上に自動車橋を乗せた現代の天満橋 Mar.1997.

風月 価いをもちいず
舟船 霄(くも)に座するがごとし
納涼 いずれの処かよき
逆上り過ぐ 一橋々


 明治に新淀川放水路が開削されるまで、淀川の本流は大坂城の北をかすめ、中之島を間に浮かべて、安治川河口に注ぐ現在の大川の流路を流れていました。毛馬の閘門で締め切られた今の大川は静かな流れですが、かつては流量も多く、京都・大坂の二都を結ぶ交通の動脈として、人や物が盛んに行き交っていたのです。「三橋」とはこの大川とそれにつづく網の目のような堀江に懸けられた俗に「八百八橋」といわれる数多くの橋の内、最も立派だった難波橋・天神橋・天満橋を指しています。この三つの橋は長さ百間(約180メートル)を超える大坂を代表する大橋として知られていました。また、大川は浪速の人々にとって物流の道ばかりでなく、風流の場としても親しまれ、なかでも舟遊びの船が多く出たのは三橋の辺りだったようです。特に夏の暑い盛りには、橋脚に船をもやって釣りや水遊びをしたり、やや暑熱の収まった頃船を漕ぎだして、月を眺めながら一杯やったりといった情景が多く見られました。この詩にも、そんな大川の夜船の楽しみが歌われています。大坂だけでなく東京もそうですが、舟運が衰退し、あのゆったりとした流れとその上に身をゆだねる楽しみが私たちから遠ざかった時から、都市文明は息苦しく骨身を削るばかりのものになってしまったようです。大川の川遊びの名残は、わずかに夏の天神祭の船渡御に見ることができますが、あれも何だか企業の宣伝ばかりがめだつ騒がしいものになっていて、本来の姿からは遠く隔たっているように思えます。