-------------------------------------------------------------------------- ●底本には岩波書店鏡花全集第十三巻を使用した。 ●底本のルビは、すべて省略した。 ●JIS X 0208文字コード外の漢字は、コード内の異字体・略字体などで置き換えた。 --------------------------------------------------------------------------    逢ふ夜                       泉 鏡花         上  路地にかた/\と、小刻で忍びやかながら、些と蓮葉な駒下駄の音がする、と木戸 際の闇に腕組みをして、ひつたりと附着いて立つて居た男は、ツト霞に包まれたやう に、……其の身を引緊めた兩の肩も柔かに成つて、……夜露に冷たい袖にも、ほんの りと、梅が香が通ふと思つた。  秋も半ばの初夜を過ぎて、婦も最う二十五を越したのに……  其のまだうら若かつた十九の春、……男が微醉で、懇意は後廻しの日の暮方、年始 に來ると、羽子板に袂を懸けて、對手欲しさうに、兩側の小松を楯に、年の内のを大 事に持した三日目頃の、一寸ほつれたのも美しい、水の垂りさうな高島田で、此の裏 通りの、向うの湯屋に早や燈の入つたのを、日が短かさうな、もの足りない、派手な 顏して覗いて居たのが、ト其と見ると、見迎への會釋に、默って、目のふちをほんの りさして、羽子板を胸へ抱くや、八ツ口がひらりと飜る、襟足の雪すつきりと、背後 を見せて、 「母さん、兄さんが。」  で、カタ/\と、路地を右側の中ほどに驅込んだものだつけ。  ……つい、其の時の跫音を、今ので、ものの、音〆を聞くやうに思出した。  通ふ千鳥の辻占は、行くのも、來るのも戀路である。  カタリと留まると、すつと痩せぎすな肩を出して、ほのかに白う差覗いた顏は、婀 娜に細つて、且つあはれに窶れて居る。 「可いのよ。」 「構はない?」 「えゝ、ずん/\お入んなされば可いのに。」 「然う呑氣には參りませんよ、店に人でも居ると惡い。」  と低聲で云ふ。路地の、矢張中ほどに、ぶわりとした、便りない、灰色の暖簾を漏 れて射す、電燈が其で、此の婦の弟が、屋臺で鮨を賣つて居る……  兩側の長屋は眞暗で、いづれも寢た。  音の沈んだ、陰氣な電車が、細い行拔けの大通りを、星の流るゝやうに走ると、風 が颯と、柳も見えぬ暖簾が戰ぐ。…… 「大丈夫よ。今頃食べに來たつて、皆近所の若衆や、お店の人たちですもの。」 「尚ほ惡い。……口が煩いから、」 「だつて、構ふもんですか、知れると可恐い旦那でもありはせずさ、」 「其のかはり借金だらけだ。」 「可厭ねえ。」  と悄乎俯向く、トくつきりと襟が白い。  實は大病だつたので、親許へ歸つて養生して、最う此のくらゐにまでも快く成つた が、まだ、枕に着いて居る分で、抱主の方へは歸らないから、義理で、晴れて逢はれ ぬのである。  處を、優しい、實の母親が合點で、今夜なぞも何處か近所の、目立たない鳥屋の、 奧二階あたりで密と逢つた。 「貴方がお好だから、今日はね、朝つから掛つて、新栗で、(ふくませ)を拵へて置 いたのよ。……宵に誘つて下すつた時、お茶うけに上げませうと思つたけれど、これ から一口あがるのに、先に立つて甘いものは不可ませんから、出さないで置きました。 歸りがけに寄つて頂戴。」 「母樣や小兒たちは最う寢たらう。狹い處を氣の毒だ。」 「憚り樣ですよ。」 「持つて來てくれりや可いのに。」 「だつて、をかしいんですもの。……ねえ、お寄んなさいな、お内へだつて、まだ時 間は可いわ。」  柳と塀と、軒燈と、土藏の壁、時々分れて歩行いたのが、此の路地口へ來ると、婦 が猶豫はず、つか/\と入つた後を、男は遠慮して木戸口に待つたのであつた。 「入らつしやいな、誰も居ない。」  と先へ立つて、地内に祭つた小さな稻荷堂の前を、婦は一寸拜んで通つた。  暖簾越に、男が、 「松ちやん、前刻は。」 「や、お歸んなさいまし。」  松次郎と云ふ弟が、浴衣の上へ、紺のめくら縞の筒袖を着て、向うの臺に腰を掛け て、小鰭の鮨の酢の香、笹の葉色も散る柳で、屋臺の上に唯一ツの螢のやうな電燈と、 寂しさうな睨めくらで。 「さあ、何うぞ。」 「お邪魔をしますね。」 「何ういたしまして。……」  横に折れると、別についた出入り口の格子戸が……差當り誰に遠慮もなささうなが ら、それでも包ましう、細めに開けた、心遣ひ。其の癖、いそ/\と氣が急いたか、 些と粗雜な駒下駄の土間の形。         下  直ぐに上框が、階子段の下の狹い四疊半、唯一間で、向うの壁の前に爐が切つてあ つて、店を仕劃の障子の隅に、帳場兼帶、小兒たちが復習をする、小机が据ゑてある。  其處に座蒲團が直してあつた。 「松ちやん、涼しく成りましたね。」 「めつきりと、何うも。」  と肩越に向けた顏は、ふツくりと、姉が二十の面影あり。 「景氣は、何うです。」 「へい、ぼつ/\、」と莞爾する。  婦が二階から、みし/\と、其の細い力ない、病上りにも響く身上。盆にも乘せず、 内端に蓋茶碗を持つて下りて、ト其の机の上へ。……爐の向うへ、疲れたやうにくの 字に坐つた。内證で、毒を五つ六つ久しぶりで相をしたので、寢て居る二階の母親の 前を、一生懸命に殺した、憚る醉の呼吸づかひ、うつすりと乳の透くやうな胸へ響く。  突如手を出すのを、 「お待ちなさいよ。」  と、繻子の帶が、ぎうと云ふ、紙入を拔いて解く、と楊枝を細い指で、長く(ふく ませ)に二本刺す。 「此は結構。」 「旨しくつて、え、旨しくつて、」  と嬉しい笑顏で、 「中の方を、あれさ、お露のある處を。」 「中も下も、皆食べらあね。」  とひそ/\語らふ。 「姉さん、お茶が沸いて居ます。」 「あいよ、難有う。」  と茶棚から茶碗を取つて、男のうしろを、店の板敷へ、一段低く、淺く冷く友染の こぼれた處へ、どし/\、どしと路地を蹈む音。  ひらりと婦が、姿を躱して、壁際に隱れた時、暖簾を上げて、朱の如き髯面をぬい と出したは、でつぷりと肥つた、中山高の紳士。  毛だらけなのが、此方から、よく見える、圓々とした太い手で、前ならびを一ツ引 攫んで、 「鮪をつけてくれい。」と言ふ。  目は、きよろ/\と射るが如く、奧を透かして見越すから、男は机に肱を支いて、 ぐい、と障子に胸を入れた。 「見えやしませんよ、暗いから、」と密と云つた。  店頭で、 「身體は何うかい。」  もしや/\と舌の音を大きく立てる。ト婦は悚氣としたやうに肩を窘めた。 「へい?」  と松次郎が、斜つかひに成つて、すか/\と握りながら、怪訝さうな目色をして、 「何うもしやしませんです。」 「うんや。」  ひちや/\と舌舐づり。 「病氣は何うぢや聞くんぢやが。……貴樣ん許に娘が居るぢやろ。何へ……出て居る、 ……姉か。」 「へい、何うもはつきりいたしません。」 「不可んなあ。何うぢや、一寸、樣子を見て遣らうか。……あゝ、俺は醉つては居ら んぞ。醫者だ。」 「あの、頭取よ……」と男の耳へ、爐を膝で越して肩を抱くやうに囁いた。――默つ て頷く。 「へい。」とばかりで松次郎はニヤリと笑ふ。 「うむ、見舞うて遣らう、俺が來たと云うてくれい。然う云や分る。何は、……居る ぢやらう。」 「ですが、最う寢ましたよ。」 「寢床で可え。」 「否、母親だの、大勢寢てますから。また晝間でもお出て下さいまし、……ですがね、 姉は病氣の所爲か、きたいに他人さまにお目に懸る事を嫌ひましてね、へい。」  其時、楊枝を上へ取ると、婦のも同じ栗にさゝつて居たので、一所にすツと宙へ上 る。目を見合はせて、莞爾と笑ふと、云合はせたやうに、默つて落す、擽られたやう に身を揉んで、男の膝へ、前髮を冷りと伏せた。  あとで路地口で別れた時は、其の店も最う閉つて居た。  婦の胸は、木戸の扉について凭れるやうに、男の背を追ひながら、ふら/\と路地 の内から鎖したのであつた。  口で覘くか、と、ひつたりと顏を當てて、 「濟みませんがね、……私が内へ入るまで、其處に見て居て下さいましな。小兒の時 から、お馴染なんですけれど、暗いとお稻荷さんの前が可恐いんですから。」  古い木戸の懸金がこはれて居るので、お長屋内約束の、手ごろな石を、ト秋風に弱 く撓ふ兩手で壓して、木戸の戸の根へひたりと着けた。  外から、密と一つ、輕く叩いて、トンと云はして、 「心細いなあ、然うされると。」 「可い事よ、貴方の力で壓せば開くのよ。」 ---------------------------------------------------------------------------- 入力:西岡 勝彦 w-hill@mx6.nisiq.net 1998/4/15