓〈らふ〉が、冷 たき霜の橋がかりを、雲の深山の松の影。二の松、三の松かけて、足に落葉の塵もな く、墨繪の天女の俤揃へて、錦の帳〈とばり〉を出でたるぞ。浮草小町は誰ならむ。  就中〈なかにも〉、新海孫六兵衞が七十五歳の端麗さよ。  驚かれたのは其のみならず、見物の釣船弥矢衞門。此の爺樣、肩に掛けて、風呂敷 づつみ持參なり。平時〈いつも〉は經師屋が内職ゆゑ、孫六が豫て註文の狸の表裝出 來〈しゆつたい〉か、と思ふと違つた。……麻上下の紋着である。――これは臆病口 へ、すいと廻る。  霞を乘せた自動車が、此より先に着いて居た。  竪川とて、其の材木屋の若主人も、羽織袴で、女中たち二人と來たが、座敷で、叔 母が出てあひしらふ。  其の日、霞は美しく髮を上げて、白に裾模樣を襲ねて居た。介添して恁う出で立た せた、主人も床しく、其の人は尚ほあはれであつた。  棧敷の歩行〈わたり〉を、優しく霞の手を取つて、導いたのはお縫である。 「さ、何うぞ、御師匠さん。」  小彌太は此を聞いて、人の世の藝人の榮譽を思つた。霞をお師匠さんと云ふ、―― 一人殘つた――孫六の、此の末の娘は。幼より飼鳥に鼓打つて聞かせ、齊眉〈かしづ〉 く人形に舞うて見せた、所帶をつもる二尺指、肩を拍つのも法に合〈かな〉ふ、比類 なき舞の上手である。  潛りを入ると、深き樂屋の大姿見に、二人の姿がちらりと映つて、其から、やがて 橋がかりを手を曳いたが、背後へ廻つて、靜と据ゑる。……霞が舞臺に着いた時、お 縫は小走りに引返して、高臺を背後に、小彌太が彳〈たゝず〉んだ傍へ來た。  其の時、豫て差置いた、舞臺に五ツ、用意の床几、葛桶〈かつらをけ〉はありなが ら、袖を聯ねて、端然と立つて居た。五人の中に、大鼓〈おおかは〉の座のあたり、 一人正面に向直ると、劍の如く鍛へた聲して、 「やあ、小彌太。」  と呼んだる孫六。 「俺に別嬪の惚れる處を、後學のために見て置け。」と言ふ、三年ぶりの大音である。  小彌太は、お縫と棧敷に並んだ。  時に、葛桶にすらりと掛けた。揃つて、屹と霞を見る、氣組は然れど、俤は、氣高 く〓〈らふ〉闌けたものであつた。  ト命ぜられたる如く、しだらくに坐つた霞が、はらりと立つた。が、彼を見、此を 見、行き戻り、繞〈めぐ〉り、廻り、起つ居つ、惱み、亂れ、惑ひ、迷ひ、〓〓〈さ まよ〉ひ、松を叩き、柱を探り、〓〈どう〉と倒るるとすれば、はツと起きる。…… ト恰も拔持ち膝に當てた、舞扇の疊んだ色が、晃々として絶壁紺青の怪しき巖に仙境 の月幽に映して、裂目の草を射る中から、五個の顏が差覗く。……霞は、あはれ、貴 〈あで〉に艷なる數の魔に弄ばるゝ趣見えて、あせり狂ふ身は袖二ツ、襲ねて幾つ、 振明、八口、ずた/\に裂けなむとす。 「冬木の辨天樣を念じて上げませうよ、お可哀相に。」と俯向いて、お縫が袖を合は せた時よ。  樂屋を拔けた一廻り、揚幕から立直つて、鷺がト舷へ留つた體に、上下着けた釣船 矢右衞門。偉大なる白き胡蘆〈ふくべ〉を、横ざまに着けたる體に、いざうれ、あり 合はせた造り船を、袴腰に挾〈さしはさ〉んで、する/\刻足に衝と舞臺へ出ると、 ハタと据ゑて、えい、と乘り、座を構へ、 「船を進ぜう、五大力ぢや。それ、めせ。」  と云ふ。  霞は欄干を飛ぶ如く、飜然と嬉しさうに乘移つた。  ト舞腰に姿が極つて、矢右衞門、船の艫にびたりと着き、扇を丁ど艪に操り、手び さしをづいと翳して、 「比良の山、伊吹ヶ嶽、さても日和ぢや。……これは/\!おゝ、黒雲が颯と出た。 南無三寶、隅田川から時雨て來たわ、驚破々々〈すはや/\〉、深川の水も嵩増す、 ざんざ/\。」  と囃すと、舞臺の棟の颯と鳴る氣勢に、優しや霞は袖笠する。 「やゝ、又、立所に雲の絶間を、はあ、冴えたる月かな。それ/\俤が波に映るわ、 御覽ぜい。山田矢瀬〈やばせ〉の渡し船の、夜は通ふ人なくとも、月のさそはば自か ら、船もこがれて出づらん――」  と背後からおはれかゝる體に、扇子を上げて、熟と舞臺を差窺ふ。  霞も連れて凝視めたのである。  孫六の爪先が、葛桶にじりゝと動いて、腰掛けたまゝ、此方に直つて、面を霞に向 けたと見るや、肩に爽かに氣が入つた。が、何とかしけむ、着けたる面を、衝と脱ぎ、 手に持ち、袖に當てて俯けると、老の素面をあからさまに、矢右衞門が扇に宿して、 水面に映す、其の俤は尊かつた。 「あゝ、美しい、綺麗な顏が、あら、あら流れて、それ、此處に、あれ、」  と、霞は清しく聲を立てると、はつと船を出て、熟と見て、面を合はせ、する/\ と摺寄つて、仰いで若旦那の膝に縋つた。  老の皺手も美しく、其時霞の肩を抱き、 「おゝ、舞臺に映つた、私の素面が美しいか。むゝ美しいな。やあ、お女中。其の目 を閉ぢるな、瞳を散らすな、一念確に鏡を見て見よ、少しも兩眼に異状ない、それ /\。」  と聲に力が籠つて、寶生雲の舞扇を、すらりと開いて、差寄すれば、金色の雲にき らりと映る、花の霞の暮れ行く顏が、瞼に颯と色を染めた。 「まあ……」  とわな/\と震へたまゝ、背も高うすつくと立つと、古稀を過ぎた若旦那、健かに 腰を切つて、映るを見よとか、姿見に、舞扇子を屹と霞に向けて、肅然として立つた る有樣、修羅八萬の矢表に、毘沙門天が黄金の楯。  霞は褄を投げて、〓〈どう〉と成つて、はじめて、夢の覺めたる如く、うろ/\と 四邊を〓〈みまは〉す。  其の手を靜に取つて、孫六、 「祝着千萬、大恩人よ、お女中。舞臺に立つて、小町の如く美しかれと念ずる時、お 許が目に、私の素面が汚れた爺と見えようほどなら、生効もない老耄〈おいぼれ〉だ。 這個〈しや〉、皺腹掻切らうと思うたに、此ならばまだ飮める。正氣に返られた祝儀 には、やがてお酌一つ頼みます。」  と莞爾したが、疲れた體に、よろ/\と葛桶。矢右衞門船を乘り放つて、 「然ればこそ言はれぬ差出業をして、つひに覺えぬ大汗を掻きました。相かはらず若 旦那、これならば五百八十年、七廻りでござる。」 「何がさて、これとても、小父御がお庇ぢや、孫よりも尚ほお若いな。」  名家と名譽が面を合はせて、微笑んで相方、一揖す。 「お縫、」  と呼んで、霞の介抱を委ねた孫六は……面を取つたが、いづれも茫然とした、四天 王を扇で招いて、 「これ/\――財寶が孫どもよ――私が遣ると、茶番に成ります。若い所で、お狂言 の眞似をせう。」 「はつ/\はつ、一段と可うござる……」 「財寶が孫どもよ、名は何と申すぞ。」 「興ありも候、」 「冥加ありも候、」 「面白も候、」  と、面々、面を懷へ、何も心得たものであつた。 「財寶が孫どもよ、名は何と申すぞ。」 「興ありも候、」 「冥加ありも候、」 「面白も候。」 「それよ、それよ、それ/\、」と矢右衞門はひよろ/\と太郎冠者の醉つた足つき。  手のあいたのが、一人、其の背後で、影法師のやうに躍る。 「それよ、それよ、それ/\、」 「財寶が孫どもよ……」  と三人の手車で、孫六は唄ひながら、橋がかりを渡り返した。二の松を過ぎた時、 と扇を取つて、熟と目を着け、其のわな/\震ふを視ると、すつと下りて、押默つて、 靜々と舞臺に戻つた。  シテ柱の此方に、愁然として寂しく立つたが、フト矢の如く氣を放つて、やがて足 拍子をトウと入れた。  霞は恍惚と見惚れたのである。 底本:岩波書店 鏡花全集 入力:西岡 勝彦 w-hill@mx6.nisiq.net 1999/1/20